エオルの旅路・2


 馬はぶるぶると鼻を鳴らす。

 この雨を嫌って気が立っている証拠だ。だが、大柄なリューマの御者は、馬をしっかりと手のうちに入れていた。問題なく馬車は雨の中を進んだ。

 大きめの乗り合い馬車ではあるが、さすがにこの雨、この時間だと、誰も客はいない。

 ほっとしたせいもあり、木をよけるという肉体労働をしたせいもあり、雨に濡れて体力を奪われたせいもあり……で、エオルはうとうとし出した。

 朦朧とした頭の中に、微笑むエリザの顔が浮かんだ。

 そして……サリーと名乗った男の顔が。


 ――あの方は……私が思っていたお方ではないのだろうか?

 

 エリザが戻ってきてから、エオルの確信は揺らいでいた。

 あの人が、もしもエオルが思っている者だとしたら、おそらくエリザにこのような重荷を押し付けるはずがない。そう思えてならない。

 だから、エオルは直接最高神官に会って確かめる必要があった。それも、いち早く。


 がたり、と揺れて馬車が止まった。

 エオルははっとして顔を上げた。

「着きましたぜ、お客さん」

 男の声がした。

 よほど疲れていたのだろう、うとうとしただけだと思っていたが、エオルはぐっすりと眠っていたらしい。既に椎の村に着いていた。

 雨も上がっている。

 男は振り向いて言った。

「さて、お客さん。今日はここに泊まっていきな。うちは宿もやっている」

「いいえ、私は馬車を探して……」

 エオルはすぐに答えた。

 どうしても急いで霊山に行かなければならない。夜を徹して馬車を出してくれる者を探さねば。

 男は、ちっちと舌打ちした。

「だめだ、だめだ。何の用事かわからんが、早く着いてもあんたが倒れちゃ何もならんだろ? もう、見る限り、あんたは限界だ。悪い事は言わねえ」

 エオルの脳裏に疑念が湧いた。

 早すぎるのだ。椎の村に着いたとは思えない。それに、あまりにも愛想が良すぎる。

 椎の村につれて行くとエオルを騙し、自分が営む宿屋に宿泊させようという魂胆なのだろうか?

「私は、明日までに霊山に着きたいのです。すぐにでも……」

「その明日だぜ」

 男はにんまり笑って、顎で東の空を示した。

 見上げると、雨雲が切れた間から、赤く染まりかけた空が覗いていた。

 エオルの顔も真っ赤に染まった。

 恥ずかしいことに、この男が雨と格闘して余計な時間を使いながら馬車を進めていた間、エオルは時間の感覚もなくなるほどぐっすりと寝込んでいたらしい。

 男の顔にさほど疲れは見えない。エオルが抱いてしまった疑いも無理なお願いも、気にしているふしもない。

 リューマ族は、ムテに比べると肉体的にも精神的にもタフなのだろう。それとも、この男の性分なのだろうか?

 エオルは、すっかり言葉を失っていた。

「まずは、休め。一休みしたら、一の村まで馬車を出すから」

 リューマ族の男は、ぽんとエオルの肩を叩いた。


 泥だらけのまま、家に入る。

 玄関口にムテの女が蝋燭を持って立っていた。

「お帰りなさい。カシュ」

「なんだ、起きてきたのか? 寝ててよかったのに……」

 カシュと呼ばれた男は、照れくさそうに頭を掻いた。

 どうやら、二人は夫婦らしい。珍しい異種族結婚に、驚きが顔に出そうになる。エオルは失礼にならぬよう、気がつかないそぶりをした。

 ムテの女のほうは、カシュに返事をするかわりに、エオルに深々と頭を下げた。

「ようこそいらっしゃいました。あまりおもてなしする時間もありませんが、すぐにお湯を用意しますわ」

 たしかにエオルは、泥を流さないとベッドを汚してしまいそうなほど、ひどい有様だった。

 湯船に浸かると、ますます体が疲れていることに気がつく。エオルは何度もお湯の中で眠りそうになり、お湯に頭を沈めては起きた。

 ベッドに入って眠ったのは、ほんの一瞬だったような気がする。だが、疲れは充分にとれた。


 軽い朝食を食べた後、再び馬車に乗り込もうとすると、昨夜の女が声をかけてきた。

「恐れ入ります。失礼ですが……お客様の行き先は、霊山とお聞きしました」

 馬車に足を掛けた状態で、エオルは答えた。

「そうですが……」

 何か不都合でもあるのだろうか? と、考えてしまうのは、エオルの性分である。

 きっと顔もしかめたのだろう。女は一瞬躊躇したが、ぐいと顔を上げ、真剣な面持ちでエオルを見つめた。

「お客様、お願いがございます! もしもあなた様が霊山への伝書を運ぶ使者でありましたら……ぜひ、この手紙を直接、最高神官にお渡しして欲しいのです」

 エオルは一度乗りかけた馬車を降り、女の顔をいぶかしげに見つめた。

「あなたは……何をお願いしているのか、わかっているのですか?」

 ムテの最高神官に直々手紙を渡すなどとは、ずいぶんと無礼な話である。

 エオルだって、シェールとトランの証明書がなければ、霊山へなど行けない。しかも、直々最高神官にお目通りが叶うものなのか、確信は持てていない。

 とても一般のムテ人にはありえないことなのだ。シェールは、手紙に朱の封蝋を押して、これで大丈夫……などと言っていたが。

 だが、女はちょっとうつむいただけで、手紙を差し出した。

「わかっています。読まれなくても仕方がないとも思っています。でも、何もしないよりはまし。リリィがぜひ……と言っていただけたら……」

 よほど事情があるのだろう。エオルは手紙を受け取り、懐に入れた。

「私もお目通りが叶うのか、定かではありません。でも、お世話になったあなたがそこまで言うのであれば、できる限り努力しましょう」

 こうして、エオルは霊山に向かった。

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