エオルの旅路・7
嵐は旅にきつい。
だが、嵐のうちは、誰もこの嵐の合間に、エリザが帰り着くとは思わないだろう。
もしも村人にエリザの子供の存在を知られたら、誰もが恐怖し、エリザを疑い、村から追い出してしまう。
期待が大きかった分、憎しみを募らすだろう。
ヴィラに襲いかかるエリザの呪詛も、ファヴィルの命も、ことは急を要する。
一刻の猶予も許さないのだ。
一の村に着くなり、エオルは祈り所に飛び込んだ。
空は晴れ渡っていた。蜜の村とは天候が違うだろうが、エオルは焦っていた。
晴れが続いたら、村の人たちはエリザの帰りが遅いのを不安がる。
泥を落としたとはいえ、マントは汚れている。そのまま入ろうとして、人にとがめられ、エオルは慌ててマントを脱いだ。
急いている身には、煩わしいことばかりだった。
まず、祈り所の管理人に手紙を渡す。それから、霊山への伝書係が呼ばれ、手紙が運ばれる。そして返事を待って、許可が下りたらやっと霊山へ上がれるのだ。
祈り所の大きさに感動している暇はなかった。
祈りでごった返している人々の間をぬけ、地下に向かう階段を下りる。薄暗いので、何度も落ちそうになった。
忙しく叩いた黒くて重たい扉が開くと、中から背の低い黒いマントの男が現れた。
その男の手は、まるでファヴィルの手のようにひからびている。噂に聞く祈り所の『老いたる人』だった。
「霊山に上る許可を……かいね? まぁまぁ、まちなさいな。伝書係はいたかいなぁ……」
管理人は、ヒコヒコと足を引きずりながら、エオルが降りてきた階段を上り始めた。その速度を見ていると、苛々してくる。
「私が探してきましょうか?」
つい、言ってしまったが、管理人の答えはこうだった。
「まぁ、まぁ、まちんさいなぁ」
待ちきれないから、提案したのだ。
エオルは、コツ・コツ……と、あまりにゆっくり響く階段の音にがっかりしながら、祈りのための長椅子に腰をおろした。
ずいぶんと湿気があり、カビ臭い場所だった。
エオルは、やっとあたりを観察しだした。まだ、上のほうから足の悪い管理人の靴音が響いている。時間はあまりに長過ぎた。
さすがに苛々する。
この調子では、奥にある祈り所の宿にそのまま泊まることになりかねない。陰気くさいところだ……と思い、エオルはエリザのことを思い出した。
巫女姫が籠る場所は、さらに奥に見える黒い扉の向こうである。そして、会える人と言えば、管理人たち『老いたる人』だけなのだ。
一般に公開されている場所でさえこのように陰気なのだから、秘められた場所というのはいかほどのところか?
そう思えば、あまりにも簡単に、エリザに『青の手紙』を書いてしまった……と、エオルは悔やんだ。あの時点で嘆願書のままに蜜の村に戻っていたならば、こんな事態にはならなかった。
――あの方を信じてこそ……。
エオルは、蜜の村を訪ねてきた霊山からの使いを思い出し、拳を握りしめた。
エリザのためになると思った。
きっと、あの方もエリザの事を考えてくださる……そう思った。
だが、判断を誤ったのだ。
余計な手紙を書いたばかりに、妹を不幸にしてしまった。
こんな陰湿なところに妹を閉じ込めて、さらにあんなお荷物を抱えさせて、これでは『癒しの巫女』としての地位も役に立たない。散々霊山に奉仕させるだけさせておいて、投げ捨てられたようなものだ。
そう思うと、兄として妹をこれ以上不幸にできない。
頭を抱え込むエオルの耳に、遠くなった足音が再び近づいてきた。階段を降りてくる音だ。
エオルは頭を上げた。
音は、先ほどのような緩慢なものではない。駆け下りてくるような、早い音。
人影が現れた時、思わずエオルは立ち上がっていた。
老いたる人などではない。暗闇に、ぼうっと浮き上がる銀色の影――若くて美しい男だった。
エオルは慌てて手を胸にあて、敬意を示した。
「エオル……」
その人は、なんとエオルの名を呼んだ。
まるで、水の中で囁かれたような声である。
銀の髪が階段の横で揺れた。粒子がキラキラと輝いて、あたりが明るくなった。
着ている物は、一般の神官と同じ木綿の長衣であったが、この人が、普通の神官であるはずがない。
「サリサ・メル様……」
先ほどまでの恨みつらみはどこへやら、エオルの声は震えた。
あまりの神々しさに打たれて、涙が出てくるほどだった。
確かにこの人とは、以前に会っている。だが、その時と今では、全然雰囲気が違いすぎる。
霊山の気が余計に働くこの村では、神官と一般人は見るからに違うのだ。ましてや、ムテの宝玉と呼ばれる人ともなると。
ところが、当の最高神官は、あの時のサリーそのままだった。階段を駆け下りてくると、突然、エオルを抱擁してきた。
神のごとく、尊い人――という最高神官なのに、である。
元々、肩書きほどに冷ややかな人ではないことなど、エオルは予想していた。だが、恐れ多くも最高神官なのだ。まさか……と思った。
「どうしたのです? あなたがここに来るなんて」
神々しさとは裏腹に、サリサの言葉には最高神官を気取ったところがない。以前に会った時のまま、親しげな口調だ。
この状態で、おそらく彼の自然体なのだろう。
「あなたこそ……なぜ?」
動揺したまま、エオルは聞いた。
くすり、とサリサは笑った。
そっと長衣の袖口が、エオルの頬を拭った。泣いてしまったことに気がついて、エオルは恥ずかしく思った。
「今朝、シェールから手紙が届いたのです。なので、返事を書いて直接祈り所に届けにきたところでした。そのほうが、早く届くので」
