エオルの旅路

エオルの旅路・1


 エオルが乗合馬車に乗り込んだのは、嵐の午後だった。

 今日はもうこちらで泊まって日を改める、と言い張るリューマの御者を無理矢理言い含め、三倍の金を払う。それで雷の鳴り響く中、無理矢理出発してもらったのだ。

 馬車の中で濡れたマントを脱ぎ、エオルはそっと幌を上げて外を見た。

 雨に煙る蜜の村。

 この村を離れるのは何年ぶりのことか……エオルはすぐに思い出せない。

 若葉はまだまだ生い茂っておらず、夏は木々の洞窟と化すこの道も泥川となっている。

 御者台のリューマの男は、ブツブツ言いながらも雨に打たれながら道を急いでいた。エオルの言葉を聞き入れた……というよりも、早く次の村にたどり着きたいというのが本音であろう。

 その村で、再び乗合馬車を乗り換えるか、馬車出ししてくれる者を探すかしなければならない。

 とにかく、一瞬でも早くに霊山に着かなければならない。

 エオルは、シェールから受け取った手紙が濡れていないか確認した。この手紙を届ける特別な使命――それが、エオルの建前である。

 だが、実際は……この手紙は、最高神官への面談願いなのだ。

 霊山には、伝書言の葉というムテ独自の伝書法がある。

 だが、それを使いこなせる神官はほとんどなく、大概の連絡は定期的に回ってくる伝書係を通じて手紙でやり取りしていた。

 しかし、この方法では霊山に手紙が届くまでに時間がかかりすぎる。

 しかも、紙切れでは伝えきれない。一刻一秒で、事態はどんどん悪くなる。

 思わず手紙を握りつぶしそうになって、エオルはあわててしまい込んだ。


 突然、ガクッと馬車が止まる。

「あーあ、お客さん。やっぱ無理だ。落雷かね? 木が道に横たわっていて通れんわ」

 御者台に身を乗り出し、馬の耳越しに前方を見ると、確かに太い木が道を塞いでいた。

「お客さん、もう夜になっちまうし、蜜の村に戻るよ? いいね?」

 冗談ではない。

 もうここまで三刻ほど馬車にゆられ、今更引き返すなどと。

「だめだ、あの木をよけて前に進む」

「真面目に言ってるんですか? たとえ木をよけるにしても時間がかかる。そうしたら、栃の村に着くのだって夜だ。こんな天候の夜中に馬車を出すヤツはいねえ。栃で一泊するか、蜜の村に戻って出直すか……どっちも似たり寄ったりだ。なら、楽なほうがええに決まっとるぜ!」

 リューマの御者の言葉を無視して、エオルは再びマントを羽織った。そして、馬車を飛び降りた。

 このような時に限って雨脚が強まる。しかも、もう地面はぬかるんでいる。雷が収まっただけでも救いだ。

 エオルはマントが泥だらけになるのも構わず、木に手を掛けた。押したり引いてみたりしたが、動きそうにない。

「おい! 手を貸してくれ!」

 リューマの御者は、台の上から首を振る。

「無理ですぜ! お客さん」

「無理は承知。だが、もう後戻りはできません」

 結局、エオルの強情さにリューマの御者は折れた。

 だが、人の力ではどうにもならず、馬車から馬を外し、引かせることにした。

 その作業も大変だった。

 雨の中、泥まみれになって、木の枝にロープを回す。エオルの合図で、御者が馬を前進させる。

 だが、ぬかるみを嫌がって馬がなかなか進まない。しかも、エオルはこのような作業に慣れていなかったので、何度かロープが外れてしまい、やり直すはめになった。

 やっと木をよけることができたのは、あたりが薄暗くなってからである。


 栃の村に着いた時、日はとっぷりと暮れていた。

 しかも、相変わらずの雨脚である。当然、馬車の寄り合い所には、出発しようという馬車もなく、一泊するしか無さそうである。

 だが、翌日には霊山の村に着きたいエオルはあきらめなかった。宿屋の下の居酒屋に入ると、馬車を出せる者はいないか? と、声をかけていった。

 リューマ族とムテでも低所得者しかいそうにない場所で、エオルはいかにも場違いだった。泥だらけのマントでありながらも、銀に輝く姿はムテらしい上品さにあふれていた。

 蜜の村は、辺境にある村の中でも小さいが、質のいい蜂蜜が取れるおかげで明日の生活が出来ないほどに貧困に悩む者はいない。エオルもそれなりの生活を保っている。

 だが、この栃の村は違う。おもだった特産物もない。辺境と霊山の麓を結ぶ宿場のひとつであり、貧富の差が激しいのだ。

 怪しい目で見るリューマ族の男や、物欲しそうに見るムテの女の視線に圧倒されながらも、エオルは隅々まで聞いて歩いた。

「ちょっと、お客さん。うちは人探しの場所じゃなく、食事か酒を飲むところなんですがね……」

 店の主人らしき男が迷惑そうに言った。

 やむなくエオルはカウンターでエールを頼んだ。とても食事をする気にはなれず、酒を飲む気もなかったのだが、それが一番安かったのだ。

 この雨の中、馬車を出す者がいたとしたら、相当ふっかけてくるだろう。エオルにはそれほどお金がなかった。

 しかし、普段酒を滅多に飲まないエオルにとって、このエールという飲み物は、実に厄介だった。苦すぎるのである。

 このようなところで足止めされるのもエールも、エオルにとって災難だった。

 そして……。

 家族に起きた悲劇も苦すぎた。

 エオルは、一刻も早く霊山に至り、知りたかった。

 霊山は、なぜ、エリザにあのような『もの』を押しつけたのだろうか? 兄として、無礼を承知で抗議するつもりだった。

 濡れた髪を拭かないせいか、それとも漆黒の闇を思い出してなのかはわからないが、エオルはぶるっと震えた。


「よお、お客さん」

 ぼっとしていたところ、突然肩を叩かれた。

 知らないリューマ族の男だった。浅黒くてたくましい男で、一瞬、エオルは身を引いてしまった。

 男はニッと笑った。どうやら、見かけよりは人が悪く無さそうだ。

 やはり雨の中、この村に着いたのだろう、首にタオルを掛けている。男は、その湿ったタオルを、エオルの頭にバサッと投げかけた。やや汗臭いものの、髪を拭けるのはありがたかった。

「どうやら、難儀しているようだな? 椎の村までだったら、乗せていってやってもいいぜ。俺も、この雨で帰るかどうするか悩んで、一杯引っ掛けていたところだからな」

 それはありがたい話だった。あとはどのくらい特別料金をとられるか……というところだが、その男はガハハ……と笑った。

「普通料金でいいぜ! ただ、そのエールをおごってくれればな!」

 そう言うと、男はエオルが難儀していたエールを、ゴクゴクと飲み干した。

 びっくりしているエオルをよそに、男はちゃりん! と会計をした。どうやら、既にエールを五、六杯は飲んでいるようだ。

「大丈夫なのですか? 酔っぱらっているのでは?」

 気前がよすぎるのも、飲み過ぎのせいかもしれない。エオルはあわてて男の後を追いかけて店を出た。

 だが、男は笑い上戸なのか、再びガッハハ……と笑った。

「お客さん、ふざけたことを言っちゃいけねえぜ! このカシュ様が、エールごときで酔っぱらうはずはねえだろ? こりゃ、体を温めるための薬だぜぇ!」

 信じていいものやら、エオルは首を傾げた。

 だが、もうこの男を信じて椎の村まで行くしかない。

 そして、そこで再び馬車を探すしか……。

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