椎の村にて・2


 ――ひとつ心を分け合った人を、失ったことのある人。


 エリザはゆっくりと座り、少しぬるくなったミルクを飲み干した。

「……そ、そんな大それたことではありません」

 エリザは言い聞かせるように、噛み締めながら言葉にした。


 ――そんな……大それた仲なんかじゃない。

 ただ、お互いにお互いの仕事をしただけだわ……。


 だから、もう霊山にいることができなくなってしまった。

 これ以上霊山にいて、妄想を見続けたら、エリザは間違いなく自分を失ってしまうだろう。

 何一つ、歯止めの利かない自分になってしまう。


「ああ、いけない。遅くなってしまうわ。私のせいね」

 エリザは、自分の思考を断ち切るように、わざと明るく言った。

 ちょうど眠っていたジュエルも動きが激しくなり、今にも目覚めそうになっていた。馬車に戻ったほうがいい。

「リリィ、ここは私が払います。馬車のお礼にごちそうさせてください」

 エリザの旅費用は霊山が出す事になっている。

 そのための証明書もあるというのに、エリザはまだ一度も使っていなかった。

 昼食はラウルが押し切って払ってしまったし、馬車代は「どうせ帰り道だから」で無料になってしまった。

 宿代も心配するな、と言われても、このままでは霊山だって驚いてしまうだろう。

「こんな調子だと、エリザは歩いて密の村まで帰ったのか? なんて思われちゃいます!」

 遠慮するリリィを押し切って、エリザは霊山の証明書を出した。

 店の女主人は、その証明書を見、エリザの顔を見、そしてまた証明書を見て叫んだ。

「ああ! あなた! どこかで見たと思ったよ! あれは、私が三十年ぶりに見た巫女姫の行進だったからねぇ!」

 ぱっと明るく輝く顔を見て、エリザは恥ずかしさで頬を染めた。

 エリザのような至らない巫女であっても、ラウルだけではなく多くの人の心の中に、希望の光として残っていてくれたのだ。

「お役目を果たしたという事は……そうかい! この子が神官のお子なんだね! ああ、私はなんて幸運なんでしょう! ちょっと顔を見させてくれないかい?」

 女主人は興奮気味だった。

 褒められて続けてエリザの気が緩んでいた。

「ええ、どうぞ」

 微笑みのまま、そっとジュエルの顔を女主人のほうへと向けてみせた。


 そのとたん……。

 女主人の顔は、あっという間に硬直して石のようになった。

「こ……これは、何?」

 やっと出てきた一言。


 それを聞いて、素早く反応したのはリリィのほうだった。

 いきなり女主人の手に、多すぎるお金を握らすと、手短にいった。

「釣りはいらない。どうもありがとうね」

 まだ硬直して何も言えない女主人をそのままに、リリィはエリザの手を引いた。

「さあ、早く! 早く戻らないと……」

 マリも慌てて樽を転がしながら、あとに続く。

 やや西日になった小道を、今度は転がり過ぎないよう気をつけながら、マリが樽を運んでゆく。

 その後ろを、何が何だかわからないエリザの手を引きながら、リリィはのしのし歩いてゆく。

「あの……」

「エリザ様、大丈夫ですから、早く馬車に乗ってください!」

 リリィらしからぬきつい口調。

 リリィとマリが、ミルクの入った重い樽を必死に荷台に運び上げているのにも、エリザは手を貸す場面がなかった。


 ――私。何か……したかしら?


 いくら考えても何も思い浮かばない。

 だたわかったのは、ジュエルが危ない……ということだけだった。

 ジュエルを見た瞬間の、あの女の顔。

 とても尋常ではなかった。

 やっと樽が収まった時、店の女主人が小道を駆け下りてくるのが見えた。

「リリィ! リリィ! ちょっとぉ、これ、おつり!」

「いいの! いらない! だから! お願い!」

 女主人の足が止まったとき、馬車は動き出した。

 女の姿が、エリザの前をゆっくりと流れさってゆく。


 ――口止め料。


 リリィと女主人の間で交わされた言葉は、エリザの心にもはっきりと届いていた。

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