第3話
「では、こちらへどうぞ」
七深に案内されて部屋に入ってきたのは、およそ六十代前半ぐらいの背の高い老人であった。
肩幅も広く、若い頃はさぞやモテたであろう……いや、きっと今も現役で女遊びをしていてもおかしくないような、そんな伊達男の香りを漂わせている。
その我の強そうな面構えと好色じみた視線に、この事務所の主である祐玄は心の奥底で不快感を覚えた。
こいつは……たぶんどうしようもないクズだ。
直感的にそう判断しながら、営業用の笑みを張りつけて無言で一礼をしてみせる。
「こちらが当方の鑑定士である十二代目の
七深が祐玄をそう紹介すると、客の顔が怪訝な表情にゆがんでいた。
「君が十二代目の
そして、江戸時代中期の儒学者にして易者である新井白蛾の流れを汲むという、権威を示す名であった。
「間違いなく男ですよ? それが何か」
長い髪を指先でつぃと撫で付けながら低い男の声で答えると、依頼人である二宮教授は毒でも飲み込んだような顔をして目を背ける。
その瞬間、祐玄の顔が瞬きするほどの間だけ悪戯に成功した子供の顔になった。
まるで巫女のように神々しい顔をしていながらも、この男の本性はむしろ悪戯を好む妖魔に近い。
彼の女装癖も、おそらくそんなところから生まれたものだ。
もっとも、それを知っているのは、隣の部屋でマジックミラー越しに様子を伺っていた七深だけであるが。
「し、失礼……その、あまりにも……なんだ、綺麗? あぁ、その……だ」
「ご無理なさらずとも結構です。 たいていの依頼人は、ここで同じような反応を示しますので」
「そ、そうか」
毒気を抜かれた二宮教授のしどろもどろになった台詞を、祐玄は誘いをかける娼婦のように艶のある笑顔で受け流す。
そんな仕草も、性別を理解してなお目を奪わずにはいられないほど美しかった。
「それから、自己紹介も結構。 なにせ、今話題の方ですからね」
テレビを見る人間ならば、この教授が今どのような立場であるかを知らないはずもない。
これが週刊誌の記者やテレビのリポーターならば、即座に教授を質問攻めにする事だろう。
だが、祐玄には教授の抱えている秘密などには欠片も興味がなく、無駄な質問に時間を割く気など欠片もなかった。
「わ、わかった。 それで相談したい内容なのだが……」
「その前に一つ」
本題に入ろうとした二宮教授の目の前に、祐玄は指を一本突き立てる。
そして、静かな声で告げた。
「あなた、呪われていますね」
その言葉は、それこそ呪いの魔法のように部屋の気温を一気に引き下げる。
まるでその言葉が出てくるのを見計らっていたかのように、外から大きな雷の音が響き渡った。
カチカチと時計の針が進む音が聞こえるほどの沈黙。
さすがにまずいと思ったのだろう……失礼しますと声がかかると、ドアが開いてティーセットをもった七深が現れた。
「お客様は紅茶でもよろしかったでしょうか?」
「あ、あぁ、かまわない。 ちょうど喉を潤したかったところでね」
すっかり冷えて強張った手をほどくと、二宮教授はホッとしたかのようにため息をつく。
そして、程よい温度で淹れられた紅茶に口をつけた。
そして場が和んだことに満足し、お盆を置いて立ち去る七深だが、その際にしっかりと祐玄を睨みつけることを忘れない。
祐玄からすれば、教授にかけられた呪よりも七深の視線のほうがよほど恐ろしかった。
「……呪いか。 そういわれると色々と納得できるな」
先ほどの祐玄の台詞を思い出し、二宮教授の目がカップをもつ手とは逆の斜め上に動く。
大まかではあるが、これは過去の視覚的な記憶を探っているときの動きだ。
おそらく、何らかの心当たりがあるのだろう。
もっとも、彼の立場を考えると、人から恨まれることなどいくらあっておかしくは無い。
医科大の教授と言う職は、政治的な駆け引きなしに手にはいるような地位では無いからだ。
