【番外編】海を泳ぐ小鳥─3─
時は流れ───……
今、來夢は中学三年生。の、終わり頃。
努力に努力を重ねた結果が実り、第一志望の神楽坂女学院へ主席として推薦入学することが決まっていた來夢は、空いた時間を見つけては身の回りの整理をするよう心掛けていた。さて、もういくつ寝ると、新学期。待ちに待った、生まれて初めての寮生活が待っているのだ。不安と希望に溢れた新生活が。
新しい友人は出来るだろうか? 同室の先輩はどんな人だろうか? きちんと授業について行けるだろうか? また誰かの期待に応えられるだろうか? まだ応えなくてはならないだろうか? たまには隠れて逃げたって…………
「ち、違う違う……! 何を考えてるんですか、私は……全く……ハハ」
何か嫌な事を想像しかけたのにゾッとして、來夢は慌ててビニール紐を手に取った。そう、今は雑誌や古い教科書の整理中だ。ついでに余計な思考もまとめて縛って、燃えるゴミとして、すぐにでも、処理を。
(…………あ、これは……)
しかしその時、勉強机の引出しの奥からえらく使い込まれた冊子が出て来たものだから、勢い付けたはずの手がついつい止まってしまった。まじまじ見つめて……確信する。懐かしい、間違いない。これは小学生時代に通っていた、ピアノスクールで使っていた練習ノートだ。日記のようにいついつに何を学んだとか、今日はあの曲のここまで弾けるようになったとか、先生に褒められたとか何とか、とにかく色々なことが事細かく、されど気ままにカラフルに記してある。表紙には拙い筆記体でVol.XVと書いてあった。……つまり十五冊目だ。
「あーそうそう……この頃は、周りよりちょっと違うことをするのが大人っぽくて格好良いと思っていたんでしたね……」
何となく遠い目で、窓の外の青空を見上げてしまう來夢。何というか、若気の至りだ。今にして思うとただただイタくて恥ずかしい……と、うっかり感慨深くなってしまったところで我に帰る。いやいや、思い出に浸っている場合じゃない、さっさと断捨離の続きを…… そうして最後にペラっとめくった見開きにて、想いの殴り書きとも言える英文を視界に捉えてしまった。
『Sometimes you don't succeed no matter how hard you work at it !
But I can tell you that anybody who made success in their life worked hard enough to deserve it !』
そこで來夢は、全てを思い出した。
これが誰の言葉なのかも、どんな時に言われたのかも、どうしてここに書き記したのかも、これを書いた時の自分のぐちゃぐちゃな顔も。
あまりにも有名な、音楽室の壁にある肖像画の主──楽聖、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。そしてあの無愛想な肖像画と共に、スクール時代に良く聴き、良く奏でたクラシックも脳裏に浮かび上がった。
ジャジャジャジャーン──厳か且つ、あまりに大胆な旋律。代表曲は、そう、交響曲第五番。通称───
「“運命”……」
思えばこれが。
小鳥遊來夢という一人の“α”が。
“運命”なるキーワードを改めて……否、初めて心から気に掛けた、決定的な瞬間かもしれなかった。
──
───
「続きまして、新入生代表挨拶。小鳥遊來夢さん」
「はい」
時に人間は、見た目で第一印象の約五割を決めてしまうものらしい。視覚情報で五割、聴覚情報で四割、言語情報で一割。だから例えば、いくら口では楽しいと言っていても顔や態度がつまらなそうであれば、結局見た目での印象を優先して捉えてしまうのだそうだ。これをメラビアンの法則と言う。
「『本日は、私達新入生の為にこのような──……』」
この法則に従い、彼女を初めて見た者は大抵、入学式の時点で彼女をカースト上位に位置付けた。
グローバル化が盛んな近代、外国人の活躍がより身近に感じられるようになっているとは言え、多感な十代にとってそれでも小鳥遊來夢はある種で別格だった。
実は彼女自身も、それは自覚している。
主に中学生の時だ。いわゆる成長期に突入した世代の身体の発達は著しく、皆一気に“大人”へと近付いた。その中でもやはり來夢はAMERICANの血を引いてるだけあってか伸び率が群を抜いており、あっという間にクラスの誰より高身長になった。いや、もちろん背丈だけではない。髪も伸び、身体が女性らしい凹凸を帯びて……一言で、とても美しくなったのである。
男女共に憧れられることが俄然増えた、一足先に大人びた少女。だけれども、心はまだそれに追い付いていない。來夢にとっては自分も皆と同じ“子供”なのに……それを喜ばしいと思う気持ちと受け入れ難いと反発する気持ちが、來夢の中で人知れず競争していた。
しかし最終的に、先にゴールテープを切ったのは喜びである。
『もしもし……今大丈夫? ありがとう。ええ、そうね、久しぶり。元気にしてた? 私? まあ、相変わらずね、普通よ。卒業生を贈る会だとかで少しはバタバタしてたけど……ふふ。それより來夢は今日、入学式だったんでしょう? お疲れ様』
ピアノコンクールのあの日の影響も少なからずあったのだろう。期待に応え切れなかった悔しさをバネに、更なる努力の先で成果を出せた時の周囲の反応。それに伴い生まれる快感。それらが結果的に、來夢の生き甲斐に繋がったのは確かだった。
本当に、確かだったのに。
──“始まり”は、確かに純粋な……
