採石師ラウル・2


 まさか……と思っていた雨になった。

 遅めの朝食中、サリサは不安そうに窓の外を見た。

「きっと、エリザは雨に当たっている」

 コポコポ……と、ポットから薬湯を注ぎつつ、仕え人が言った。

「いいえ、もう一の村に着いている時間です。どこかで雨宿りしています。それに、空は明るい。ほんの通り雨でしょう」

 とはいえ、雨粒が激しく窓を打っている。

 温かくなると予想していたエリザは、重さを考えて薄手の肩掛けしか持っていなかった。子供を抱いての旅路だから、荷物は最小限にしたはず。

 それに、いくら下り道とはいえ、エリザの足の速さを考えると、村に着いているとは思えない。

 まだすかすかの葉しかない木の下は、雨を防ぐには物足りないだろう。エリザは雨に濡れながら、ジュエルを抱えて震えている。そんな気がする。しかも、ジュエルは体が弱い。

「せめて羊毛のマントさえ持っていれば……」

 サリサは、食事の手を止めた。

「……そうして、追いかけてマントを届けるおつもりですか? およしになってください。未練が募るだけです」

 薬湯を差し出しながら、サリサの気持ちを先読みした仕え人が言った。

「ですが、この雨です。難儀しているのを、見過ごすわけには……」

「そう言って、サリサ様はエリザ様との別れを少しでも先送りしたいだけです。もう、すべては去っていったこと。今更追いかけても辛いだけです」

 窓の外で、雨脚が激しくなる。

「違います」

「違いません」

 眉間に皺を寄せて睨むサリサの視線を無視して、仕え人は言った。

「これから先、エリザ様はエリザ様自身で問題を解決してゆくべきなのです。最高神官であらせられるあなたが手を差し伸べなくても、困っているときは別の助け手が現れるでしょう。今後の気遣いは、あの方のためにはなりません。もう、エリザ様のことを考えるのは……」

 仕え人は、はっとした。

 気がつくと、自分の手にあったはずのポットがない。入れたばかりのはずの机の上の薬湯からは、もう湯気が上がっていない。目の前にいた最高神官の姿もない。

 外は、既に雨が上がっていた。

 気がつかぬうちに時間が過ぎたのだ。理由は、ただ一つしかない。

 どうやら、最高神官はまた仕え人に暗示をかけて、脱走したらしい。

 仕え人は、いつも最高神官がしているように、その窓から外を見つめた。

 想いを引きずれば引きずるほど、傷つくだけなのに。

「やむなしですか。所詮、慎め……と言っても聞き分ける方ではありませんしね」

 そう呟くと、彼女は最高神官が食べ残したものを片付け始めた。




 外は滝のような雨になった。

 エリザは、崖下にあった小さな洞穴の奥でその様子を見ていた。

 見知らぬ男も、入り口付近で腕を組み、じっと雨を見つめている。この人がいなければ、エリザはびしょぬれになってジュエルを抱きしめ、震えていたに違いない。

 借りたマントのおかげで、エリザもジュエルもほとんど濡れていない。

「あ、あの……。どこのどなたかは存じませんが、本当にありがとうございます」

 男は、びくっと反応した。

 雨を見ていたのは、空模様を気にしていたのではなく、エリザと一緒の空間にどうしていいのかわからなかったからのようだ。

「いや……。僕は知っていますよ。あなたは、エリザ様ですよね?」

 と言いつつ、男はエリザを見ようとしない。エリザの方は、びっくりして目を見開いて男を見つめた。


 あのような場所にいる子持ちの女性は、山下りする元巫女姫ぐらいしかしない。

 だが、一般人には巫女姫がいつ山下りするか知らされていないし、癒しの巫女を待ちこがれているのは、出身の村くらいだ。子をもうけたとたん、巫女姫の神聖は解かれてしまい、聖職者ではなく一般人扱いなのだから。

