椎の村にて・5


 リリィは、別れの悲しみを知っている女である。

 すでに、ひとつ心を分け合った相手を失っている。


 優しくて働き者のいい夫だった。だが、精神的に弱かった。

 外から伝わってくる不穏の空気。

 それを守るための祈りが届かない日々。

 彼は、前最高神官の死とともに体を壊し、心を冒されてしまったのだ。

 リリィのどのような励ましも慰めも、彼には届かなかった。

 ひとつ心を分け合って、共に生きていこうと誓った男は、あっけなくリリィとマリを残して、一人旅立ってしまった。

 リリィは、しばらく夫を許す事ができなかった。

 生活が苦しいのもさることながら、ぽっかりと空いてしまった心の傷をなんとすることもできないでいた。

 どうにか立ち直れたのは、守らなければならない小さな子供がいたからだ。

 リリィは、別れの悲しみをマリのおかげで乗り越える事ができた。


「子供はいつも心の支えになるものですわ」

 リリィはそうエリザに言った。

 最高神官との別れが、彼女を深く傷つけていると思ったからだ。

 だが……。

 エリザの子供を見たとたん、息が詰まりそうになるほど驚いた。

「ジュエルと名付けましたの」

「……あ、はい」

 言葉に詰まってしまった。


 エリザほどの能力を持った女性が、なぜ、この子供を自分の子供だと信じているのか、とても疑問だった。

 どう見ても、この子供はムテ人ではない。

 気持ちの悪い闇を持った者。心を感じさせない恐ろしい存在である。なのにエリザは疑いもなく、愛しそうに子供を見つめているのだ。

 この子にもエリザにも、どのように接していいものやら、リリィは困り果てていた。

 リューマ族になれたリリィは、どうにか正気を保って接することが出来たとしても……これから先、出会う人たちはどう思うのだろうか?


 ――エリザ様は、心の病を煩っているのでは?


 エリザに付き添ってきた男――ラウルも、この異常さを感じている。

 彼は、食事の間も、馬車までの道も、多くの村人の目から子供を隠すように立ちふるまっていた。

 それは、本当にさりげなく……。エリザは気がつかなかったに違いない。

 誰かが子供の顔を覗こうとすると、すっと間に入る。寒いだろう……と言って掛けた肩掛けは、実は顔を隠すためだった。エリザとジュエルをかばう様子は、そのまま家族のようにも見えた。

 子供の異様さに気がつかないのは、エリザとマリくらいである。

 マリは、幼い頃からリューマ族の間で育ってきているせいか、神官の子であるべきジュエルに魔がなくても、まったく気にしていないようだ。

 だが、エリザの場合は……。

 何か強力な暗示によって、思い込まされているようなふしがある。

 馬車を出す寸前、ラウルはエリザの首にお守りといって宝玉を掛けた。

 それは、びっくりするほど価値のある石だ。一般の人が持てないものである。


 リリィは緊張した。

 辺境の村出身のリリィは、ムテの閉鎖的な気風をよく知っている。

 エリザが、この子供をつれて帰って、癒しの巫女として郷で受け入れられるのか、不安で不安でたまらない。

 それは、けしてリリィの考え過ぎなんかではない。

 ラウルも心配だったから、エリザにお守りの石を持たせたのだ。

 手綱を持つ手が震えるほど、リリィは悩んだ。

 そのような時――

「へ? なんで? だって、サリサ、あんなにエリザのこと、愛しているんだもん。別にいいじゃない?」

 マリのあっけらかんとした声が聞こえてきた。


 ――サリサ様! サリサ様はなぜ?


 リリィは、最高神官の微笑みを思い出していた。

 一瞬、エリザに暗示を掛けたのは最高神官か? とも思ったが、彼の暗示はもっと洗練されているだろう。

 だが、最高神官がエリザにこの子を連れて山下りさせたことは、疑いのない事実だ。

 彼が、なぜ、エリザにこのような重荷をつけて郷に帰すのか、リリィには全く見当がつかない。

 あれだけ賢い方が、まさか、この事態を予測できないはずがないだろう。

「故郷に帰るなんて、エリザは酷だよ。サリサがかわいそうだよ」

「ねぇ、マリ。ちょっと手綱を代わってくれる?」

 リリィは、マリを呼んだ。

 マリの悪意のない残酷な言葉に、エリザが苦しんでいることを感じたからだ。

 荷台のほうに目をやると、青白い顔をしたエリザが子供を抱きしめてうとうとしていた。


 ――サリサ様は、ご存じないのだわ!


 リリィは、気がついた。

 最高神官サリサ・メルは、一の村出身である。

 あの村は、神官崩れの者も多く、よそ者に寛容である。しかも、毎月リューマ族の市がたつほど、ムテにしては開かれた村なのだ。

 辺境の地で生まれ育ったリリィは、一の村の気風に驚かされたものだ。故郷の村では、恐ろしくてリューマ族との結婚を明らかにはできないが、一の村では堂々とカシュと並んで歩けるくらいなのだから。

 サリサは、ムテの辺境の地の偏見を実感していない。そう――彼は、世俗から隔離された最高神官であるのだから。

 かつて、最高神官となる前に異国を旅した彼も、自らが守るべきムテの地を知り尽くしているわけではない。むしろ、異国を旅した事で目がくらみ、彼は自分の見聞の狭さに気がついていないのではないだろうか。

 ムテの辺境の地に最高神官が訪問したという正式記録はない。サリサは蜜の村に行った事はあるが、わずかな滞在だった。

 噂では知っているだろう。祈りの際にも、少しはその気を感じているだろう。

 だが、それだけでは知っていることにはならない。

 だから、あの子供がどれほどエリザにとって危険なのか、まったく考えが及んでいないのだ。


 ――このままじゃいけない!

 どうにか、エリザ様を引き止めて、その間にサリサ様にこの事をお伝えしなければ!


 リリィは馬車を走らせながらも、そのことばかりを考えていた。

 かつて、二人に救われたこと――。

 どんなことがあっても、こんどは自分がエリザを助けなければならない。

 何が何でも、椎の村に押しとどめて、その間に……。

 でも、最高神官と連絡を取るなんて、聖職者でない者には無理である。

 祈り所の管理人にお願いしても、手紙が届くまで数週間。椎の村の神官にお願いしても、伝書の言の葉が使える内容ではないし、そもそも請け負ってもらえない。

 霊山に登る許可を持っている者は……。


 ――ラウル!


 あの採石師ならば霊山に登る許可を持っている。彼を捜して、最高神官に手紙を届けてもらうしかない。

 そう思っているうちに、馬車は椎の村の宿に着いた。

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