美味が為に、爆発す─3─


 少しして無事に目覚めた咲夜に告げられた真実は、それはそれは残酷なものだった。


「はあ? 散歩中止!? な、何でですか!」

「あのね、行かせられる訳がないでしょう? 暑さのせいで意識がふらつくなんて、典型的な熱中症の症状なんだから」


 いくら可愛い咲夜の頼みでも、今回ばかりは天華は頑として首を縦に振らなかった。

 犬の散歩をあんなに楽しみにしていた手前、可哀想ではあるがさすがにこればかりは仕方がない。

 約十分前──いつの間にか顔を火照らせていた咲夜が次の瞬間ソファに崩れ落ちてきた時、この世の終わりかと本気で絶望した程肝を冷やしたのだから。


「絶、対、安、静。いいわね?」

「だ、だから、違うんですって! アタシが倒れちゃったのは……」

「……何?」

「うぐ……っ」


 ババっと顔を逸らし、言い淀む咲夜。何かを隠しているのは明らかだ。見たところ元気そうで安心したが、まだまだ油断は出来ないので新しく用意した経口補水ドリンクを飲むよう勧めておいた。ちなみに今、咲夜の額にはひんやりシートが貼られている。天華が冷静に取り乱している間に(?)、母やメイドがテキパキとケアをしてくれていたのは、自身の点数に影響がありそうなのでまだ伝えていない。


「あああもう、散歩には行きたいけど、正直に言ったら絶対調子付かせちゃうだろうし、でもっ、あああ……何よりアタシが恥ずかしいし……!」


 横になりながらうだうだと頭を抱える咲夜に、さっきから何の話かと尋ねてもきちんと答えてくれなかった。こんな時でも秘密主義は相変わらずらしい。

 想いの丈を吐露したばかりだというのに……縮まらない心の距離を感じ、小さく溜め息をつく。その時、コンコンと扉が叩かれた。「お嬢様」──使用人の佐久間だ。


「入ってもよろしいですか?」

「え、ええ。あ、少し待っ──いいわ」

「失礼致します」


 佐久間がガチャリとノブを回すより早く、突然の訪問者に焦り出すより早く、驚くべき俊敏さで咲夜は“スイッチ”していた。つまりはそう、天華が心配するまでもなく、よそ行き用の顔付きに戻っていたということだ。


「あら、瀧本様、お目覚めになられたんですね。良かった。お加減はいかがですか?」

「はい、今し方。お陰様でこの通り、すっかり元気になりました! 本当にありがとうございます。それと、ご迷惑をお掛けしてすみません」

「あらあら、とんでもございませんよ。うふふ。ともかく安心致しました。良かったですね、お嬢様」

「本当に。でも佐久間さん? 念の為、今日の散歩は止めておいた方がいいわよね?」

「あ……!」

「はい、大事を取った方がよろしいでしょう」

「え、でも、でもですね、本当にもう大丈夫なんですよ、私? ほら、夕方だったら大して暑くないじゃないですか。というか、むしろ最初から何ともなかった的な……」

「何ともない人は倒れたりなんかしないわ」


 仔犬を叱るようにピシャリと言い放つと、咲夜は大人しく項垂れた。幻の犬耳と尻尾が見事にしょげている姿が非常にそそる……じゃなくて、庇護欲を刺激する。何も言い返してこないのは、きっと自分でもそれが正論だと理解しているからだろう。


「まあまあ、そんなにガッカリされませんでも。今日のところはしっかりお休みになって、また明日の朝、お二人で行けばよろしいじゃないですか」

「……! わかりました、そうします!」

「ええ、ええ。それではお嬢様、私はこのまま奥様にご報告に行かせていただきますが、何かありましたらどうぞ、ご遠慮なく」

「ありがとう」

「あ、それと、御夕飯のリクエストはございますか?」

「私は何も……瀧本さんは?」

「お任せします!」

「そう……だったら、」


 くるりと向き直った天華は、指を折りつつサラサラと答えた。


「ハンバーグか、カレーライスか、お寿司か、ラーメンをお願い」

「かしこまりました」


 佐久間の足跡がしっかり聞こえなくなった後、早速隣から抗議の声がワンワンと。


「……いやいや、ちょっと、今のリクエストってまさか……!?」

「だって、好物なんでしょう? さっき、自分で言っていたものね、美味しいって」


 ──ああ、くそ、やられた。

 そう悔しそうにグッと口を閉じた彼女に、天華はただニコニコと微笑んでみせるだけだった。





 話は変わるが、天華が中学生だった頃に見た海外のドキュメンタリー番組で、野良犬を保護して里親を探すボランティア活動の企画があった。

 ロクに食餌も取れず、毛並みも酷い有様で、中には怪我や病気になってしまっていた多くの犬達。当然、そのほとんどは人間を信じられず、スタッフがどんなに優しく呼び掛けても隠れ家から出て来ない為に中々スムーズに保護できない。そんな時、100%の確率で用意されるのが、意外や意外、ワンちゃん専用•特製チーズバーガーだった。