「おおかた、今日の相談は最近話題になっている事件のことじゃなくて、あなたのその呪いに関わることでは?」
「その通りだ。 私は今、とても奇妙で不気味な現象に悩まされている」
眉間に深く皺を寄せると、二宮教授は気分を落ち着けるためにもう一度紅茶で唇を湿らせ、そして自らの体験した恐ろしい体験を語りだした。
「音だ。 ビシャビシャと、水たまりの上を歩くような……正確には、霙まじりの中を歩くような音が聞こえるのだ」
「音……ですか。 失礼ですが、精神科には相談されましたか?」
占い師にあるまじき、だがきわめて一般的な返答に、二宮教授はニヤリと意地の悪い笑みをかえした。
そして二宮教授は鞄の中から会議の録音に使うようなレコーダーを取り出す。
「君がそう思うのももっともではあるが、錯覚なんかじゃない。 こうして、ちゃんと足跡が録音できている」
教授が再生のボタンを押すと、激しく
やがて、その激しいノイズのような音の向こうから確かにビシャ、ビシャ、と何かが浅い水の上を歩いているような音が聞こえはじめる。
「失礼ですが、これが本当に姿の見えない怪異の足音という証拠も無いですよ」
祐玄が言葉を返すと、二宮教授の眉間の皺が深くなった。
どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。
だが、祐玄の台詞ももっともであった。
奇特なことだが、激しい
そう、すごぶる不気味ではあるものの、この音だけで怪異は証明できないのだ。
「別に君にこれを怪異によるものだと証明してくれとは言わない。 私が望むのは、この奇妙な現象を止める事だ」
「まぁ、確かに私は科学者どころか、その対極にいるような存在ですからね。
怪異の存在を証明してくれといわれても、それは確かにお門違いでしょう」
不機嫌な教授の言葉に、祐玄は笑みを浮かべつつゆっくりと頷く。
そもそも怪異の信憑性についてなどこの場にいる誰も求めてはいない。
「それにしても……足音の怪というものはたくさんありましてね。
代表的なものが、べとべとさんと呼ばれるものです。
これはいたって無害な
先にお通りなさいと告げると、そのまま去ってゆくと言われています」
「では、私のこの悩みもそうすればよいのか?」
「いえ、霙の降る夜だけというならそれは、べとべとさんではなく、ビシャガツクですね」
「ビシャガツク?」
聞きなれない言葉に、二宮教授は首をかしげる。
その様子に、祐玄はわが意を得たりとばかりにニヤリと笑った。
「北陸の一部に伝わる妖怪ですよ。 いや、本来は妖怪でもないのですけどね」
そこで祐玄は自分の紅茶に口をつけ、さて、どこから説明したものかと思考を巡らす。
すると、まるで物語にあわせているかのように外からパラ、パラ、と白いものが窓をたたき始めた。
怪異の訪れを予感したのであろう……二宮教授の顔がみるみる青くなる。
「雪深いその地方では、霙や雪の降っている夜道を歩いていると後ろからびしゃびしゃと足音が聞こえることがある」
そう、それはちょうどこんな冬のさなかに現れるのだ。
半ばとけた
まるで冬の神の使いが、前触れとして里を練り歩く音であるかのように。
「この現象を、その地域では"ビシャが付く"と呼んでいたのだが、いつのまにか妖怪として伝わるようになったのだとか。
……まぁ、それがビシャガツクならば、これも人に害をなさないおとなしい妖怪なんですがね」
「名前なんてどうでもいい……そいつをはやく追い祓ってくれ」
祐玄の低い声をさえぎるように、二宮教授はいらだたしげに首を振る。
だが、祐玄は面白そうに笑みをつくりつつも、困ったなといわんばかりに小さく肩をすくめる。
「おや、紹介者から聞いておりませんでしたか?
うちは占い師でしてね。 どうすればいいかは教えるが、それ以上の事はしないんですよ」
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