採石師ラウル

採石師ラウル・1


 三の月の初めは、やはりまだ風が冷たい。

 霊山の山から下る冷たい風に、エリザはぶるりと震えた。

 降りて来た道を振り返る。もう既に霊山の建物は何一つ見えない。

 風に揺れる木々に、若葉が葺いて青空に映える。

 心にすきま風が吹くような寂しさもあるけれど、この木々のように新しく芽吹く自分を感じていた。

 霊山と祈り所の日々は、約六年。くじけそうになったこともあったけれど、やり遂げることができた。

 これからは【癒しの巫女】として故郷に戻り、ジュエルを育て、神官の子供として学び舎に入れる仕事がある。でも、きっと楽しい日々になるだろう。兄嫁とともに子育てができるのだし、父の面倒も見ることができる。

 闇を乗り越え、光の中に戻って来たのだ。

 エリザは、大満足だった。


 しかし、坂道を歩いているうちに、最初のはしゃいだ気分は萎えてきた。

 瀕死の状態で産まれてきたジュエルは、やはりまだ旅には無理があったのだろう。冷たい風のせいかぐずり始め、エリザの腕の中で暴れる。あやしあやしの旅路になった。

 エリザは自分の肩掛けを外し、ジュエルを包んだ。おかげでだいぶおとなしくなったが、今度はエリザが震えるはめになった。

 思えばエリザもジュエルを癒し続けて疲弊し、万全ではない。最高神官が言うように、霊山を下ってしまえば力が弱まり、ますます辛くなるだろう。

 だが、早く故郷に戻してもらえるようわがままを言ったのは、エリザである。母屋を出てから小一時間で音を上げてはいられない。

 再び泣き出したジュエルのために、エリザは道の傍らに座り込んだ。

「もう、おなかがすいちゃったのね……」

 今朝、授乳した時、ジュエルはほとんど飲まなかった。旅の予感を感じてか、神経質になっていたのかも知れない。

 エリザはきょろきょろあたりを見回した。

 道横は崖。川が流れている。反対側も崖が切り立っていて、その上は林になっている。道はこのあたりつづらになっていて、見通しは良くない。

 こんな朝に、誰もこのあたりを通る者はいないだろう……。エリザは胸元を広げた。

 余計に風がしみるけれど、我慢。赤子のほうは、やはりおなかが空いていたのだろう、すぐに乳房に吸い付いた。

 だが、この子は食事が遅いのだ。

「ううう、さむ……。ジュエル、お願いだから、早く済ませてよね」

 ……と、エリザが口にした時だった。

 下方からいきなり人影が現れた。しかも、男の人だった。

 エリザはそのまま真っ赤になって、硬直してしまった。

 向こうも、エリザの姿を見て、動かなくなっていた。


 考えてみたなら、その人の方が驚いたに違いない。

 人気のない山道を登って来たら、角を曲がったところで、女が赤子に乳を与えている場面に遭遇したのだから。

 男は、ムテには珍しい短衣にマント。腰につるはし。銀の髪を中ぐらいで縛っているのは、採石師独特の格好である。さらに、首から革紐で吊るした紫色の石を下げていた。

 彼の目は、なんとエリザの白い胸に釘付けになっていて、頬は桃色に染まっている。

 やっと硬直が解けて、慌ててエリザは胸を隠した。

 まだ食事中だったジュエルは、途中でお預けをくらい、再び泣き出した。

 その声に我に返ったのか、男のほうが初めに声をかけた。

「あ、あの……失礼しました」

「い、いえ、こちらこそ」

 エリザのほうも沸騰したくらいに赤くなり、たどたどしく挨拶した。

 男は、エリザに目線を合わせないよう、横を通り過ぎていった。エリザの方も、男を見ないよう、目線をそらして通り過ぎてゆくのをまった。

 わずかな時間なのに、恐ろしく長く感じた。

 その緊張感がないのは、赤子のジュエルだけで、なかなか食事をもらえないのでますます激しく泣いていた。

 やっと男が背後に去ってゆき、エリザはほっとした。

 一度納めてぬくもりをあじわった胸を、再び寒空にさらすのは少し勇気がいたが、仕方がなかった。

 しかし……。

「あの……」

「きゃ!」

 いきなり背後から声を掛けられ、エリザは飛び上がらんばかりに驚いた。

 通り過ぎたと思った男が、立ち止まって声を掛けて来たのだ。

「あ、すみません」

 男は一歩引いて謝った。

「あ、あの、でも……寒くはありませんか?」

「え? はぁ……」

 どぎまぎして、何ともとれない答えをしたエリザの上に、ふわりとマントが振って来た。

「あ、あの、風よけになると思います。使ってください」

 そう言いながらも、男はエリザの顔を見ない。

 よほど胸を見てしまったことが、恥ずかしかったのだろう。

「あ、ありがとうございます」

 エリザのほうも、どもりながら返事をした。


 マントにはフードがついている。

 それを頭からすっぽりかぶると、かなり風が防げた。それでも胸はあらわになる。だが、寒さを感じなかった。

 それもそのはず。男は風上に立ち、風よけになってくれていたのだ。しかも、エリザを見ないように、背を向けている。つまり、風を顔面に受けているにちがいない。

 エリザは真っ赤になりながらも、ちらり……と男に視線を向けた。

 採石師という力仕事をこなしているせいか、ムテにしてはがっちりとした体付きをしている。

 長年、ひょろひょろとした仕え人と最高神官、年老いた祈り所の管理人くらいしか見ていなかったエリザには、実に新鮮に見えた。

 男の人は、鍛え上げるとこのような筋肉のつき方をするのか……という感じ。短い衣装なので、実によく見える。

 ぼんやりと男の後ろ姿を見ているうちに、ジュエルがむせたのか、げほっと母乳を吐き出した。

「きゃあああ!」

「え! どうしました?」

 男は一度振り向いたが、エリザの胸を見て再び慌てて後ろを向いた。

「ご、ご、ごめんなさい! マントを汚しちゃった!」

「別にかまいません」

「で、で、でも……」

 汚して悪いし……。自分の母乳が男の人の服についたままなんて、絶対に恥ずかしいし……。

 エリザは授乳を終えたあと、必死になって水を掛けてこすったりしてみた。だが、乳臭いのはとれそうにない。

「あとで洗いますからいいです。それより、旅の途中、水がなくなると困りますよ」

 採石師という職業は、霊山の頂上付近にある薬石や宝玉を採取する仕事である。

 何日間も山道を旅することもある。水の大切さをよく知っているのだろう。

「それに、この風です。天気が急変しそうですから、そのまま……」

 と、男が言いかけたところで、本当に雨が落ちて来た。

 先ほどまで青空だったのに、信じられない。

「山の天気はこんなものです。こっちへ!」

 男の人に肩をつかまれ、エリザは慌ててジュエルを抱き、言われるがままに坂道を下った。

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