 玉ねぎの類は一切入っていない、単純にチェダーチーズとパティーをバンズで挟んだだけの極々シンプルなチーズバーガー。ファーストフードを好んで食べて来なかった天華にとって、テレビ画面に映ったそれは発想すらしなかった未知の手段だった。


 しかし、やはりそこは嗅覚が人間の何倍もある犬。空腹の彼らは軒並み匂いに釣られてひょこっと顔を出し、すぐさま捕らえられてそのまま施設に連れられて行った。その様は、少しばかり可笑しくもあって、助けてもらえたことに胸を撫で下ろしもして。

 その後、施設や里親先でハッピーに暮らしている彼らの姿を見て、天華は改めてニコルとジェーンを大切にしようと心から思ったものだ。


 ──で、何故そんな話を今思い出したのかというと。

 失礼ながら……目の前の光景が、そのドキュメンタリー番組とダブって見えてしまったからだ。チーズバーガーに食い付く野良犬と、ハンバーグカレーにキラキラと目を輝かす咲夜が……。



「とっ……ても、美味しいです……」


 母を交えて三人で囲んだ食卓。その言葉が、天華が見た限りでは、咲夜が唯一零した本音だったように思う。言葉だけでなく表情そのものが、ただあどけない少女のそれになっていた。

 母という第三者がいるのに、余程感動したのだろうか、このハンバーグカレーに。そしてこの場合、私は誰に嫉妬するのが正しいのだろう? そんな風に胸の奥でチリっと弾けた黒い感情は、しかしながらあっという間に払拭された。


 天華の方こそ、感動したのだ。

 好きな人がご飯を食べている姿の、何とも言えない愛おしさに。

 ただ食事をしているだけなのに、それがひたすら愛らしい。良かったね、と。嬉しいね、と。どうにも無性に声を掛けたくなってしまう。


(また可愛い一面を知ってしまったわ……)


 思えば、彼女が何かを食べているのを見るのはこれが初めてだ。強いて言えば、たまに仲間内でちょっとしたお菓子を頬張っているのを見かけた程度だが、その時は特に何も感じなかった。いよいよどういった深層心理が当てはまるのかが気になって……後で調べて──


「何ぼーっとしてるの天華、貴女も早く食べなさい」

「あ……はい」


 ずっと止まっていたスプーンをぎこちなく動かし始める。とは言っても、一生懸命もぐもぐしている咲夜が気になって気になってまともにお皿に目をやれないが。


「瀧本さんのお口にあったようで何よりだわ」

「それはもう……好きなものと、好きなものが合体したので……美味しさも二倍です」

「学校はどう?」

「楽しいですよ」


 もぐもぐはふはふしながら、母と当たり障りのない会話を重ねてゆく咲夜。学校生活の事、生徒会の事、困った事はないか、などなど……話の流れで何か核心を突く質問をしてくれまいかと少々期待したが、それより咲夜のお皿が空になるのが早かった。


「ご馳走様でした!」

「お代わりは?」

「…………!」

「大丈夫?」

「ぇと……だぃ……」

「遠慮しなくてもいいのよ」


 何気ない母の誘いと、金魚のように口をパクパクさせる咲夜。を、交互に見つめる天華。この時、天華は生まれて初めて見たのだった──顔の上下で感情が分かれている人間を。ちなみに内訳は、目がよそ行き用で口の動きが素の彼女である。


「──いえ、もうお腹いっぱいです! 本当に、ご馳走様でした!」


 数秒後、しっかり決断できたらしい咲夜がカッコつけてキラリと笑ったが、その口元にご飯粒が付いている事に気付いた瞬間、天華の謎ゲージは限界を迎えた。


「それじゃあ、頂いたケーキでデザートにしましょうか。ね、天華」

「いえ……私、今、お腹も胸もいっぱいで……」

「ええ? 貴女の方こそ熱でもあるんじゃないの!?」


 余談ではあるがこの日、竜峰家のひんやりシートの備蓄は見事にゼロになったとか、何とか。。





 さて。お泊まり会ともなると、起こり得るイベントは実に様々なものがある。中でも強く意識せざるを得ないのは、何と言っても入浴と就寝だろう。

 例えばここに特定の個人が二人いるとして、更にその間柄がもし普通の、友人で、女子同士なのであれば……もしかしたら意図せず急接近ハプニングもあったのかもしれないが。参った事に、この世界の常識はラブコメディ漫画とは多少異なる。


 長年に渡る人類の研究は、本当に偉大な成果を世界中にもたらした。

 誰でも誰とでも結ばれる──それをストレートに言い換えれば、第一次性の男女、そして第二次性のα・β・Ω、どの組み合わせでも【妊娠可能】という事になる。

 この革命により少子化問題は一気に回復。「結婚したからには子どもをつくれ」とやいのやいの言う古い大人も徐々に減り、幸せの選択肢が増えた事で子どものいない家庭も一般に増えてきて……などなどは、今は置いておいて。


