真に澄む
ペーパーナイフを封筒にするすると滑らせて、密封された思い出の棺がようやく外の空気を吸った。
真澄が開いた口から中を覗いて、それからそれをコンロの火にかざす。
揺らぐ熱量に触れたところから、黒ずんで小さくなる。そのうちに一角が灰色になってボロリと崩れ落ちた。
「は、」
と真澄が楽しそうに笑った。
「約束破ってやったわ」
火にかざす端から煤けて黒ずんでいく手紙を見て真澄がますますおかしそうに笑う。
「優羽、あんたも約束破ったんだからね、これでお相子だわ」
優羽は真澄にずっとそばにいるという約束を。そして、真澄は優羽に彼の作品をすべて読むという約束をしていた。二人の間の約束がこれで全て焼ききれたことになる。
指の先が熱かったので燃えて三分の一ほどになってしまった紙切れから指を離す。ぱた、と音を立てて地面に落ちたそれは勢いを弱めながらもとうとう燃え尽きてしまった。
もうここには真澄の心を悩ますものはない。
これほどすがすがしい気持ちであるのは久しぶりだった。
「知るか、そんなもの」
ふと思い返せば、自分の夫は生前に自分の作品を読み返すのを変に嫌がっていたのを思い出した。聞けば、柄にもなく恥ずかしいのだと言う。
彼の最後の作品の葬儀はつい先刻終わったばかりだ。
「精々恥ずかしがってないさいよ」
夫のことは愛していたし、今でも愛している。これはきっと死ぬまで変わらないのだろう。彼もきっと死ぬまで変わらなかったろう。その部分においては真澄も十分に頷けた。
優しい性格が好きだった。こんなひねくれものの真澄を選び、ずっとそばにいるとまで約束してくれるくらい優しい彼が。だからこそ、時折後悔しているのではないかと思うこともあったのだ。その後悔を聞かぬままに真澄は彼を送ってしまった。それがきっと引っかかり続けていたのだろう。
今更彼の後悔を知る術はない。真澄の自己満足での歪な納得しかそこには存在しないのだ。だからこそ、彼女は何度も夫のことを思い出す必要があった。
いや、いびつな形でもいいから、彼のことを覚えていたいというのが本当の所である。
彼と色んなところへ行った。本来インドア派で、休日はなるべく寝ていたいという性質である真澄を外に引きずり出し、あまつさえ一人で山登りまでできるように成長させたのは紛れもなく優羽だった。
何度も喧嘩をして、妥協や和解の中で真澄と優羽は混ざり合ってしまったのだろう。だから、優羽が完全に死んだというのはきっと難しいことなのだ。
思い出は山ほどある。真澄の両腕ではもう持ちきれないほどに膨らんでいるし、腐るほどのそれをなくすのは真澄には難しい。
だから、もう現物はいらなかった。
あの手紙を受け取ってしまった後、真澄が死んだなら今度はそれら全てを誰が思い出すというのだろう。
真澄はもうとっくに一人きりで、誰にも相手にされない身であった。
気楽と言えば聞こえはいいが、ただの孤独な人だった。
だからこそ、手紙はいらない。
ゆっくりと風が吹いたから、灰がボロボロに頽れて消えていった。
今でも天邪鬼なのは変わらない。
そして、夫は死んだのだ。五年前の大型トラックの玉突き事故に巻き込まれて。
それだけだ。
あたりを見回すが、もうどこにも鳥の死骸はない。きっと飛んで行ってしまったのだろう。
真澄が黒い空を見上げた。
数多の星がこぼれて落ちている途中だった。
わずかに青くも見えるそれらを眺め、久方ぶりに真澄は肩の力を抜いた。
燃やせど、泣けど 八重土竜 @yaemogura
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