ペーパーナイフ
時刻は四時三十二分。デジタル時計の緑色の数字がちかちかと小さく光っていた。
アナログ時計のあの針の音が嫌いだった。だから、真澄がいつも身近に置くのはデジタル時計にしている。
嫌いになった理由は祖母の家にあった柱時計のせいだろう。壊れているのにも関わらず、祖母は頑なに捨てようとはしなかった。今思えば、あの時計が祖父の形見だったから捨てられなかったのだろうと思いなおせるが、子供心に壊れていて一定のリズムを刻めない、変な時刻に狂ったように何十回も鳴くあの時計は恐怖の対象だった。
あの煤けた古い木造の家の記憶と混ざり合って、真澄の記憶の中ではお化け屋敷のような印象さえもある。
脳裏にあの薄闇や、線香の匂いまで蘇ってきて真澄は身震いした。
「ああ、怖い」
今はそんなことを思い出している場合ではない。
西日の差し始めた部屋でまた時計に目をやる。
時刻は四時三十三分。
床に引き摺り降ろされた荷物はくったりと横たわっていた。
食事の時間はまだまだ先だ。もちろんお腹もすいていない。
真澄がまたがさがさとカバンを漁ったが、タバコが出てくることはなかった。そこまで吸いたいわけではない。
カバンの中で指先がラジオを探り当てた。
引き摺りだして、スイッチを入れる。
中盤に差し掛かったラジオドラマがザリザリとノイズを混ぜて流れ始めた。
室内に視線を巡らせると、ベッドサイドに白い封筒とペーパーナイフが置かれている。
一瞬胸がどきりと鳴ったが、そこにそれを置いたのは自分だろうと言い聞かせた。理由のある事象に怯える必要などない。
ベッドサイドに移動すると、手には取らずにその封筒をしげしげと見つめた。五年前の手紙。不思議な感覚がして仕方がない。
何度見ても消印は夫の命日だ。
住所と宛名を書いているその字は間違いなく夫の字であった。
だが、彼はなぜ自宅に向けて、妻であった真澄に向けて手紙など書いたのだろう。
もとより少し変わったことが好きな人だったから、何か意図があるに違いなかった。
薄い封筒を光にかざしてみてみるが、中には便せんが二枚ほど入っているように見えるだけだ。開けるのは怖い。指先で探ってみたが、もちろん中身が指先から伝わってくることはなかった。伝わってきても真澄は困ってしまったろう。
「はぁ、何してんだろう」
封筒を裏返す。
鳥の切手は可愛らしい。こんなに可愛らしいものがあるのかと思ってしげしげと見つめる。
相変わらずセンスのいい男だった。
ペーパーナイフは真澄の傍らに所在なさげに置かれているままだった。
封筒を表に返すと、真澄が前髪の先をさらりと触る。
思考がぐるりと回りだした。長く伸び始めた影の中に、鳥の影が横切っていく。
手紙の中身が全くもって検討が付かなかった。思い当たるものもない。遺言だろうか。それとも、隠し財産の場所かもと緩く考えていくが、そうなると彼が自分が死ぬことを事前に知っていたということになってしまう。きっとそんな不幸なことはなかったはずだ。
そもそも、隠せるほどの財産は二人には無かったろう。あの時の二人にあったものと言えば、買ったばかりのあの一軒家と、彼が義父から受け継いだというボロの車だけだった。その車ですら夫と一緒に旅立ってしまったのだから。
真澄はすっかり置いていかれてしまったのだ。
あの日テレビで見た元の形が分からないくらいにひしゃげて、焼け焦げた車のことを思い出す。
あの損壊具合ならば、彼は苦しまずに逝けただろう。
テレビも好きではなかった。特にニュース番組が好きではない。
夫の死を知ったのはテレビの報道だ。
あの日の光景が写真のようにフラッシュバックする。
炎、タイヤ痕、光、夜空、消防士、警察。
また指先が肥大していく感覚を覚えて真澄は強く目を閉じた。
震えだした手が封筒を取り落とす。
思い返せば、優しい男だった。ひねくれ者の真澄と生涯添い遂げると決めてくれた芯の強い男だった。なのに、強い芯もトラックの重みには負けてしまったらしい。
どうして、彼があんな事故で死ななければならなかったのか。
それともあんな事故だったからこそ死んだとでもいうのだろうか。
下唇をかみしめる。
泣かないと誓ったのだ。
「馬鹿みたいだ。今更……」
彼は自分に何を伝えたいのだろう。
しばらくの間墓参りに入っていなかった。
落ち着かず前髪をかきあげると、時計の表示が目に入る。
時刻は四時四十六分を示していた。
ラジオではタレントが楽しそうに会話を繰り広げている。ノイズは消えていた。
視線が床に落ちれば、自然と封筒が目に入る。普通の感覚に戻った指がそれを拾い上げた。
汚れていないかを確認すると、ペーパーナイフの上に置く。
とにかく、散歩にでも出てタバコを買いに行こうと決めた。
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