『どうだった? 代表挨拶。緊張とか……まあそうよね。私もあんまりしないんじゃないかしら。……うん。うん。あ、そう、カグジョにするつもり。來夢はもう今日から寮生活なの? ふぅん……。うん、そうなの、それだけまだ悩んでて』
例え先に喜びがゴールしても、レースはそこで終わりではないということに、來夢はしばらくしてから気が付いた。
反発心が遅れて二位にランクインしてきたことで、心のどこかでついに産声を上げてしまったのだ。“期待に応え続けるのに疲れてしまった”と嘆く、幼心が。
『私は通うなら寮が良いって言ってるのに、お父さんは電車通学じゃダメなのかって。ダメって訳じゃないけど……でも寮生だったら毎日の通学時間を短縮できるじゃない? 私の家からだと、カグジョまで徒歩と電車で大体片道三十五分だから……往復で一時間十分。一週間で計、五時間五十分だから、まあざっと六時間でしょ? 一ヶ月=約四週間として、単純計算で二十四時間。だから寮生と比べると丸一日分、勉強時間に差が出来てしまう訳で……』
「………」
『やっぱり非効率的よね、どう考えても。寮費だって、通学費が掛からないことを計算に入れれば案外妥当なものだって、前に貴女が調べてたことを、いざと言う時は私もそのまま説得に使っていいかしら?』
「………」
『來夢? もしもし、聞いてる?』
「え? ……あ、はい。聞いてます、ごめんなさい」
『どうかした? 何だか、疲れた声してるけど』
「そうですか……? 自分ではそんなつもりはないのですが」
『……そう? だけど、そうは言っても少しは疲れが出たんじゃない、今日の今日だし。ってごめんなさい、こんな時に電話しちゃって』
「何言ってるんですか、水臭い。そんなこと全然いいんですよ! 久しぶりに貴女の声が聞けて私も嬉しいんですから、天華!」
本心だ。自分でも驚くくらいにホッとしている。相部屋となった先輩とすぐさま打ち解け(る為の努力をしてい)たところに来た、マナーモードの呼び出しバイブレーション。
画面に表示された、自分に似た境遇のその従姉妹の存在は、ひとりぼっちの來夢の涙腺をうっすらと緩める。
『本当は、お疲れ様って伝えたかっただけなの。長話に付き合ってくれてありがとう。その内体験入学があるから、その時にでも会えたらいいわね』
「そうですね、待ってます」
『じゃあ、お休みなさい。來夢、くれぐれも無理はしないで』
「……Thank you. Bye」
──無理なんて、別に……
通話時間 6:46 と表示されたそれに目を落としながら、來夢は僅かに唇を噛んだ。
何となく室内に戻る気になれず、そのまま当てどなく廊下を彷徨う。窓から見えた空は、グレープとストロベリーのアイスのように美味しそうで……
──皆、私を望んでくれている。どんなハードルだって華麗に乗り越える小鳥遊來夢を。
私も、そんな私を望んだ。皆の喜びは私の喜び。自分でも頑張る自分が大好きだったから、望まれるがままに、望むがままに七色に光った。だから、これで良かったはずなのに。
だけど、いつしか光り過ぎて。いつの間にか、元の色がわからなくなって。
彩る為の筆を洗う度、どんどんバケツは汚く濁ってゆく……そんな当然のことに気が付くまでに一体どれだけ掛かったというんだろう。こんなもの、誰にも見せられない。見せたくない。絶対、見せる訳にはいかない……!
「誰か……いっそ私を、クリアに洗い流してくれたらいいんですけど……なんて……」
──
───
ジャジャジャジャーン!
何度も練習したプレリュード。それが突如、小鳥遊來夢の脳内に鳴り響いたのは、高校一年生の初夏───
読みたい本もない癖に、ただ人目を避けたいが為にフラフラと立ち寄った──逃げ込んだだけの図書室。
そこには、妖精がいたのだ。
本を片手に、本棚を見上げている少女。
朧げな陽射しがふんわりと差すだけの薄明るい空間に、來夢は恐るべし透明感に出逢った。
そう、何色でもない、クリアな少女。
存在感の薄さとか、そういう陳腐な話では断じてない。出逢った瞬間、一目見た瞬間、來夢が思い描いたのは流れる滝が如くのマイナスイオンだ。
來夢の足元から脳髄までを、ゾクゾクとした電撃が駆け抜ける。
それこそ、生まれて初めてオーケストラの生演奏を鑑賞した時のように、本当の意味で身体中が芯から震える程の──感動。迸る情熱。一瞬、逆に全身から力が抜けて、知らぬ間に鞄を取り落としていた。
「…………?」
不審な音に反応したのか、不意に妖精が振り返った。
まるでスローモーションのような感覚の中、奇跡的にしっかりと目が合う。丸いレンズ越しのつぶらな宝石。願望以上の美しさに心臓が強く打ち鳴らされ……かけたのだが、一秒足らずで逸らされた。あっという間に。それはもう、実に、興味なさげに。
──興味がない?
(……私に?)
──もしかして……知らない?
(あの子は、この私に、何も期待していない……!?)
ジャ、ジャ、ジャ……ジャーン!!
フランダースの犬よろしく、半裸の天使が思い思いにラッパを吹き鳴らす。まるでレースの始まりを示す合図のようでもあったそれは確かに、“運命”が扉を叩く音だったのだ。
遅すぎるスタートかもしれない──だとかそんな発想は毛頭ない。心のどこかのバケツすら蹴飛ばして、來夢は一目散に駆け出した。
──そうだ、この人しかいない!!
(きっと、この人だけ……! 混ざり合った私のカラーを、元に戻してくれるのは……!)
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