エオルの旅路・4


 暗い気持ちで馬車にゆられていたエリザだったが、どこか空気に甘い香りが交じるようになると、元気が出てきた。

 そっと荷台から身を乗り出すと、木々の繁る道に入っていた。

 まだまだ緑はかすかだが、それでも時々、木漏れ日がちらつく。まるで、水面のようにあたりが揺らめく。

「あぁ……帰ってきたんだわ!」

 思わずエリザは呟いていた。

 すべての不安が吹き飛んだ。もう、この先は安らかに過ごせる地なのだ。

 そして、眠っているジュエルを抱き上げて、景色を見せてあげた。見えているとは思えないが、それでもエリザは大満足だった。

「ねえ、ジュエル。見て、見て。ここが私の故郷よ!」

 馬車は更に進んだ。

 村の入り口に『エリザ、お帰りなさい』と書かれている看板を見て、驚いてしまった。


 すでに夕暮れ時。

 祈りの時間と重なったのだろう、誰にも会う事はなかった。それが残念でならない。誰でもいいからお礼が言いたかった。

 誰もがエリザを歓迎してくれるに違いない。そして、エリザも村の期待に答えて、癒しの巫女として貢献するのだ。

「帰ってきてよかった……」

 エリザは、ふっと遠い目をした。

 無理を承諾してくれた最高神官のことを思い出し、胸がきゅんとした。


 ――あの方のために祈ろう……。


 しかし、祈りの間にも、祈っているはずの最高神官の気を感じることはなかった。

 霊山から離れるということは、そういうことだったのだ。

 エリザは、ほんの少しだけ寂しくなった。


 馬車を降りた時も、カシュはエリザに何も声をかけなかった。

 よほど嫌われたらしい……と、エリザは落ち込んだ。

 だが、もうカシュにもリリィにもマリにも会う事がないだろう。エリザのこれからは、この故郷にあるのだから。

「……そして、サリサ様にも……」

 また沈んでしまいそうな気持ちを、エリザは奮い立たせた。


 ラウルにもらった袋にジュエルを入れて背負い、家を目指して歩いた。

 そして、家を見て驚いた。あまりにも立派になっていた。思わず家の前で躊躇して、表札を確認したほどだった。

 そこには『蜂蜜請け負い・加工/エオル』とあった。

 エリザが霊山に向かった時には、そこに父の名前があったのだが。時代は流れ、今は兄が家の主となっていたのだ。


 ――こんなに時間が過ぎていたのね。


 しみじみ思って寂しくなった。故郷が、そして家が遠くなった気がする。

 霊山で費やした時間は、思いのほか長かったのだ。そして、もうエリザはあの頃の少女ではなく、家族もあの頃の家族ではない。

 母は旅立ち、父は病に倒れ、兄は妻を娶って家業を引き継いだ。

 エリザは少しだけ緊張し、大きく息を吐いてからノックした。

 エリザの少ない荷物の中で、かなりの場所を占めているのは、産着である。それは、同時に子供を産んだであろう義理の姉への贈り物だった。

 エオルとエリザは仲のいい兄妹だった。そこに、新しい女性が加わるのは、エリザとしては心配だった。


 ――仲良くできるかしら? 


 一番の心配はそれだった。

 やがて、扉が開いた。

 エリザの緊張はみるみる解けていき、肩から力が抜けた。思わず目がうるうるしてきてしまった。

 そこに現れたのは、病で伏していると聞いていた父だったのである。

「お父さん!」

 エリザは叫ぶと、まるで少女のようにファヴィルに飛びついていた。

「エリザ! よく帰ってきてくれたね。顔を見せてくれ」

 父の声も、やや震えていた。

 病気とは思えない抱擁の強さに、エリザはほっとした。そして、ファヴィルにしっかりと大人になった顔を見せた。

「お母さんにそっくりになって……」

 父は、ほろりと涙を流した。エリザの頬にも涙が伝わった。


 ――本当に帰って来てよかった!


 エリザは、心からそう思った。

 だが、残念ながら、それがそう思った最後になってしまったのだ。

「お父さん、この子がジュエルよ。私の子供なの」

 家の中に入ると、エリザはさっそくジュエルを下ろし、抱き上げて父に見せた。

 父は、どれどれ……と言い、ジュエルを抱こうとした。


 が……。


 そのとたん、急に顔色が変わった。

「お父さん?」

 エリザは、いつまでたっても受け取られないジュエルに不安を覚え、父を見た。

 その時、ムテならば誰もが愛する人には見られたくはない事態が起きようとしていたのだ。

 父・ファヴィルは、突然その場に膝をついた。

「うううう……」

 と、低いうめき声をあげ、顔を抑えながら。

 エリザは慌ててジュエルを近くの椅子に起き、父を助け起こそうとした。

「お父さん! どうしたの? どこか具合が悪いの?」

 しかし、ファヴィルは支えようとしたエリザの手を払い、怒鳴った。

「さ、さわるな! あっちへ行け!」

 そうは言われても、これだけ苦しんでいる父を見捨てられない。しかも、エリザは癒しの巫女である。

 体調が優れない父の介護をすることは、霊山にいた頃からの願いだった。

「お父さん、大丈夫。私がいるから……」

 エリザは、父の手を取ろうとして――ギクリとした。

 この手を……知っていた。

 闇の中で……よく見た手だ。

「エリザ……。お願いだ。私を……見ないでくれ」

 ファヴィルの声はしわがれていた。

 エリザは恐る恐る父を横たえ、その手を持ち上げて顔を見た。

 そして。


「きゃあああーー! 嫌ああああああ!」


 エオルがシェールの家から戻ってきた時、ちょうど甲高いエリザの悲鳴が響いてきた。

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