エオルの旅路・10


 祈り所から外に出ると、まだあたりは暗闇だった。日が昇るには、まだまだ時間がある。

 気の毒なカシュは、まだ夜の酒が残っている状態で、サリサの呼び出しを受けたらしい。エオルが見た時、御者台の上で船をこいでいた。

 ここから椎の村まで半日、そこから蜜の村まで一日かかる。急いでも、二日はかかる旅路だ。

 だが、サリサは一日で着くという。

「大丈夫です。私が歌でも歌って、応援しますから」

 などと、大真面目な顔をして言い出す始末だ。

 しかも……。

「サリサ様、朝の祈りはどうなさるのですか?」

 馬車が動き出してから、エオルはどうしても気になっていたことを聞いた。

 最高神官は、霊山の祈りの祠で朝日が差し込む中、祈り言葉をムテの地の果てまで飛ばすという。それが、ムテの結界となり、平穏となるのだ。

 だが、その最高神官が、霊山の祠にいないとなれば……。しかも、彼は祈りの力が弱まっていることを白状し、悔やんだばかり。

「大丈夫です。この馬車の上にだって、光は届きますから」

 最高神官は、けろりとして言いのけた。

 とはいえ、エオルは不安だった。自分の妹一人のために、最高神官は仕事をないがしろにしようとしているのでは? と思うと、申し訳ないような気がする。

「大丈夫です。今回は、これがありますから」

 そう言ってみせてくれたのは、美しい薄桃色の透き通った宝玉の欠片だった。

「これは、巫女姫が祈りの力を増幅させるために使っていた宝玉の欠片です。砕け散ってバラバラになってしまいましたが、私には充分役に立ちます」


 馬車の幌をあげさせて、サリサは一人で朝日を待っている。

 エオルもこの時間は祈るのだが、いつも遠い存在が側にいると思うと緊張した。もったいなすぎて、カシュの横で手を組み、光を待っていた。

 ところが……朝日よりも強く明るく、しかし柔らかな光が荷台から溢れ出し、思わず祈りをやめてしまった。

 となりにいたカシュが何やら驚いて叫んでいる。だが、その声も聞こえないほど、心の奥底に祈りの言葉が響いて鳴り渡っていた。

 霊山に伝わる祈り言の葉――通常の人は、中々聞くことができない音を、エオルは身近で聞いたのだ。

 そして、驚いたことに。知らないうちに自分もその言葉を唱えていた。唇が、不十分ながらも音を真似て、最高神官の力を強めようとしている。

 さらに驚いた事に、あらゆるところからあらゆる人たちの祈りの言葉が集まってきているのだ。

 一時的にこの荷馬車は霊山の祈りの祠と化した。

 まぶしく光る中にあって、もうサリサの姿は見えなかった。言葉はすべてその光の中心に吸い込まれていき……そして、今度は一気に放出された。

 キラキラと輝く光の帯が、四方八方に広がってゆき、やがてはるか彼方へと消えた。


 祈りの時間は短かった。

 だが、力は大きかった。


 エオルはしばらく呆然としていたが、ふらりと戻ってきたサリサの顔を見てぎくりとした。

 顔色が悪い上に、頬に小さな傷ができていた。

「宝玉が……力に負けて砕け散ってしまいました」

 最高神官は、さりげなく言ったが、それはすごいことかも知れない。

「残念ですよ。この石をエリザに手渡したかったのに……」

 そういうと、サリサはいじけたように馬車の荷台の藁の上に寝転がってしまった。

 だが、エオルはすぐに気がついた。

 この状態のサリサを見たことがある。必要以上に力を使ってしまったのだ。

 おそらく、急いでいるので、祈りに時間を割きたくはなかったのだろう。無理をしたに違いない。

 毛布を探して、サリサの上に掛けると、サリサは手を伸ばしてエオルの腕を掴んだ。その手は氷のように冷たかった。

「サリサ様?」

「ぬくもりが好きなんです」

 目をつぶりながら、最高神官は呟いた。

「エリザを……僕に任せるって……言ってください」

 またもや、先ほどの力を発した人とは思えない言葉。この人の正体が全くつかめない。

 エオルは、手の冷たさに驚きながらも、さするようにして温めた。

「あなたは最高神官です。私の許可などなくても、エリザに命令できるではないですか?」

「そう……そうですね。でも……」

 サリサの意識は朦朧としている。言葉が間延びしてきた。

「でも……時々不安になるのです。エリザのためにそうしているのか、自分のわがままで、最高神官の地位を利用しているのか? 少なくても……今までは、地位を利用して、エリザを縛ってきたと思う」

