泣けども
カボチャのスープは相変わらず絶品だった。
これが目当てで来ていると言っても過言ではない。
カボチャのスープのみならず、ほかの料理も最高においしい。
民宿でなくて食堂でもやっていたのならば、長野に移住したって良かった。
元よりそこまで量は食べなかったが、その日は違う。
リンゴのコンポートまでぺろりと食べきって、空になった皿を見つめる。カボチャのスープが入っていたスープ皿を見つめて、少し寂しい気持ちになった。
スプーンを置いて、一息つく。すぐに食堂から出ようという気にはなれなかった。
この場所は寛ぐ気でいれば、いつまでだってくつろげる。
沈んでいた気持ちが少し持ち直した気がした。
カバンの中に忍ばせていた本を出して、開く。
数行読みだしたところで、人の声に視線だけを巡らせた。
テーブルを一つ挟んだ所にあの外国人の家族が座って何事かを話し込んでいる。机の上には観光用のパンフレットや英語で書かれた観光のガイドブックなどが広げられていた。
聞き耳を立てるつもりはなかったが、真澄の耳の中に彼らの会話が滑り込んでくる。
罪悪感がむくむくと頭をもたげたが、他意はないと何度も自分に言い聞かせた。
目線が一生懸命に活字の上を滑っていく。
どの道会話を聞いていたところで英語では真澄には理解できなかった。
少年特有の若い声が何事かを楽しそうに話してけらけらと笑う。
自分と夫の間にも子供がいればこんなな時期に一人で山登りなんかしていなかっただろう。しかし、いないものを欲しがっていても仕方がない。元からいないのだ。途中で亡くしたというわけではないからずっと良かった。
子供に関してはタイミングが悪かったのだ。
本を数ページ読み進めたところで真澄が手を止めた。目を数回瞬く。
この本は何度も読んだことがあると思い出す。紐解かれるようにして、続きの文章がするすると頭の中で再生されて行った。
『私、本気よ』
と主人公が恋人に詰め寄っていく。
このあとこの一途な少女は恋人に振られることになるのだ。
数ページ読み進めればやっぱり彼女が緩やかに振られてしまう。振られたからこそ話が進むとは言え、物語の中の彼女が恋人を心酔していたのを考えるとかわいそうにも思えた。
ドアが閉まる音を聞き真澄が顔を上げればあの家族の姿は机にはない。食堂の扉のすりガラス越しに父親の背中が見えた。
それと入れ替わるようにして文が厨房から姿を現す。
エプロンを外したのを見る限り洗い物は終わったようだった。
真澄の斜め向かいに腰かけた文がしばらく黙ってからようやく喋りだす。
「あら、またその本読んでるのね」
「お気に入りですから」
「旦那さんの書いた本ですもんね」
「……そうですね」
真澄がそう言って、本の間に親指を引っかけて閉じる。表紙をするりと眺めてからゆっくりと笑った。
「私、彼の一番のファンですから」
この民宿のラウンジの本棚にも彼の書いた本が初版本でほとんど揃っている。
真澄の本棚ほどではないがそれでも相当数の蔵書量だった。
文がゆっくりと頷いてから立ち上がる。キッチンの中にしばらく消えてから、マグカップを二つ持って出てきた。
真澄の前に置かれたカップの中には湯気を立てるチャイが並々と注がれている。
薄茶色のその液体をしばらく眺めてから、真澄が本を閉じて中身に口を付けた。
「今日のカボチャのスープもおいしかったです」
「腕によりをかけましたからね」
「家で作ってみたりするんですけど、文さんのスープみたいにとろとろなのになめらかにならないんですよね」
「あら、嬉しいこと言ってくれるのね。レシピ教えましょうか?」
チャイの入ったカップで冷えた指先を温めていた文が身を乗り出した。その顔には満面の笑みだ。
それにつられるように真澄もぎこちなく笑って首を横に振る。
「遠慮しておきます。同じ味が作れるようになっちゃったら、ここに来る意味なくなっちゃうでしょ?」
「用事がなくても来ていいのよ。真澄さんなら大歓迎だわ」
「じゃあ、庭にログハウスでも建てて住み込みで働こうかしら」
なんて真澄が珍しく冗談を言うから文は驚いた顔をしていた。
「珍しいわねぇ、そんな冗談。……いいえ、私は大歓迎よ。是非住み込みで働いて? そうね、真澄さんはカボチャのスープ係に任命するわ」
「お客さん減っちゃいますよ」
「あら、ほかの料理もおいしいから大丈夫よ」
と、おどけて言う文は本当に楽しそうに笑っていた。
「今日から一週間、よろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそ。色々忘れてゆっくりしていってちょうだいね」
と二人で深くお辞儀をしあう。
顔を上げた時目が合ってまたくすくすと笑いあった。
「現実に戻れなくなっちゃったらどうしよう」
「そしたら、庭にログハウスでも建ててそこに住めばいいわ」
文がにやりと笑って親指を立てていた。
おかしい人だ、明るく、ころころと笑う。子供の良いところを残したまま年を重ねて行っているようにも思えた。真澄とは正反対だ。
チャイのコップは手作りのものなのか、二つを見比べると少しずつ違う部分がある。間違い探しのようにその違いを探していると、文がまたクスリと笑う。
「お代わり、淹れてきましょうか?」
気が付けば真澄のマグカップはすっかり空だった。
「ええ、お願いしようかしら」
「任せて」
ここは彼女の申し出に素直に甘えることにする。
二杯目のチャイが運ばれてきて、文が席に着いた頃、真澄が尋ねた。
「ねぇ、文さん」
「なぁに?」
今の二人に肩書はない。民宿のオーナーと客ではなく、稲島文と白倉真澄と言う名の二人の女だった。さらに付け加えるならば二人は親しい友人だった。
「もし、親しかった知り合いから久しぶりに連絡が来たら、あなたどうする?」
真澄の言葉を聞いて、文がゆっくりと頷いた。しばらく考えてから、彼女が答えを出す。
「戸惑うかしら。ほら、相手に何かあったのか、とか色々。考えちゃうじゃない」
「何かあった……?」
「ほら、例えば、こんなことは例えでも言いたくないけれど、不幸なこととかさ」
文が言ってチャイに口を付けた。
「どっちみち、その人に対して私たちがしてあげられることなんかないけれども」
真澄が黙って考え込んでしまったのを見て文がするりと付け加える。
「でも、何もできないなりに何かするでしょうね。きっと。だって、親しかった人なんでしょう? 何があったにしろ、いまだに情が残っているはずだもの」
文の視線が痛いくらい真澄に向けられた。
「話を聞いてあげるくらいは私にだってできるわよ」
と言って、文の少し冷たい手が真澄の手をチャイのカップごと握った。
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