不治の病
風が強い。帽子をさらわれそうになって、真澄が慌てて頭を押さえた。風は空気の汚れから何からすべて吹き飛ばす気でいるのだろう。
流星群を見るのにはちょうど良かった。
真澄が精華荘についてから三日目の朝である。
久しぶりに足を通したトレッキングシューズはいつも通りの履き心地だ。
少しずり下がったリュックを背負いなおすと、今まで感じていた違和感がさらに増す。何度揺すっても荷物がいつもより重いように感じるのだ。
寄る年波の影響か、それとも。
荷物はいつも通りの顔ぶれであった。カメラ、望遠レンズ、三脚、寝袋とテントとラジオ、タバコ、携帯灰皿、お湯を沸かす用の小さなコンロとポット、一晩分の食料。それに加えて文が持たせてくれたサンドイッチが入っている。
だが、サンドイッチだけでこんなに重くなるはずがない。
「はあ、重いわね」
と真澄が一人ごちた。
心当たりを探れば、優羽の手紙とペーパーナイフが異端なものだと気が付く。
大きくため息をついて肩を落とした。自分の馬鹿さ加減と女々しさに対してだった。
必要のないものを持ってきた上でそれを負担に思っているなど、馬鹿なのもたいがいにしろと自分に言ってやりたい。
なぜ、持ってきたのか。手紙に羽や手足でも生えて飛んで行ってしまうとでも思ったのか。そんなことができるのは魔法使いや魔女だけだ。
民宿についてから何度もそれと向き合う時間はあったが、その手紙とにらめっこをするだけで、とうとう開けることはかなわなかった。
意気地なしめ、と自分のことを苦々しく思っている反面、自分の新しい一面を見たような気がして笑ってしまいそうにもなる。
この旅行中に片を付けると心に決めて、真澄は気持ち大きく足を踏み出した。
時折ルートを確認しながらずんずんと音がしそうなくらいに登っていく。無心と言っても過言ではないだろう。時折現れる獣道に心がときめかないこともなかったが、遭難でもしたらシャレにならないぞと自分の臆病な部分がささやいていた。
時計をちらりと見やる。順調にいけば後二時間と少しで頂上に行ける。
風がまた強く吹いた。透明な両腕に背中をぎゅっと押されて真澄の足取りがわずかに軽くなる。
ラジオの電源を入れて周波数を合わせてみるが、ひどいノイズ交じりの声か音かも判断できないものが聞こえるだけだった。あきらめきれずアンテナを立ててみると、何とか聞けるようになる。
いつものMCが覇気のない声で流星群の話をつらつらとしていた。この知識量を聞く限り、彼は相当星が好きなようだった。あるいは放送作家の方かもしれなかったが。
流星群の話題がしばらく続いていたが、真澄が野鳥に気を取られているうちに話は芸能人の訃報の方へと飛んでいた。
芸能関係に興味の薄い真澄ですら名前を知っている人が亡くなったらしく、残念だなぁ、と言う気持ちが湧き出てくる。亡くなるにしてはまだ若いようにも思えた。
足を踏み出した先に木の枝が横たわっていて、ミシミシと音を立てて割れてしまう。その音に驚いたのか、茶色い野鳥が大声を上げて飛んで行ってしまった。
しばらくしてから怖がらせてしまったのだと気が付いてぼんやりとかわいそうなことをしたのだという実感がわいてきて来る。
ラジオの中ではもうすぐ昼のニュースが始まるらしかった。
真澄がラジオの電源をブツリと切ってしまう。時期にノイズがひどくなって聞こえなくなってしまっていただろう。
昼のニュースは今でも嫌いだった。あのキャスターが必要な情報だけを淡々と伝える放送が大嫌いだった。
抜いたイヤホンをまとめずにぐちゃっと丸めてポケットの中に突っ込む。あとで後悔する自分のことがありありと目に浮かんだし、次に使う時にイラつくこと請け合いだ。
分かっている。
山道はまだ長く続いていた。果てしないようにも思える。
しばらくの間なだらかな道が続いていた。
行程は順調だったが、なぜだか人に会わないのが不思議である。
季節的に言えば時期はわずかに外れていたが、閑散期と言うほどではなかったはずだ。
それに、流星群のこともある。
真澄が首を傾げた。
