【番外編】海を泳ぐ小鳥─1─
それからだ。都の逃走劇が始まったのは。
「夕べは良い夢を見れましたか、マイスウィート? さて……私としたことが、自己紹介がまだでしたよね。改めまして、I'm Rum Takanashi. 小鳥遊 來夢と申します。不束者ですが、末永くよろしくお願い致します。……それでは次に、麗しい貴女のお名前をお聞かせくださいますか? それとお近付きの印に……どうぞ、貴女の為に取り寄せました、薔薇の花束です」
逃げた。
一旦逃げた。
「ようやく見つけましたよ、マイスウィート! まさかふたクラスも離れていたとは思いませんでした。道理で先日初めてお見かけした訳ですね……やれやれ、これも愛の女神・アフロディーテの試練ということなのでしょうか。フフ、障害があればある程愛は燃え上がるとは良く言ったものです。ところでマイスウィート、ガーベラはお好きですか?」
逃げた。
話半分で逃げた。
「フ、フフフフ……ずいぶんとシャイなのですね、貴女は。いえ、Miyako Tachibana. ……ええそうです、失礼ながら調べさせていただきましたよ。何せ、貴女はすぐどこかへお隠れになってしまうから……さすがは私の妖精。まあ、もちろんそんなウブなところも可愛らしいのですが? という訳で本日は、可憐な貴女に良く似たマーガレットを……」
逃げた。
何度でも逃げた。
「う、Wait up! お願いですからそろそろ私の話を聞いてください! どうしてそこまで頑なに私を避けるのですか!?」
「どうしても何も、そっちこそ何で私を追いかけて来るの!」
「それは貴女が逃げるからでしょう、タチバナさん!」
「小鳥遊さんだったよね、前に私が間違って『YES』って言っちゃった事ならもう謝ったじゃない! まだ怒ってるの?」
「違います、怒った事なんて一度もありません! もちろん誤解はショックでしたけど……それでも好きなんです! どうしても諦め切れないんです、私と付き合ってください……!」
「やだー! 諦めてーーー!」
「ああっ、タチバナさーーーん!」
一種のコメディードラマ風なこのやり取りは、あの日から双方飽きもせず毎日毎日続けられた。校則破りギリギリの早歩きで廊下を駆け抜けてゆく都と來夢。その光景はしばらくする内にすっかり恒例行事となり、生徒どころか教師陣にすら完全に見慣れられてしまう結果となった。
最初こそ、「あーあ、またやってるよ」と呆れ笑いを浮かべられたり、「今日こそ決着着くんじゃない?」「どうだか」なんて遠巻きに眺められる程度で済んでいたのが、いつの間にか“都派”・“來夢派”などと勝手気ままな応援チームも生まれていたのには、当人達でさえ大いに驚愕したものだ。
逃げ惑う都を匿う者。來夢に都の居場所を教える者。彼女らの勝敗に食後のデザートを賭け合う者。という感じで、最終的に当時の一年生にとっての完全な余興にまで発展した。まあ、これも一つの青春のカタチと言えば、否定はできないのだけども。
さて。橘都が平凡な少女とするならば、小鳥遊來夢はその全く逆で非凡な少女である。それはもう見た目からして一目瞭然だし、聞くところによると幼い頃から既に各方面に様々な才能を発揮していたとのことだ。……と、改めて色んな逸話を聞いたところで、ようやく都は思い出した。
彼女が、來夢が、我らが学年主席の生徒だということ──と、入学式で堂々と代表の言葉を話していたことを。そういえば、出席番号順に並んでいた眼鏡の自分にとって壇上はそれなりに遠かったので、最後までイマイチ姿を認識できずに式を終えたのだった。
つまるところ、顔良し。スタイル良し。頭脳良し。センス良し。スポーツ良し。器量良し。『天は二物を与えず』なることわざを鼻で笑い飛ばしたところで、ますます違う世界の人だと都は疑問に思ったのだ。
(どうしてそんな、まるで虹みたいに凄い人が、何にもない、無色の私なんかを……)
ひたすらに不思議で。
だけれども、やっぱりどこか嬉しくて。
初めはあまりの非日常に驚愕が勝っていた都でも、これだけ情熱的に求められ続ければ、揺らぐ決意も絆される気持ちもある。
『タチバナさん、一緒にお昼を食べませんか? 今日のAランチのプリンは人気だそうですよ』
『So beautiful……凄い、レインボーの雲なんて初めて見ました。これを貴女が撮ったんですか? ……えっそんなまさか、お世辞だなんてとんでもない! 私はいつだって本気です!』
『もう、タチバナさんはご自分に自信がなさすぎじゃありませんか? もちろん、控えめな貴女も好きですし、三歩下がってアレコレが日本の美徳だったのも存じておりますけれど……そう、もったいない。こんなにチャーミングなのに』
『大事な事だからこそ、何度でも言いましょう。貴女が好きです……I love you,Miyako』
「あぅ……」
一度思い出してしまったが最後、心の反芻が止まってくれずにほっぺがぼっと燃え上がる。堪らず両手で顔を覆った、そんな明くる日の休み時間。
嬉しいやら恥ずかしいやら……と女子トイレの鏡の前で両頬をぺたぺたむにむに触っていると、不意に誰かが入ってくる気配を感じ、都は声もなく飛び跳ねた。もしかしたらまたあの人が性懲りもなく追ってきたのかもしれない、だとしたら今のこのカオじゃ……色んな意味で会えない、急いで隠れなきゃ──と、咄嗟に飛び込んだのは掃除用品ロッカー。元々閉まっているのが常なここならば、パッと見で誰もいないように映るだろうとの判断だ。
そしてそれは正しかった。その誰かは、どうやら先客に気が付いた様子もなく入ってきたからだ。
しかし、間違いも一つある。何と利用者は複数人で、声を聞く限りその中に小鳥遊來夢はいないようなのだ。そうすると、今出て行くのは逆に気まずい。仕方なしに都は、彼女らが出て行くまでの少しの間、息を潜めて待つ事にした。
ぞろぞろという足音と、どこかくたびれた感じの笑い声が聞こえてくる。
「はー、あっつー。ねね、シュー貸して?」
「はい……あーやだなー、着替えんのめんどい。このままジャージで授業出ちゃ……ダメだよね〜」
「てかさー体育の後って着替えるのに休み時間全部使うから全然休めないの何とかしてって感じ」
「ほんとね。あれ、で、何の話だっけ?」
「え? ああ、追いかけっこでしょ?」
──追いかけっこ?
身に覚えがあるキーワードに、何とも言えない嫌な予感を感じた。
「そうそう。マジでいつまでやってんのって。ウケるんですけど」
「あーあ、何か幻滅しちゃった、小鳥遊來夢ちゃん。正直いいなって思ってたのに……あんな地味子ちゃんのどこがいいんだか。ねえ?」
「ねー! ウチの先輩もおんなじこと言ってた。せっかくあんなに何でも出来てカッコいいのにね。しかもハーフだし? 何かもったいなくない? 中身があれじゃあ」
「あんま知りたくなかったよね〜」
(…………うわ)
都の心の、まだ大人になりきれていない部分が、ぎゅっと固く絞られる感覚を覚えた。真上から冷水を浴びせられたかのように、頭が芯から冷えてゆく。
制汗剤のスプレー音と衣擦れ音の間を飛び交う、無邪気な悪意……突如、両肩に重石を乗せられたかのような錯覚に陥った都は、ただひたすらに俯き、唇を結んでいた。
勝手に口から、溜め息が漏れ出ない為に。
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