椎の村にて・7


 ――蜜の村で、出会えればよかった……。


 気がつくと、エリザは薄暗い部屋の長椅子に横になっていた。

 食堂の隣。ムテ人のお客が入った時にだけ使われる食堂。

 かすかに隣の喧噪が響いてくる。

 ひんやりとしたタオルが額に乗せられていた。

 心配そうに覗き込むリリィの顔がかすんで見える。驚いた事に、エリザはボロボロ泣いていたのだ。

「……わ、私」

「大丈夫です。旅の疲れが出たのですわ」

 リリィの声。

 嘘だと思った。

 エリザは、サリサの名前を呼んでいたはず。

 愚かな事に、三人で故郷に住む夢を見てしまったのだから。


 たとえば……木漏れ日の中、家族と過ごす日々の中で、あなたと出会いたかった。

 そうであれば、あなたを苦しめることなく、もっと素直にひとつ心を分かち合えたはずなのに……。


 ――そんなことを言われるはずがないのに……。


「ジュエル? ジュエルは!」

 エリザは、側にジュエルがいない事に気がついて、慌てて飛び起きた。

「食堂で、マリが見ています」

 その言葉を聞き終わらないうちに、エリザは長椅子から立ち上がった。よろり……とよろけたところを、リリィが支えた。

「無理をなさらないで。大丈夫ですから」


 食堂に戻ると、本当にジュエルは何ともなかった。

 それどころか、いつの間にかリューマの人々に取り囲まれて、キャッキャと声を上げて喜んでいる。

 正直、エリザはこれほどはしゃいでいるジュエルを見た事がなかった。

 拍子抜けしてしまった。

「ほら、大丈夫でしょう?」

 横でリリィが微笑んだ。

 エリザはよろよろと椅子に腰をおろした。


 ――ジュエルが、あんなにはしゃぐなんて……。


 てって、あんにょ、てって。

 霊山にいた時は少しもうまくできなかったのに、マリや他のリューマの人たちに囲まれて、ちらちらと、手足を動かしているのが見えた。

「赤ちゃんは、日々成長しますから……」

 まるで、エリザの不安を見抜いたようにリリィが言った。

「だから、今度はエリザ様が元気になる番です」

 その時、カシュが鍋を抱えてやってきた。

「お、気がついたか? 食欲無さそうだったから、粥にしてみた。うまいぞ!」

 エリザのウエストほどある太い腕が、どすん! と鍋をテーブルに置いた。

 いい人なのだけど、がさつすぎる。

 エリザは、どう見ても釣り合わないリリィとカシュを交互に見た。

 せっかく作ってくれた粥。食欲がないけれど、食べてみる。

 意外と美味しい。

 そういえば、長い間味のない舞米ばかりを食べさせられてきた。これも舞米なのだけれど、中に甘芋と玉子が入っていて、味付けも美味しい。

「あ、あの、美味しいです!」

「そうだろ、そうだろ! がっはっは……」

 カシュは、また大口を開けて笑った。

 美味しいのだけど……エリザは、顔をしかめた。

 この笑い方が下品で好きになれなかった。

 そして、あのかわいいマリがこの下品な笑い方を真似るのも、あまり気持ちがよくなかった。


 ――マリには、マリに似合う振る舞いをして欲しいのに。


「あの……エリザ様。しばらく、ここに滞在していかれませんか? 少し、体調が戻られるまで」

 急にリリィが言い出した。

「でも、急いでいますから」

 エリザは即答した。

 確かに倒れたり……で、体調は悪い。でも、ここまで来たら、蜜の村までは馬車で約一日の行程だ。

 けして厳しい道のりではない。

「でも……ジュエル様も無理をしないほうが。それに、ほら」

 リリィは、マリのほうに目をやった。

「マリも、まるで弟ができたような喜びようで……。二人はとても気が合うようですわ」

 リリィは、なぜかしつこかった。

「いいえ、明日の朝、発とうと思います。翌日には故郷に帰り着きたいと思っています。無理でしょうか?」

「無理ではありませんが……。ああ、馬車! 馬車が空いていたかしら?」

 リリィの声が聞こえたのか、向こうでジュエルと遊んでいたリューマの男の声が響いた。

「リリィさん、大丈夫だ。明日は馬車あるぜ!」

「天気も上々って、親方も言ってましたぜ!」

「でも、明後日以降は下り坂でさあ!」

 その声を聞いて、エリザはほっとした。

「やっぱり明日旅立つのが一番いいみたいですね」

 しかし、リリィはさらに懇願するようにエリザに迫った。

「エリザ様、お願いです。もう少し……一週間ほどいたって、故郷は逃げませんから」

