椎の村にて・8
「嫌! やめて! 離して!」
エリザは身をよじって抵抗した。
だが、カシュは全く力を緩める様子もなく、廊下をずんずん歩いてゆく。
かつて、土竜を絞め殺したこともある男だ。エリザごときが暴れたところで、何もならない。
やがて、カシュは自分の部屋のドアを蹴飛ばして開けると、中にエリザを押し込めた。
エリザは突き飛ばされて、よろよろと床に崩れ落ちた。
ドアがバタンと閉められたが、同時にぐぐ……と再び開けられた。
「カシュ! カシュ! だめよ、何をする気なの?」
ドアの隙間からリリィの声がする。
しかし、カシュはドアを開けようとはしない。その隙間から、リリィに話しかけるだけだ。
「リリィさん。安心しろ。俺は何もしない。ただ、この人と話をするだけで……」
その時だった。
一瞬、リリィが「あ!」と声を上げたが、遅かった。
何かがカシュの頭の上で砕け散った。それは、リリィお気に入りの花瓶だった。
床に転げたエリザだが、カシュが戸口でリリィと話し込んでいる姿を見て、起き上がった。
どうにかして逃げ出さないととんでもないことになる!
エリザは身の危険を感じていた。
幼い頃、家に出入りしていた蜂蜜商人に、もう少しで連れ出されそうになったことがある。
危険を察知した父が助けてくれたのだが、その時にひどく注意されたのだ。
『リューマ族に心を許してはいけない』と。
エリザに何かあったならば、リューマ族の男は死罪だ。
サリサが最高神官になってから、ムテでは大きな犯罪は起きていない。最高神官の祈りは、犯罪に走ろうとするリューマ族にも届き、暗示として働くのだ。
だが、ムテの女性をうまく誘拐して逃げる者もいる。金儲けの話を持ちかけられ、口八丁でそそのかされてムテを去った者もいる。
万が一、家族が訴えたとしても、統一リューマ族長国首都のリューあたりに逃げ込めば、ウーレンの追跡から逃れられる可能性がある。
カシュは馬を持っている。何か起こしても逃げ切る可能性は高い。
エリザの父は、リューマ族と取引をしていたが、けして心を許してはいなかった。それは、兄のエオルもいっしょである。
幼い頃から、リューマ族には用心しろ……と言われて育ってきたエリザだ。大人になって、リューマ族にもいい人も入れば悪い人もいると知ったところで、急に気持ちが変わるはずもない。
殴られたり、蹴られたり……だけではなく、純血種としてあるまじき穢れを受けるかも知れない。そうなったら、エリザはもう誰かと結婚なんてできなくなってしまう。
無我夢中だった。
近くにあった花瓶を手にとると、ゆっくりとカシュの後ろに近づき、そして思いっきり振り上げた。
ガシャーーーーン!
花瓶はきれいに飛び散った。
リリィが呆然とする目の前で、カシュの頭から欠片がボロボロと落ちてきた。
しかし。
カシュは、何事もなかったように話を続けた。
「……俺は手を出さねえ。いいか、俺を信じろ」
そういうと、呆然としたままのリリィを押しのけ、カシュはドアを閉めた。
手の中でくだけていった花瓶の感覚は確かだった。
だが、エリザはリリィよりも呆然としていた。
カシュがゆっくりと振り返る。
その顔には、何のダメージも浮かんでいない。ただ、エリザに対する怒りだけが浮かんでいた。
「このくそあまあああああ!」
耳がきんとするような大きな声。
だが、エリザはその意味がよく分からなかった。
ムテの人で、そのような汚い言葉を汚い発音でする者はいないからである。
耳を塞いでいるエリザの襟首を持ったかと思うと、カシュはぽーんと投げた。
エリザの体はあっけなく飛んでいき、ベッドの上でぽーんと弾んだ。
そのベッドは、カシュとリリィが使っているものである。
よく利いたバネに弾まされた体は、急に動かなくなった。ずっしりと重さを感じた。カシュがエリザの両肩を押しつけていた。
――きゃっ! きっと乱暴されるんだわ! 助けて! サリサ様!