 毎年変わる巫女姫の名など、よほど信心深い人でなければ忘れてしまうだろう。

 しかも、前回エリザは巫女姫の行進をしなかった。だから、顔も名前も知らない人がほとんどで、きっと『サラ』という名前だと思われていても、おかしくはなかった。


 こんな至らない巫女姫の名前でも、覚えていてくれた人がいたとは……。


 ほんの少し感動した。

「あ、そうです。覚えていてくださって、ありがとうございます。で、でも、もう『様』は……」

 男のほうは、照れくさそうに頭を掻いた。そして、しばらくもじもじしたあと。

「……エリザ様のほうは、僕のことなど……覚えていないでしょうね?」

「は?」

 エリザは再び驚かされた。

「い、いえ、覚えているほうがおかしいくらいで……。あの、失礼しました!」

 男は初めてエリザの方を見て、目の前で何度も手を振って、自分の失言を取り消そうとした。

 その顔をじっと見つめる。瞬きもせずにじっと……。男はあわてて目をそらす。

 逆に、男のほうがますます照れてしまい、真っ赤になってしまった。

 でも、エリザにはどうしても覚えがない。


 エリザは、ここからはかなり離れた辺境の村の出身だ。

 しかも、この辺りに来たことなど、巫女姫になる以前には三度しかない。

 一度目は、ほんの小さな子供の頃で、なぜその名誉にあたったのかわからないが、兄のエオルと二人、隣村の神官に連れられて三の村の【祈りの儀式】に参加した時だった。あまりに小さな頃なので、全然記憶がないのだが、最高神官マサ・メルの冷たい気だけを忘れずに覚えていた。

 二度目は、そのマサ・メルの葬儀の時だ。

 通常、ムテに葬儀はないが、最高神官が旅立つ時は【悼む儀式】が執り行われる。エリザ一家も村から乗り合い馬車に乗って一の村に出かけたが、まさにとんぼ返りの状態で、人と出会うこともなかった。

 三度目は、三の村での巫女姫選定の儀である。

 これは、巫女姫候補ともあって厳重に守られていたから、男の人と知り合うことなどありえなかった。

 そして、あとは巫女姫時代である。

 それだって、最高神官以外の男性と会う機会はない。祈り所に籠った時は当然、霊山にいる時だって、一般人とは隔離されている。

 だから、誰かと出会っていることはなく、思い当たるふしが全くない。


「ごめんなさい。いったいいつ、お会いしたのやら……」

「い、いえ! 本当に! 気にしないでください」

「……気になります」

 エリザはしんみりと、情けない声で言った。

 男は、地面を見、ちらりとエリザの顔を見、そしてまた、地面を見た。

「い、祈りの儀式の時です」

「え? あら? だって私、祈りの儀式には……」

 エリザは目を白黒させた。祈りの儀式は、サラが行進したのだ。

「だから……あの、その前です」

 ということは、なんと五年ほど前のこととなる。

 エリザは必死に記憶を辿った。

 祈りの儀式に関して言えば、あまり思い出したくないことばかりで、一時期はほとんどのことを忘れていた。だが、今のエリザは健忘症ではない。

 確かに、巫女姫の行進の時は若者が輿を運んでくれたり、行進したり……。霊山にも学び舎の若者が出入りして、にぎやかだったり……。

 でも、とても出会いがあったとは言えない。

 男は、うつむいたままだった。かすかにぶるっと震えている。

 エリザは雨に濡れなかったが、マントを貸してくれたこの男は、少しだけ濡れている。動かないから、体が冷えたのだろう。

「ごめんなさい。私、記憶力が確かじゃなくて……」

 エリザは申し訳なくなり、マントをとると、男の肩にかけた。

「いや、いいんです。覚えてなくて当然だから。それにマントも……」

 男は慌ててマントを外し、エリザに突き返した。

「いえ、でも濡れているのに、風邪を引いてしまうわ」

「いや、大丈夫ですから……」

 マントが行ったり来たりを繰り返した。その弾みでふと二人の手が触れ合った。

「あ……」

 初めてまともに目が合った。


 ――この瞳。この感じ。


「思い出しましたわ……」

 男の顔をじっと見つめたまま、エリザは呟いた。

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