「リリィ? でも……私、早く郷に帰りたいの。父の体調も良くないし、早く兄の子供にも会いたいし。急いでいるの」

 エリザは困惑していた。

 リリィの申し出は、全く意味がわからない。

「あの、あのエリザ様。では、ジュエル様だけでも。ジュエル様だけでも預からせてください」

 思わず匙を落としてしまった。

 信じられない言葉だ。

 だが、リリィはエリザの反応に一瞬ひるんだだけで、すぐに笑顔を作って、言葉を続けた。

「……そう、それがいいわ。エリザ様が、故郷で少し落ち着くまで……。それから迎えにくればいいですわ。リューマの女で出産したばかりの者がいますから、母乳の心配はないですし。マリもいますし。それに……」

 ここで暮らしたほうが、この子のためになる。

 さすがに、リリィはその提案をしなかった。だが、エリザはリリィの言わんとしたいことが、手に取るようにわかってしまった。

「黒髪の子供は、ムテ人らしくないから。だから、リューマ族として育てたほうが幸せだと言いたいの? かりにも神官のお子を?」

 エリザは、すっかり頭に血が上ってしまった。

「い、いえ……あの、そんなつもりでは……」

 リリィが慌てて口ごもる。


 ――最高神官の子供を、混血種のリューマ族として育てる。


 それは、巫女制度という苦難を耐えて、純血を守るためにがんばってきたエリザにとって、許しがたい提案だった。

 最高神官の子供を生むためだけに選ばれて、この六年間を過ごしたのだ。

 見知らぬ男に体を許す恐怖や祈り所での幽閉生活。夜の営み。

 すべて。すべて――。

 ただひとつ。神官の子供を生むという使命のために。

 そして、やっと得られた苦労の結果を、まるでゴミダメにでも捨てるように、混血リューマ族に渡せという。


「この子は、まぎれもない最高神官サリサ・メル様のお子です! バカにしないで! リューマ族なんかにするもんですか!」


 エリザは思わずカッとして怒鳴っていた。

 一瞬、あたりの空気が凍り付いた。

 ジュエルのはしゃぐ声だけが、食堂に響いていた。それも、すぐに途絶えた。

 マリの目が、呆然とエリザを見つめている。

 マリだけではなく、他のリューマ族の男も女も……。

 そして、リリィも。


 エリザは、はっとした。

 何ということを言ってしまったのだろう?

 いくら頭に血が上ったとはいえ、これでは親切にしてくれている人たちを愚弄したのも同じである。

「あ、あの……ごめんなさい。私、そんなつもりじゃ……」

 マリの近くにいた男が、少しだけ動いた。

 しかし、それよりももっと早く、カシュがエリザの腕を掴んでいた。

「てめぇ! 何様のつもりだ!」

 まるで雷のような声。

 カシュの顔は、まるで鬼のような形相だった。

「カシュ!」

 慌ててリリィが走りよる。だが、カシュはリリィさえも片手で払った。

「リリィさんは黙っとけ!」

「親父!」

「マリも黙っとけ!」

 ぎりぎり……と握られる腕が痛い。エリザは、顔を歪めた。

 リューマ族の男たちも、ざわざわおろおろと騒ぎ出した。親方であるカシュが、ここまでムテ人に対して激怒した態度を見せたのは、ひさしぶりのことだったのだ。

「巫女姫だか、タコ姫だか知らんが、それがどれくらい偉いんだ? え?」

「カシュ! やめて!」

「……親方、ま、まずいっす! 相手はムテのご婦人っす!」


 ムテの本国ウーレンが定めた法がある。

 混血種であるリューマ族が、純血種に乱暴を働く事は大罪だ。特に女性に対する暴行は、なんと死罪にあたる重い罰が待っている。

 ウーレン族やムテ人は、純血を守る事に躍起になっている。

 性欲に飢えた混血種に女性を陵辱されることは、種の保存にも大きな影響を与える。故に、厳しい法なのだ。

 ましてや、エリザのように癒しの巫女の地位を得た女性に乱暴しようものならば、腕を掴んだだけでも充分に死罪にできる。エリザが訴えれば……の話だが。


「や、やめてください! 離してください!」

 エリザは、思わず悲鳴を上げた。

 だが、カシュはエリザを離さなかった。それどころではない。なんと、引っ張ったまま、部屋を出て行ってしまったのだ。

「カ、カシュ?」

 リリィの声も虚しい。

 誰もが呆然とする中、だんだん小さくなるエリザの声だけが響いていた。

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