椎の村にて・4
夕の祈りで倒れるなんて、サリサには初めての経験だった。
巫女姫の祈りもない時期である。唱和の者たちが機転を利かせて巫女姫の使う宝玉を運びこみ、祈りの気をうまくまとめて放出した。
おかげで事なきを得た。
朝に降った雨がすぐにやみ、一転して快晴になったことも幸いした。
だが、サリサの気持ちは晴れ渡らない。
――祈りもどこまで届いたやら……。
サリサは熱で朦朧としながら、部屋の狭さに似合わない高い天井を眺めていた。
そして、エリザと二人で眠った日を思い出していた。
あの時は、まさかこのような辛い別れが待っているなんて、思いもよらなかった。
エリザのためにも、最高神官として生きてゆくしかない。そう再度心に誓ったのは、ほんの今朝の事だというのに、もうこのていたらくである。
――雨に濡れて熱を出してしまうなんて、本当にどうかしている。
ムテ人は、元々あまり体が丈夫ではない。だから、無理をしないよう、体調管理をすることも、とても大事なことであるのに。
それなのに、サリサときたら、エリザが山下りすることが決まってからというもの、まともに食事もとれていないのだ。
いつ倒れてもおかしくないほどに、体は弱り切っていた。
「……ああ、情けない」
「情けなくてもなんでも、早くよくなっていただかなくては……」
独り言のつもりだったが、薬湯を運んできた仕え人が答えた。
「おちおち寝込んでいる暇など、ないんですよね」
最高神官という仕事は甘くない。
嫌な予知夢を見た。
ただの妄想であってほしい夢だ。
エリザといっしょにいた男が、まだ雪の残る霊山にやってきて、採石の許可願いをする。
「どうしても石が欲しいのです。妻になる人のために」
男は、あまりに早い採石の理由をそう述べた。
妻……というのは、エリザの事だ。サリサには、すぐにわかった。
男は、まるで挑戦するかのような目で、サリサを探ろうとしている。最高神官という地位にありながら、一人の女性に固執しているのでは? と、疑いの目を向けている。
巫女姫として、エリザはサリサのものだった時期がある。そして、子供を為している。それが、彼を苛んでいる。この男がどれほどエリザのことを一途に思っているのか、痛いほどわかってしまう。
普通の男ならば、最高神官は蚊帳の外に置く。
神のように考えて、女の二つ心とは考えない。だが、この男には最高神官であったとしても、過去にエリザを抱いた男の存在が許せないのであろう。
一般のムテ人に心を読み取られるほど、サリサの防御は弱くない。だが、男は果敢に心の繋ぎ目を探ってくるのだ。
「この時期、山頂にはまだ危険があります。貴重な採石師であるあなたを、ムテは失うわけにはいきません」
サリサは、男の申し出を却下した。
男の持つ魔の力・鍛えられた躯・目の輝きを見れば、深い雪にも強い風にも打ち勝って、まだ誰の手にも触れられていない素晴しい石を見つけてくるかも知れない。
そして、その石を売ったお金で、エリザのために立派な家を建てることができるかも知れない。
だが、霊山には人の力を越えた自然の厳しさもあるのだ。
春一番の風にさらわれ、サリサの父は霊山から戻らなかった。愛する人を失った家族の悲しみは、今もサリサを傷つける。
その事を思えば、最高神官として当然の判断だった。
通常、そう言われれば諦めて退席するのが、採石師の習わしである。だが、男はサリサを睨みつけていた。
そして無礼とも言える言葉をサリサにぶつけてきた。
「エリザ……癒しの巫女との結婚に反対して……ではありませんね?」
「そのようなつまらないことを」
軽く微笑んで返事をしたつもりだった。
が……。
サリサの手は、うっかりと机の上のインク壷を引っ掛けていた。
手の震えが伝わったのだ。
本来、倒れるはずのないインク壷。それが、ゆっくりと倒れた。
壷は、採石許可書の上に黒い血糊のようなシミをつけ、さらに床にまで落ちた。
ころころと転がり、黒い汚れをばらまきながら、控えている男の足下でやっと止まった。
心の動揺は読まれないように押し隠せても、体に表れてしまってはどうにもならない。
最高神官に対する男の敬意は、一気に失われた。代わりに、恋敵としての激しい感情が燃え上がる。
「エリザを幸せにできるのはあなたではありません。私です。許可を願います」
――許可とは。
採石のことか?
それとも、エリザの唯一の男となることか?
「嫌な夢を見たのです」
おかげで張りつめていた気も一気に飛んでしまい、夕の祈りの場で倒れてしまったのだ。
「サリサ様、語らないでください。夢は語ると変化することがあると聞きます。それよりも、薬湯をお飲みになってください」
それを狙っての事なのに、仕え人はあっけなくサリサの企みを暴いた。
しかも……。
「サリサ様には嫌な夢だとしても、エリザ様にはいい夢であるかも知れません」
などと、聞きたくもないことを言ってくれる。
「エリザには……いい夢……ですか?」
それを認めて微笑むほど、心が広くはない。広くなりたくない。
サリサは大きなため息をついて、一気に薬湯を飲み干した。
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