人がいない。
だが、真澄にとっては都合がよかった。今の気分では面識のない人間であっても顔すら見たくない。
自分の中の歪んだ何かがゆらりゆらりと影を見せ始めていた。
地面に鳥の尾羽が一本ぽつりと落ちている。真澄がそれを拾ってリュックの外のポケットに突き刺した。
そのまま一時間ほど歩いていくと山の中腹に差し掛かる。
人の手が加えられ、あたりは開けていた。いくつかのコースがここを中間地点か折り返し地点にしているはずである。
真澄はこのまま高原を抜けて頂上へと向かっていく。
木のベンチや小さな小屋が用意されたそこにも人の気配すらなかった。
真澄が一度肺一杯に空気を取り込む。
閑散としたその場を見渡した。
木のベンチの上に積もった枯葉を払い落として真澄が足を休めるために座る。
この山が自分のために準備されているのではないかと思うほどあたりは静かだった。
リュックの中を探ると文が持たせてくれたサンドイッチが出てくる。ふたを開けるといくつかのサンドイッチが仲のよさを見せつけるように身を寄せ合っていた。
具はハムとレタス、ポテトサラダに、ピーナッツバターとジャムと色とりどりだ。持たせてくれた小さなポットの中には温かいカボチャのスープが入っていた。
空腹の真澄にはとてもありがたいメニューである。味も申し分なく彼女が食堂でもやってくれたなら本当にこちらに移住しようと考えてしまうほどだ。
きっと真澄には彼女のようなおいしい料理を作ることは一生できないだろう。
ランチボックスをたたんで片付けてしまうと、真澄がセブンスターを取り出してするすると吸っていく。携帯灰皿に灰を落としながら、ふかしタバコだなぁと自分でも思っていた。二本ほど吸って満足すると立ち上がる。
もう一度あたりを見回したが、やはり人はいなかった。
行程で言えばあと三十分もしないうちに頂上に着くという頃だった。
真澄が今まで歩いていた道からするりと抜け出る。なんともないとでも言いたそうな顔をしていた。
風は時折強く吹く。しかし、時期に凪ぐだろう。
腕時計に目を落とすと、三時を少し回ったころだった。
少し休憩しすぎたかと、二本目のタバコを後悔したが、おおむね真澄の予定通りに事は進んでいる。
頂上に人がいるのかと思うと、顔を背けずにはいられなかった。
弱い自分と、ずるい気持ちがずるりと這い出てきて真澄と同じ道を歩んでいく。
あたり一帯に人の影すらも見えなかった。
地面を鳥の影が線を描くように飛んでいた。
いまだに人を嫌う病気は治らない。一生治ることはないのではないかとも思う。
ずっと人が嫌いなまま鬱滞したこの恨みや妬みを持ち続けていくのだ。
人の視線を嫌うようになったのも五年前からである。
灰色に焼き付いた記憶が真澄の頭の中でぱりぱりと音を立ててはがれ始めた。
葬式に参列する黒い服の群れは夫の知り合いだったろうか。彼女の夫と一緒の文の姿も見えた気がした。夫の友人や知り合い、仕事仲間と名乗るような人たちが真澄に言葉をかけていくが、ラジオのノイズに覆われたようにそれらは断片的にしか聞き取れない。一つだけ確かなことがあるとすればその中に真澄をせせら笑ったり、侮辱するような人たちはいなかったということだ。
報道のカメラのフラッシュがいまだに網膜に憑りついていた。記憶の中の人影が暗く、くりぬいたようになっているのはこの光のせいかもしれない。
何もかもあの出来事によって狂わされたのだ。
壊れてしまったものを元の形に戻すのは不可能だと知った四十四歳の秋の出来事である。
夫のエンバーミングでそれを思い知らされた。
元の形に戻したいのなら、溶かして型に入れる必要がある。もしも型があればの話であるが。
真澄の指がラジオに伸びて電源をかちりと入れたが、砂嵐がザーザーと泣いているだけであった。
人の足音が聞こえた気がして後ろを振り返るが、自分の歩いたところの石が下に転がり落ちていったというだけの話であった。
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