 春の風はまだ冷たい。しかも、昨日までは雨もあった。

 サリサは震えていた。エオルは立ち上がろうとしたが、サリサの手は離れなかった。

「申し訳ない。幌をかけてもらえませんか?」

「あいあいよー」

 カシュが馬車を止め、荷台に幌掛けをし始めた。

「いやー、たまげた人だと思っていたけれど、ホント、今日は更にたまげたや。こりゃ、マリにも教えてやらんとな」

 カシュは、やや興奮気味だった。

 だが、その言葉はサリサの耳には入っていなかった。

「僕は、僕以外の人と幸せになるエリザを見たくない。でも、今回、見届けなければならないと思った。……それすらも、僕のわがままかも知れない。ただ、側においておくのを少しでも長くしたいだけなのかも?」

 なんとも言いがたい言葉だった。エオルは戸惑った。

 昨日は、確かに『エリザを幸せにする』と言い切ったくせに。

 見かけ通りに立派な神官なのか、それとも見かけ倒しの子供っぽい男なのか、エオルにはわけがわからなくなってきた。

 とにかく、エリザを『癒しの巫女』として働ける状態で蜜の村に返してほしい。しかし、あまりにサリサの体が冷たいので、エオルは言葉をなくしていた。

 ふと目を閉じたサリサだったが、再びぼんやりと目を開けた。

 そして、寂しげに言った。


「エリザが一の村に住めば、ある採石師が彼女に結婚を申し込む。そして、きっと……エリザもそれを断らない。僕は……耐えられるか、自信がない」


 最高神官には予見の力が働くことがある。

 だから、この想像は単なる妄想ではなく、将来訪れる可能性が高い未来なのだ。

 手痛い失恋を見届けるのは、繊細なムテ人にとっては苦痛この上ないことだ。

 どうせ叶わぬ恋ならば、知らないところで幸せになってもらったほうが、どれだけ気が楽だろう。

 エオルは気がついた。

 彼が一番恐れているのは、エリザを失うことではない。

 勝手ないいわけのもと、権利のある者は何をしてしまうかわからない。彼は、エリザの幸せをつぶす可能性を恐れている。

「もしも、エオルが……エリザを任せると言ってくれたら……。僕はきっと……自分のわがままよりもエリザの幸せを優先できる。そんな気がする……」


 ――ひとつ心を誓い合える身の上ならば……。


「サリサ様に、エリザのことはすべてゆだねます」

 エオルははっきりと言った。

 どうしても諦めなければならない恋を、どうしても諦められない時。

 他の人の責任まで背負う事で思いとどまれるならば、それが歯止めになるのであれば。

「これは、サリサ様のわがままでも命令でもなく、私がお願いしたこと。エリザを救ってくれる人は、あなたしかいません。だから、エリザの兄として、お願いします」

 ぼんやりとサリサは目を開けた。

「エリザをお願いします」

 エオルは繰り返した。

 もう半分意識のない状態だ。目に光がない。だが、小さな一言が漏れた。

「……それを聞いて……安心しました」

 とたんに、サリサは深い眠りに入った。

 エオルには、死んでしまったのか? と思えるほどに。


「あ? ああ? 寝ちまったか? そりゃ、温めないといかんとリリィさんが言ってたな? お客さん、あんたもいっしょに毛布にくるまって寝てろや。着いたら起こしてやるからよ」

 御者台から、雷のような声が響いた。

 どうやら、サリサの祈りはリューマ族のカシュの眠気すら覚まさせ、元気を倍増させたようである。

「ありがとうございます」

「礼儀正しいムテの旦那衆は、大好きだぜ! がはははは」

 豪快な笑い声を聞きながらも、エオルも眠気をおぼえていた。

 思えば、なれない旅路で疲れている。しかも、今朝は夜のうちに起こされた。

 さらに毛布を借り、氷のようなサリサと身を寄せて眠ることにする。たいした温かくなないだろうが、少しはぬくもりが伝わるだろう。

 毛布にくるまり、エオルは聞こえていないだろうが、サリサの耳元で呟いた。

「すべてを任せますから……お願いですから、エリザのために無理はしないでください。どうぞ、御身を大切に……」


 今後、エリザがたとえ不幸になったとしても……。

 この方に任せてそうなったなら、納得もできる。

 

 エオルはそう思った。

 そして、青の手紙を書いた日のことを思い出し、ゆっくり眠りに落ちていった。

 その時の判断を、もう二度と後悔することはないだろう。




=エオルの旅路/終わり=

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