エオルの旅路・8


 一瞬、エオルは何を言われたのかわからなかった。

 最高神官は、特定の女性を娶ることはない。これが結婚のお願いだとしたら、絶対にありえないことである。

「……でも、それは……」

 妹に対する想いはありがたいものである。

 でもさすがに、ムテ人の一人として、最高神官の転落を許すわけにはいかない。

 困惑したエオルに、サリサは苦しそうに話を続けた。

「すべては、私の勝手な想いから、エリザの悲劇は始まっています。手放して幸せになれるなら……と思いました。でも、手放すだけでは、あの人への償いは終わらない。あまりにも無責任な思い込みでした」

「……でも、だからといって……」

「できる事なら、地位も何もかも捨てて、エリザといっしょになりたいと思います」

「……は…?」

 さすがのエオルも言葉をなくした。

 絶対に聞いてはいけない言葉を聞いてしまい、目を白黒させるばかりである。

「できる事なら……で、単なる希望です」

 エオルの表情を見て、エリザを思い出したのか、サリサは寂しそうに微笑んだ。


 ――最高神官は結婚できない。


 とすれば、最高神官であるサリサにエリザを任せるという事は、霊山の仕え人として世を捨てさせるか、祈り所に幽閉して再度巫女姫として仕えさせるか、である。

 どう考えたって、先の長いムテ人の人生にあまりいいことではない。

「サリサ・メル様、お願いです。もう、エリザを苦しめないでください。妹は、充分に霊山への奉仕をしたはずです」

 もうこれ以上の苦労はかけたくはない。妹の幸せを考えると、とても最高神官の元へエリザを渡すことはできない。

 兄として、あとはごく普通のムテの女性として、ごく普通の結婚をして、普通の生活に戻ってもらいたい。

 エリザには、幸せになって欲しいのだ。

「それよりもあの恐ろしい子を! あれをどうにかしてください! あれさえエリザから引き離して下されば……」


 そう。

 あのジュエルさえ、消えればすべてはうまくいく。

 神官の子供をどうともできるのは、最高神官であるサリサだけだ。

『あれは自分の子ではない。エリザの子でもない』

 たった一言、そう宣言してもらえれば……。


 ――神官の子の肩書きさえなければ……。

 あの子の首を絞め、崖にでも捨てられるのに!


 握りしめた手に、自分の殺気を感じて、エオルは驚いた。

 たとえどのような命であろうとも、一度たりとも自ら奪おうなんて、考えた事がなかった。 

 だが、エリザのためなら……。

 父を救うため、大事な妻とその中にいる我が子のためなら……。

 どんな罪深い事でもできるという、殺伐とした感情がエオルを支配していたのだ。


 ふと手が温かく感じられた。

 両手がエオルの手を包み込んでいた。気がつくと、最高神官はエオルの前に跪いていた。

「エオル……」

 その声に、心を洗われるような清々しい力を感じる。殺気がさざ波のように引いていった。

 つい、忘れかけてしまうが、やはりこの人は最高神官なのだ。心に届く波動が快く、癒されてゆく。 

「あの子は、エリザを救っているのです。エリザが自分自身に暗示をかけてでも、あの子を離さないのは……保心のため。今、無理に引き裂けば、エリザの心も引き裂かれてしまいます」

「あの……呪われた子供が?」

「呪と癒しは、裏表ですから」


 ――呪と癒しは、裏表……。


「……でも、あの子がいては、エリザは」

 幸せになんかなれない。

 ヴィラのことを思えば、家においておけない。父も命を減らす。

 そして、エリザ自身が誹謗中傷の目にさらされ、村にいることはできないだろう。

 こうしているうちにでも、エリザの帰還が村人たちに知られることにでもなったなら。あの子を人前に晒すことになってしまったら。

「たしかに私はエリザと結婚できません。でも、必ずエリザを幸せにします。それを……」

 一瞬、サリサの顔が曇った。だが、すぐに雲はさった。

「最後まで見届けます」

 そう言うと、サリサは立ち上がった。

 暗闇に銀色の光が舞い、エオルは再び最高神官の力に圧倒された。しかし、サリサのほうは足早に階段をのぼりはじめていた。

「エオル、明日の朝まで待ってください。エリザに対する命令書を持参していただきたいのです」

「命令?」

 思わずオウム返しに聞き返してしまった。

「エリザに、一の村の『癒しの巫女』として働くよう命令します」

 それは、エリザの故郷を奪うことだ。村の嘆願を拒む行為でもある。

「でも!」

「村の嘆願は通しました。エリザは確かに村に返したのですから。でも、再度、別の命令を出さないとは、言っていません」

「そんな! それは詭弁だ!」

 エオルはあきれて声を荒げた。

「詭弁も何でもこれは命令です。拒絶することは許されません。一の村からは、この冬、三人の癒しの業を持つ者をウーレンに送りました。村からは嘆願が出ています。私は適任者を捜していました。エリザにはぴったりです」

 たしかに、シェールのように最高神官の命令で故郷を離れる者もいる。ムテ人であれば、最高神官の人事に文句をいうことは許されない。

「でも、エリザは!」

 気が弱い。初めての村で、馴染めるだろうか?

 しかも、あの子供を連れて?

 霊山の麓の村ならば、ますます悪い噂を立てる者もいるだろう。人の数が多いだけ、エリザは孤立してしまうのでは?

 エオルの不安をよそに、サリサは付け足した。

「一の村ならば、異邦人にまだ融通のきく者たちが多い。それに……私の力もおよびます」


 ――力がおよぶ? 


 その意味を聞きたくて、エオルは口を開こうとした。

 だが、もうすでに軽やかに階段を上って行った最高神官の姿は、目の前から消えていた。

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