エリザは目をつぶった。
抵抗しようとしても、もう体が動かない。
やはり、リューマ族は父や兄が言うように、こんなことをする人々だったのだ。
「いいかぁ! よく聞け! この部屋を一歩でも出てみろよ、テメーの命の保証はないと思え!」
やはり雷のような声。おまけに唾まで飛んできた。
「きゃああ! 逃げません! 逃げませんから、乱暴はしないでください!」
悲鳴まじりで懇願した。
「バカ野郎! テメーなんざ、ぶっ叩く価値もねえ! リリィさんとマリの命の恩人でなければ、この部屋になんぞ入れやしねぇ!」
「……え?」
エリザは恐る恐る目を開けた。
カシュの瞳には怒りがあった。だが、確かに攻撃的な色はない。
「いいか! テメーが俺たちを軽蔑していようが、馬鹿にしていようが、テメーの勝手だ! テメーの心の中がどうだって、俺たちは文句もいわん!」
エリザは困惑した。
カシュやこの宿で働くリューマの人々に、何の恨みもないはずだった。だが、確かに自分の心の底に、リューマ族に対する偏見が潜んでいるのも事実だった。
「ご……ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」
「そんなつもりでも、つもりでなくても、かまわないって言ってるんだ! ただ、そのこきたない腹ン中を表に出すな!」
エリザは、ぐうの音も出なかった。汚いと言われても、何も言い返せなかった。
確かに、どのような誤解を受けてもおかしくない言葉を、状況も考えずに発してしまったのだから。
「俺の部下たちはな、昼間の仕事で充分に耐えているんだ。それを……やっと心を解放できる場所で……。俺は、あいつらがてめえに何をしたって、何も文句は言いたくねえ!」
食堂の異様な空気を思い出した。
あの時、誰もが一斉にエリザに敵意を向けていた。
その場はどうにでもおさめることができるかも知れない。でも、そのあとはわからない。
血の気の多い若い衆もいるのだ。命を考えずに乱暴を働く者だっているだろう。
しかも、霊山を離れたせいなのか、最高神官の祈りの効果は薄い。
暴力事件が起きる可能性は、極めて高い。
ムテ人であるエリザには、すぐにぴんと来なかった。だが、何となく、カシュの心配が読めてきて、ぞっとしてきた。
相手の種族を貶める行為。それは、純血を穢すことである。
寝ているすきにジュエルを奪われ、リューマ族の男たちに陵辱されている自分の姿が頭に浮かんで、気を失いそうになった。
エリザは、カシュに救われたらしい。
「あの……では……その……」
「誤解するな! テメーを救ったんじゃねぇ! あいつらがテメーのせいで罪を犯すのが嫌なだけだ!」
そう言うと、カシュはエリザから離れていった。
棚からワインのボトルを出し、直接口をつけて飲み出した。
「ああ、くそ! 腹が立つ!」
エリザはそっと体を起こした。
カシュの背中が丸まって小さく見えた。
「サリ……いや、あの、あのお方はよ、ちょっと気取ったところがあったけど、俺らをそんな目で見なかった。そんな人じゃなかった……」
カシュは吐き捨てるように言うと、再びボトルに口をつけた。
サリサと比べられて、エリザは恥ずかしくなった。
ムテの最高神官である人が友人のように受け入れられて、たかが一般人である自分が、全く受け入れられない。
「ご……ごめんなさい」
「いいから……あんたはそこで寝ろ。明日は早いんだろ? 俺はここで寝る」
カシュは、ソファーを入り口の近くに置いて、その上に横になった。一度だけ、大きなくしゃみをした。
「あの……カシュさん。ジュエルは……」
エリザは、不安になって聞いた。
「リリィとマリに任せろ」
「でも……」
カシュは毛布にくるまって、ぷいと後ろを向いた。
「あの赤子は、ムテじゃねえ。あんたといても、幸せになれねえ……」
エリザは思わず飛び起きてカシュのほうを見たが、彼はすでに大きないびきをかいていた。
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