エオルの旅路・5


 一の村へ向かう馬車の中、エオルはその時の恐怖を思い出していた。

 エリザの悲鳴が耳に残って離れない。

 不安で眠れなかった日々を、一生忘れそうにない。



 家に飛び込んだとたん、動揺して叫び続けている妹の姿と、床に倒れている父の姿が、目に飛び込んできた。

 そして……。異様な物が椅子の上にあり、エオルを震え上がらせた。

 それを何か確かめる暇はなかった。

 走りより、まずは興奮して泣き叫ぶエリザを抱きしめた。

「お父さんが……。お父さんが……」

 エリザの動揺は大きくて言葉にならない。エオルはエリザの髪を撫でながらも、床に倒れた父を見た。

 そして……目を伏せてしまった。

 見た事もない者だった。

 鳥骨のような腕。黒ずんだ肌。皺だらけの手。そして、こけ落ちた頬。


 ――父・ファヴィルは年老いていた。


 その日の夜から、嵐となった。

 老いてしまった父を寝かせ、動揺して倒れてしまった妹を寝かせ、エオルは眠ることが出来なかった。


 椅子の上に寝かされた子供。

 父は寿命をほぼ使い果たした。


 愛する娘が、恐ろしい存在を我が子と言って愛でる様子を見て、心臓発作を起こしてしまったらしい。

 ムテは、愛する人に老いた姿を見せたがらない。死を意識させたがらない。通常は、このように老いてしまう前にメル・ロイとして旅立つものだ。

 だが、ファヴィルの場合、心病のために寿命を浪費していた。生命を維持するのに、さほど力は残されていなかった。

 老いたる人を、エオルは初めて見た。

 あの父の姿は、全くの別人だった。父とわかるだけに、痛々しくあり、恐ろしくもあった。

 エリザがその姿を見て、おかしくなってしまっても仕方がない。すがる妹の存在がなければ、エオルだって卒倒するところだった。

 激しく窓を打つ雨。そして、雷。

 エオルは、どうすることもできず、空を見つめるばかりだった。



 翌朝、やや小降りの中を一人の村人が訪ねてきた。

 何でも昨夜の雷が『エリザ、お帰りなさい』の看板を直撃し、破壊してしまったというのだ。

「せっかくエリザが帰ってくるというのに……。残念なことをしてしまったよ」

 村人は、その事を報告しに来たのだ。

 エオルは睡眠不足の顔で、それをぼうっと聞いているしかなかった。

「雷が落ちるなんて……。結界が緩んでいるとしか思えなくてね。不吉だよ。しかも、エリザの看板に……。何か悪い事でもあったんじゃないかと、皆、不安がっている。……あ、悪いな。そんなつもりでは……」

 エオルの表情が硬いので、村人は慌てたらしい。

「エリザに何かあったなんて、それはないと思うけれど……何か不穏な気がしてね。しかも、村長の葡萄酒は酸味が強くでてまずいって話で」

 異物が作り出す不穏な気のせいか、雷のせいか、ここ数日、霊山からの祈りが弱いせいなのか。村人たちに不安が広がっているようだ。

「雨も止まないから修理もおぼつかないし。エリザ歓迎の方法をもう一度考えるから、相談に来て欲しいんだけれど」

「……悪いが……。任せる。父が、倒れてしまって……」

 村人は、驚いた顔をした。

「それは、仕方がないね。ここに来て、どうして悪い事が重なるんだろうな。早くエリザが戻ってきて癒してくれたらいいのだけれど」

 エオルは苦笑した。

 どうやら村人たちには、まだエリザの帰還は知られていないらしい。

 ありがたかった。

 

 村人が帰ってからすぐ、今度はエリザが青白い顔をして一階に降りてきた。腕には、あの不吉な赤子を抱いたままである。

「お客様? 私も挨拶しないと……」

 帰ってきたとたん、父親が死の床についてしまった。しかも、元々体調不良のエリザは、今にも倒れそうだった。

 エオルは駆け寄って支えた。

「エリザ、寝ていたほうがいい。村ではお祝いを考えてくれているけれど、そこで倒れたら大変だ。気を遣われるのも困るから、少し体調が良くなるまで、まだ帰ってきていない事にしてしまったよ」

 それに、この子供の存在を知られたくはなかった。


 誰もが、村出身の『最高神官の子供』を楽しみにしている。エリザの帰還以上に期待しているのだ。

 外部から来たシェルだって、シェールが困るほど、村人たちは拝め奉っている。美しい銀の髪と銀の瞳。そして、おそらく父親から引き継いだであろう、穏やかな気のせいで……。

 なのに、エリザが連れてきた子は、黒髪で青い目の……何も感じない闇の子なのだ。

 この子供を『神官の子供』としてお披露目したら、どのような騒動になるのか、恐ろしくて想像ができない。

 身内であるはずの父や自分さえ、これほどまでに受け入れがたいのに。

「お兄さん、ごめんなさい。でも、私……寝ていられない。お父さんの側についていてあげたい」

 具合が悪そうに見えても、今まで近くにいられなかった妹の事、エオルはうなずくしかなかった。だが……。

「エリザ。その子は置いていったほうがいい。お父さんにはよくないから」

「大丈夫。泣かせたり、騒いだりさせないから」

 エオルは眉をひそめた。

「でも、その子は……きっと、お父さんの寿命を食いつぶす……」

「大丈夫。おとなしくさせるから」

 どうもエリザには、抱かれて眠っている子供の不穏な闇が見えていない。ただ、赤子の世話で看病に支障が起きる事を危惧していると思い込んでいる。

「エリザ、私が預かっておくから」

 恐怖を耐えて伸ばしたエオルの手を、エリザは避けるようにして離れていった。

「だめなの! この子は私が見ていないと!」

 そう叫ぶ妹の目に、何かの暗示を感じて、エオルはひいてしまった。

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