【番外編】海を泳ぐ小鳥─2─


「……この時を待っていました。ついに──と思って良いのですよね、ミヤコタチバナさん?」


 お騒がせな小鳥遊來夢が、どこか緊張めいた、それでいて誇らしげな表情で現れたのは、その日の放課後の事だった。と言うのも、何と都の方から彼女を呼び出したからである。そう、來夢ではなく、都が。

 写真部の活動で良く足を運んでいる校舎裏のフェンス。ここならば、向こうから運動部の掛け声が聞こえるだけで人通りはほぼ皆無なので、かしこまった話をするのにうってつけだと思ったのだ。溜め息交じりに針金の網目に背中を預けると、ギチッと耳障りな音を立てて都を受け入れた。


(……言いづらいな)


 これから行われるアレコレを思い浮かべると、どうにも憂鬱になってしまう。

 何故なら、決定的に自信がなかったから。いいや、言い換えよう、勇気が足りなかったからだ。最後の最後まで、自分が彼女の隣に並び立つビジョンが、どうしても想像できなかった。

 ちらとだけ見上げたその人は、まるでタキシードの蝶ネクタイでも直すかのようにそわそわとセーラータイをいじっていた。……期待を裏切ってしまって悪いと思いながらも、覚悟を決めた都はとつとつと話し出す。


「うん、もう、終わりにしようと思って」

「終わり……? という事は、やはり私と──」

「そうじゃなくて。……止めてって、はっきり言いたくて。だから来てもらったの……」

「……タチバナさんは、私がお嫌いですか」

「そ、そんな事は、ないけどっ」

「では、何がそんなに貴女の枷となっているのです。その心の錠を錆びつかせている原因は、一体何なんですか?」

「…………それは……っ!」


 都はぐっと言い淀んだ。一度はしっかり絡み合った目線を、首ごと無理やり引き剥がす。

 ──嫌いなんかじゃない。むしろ……!

 勝手に喉から飛び出していきそうな想いを、ハートごと両手で覆い隠す。さもなければあの澄んだ目に何もかもを見抜かれてしまいそうで……それが今の都には、堪らなく恐ろしかった。


「……わ、私のことはいいんだよ。そうじゃなくて、小鳥遊さんの為に言ってるの……だってさ? せっかく何でも持ってるんだから、ダメだよ、私みたいな……普通で、地味なのが、君の隣にいたら……。小鳥遊さんが、悪く言われちゃう」

「誰かに、何か言われたんですか」

「……」

「言われたんですね」

「ち、違うよ……これは、私の本心で……」

「そうですか……残念です、タチバナさん」


 と言うと來夢は、至極力なさげに目を閉じた。あの蒼い視線が途切れたことで、都は久方ぶりにまともな呼吸にありつけた。……どうやらこれで、ようやく諦めてくれたらしい。


(諦め……られた……?)


 ワンテンポ遅れて都も理解した瞬間、自身の中でひりひりと、何かが僅かに、だが確かに痛んだ。不思議と時が止まったような感覚の中、恐る恐る都はその痛みの元を探る。

 目の奥? 違う。

 胸の中? 違う。

 じくじくとした痛みの正体──それは、都が都を守る為に包み隠していたはずの、小さなハートそのものだった。


 ──どうして?

 信じられない思いで両手を開く。そんなはずはない、ただ隠していただけだ、大事に守っていただけだったのだから、こんなに苦しくなるはずがない! だが──しかし、そこに現れたのは紛れもなく、擦り傷まみれの小さな心。


 そうして初めて気が付いた。

 この手のひらが、ヤスリで出来ていたことに。


「──本当に残念です。目の前に立つ私でなく、赤の他人の言葉が貴女を動かしただなんて」


 弾かれるようにして顔を上げた。

 ささくれ立った心がひしゃげる。

 何も映さない青が、都の何かを音もなく撃ち抜く。


 まるで違っていたのだ、都の捉えた意味と。

 來夢が言った“残念”とは……今、完全に恋路を断たれた故のものではなく──


(私の、弱さに対して───?)