どうやら手紙に時間がかかりすぎていると思っているのは、エオルだけではないらしい。だが、最高神官が直接手紙を運ぶなんて、あまりにも意外すぎた。
妹のために、わざわざ蜜の村まで足を運ぶような人であれば、確かにありえそうとも思えたが。
「偶然に感謝します。エリザはどうしています? 元気にしていますか?」
エオルとの再会を素直に喜ぶような笑顔――美しく慈愛に満ちあふれていて……。エリザの名を出した瞬間、白い頬に紅が差したようにも見えた。
だが、エオルは表情を堅くした。
最高神官のあまりに呑気な言いように、腹立ちすらおぼえたのだ。
「偶然ではありません。私は、あなたに会いにきたのですから。エリザのために」
「エリザのために?」
最高神官の美しい顔が一瞬こわばり、紙のように薄っぺらくなった。
「……何か、あったのですか?」
「あったら遅すぎるので、このように急いできたのです」
エオルは今までの一部始終を話し出した。
サリサは、並んだ長椅子に向かい合うように座っていたが、やがて顔を伏せた。銀糸の髪が彼の顔を隠してしまい、どんな思いで話を聞いているのかも計りかねた。
エオルが、憂鬱な夜を過ごしたところまで話し終わった時、サリサが口を挟んだ。
「……すみません。頭が混乱してきました」
うつむいたまま。
しばらく言葉がなかった。が。
「どうやら……私は惚けていたようですね」
シェールの説を、彼はあまりにもあっけなく認めてしまった。
銀の髪をかきあげると、彼は美しい眉間に皺を寄せていた。最高神官とも思えない悲痛な表情だった。
「ジュエルを初めて見た時、私も底のない闇を見た恐怖を感じました。でも、あまりにエリザがかわいがるので……慣れてしまったのです。今や、私にとっても愛しい子になってしまい……」
その言葉に嘘は無さそうだった。
「霊山の者たちの反応を見れば、ジュエルがムテでは受け入れられないのは想像できたはずなのですが……なにせ、仕え人たちは個を捨てて、全て私に従うのです。それでも意見した者もいたにも関わらず……本当に……」
親の愛情は、時に盲目的である。エリザだけではなく、サリサのほうもおそらく親ばかになっていたのだろう。
「なぜ、こんな事に?」
「あなたが知っているように、あの子はエリザの子ではありません。詳しいことは言えませんが、たまたま運び込まれたあの子を、エリザは死んだ我が子と勘違いしてしまったのです」
「それで……あの恐ろしい化物といっしょに山下りさせたと?」
「申し訳ありません」
エオルはあきれた。
だが、同時にあまりにも意気消沈する最高神官を見て、気の毒にさえ思った。これでは、まるで親に怒られている子供のようではないか?
「……エリザは……あれでいて頑固で自分を曲げないところもありますから……わかるような気がします。でも、あそこまで頑に思い込ませることはないでしょう?」
「申し訳ありません。あれは暗示なのです。私が浅はかなばかりに……」
「暗示? なぜ、暗示をかけるのです?」
「まさか……と思うかも知れませんが、エリザ自身がかけたのです」
「妹にそんな力があるはずはありません!」
「でも……実はあったのです」
まさか。
妹は平凡な娘だ。
だが、何か力があるのだろうか?
最高神官をここまで振り回す、何か、強力な力でも?
エオルは、サリサが身分を偽ってやってきた時のことを思い出していた。
その時、彼はまるで何かにすがるように、エオルの腕の中でぐったりとしていた。
……そして。
エリザの名前を呼んだから。
だから、エオルはあの手紙を書いたのだ。
そして、やはり家族の危機において、頼るべき存在は彼しかいない。
「私がここに来たのは、あなたに詫びてほしいからではありません。エリザを救って欲しいからなのです」
今度は、エオルのほうが深々と頭を下げた。
「サリサ・メル様、どうかエリザの暗示を解いて、エリザをあの子から解放させてあげてください」
だが、答えはエオルが望むものではなかった。
「……無理です。エリザは、あの子を離さないでしょう。霊山から離れれば、暗示の力も弱まって、もしかしたら……とも思ったのですが」
最高神官は、親指の爪をそっと口元に運んだ。
きりきりと、何か考え事にはまっている。
その様子に、エリザとジュエルの別離は、どうやら霊山でも何度か試みられたことなのだ、とエオルは気がついた。
最高神官の思惑とは反対に、エリザはますますおかしくなってしまった。
ジュエルが黒髪で青い目のムテらしからぬ子と気がついて、ますます固執し、人に触れさせなくなった。そして、自分自身でも気がつかないうちに、ヴィラを呪い、シェルを呪うのだ。
エリザのその後に待っているものを考えると、エオルはぞっとしてしまった。
「このままでは、エリザは蜜の村にはいられません! 家族を破壊してしまいます!」
エオルの悲痛な叫びに、サリサはふと顔を上げた。
「……家族を……」
爪を噛む癖が止まった。
そして、エオルの肩に手を添えて顔を上げさせた。
見上げると、最高神官の顔には、もう捨てられた子供のような表情は見えなかった。神官らしい荘厳さすら、漂っていた。だが、眉をひそめたままである。
「エオル。お願いがあります」
サリサは真剣な顔で言い出した。
「私に……エリザをください」
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