椎の村にて

椎の村にて・1


 寒い。

 ……寂しい。


 エリザはジュエルを抱いたまま震えていた。

 あたりは真っ暗闇で、誰もいない。

 なのに、この圧迫感は何なのだろう? 何かが、エリザとジュエルを襲おうとしている。

 見えない敵だ。冷たい敵。


 ――怖い。


 エリザにできる事は、ただジュエルを守るように抱きしめ、固く目を綴り、震えるだけなのだ。

 頭の中に思い描いた人の名を呼ぼうとして、エリザは思いとどまった。

 もうその人の名を気安く呼ぶわけにはいかない身。

 その人は、このジュエルの父でも、エリザの夫でも、恋人でも、友人ですらもない。

 神のごとき存在である最高神官なのだ。

 もったいないほど目をかけてもらっただけでも、本当にありがたいこと。特別に扱っていただきすぎたくらいだ。

 いや。


 ――特別だったわけじゃないわ。あの方は優しいだけで……。


 そう。

 最高神官が霊山に似合わないくらいに優しい人であることを、エリザはよく知っている。だから、今度は新しい巫女姫に優しく微笑まれることだろう。

 山を下ったからには、他の人たちと同じ。頼るのは最高神官の祈りだけだ。

 あとは……エリザ自身がなんとかしなければならない。

 なのに。


 ふと、体を包み込む温かいものを感じる。

 あたりは急に銀色に輝き出す。

 エリザとジュエルを覆う優しい銀の結界。この気。この感覚。

 そして。

「もう二度と……寂しい思いはさせませんから……」

 籠ったような優しい声。

 もう二度と会わない……と思った顔が、すぐそこにある。

 ほっとする。と、同時に哀しくなる。

「ご、ごめんなさい。サリサ様……」

 エリザは、サリサの腕の中で泣き出していた。

「私……。どうしてもサリサ様に頼りたくなってしまうんです。弱いんです」

 情けなくてたまらない。

 でも、サリサの声は変わりなく優しいまま。

「いつまでも、頼ってくれていいのです」


 ――弱くてよかった……。



 がたん! と馬車が揺れた。

 心地よいリズムで走っていた馬車が止まったのだ。

 エリザは、はっとして目が覚めた。

 どうやら馬車にゆられてうとうとしていたらしい。ふと見ると、マリが気を遣ってくれたのか、いつの間にか毛布が掛かっていた。

 温かく感じたのは、そのせいだった。


 ――人のぬくもりなんかじゃなかった……。


 がっかりしてはいけないのに、エリザは落胆している自分に気がついて、ちっとも強くなれない自分にため息をついてしまった。

 愚かしいけれど……。

 まだ、夢物語のように、最高神官に頼っている自分がいる。

 ムテの霊山にあって、日々祈り、結界にてこの地を守る。人々に癒しを与える。古の力を持った、神のような存在。ムテの誰もが最高神官に頼るだろう。

 でも、エリザの場合は違うのだ。

 信仰の宝玉・心の支えだけではなく、側にいて、抱きしめてくれる、その腕や胸、そして声を求めてしまう。

 今のくだらない夢ひとつで、自分の愚かしい希望に打ちのめされた。

「ばかね、私って。現実と夢は違うんだから……。ちゃんとわりきらなくちゃ」

 最高神官を頼りたくなるのは、自分が弱いからなのだ。

 彼のぬくもりが、抱擁が欲しいのは、自分が弱いから……。

 エリザは、毛布を抱きしめながら決意を新たにした。

 弱いままではいけない。強くならなきゃならないのだ。

 愛しいジュエルのためにも。


 かつてサリサとマリの間で、この毛布の争奪戦があったことなど、エリザは知らない。

 この毛布を抱きしめて、サリサがどのような夢を見ていたのかなど、エリザは全く知るよしもない。


 ガタガタ……と音がして、マリが顔を出した。

「エリザ、ごめんね! ちょっと寄り道。宿用にミルクを買っていくから」

 そう言うと、マリは大きなミルク用の入れ物を馬車の荷台から転がしておろした。かなり大きい樽である。土竜の胃袋を干したもので中張りした、かなり重たいものである。

 小さな体で上手に転がしていくマリを見て、エリザは慌てて馬車を下り、ジュエルを抱いたまま、あとを追った。

「マリ! マリ! まって! 手伝うわ!」


 晴れ渡り、風も渡った。

 田舎道のわきにはタンポポが咲き乱れていた。

 霊山よりも温かいのだ。

 それでも少しだけ身震いして、エリザは走り出した。

 自由。そう、久しぶりに自由を感じていた。

 小道を登りかけたところで、やっと樽を押しているマリに追いついた。

「やーだな、エリザ。手伝ってくれるのはうれしいけれど、赤ちゃん抱いていたら、かえって邪魔だよ」

 マリは、がはは……と笑った。

 このような笑い方を、エリザは見た事がなかった。目をぱちくりさせたまま、はい……と返事をするだけだった。

 本当に手伝うなら、ジュエルは馬車に置いてくるか、ラウルからもらった袋にいれておんぶするべきだった。

 だが、どういうわけか、エリザにはそういった考えが全く浮かばなかった。


 やがて、樽とエリザとマリは、やっと酪農家の店先までたどり着いた。

 リリィは、店の女主人と世間話を交えていた。

「樽にミルクを入れるまでの間、どう? 温かいのを飲んでいくかい?」

 この温かいの……というのは、ホットミルクに蜂蜜を融かしたもので、実はちょっとした贅沢な飲み物だ。

 マリがいっしょでミルク代を安くしてくれたときだけ、リリィはこの贅沢をする事にしている。だが、エリザがマリといっしょに樽を転がしている姿を見て、リリィは微笑んだ。

「それじゃあ、三つお願い」

 店の女主人は、見慣れない女性を見て、おや? という顔を見せた。


 丘の上の酪農家の店。

 木製のテーブルと椅子。渡る風に乳の香りが交じる。

 マリは、口の回りに白い輪を作りながら、美味しそうにミルクを飲んでいる。

 リリィも明るい笑顔だ。

 エリザは、この人が祈り所であったあの母親であることを、忘れそうになってしまう。

 夫を失い、子供も失われそうになって、すっかり疲弊していた女性だったのに。

 マリの話では、再婚して幸せなのだという。


 ――私も……幸せになれるのかしら? この世界で。


 白い陶製の壁の家。そこに吸い込まれてゆく影は三つ。

 エリザとジュエルと……ジュエルを抱き上げた影は……。

 ふと、カップを置いた。

 白いミルクの表面には、かすかに薄い膜があり、何も写っては見えない。

 今のは幻なのだ。だが、味は本物だ。


 口に残る甘さは……。

 二人で分けた蜂蜜の味。

 頭によぎる人影は……。


「……いけない! 私ったら」

 いきなりエリザは叫んで立ち上がっていた。

 リリィが慌ててエリザが転がしそうになったカップを支えた。

「エリザ? どうしたの?」

 マリが横で、吸い付いたカップを口から外して聞いてきた。

 何も言えなかった。

 すべては終わった。過去のことだ。

 突然、考えてはいけない人のことを思い出し、涙が出そうになったなんて……。

 リリィが、そっとエリザの肩に手を置いて、椅子に戻した。

「エリザ様……。大丈夫です。いつか、時間が癒してくれますから……」

 何度もうなずきながら、リリィが諭す。

 その目には、エリザの代わりに涙が潤んでいた。

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