 ついに見放されたのだ。そう気付いて。

 断たれた恋路に立っていたのは、他でもない自分自身の方だと気付かされて。

 せっかく彼女が蒔いてくれた花の種を、やっと芽吹いてきたばかりのその新芽を、都自身が踏みにじったのだと自覚して──


 守るつもりで包めば包むほど、隠すつもりで覆えば覆うほど悲鳴を上げていたそれは。知らぬ間にこんなに擦れて削れて抉れて傷んで血を流しては、泣いていたのか。


「……ごめんなさい」


 ついに零れた大粒の涙が、都の睫毛を濡らす。

 しかし瞬きもせず見つめ続けたその先には、同じく今にも雨が降りそうな……エメラルドブルー。

 これまで都は、背の高い彼女の綺麗な瞳を、大らかでキラキラとした海や空に例え、密かに憧れ続けてきた。だがしかし、今ではどうだ、その青は。……まるで憂い。何も映さなければ、何も照らさない。どうあがいても悲しみのBLUE。


 ここまでして、ようやく都は初めて知ったのだ。

 感情にも、心にも、色があるのだということを。

 嬉しい時や楽しい時に見る青と、悲しい時や苦しい時に見る青とでは、同じ色でも全く違うのだということを。

 そして、これまで美しいと感じていた來夢の瞳の煌めきは、いずれも自分に向けられていたからこそだったということも……。


「どうして貴女が泣くんです……Why?」

「だって……」

「……タチバナさんは、良くこんな風に仰っていましたよね。『私は取り柄も何もない、無色の透明人間だ』って」

「……う、ん?」

「それが……それこそが……!」


 ガシャッと背中のフェンスが震えた。声を荒げた來夢が一気に歩み寄ってきたからだ。絶対に逃さまいとばかりに、頭の脇に両腕が力強く突き立てられ──


「私が一番欲しいものなんですよ、ミヤコタチバナ……! ナニモノにも染まらないその透明さが! 私には、もうない……だから………貴女はどうか、そのままで……」


 ──無色透明が、羨ましい?



 あんなに綺麗な海も、空も。実は元からあの色なのではなく、太陽の光が片や吸収され、片や屈折され、反射の加減などで青く見えているだけなんだそうな。であるならば、彼女は何ゆえ青く映るのか……どれだけの光を受け、人々の目に眩く残ると存在となったのか……橘都は今、初めて、手を伸ばす。


 小鳥遊來夢という名の、未知に向かって。





 Sometimes you don't succeed no matter how hard you work at it. But I can tell you that anybody who made success in their life worked hard enough to deserve it.

 いくら頑張っても成功しない時もある。ただしこれだけは言える、成功した人は誰でも十分に努力をしたのだ。【ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン】


 これは、音楽史上極めて重要な作曲家として名を馳せた、偉大なピアニストが残したとされる言葉であり、小鳥遊 來夢タカナシラムに感銘を与えた名言でもあった。

 初めてこれを聞いたのは、彼女が小学六年生の時。中学受験を機に、最後となるピアノコンクールが閉会したその直後だった。惜しくも優秀賞──最優秀賞ではない──という結果で幕を降ろしてしまった芸術の秋に、大好きだったスクールの先生が慈しみを持ってこう告げた。


『ベートーヴェンの言葉で、こういうのがある。努力をすれば必ず報われると決まってる訳じゃないけれど、報われてきた人は全員努力をしてきたんだって。だから、君の頑張りは絶対無駄なんかじゃなくて、あと少し、あと少しだけ、足りなかっただけ。それだけさ! 優秀賞、おめでとう! それと……六年間、本当にお疲れ様。先生、感動したよ』


 十二歳の頑張り屋は、その日、声を上げて泣いた。

 敬愛していた先生も、応援してくれた家族や従姉妹や友人らも皆、「おめでとう、ちょっと惜しかったかもだけど、でも充分すごいよ」と褒め称えてくれたその笑顔。本当に嬉しかった。だけど、もっともっと大好きな人達に喜んで欲しかった。眩しくて暖かくて花咲くような笑顔を、もっともっともっと見たかった……。


 だから、小鳥遊來夢は───



 ──“始まり”は、確かに純粋だったのに。


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