帰郷
帰郷・1
何か、空気の色が違う……。
愛しい我が子に乳を与えながらも、窓硝子を打つ雨の筋を見つめてしまう。
どんよりとした雲が低く垂れ込め、まるで夕方のように薄暗い。
春を呼ぶ嵐なのだろうが、はたしてこのような不安定な気を運んでくるものだっただろうか? エリザは不安になる。
たしかにここは、エリザが生まれ育った故郷であるはずなのだが、何かがひとつ外れたように、しっくりしなかった。
違和感があった。
父が倒れて、エリザはずっと看病している。だが、霊山にいたときよりも、癒しの力が弱っている。思うようにいかない。
ムテの寿命を一気に消費してしまった父は、本来旅立たねばならない。
だが、今となってはその力もなく、日々、老いて骨と皮になっていく。その姿を肉親にさらけ出すのは、ムテにはこの上もなく苦痛であろう。
老いの姿は醜い。そして、惨めである。
エリザは、祈り所の生活のおかげで、老いたる人に対しては慣れていた。だから、父の変わりゆく姿に怯えることはなかった。だが、やはり愛する父が日々老いさらばえてゆく姿を見るのは辛かった。
父は時々棒切れのような腕を突き上げて、しわがれた声で訴えた。
「エリザ……。わしを森の奥へと運んでくれ。そして、そこに置いていってくれ」
つまり、捨て去ってくれ、というお願いである。
エリザは父の手を握りしめ、何度も首を横に振った。
それだけでエリザは充分に気がめいっていたのだが、義理の姉や癒しの巫女であるシェールとも気が合わないと思えば、ますますめいった。
特に、最高神官の子供を産んだ女性――シェールには、激しい敵意を受けているような気がする。初対面でいきなり怒鳴られてしまい、怖い人だという印象しか残っていない。
最高神官は、シェールの話をエリザにしたことはない。だが、口の軽いリュシュからは、シェールがどのような巫女姫であったかを聞いている。そして、最高神官がどれほど彼女を信頼していたか……も、よく聞いていた。
だから、サラがエリザを憎んだように、シェールがエリザを憎んでいても、おかしくはないのかも知れない。
エリザの胸の中に、忘れたくて仕方がない苦い思い出が蘇る。それが再び繰り返されるのでは? という不安に苛まれる。
兄のエオルは気のせいだと言ってくれた。
だが、その兄も突然出かけると言っていなくなった。しかも……。
「私が帰ってくるまでは、誰にも会わないように。しっかりと鍵を掛けて、誰が来ても開けないようにするんだよ。いいね? 何かあったら、トラン様にお願いするんだ。いいね?」
何度も何度もしつこいくらいに念を押し、エオルは旅立ったのだ。激しい雨の中を……。
エリザの記憶では、兄が村の外に出たことはほとんどない。
きっと、子供の頃、祈りの儀式を見に三の村に行った時以来ではないだろうか?
なぜ、エリザが帰ってきて久しぶりにあえた今、兄が旅立つのか……理由は何一つ教えてくれなかった。
――私のせい? それとも……ジュエルのせい?
エリザは、山から下りてからのことを思い出し、ぶるりと震えた。
ラウル、酪農家の女、マリ、リリィ、カシュ……そして、父。さらに兄。
ジュエルを見る目が、皆違った。そして、霊山はジュエルを隔離しようとした。
乳を飲む子に闇のような空虚な心を感じて、エリザはぞっとした。そして、慌ててそれを否定した。
この子を守るのは私しかいないのよ。しっかりしないと……。
そう思った時、突然激しい稲光とそれに続く轟音が響いて、エリザは悲鳴を上げた。
霊山では、どのような嵐の日であっても落雷はない。
なぜなら、霊山の気とそれを束ねる最高神官の力によって、繭玉のように守られているからである。
ここには、最高神官の祈りも届かない。
「サリサ様……。助けて」
思わず呟いてしまった言葉に、エリザは情けなくなってしまった。
どこまで甘えれば気が済むのだろう?
どこまでいったい頼る気なのだろう?
エリザは、ただ守られるだけの、篭の鳥のままの、甘えるだけの生活から、自分の意思で羽ばたいたはずだった。
ただ、優しい最高神官の好意にすがって、お荷物として生きたくはなかった。最高神官の仕事を恨むような自分にはなりたくなかった。
よしよしと優しく抱きしめてくれる腕は恋しい。だが、その妄想の手を払いながら、エリザは自分に言い聞かせた。
「……弱いままで……いいはずない」
その時、下の階から何か物音がした。
エリザは、慌てて胸をしまい、ジュエルを抱きしめた。
エオルが帰ってきたのだろうか? それにしては早すぎる。
恐る恐る、部屋を出て、階段を下りた。
下の階に、二人の人影が見えて、エリザの足は階段の途中で止まってしまった。
リューマ族の蜂蜜商人だ。小柄な一人がエリザに気がついた。
「あ、人がいるじゃないか!」
「ばか、しぃ!」
もう一人がたしなめるように小さな声をあげた。
やや大柄なその男は、ブツブツのある大きな鼻を持っている。いかにも品のない顔だった。しかも、愛想笑いなどを浮かべると、いかにも悪人という顔になった。
「あぁ、奥様。わしらは、エオルと話がしたいんだが、旦那は在宅かね?」
エリザの足は、そのまま階段をひとつだけ上っていた。男は階段下までつかつかと歩み寄り、エリザを見上げて微笑んだ。
「あ……兄は留守です」
「兄? あんた、妹さんかい?」
男の目がぎらりと光った。
もしかしたら、旅の商人であっても、霊山から戻るエリザの噂は聞いていたかもしれない。
エリザは、階段を駆け上がろうとした。だが、階段を駆け上がってきた男のほうが、エリザの道を塞いでしまった。
「おっと……何も逃げることはねえだろ? わしらは、エオルと取引にきたれっきとした商人だぜ」
だが、どう見ても男は悪人顔だった。しかも、エリザが今まで感じたことがないほど、嫌な気を放っていた。
殺気というもの。人を殺めたことのあるような気。ただ、エリザは『嫌な感じ』としか、表現できなかった。悪人を知らないから、感じたことが何なのか、理解できなかったのだ。
エリザは、慌てて階段を駆け下りようとした。が、ジュエルを抱いていたせいもあり、バランスを崩した。
そのまま落ちそうになったところを、リューマの男の手が、エリザを抱きとめた。
「い、いや! 離してください!」
きんきんと響く悲鳴のような声。つられてジュエルが大声で泣き出した。
「何だい! 助けてやったのに、静かにしないか!」
確かにそうなのだが……エリザにはとても助けられたような気がしなかった。
リューマ族に対するエリザの嫌悪感がそうさせるのかも知れない。でも、この緊迫感は、カシュに監禁された時のようなものとは全然違った。
本当の恐怖――まさにそれだった。
「うおっほん!」
突然、大きな咳払いがした。
「あ、神官様……」
下でぼけっと様子見していた小柄な男が声をあげた。
と、同時にエリザを抑えていた男の手が緩んだ。エリザは、転がるように階段を駆け下りると、いつの間にか登場したトラン・タンの後ろに隠れた。
「あなたたち。人の家で何をしているのですか?」
ひょろりとしたトランは、どう見ても頼りがいのある男ではない。だが、今のエリザには英雄に見えた。
「何もしていませんぜ、神官様。わしら、蜂蜜の買い付けに来ただけで。だが、ここの旦那さんは留守だという……。だから、帰るところだったのに」
男は、濁った目をエリザに向けた。
「ただ、こちらのお嬢さんがよ、びいびい勝手に騒いだだけで」
エリザは、男の目線を避けるように、ますますトランの影で小さくなった。
「主人のいない家に勝手に上がり込んで……ですか? あなたはムテの常識を知らなすぎるようですね。リューマではどうかはわかりませんが、地に入れば地の道理に従ってもらわないと」
厳しい言葉であるが、許可証がないと入国も許されないムテの地である。リューマの男たちは、トランの言葉に従った。
「大雨だったんで……失礼しただけでさぁ。無礼してしまったな……。じゃ、帰るわ」
男は、ちょっとだけ肩をすくめてみせた。そして、ぼけっとしているもう一人を引っ張って戸口に向かった。
「あ、そうだ。エオルはいつ帰ってくるんだ? その時にまた来るぜ」
「数日のうちには戻りますが、わかりません」
きっぱりとトランが言った。
男はにやりと嫌らしい笑いを浮かべた。
「数日ねぇ……ふむ、数日っと……」
そう念を押すように繰り返して、男たちは去っていった。
男たちがいなくなると、トランは大きなため息をついた。
「あ、あ、ありがとうございます。トラン様」
緊張がほどけ、エリザはジュエルを抱きしめながら泣いていた。
「なんの……お礼を言われるほどのことでもない。だが、戸締まりはしっかりしておいたほうがいいね」
「鍵は……掛けておいたはずなんですけれど」
慎重なタイプのエオルは、何度も何度もエリザに戸締まりを気をつけるように言った。それに、人に会うなとも。時々、トランに様子見に来るようお願いしたから……とも。
だから、扉を開けるとしたら、エオルから鍵を受け取っているトランかヴィラくらいなのだが。
「もしかしたら……物取りなのかも知れない。ここ数日、天気が悪くて霊山からの祈りも弱まっているから。そういう時は、悪人は悪人の顔に戻るものだ」
トランは厳しい顔をした。神官代理としての能力が、彼らの持つ悪意を強く感じたのだろう。
「エオルが留守だと言ったのは……まずかったかもしれん」
元々、蜜の村には霊山の恩恵は届きにくい。だが、ここしばらくは特別なのだ。
エリザは不安になった。
最高神官の身に何かあったのでは? と、一瞬思い、まさか、神のような人に何かあるわけがない……と否定した。
「エリザ。もしも、恐いようだったら、私も泊まろうか? エオルが帰ってくるまでは……」
とても気丈にはふるまえない。
「……お願いします……」
エリザは、泣きながら何度もこくこくうなずいた。
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