 要するに! 年頃の個人と個人を! 必要以上に密着させるのは! ──不純に当たる!! 当たってしまう!!! 故に……

 今回は、“そういった事態”にならない。

 若干一名は、ずーっと悶々しているが。

 世の中そう上手いこと、よくある青年向け漫画のようにはならない。


 今回は。

 とりあえず、“今回のところは”……



「それじゃ、お言葉に甘えてお先にお風呂、頂いて来ちゃいますけど」

「……ええ」

「えーと……何か?」

「……いえ?」

「目が。視線の圧がヤバいんですが」

「……まあ、」


 否定は、しない。と、もにょもにょ呟いたのは、ギリギリ咲夜の鼓膜に届いただろうか。どっちにしたって、浴場へ続く廊下の角で、入浴セットを持ったお客様の居心地はすこぶる悪そうであるけれど。


「あのね、言っときますけどね。アタシだって全然抜けてたんすからね、お、お風呂とか……そういうの」


 家族ですら、親子ですら、物心付いた時点で互いのプライベートに配慮するようになるのだから、天華と咲夜が別々で入浴するのは当然も当然。むしろ、一緒に入るなんて選択肢の方が元々からして異端なのだ。……既に深い関係ならともかく。


「何か……変な事考えてません? よね……?」

「……ごめんなさい」

「それは何の? な、何の謝罪?」

「む、無理、かも……という、謝罪……」

「その様子じゃ……かもでもないんでしょ、どーせ」


 図星である。ぎくりと小さく跳ねた肩へ、呆れきった溜め息を浴びせられた。それがまた恥ずかしさを煽って、我ながらあまりに直情的で、はしたなくて、咲夜にも申し訳なくて。何だかもうまともに前を向く事すら出来なくなっていた。額から背中に掛けて熱が走りっぱなしで、じわりじわりと嫌な汗まで吹き出てくる始末。

 ──さすがにここまでいやらしいと、嫌われてしまいそうで、恐い。


「で、出来るだけ、見ないようにするから!」

「何を?」

「だから、つまり、お風呂上がりの貴女を……」

「それは……無理では? 結構な無茶では?」

「……薄目で過ごすとか」

「いや……ていうかまあ、いいっすよ別にもう。しゃーないですもん、泊まるってなった時点でちゃんとここまで考えなかったアタシも悪いし。……違うな。アタシが、悪いんだな。センパイが変態だって知ってるのに、ワンコに釣られてこうしてノコノコついてきちゃったんだから」


 変態というまさかすぎる人生初のワードに、「それは違うわ。お風呂上がりだとかは関係ないの。だってそういう妄想はいつもしてるんですもの」と堂々反論しかけて、「いや、そういう問題じゃないわね」とコンマ単位の自己ツッコミの末、結果的に天華は押し黙った。これこそ雄弁は銀、沈黙は金の良い例である。



 と、何だかんだで咲夜を見送り、自室へ戻る途中で佐久間に声を掛けられた。


「そろそろベッドメイクをさせて頂こうかと」

「あ……そう、そうね」


 そうだ。まだそっちの問題もあったのだ。

 一瞬にして天華の脳裏に、見せられないヨ! と言って差し支えないレベルのモヤがかかるが、咲夜さえ目前にいなければ完璧なポーカーフェイスを貫けるのでこの場は事なきを得る。

 そういえばずっと前に、何かの行事で従姉妹でもある小鳥遊來夢が家族総出で泊まりに来た際は、はて、どのようにして一夜を過ごしたんだったか。ああ、確か、いつもの寮の相部屋と同じように──


「前に來夢が泊まりに来た時は、私のベッドを壁際に寄せて、反対側に来客用の折り畳みベッドを置いたんだったわね?」

「ええ、今回もそのように」

「……物は相談なのだけど、佐久間さん」

「はい?」

「ベッドを、隣り合わせにするのは……その、ナシ、かしら」

「…………ナシ、かと」

「そうよね。聞いてみただけだから」


 ダメ元で聞いてみた甲斐があった。おかげでダメージが少ない。セミダブルサイズのベッドを見下ろして、天華は音もなく息をついた。


「お嬢様」

「ん?」

「ええ、何と言いますか。私も久々の事ですので、少しばかり不格好なセッティングになってしまうかもしれませんが、お許しいただけますか?」

「不格好って、ただベッドを端に押して──」


 言いながら、天華はハッとした。驚き様に振り向いた先に、困り笑顔で頬を抑える家族同然のベテランメイド。この人が、久々だから、なんて雑な言い訳を口にする訳がない。例え初めての事であっても何でも卒なくこなしてくれる腕の良さを、天華は幼少の頃よりきちんと理解しているのだから。

 ──つまり、今のはただの、表向きな……!


「だ……ダメよ。良くないわ、やっぱりそんなの……あの娘に、嫌われちゃう」


 一瞬、心の中に棲まう悪魔が「許します」と言い掛けたが、口に出す寸前でギリギリ天使が上回った。


「……大切な存在なのですね。瀧本様は、お嬢様にとって」

「うん……」

「この事は、奥様──貴女様のお母様、お父様には?」

「その内ちゃんと伝えるつもり。だけど、もうバレてる気がするの。お母さん、結構目敏いでしょ?」

「あらあらまあまあ。ですがお嬢様? 実は私めも、おやっと思っていましたよ?」

「佐久間さんも?」

「それはもう、何せお嬢様が來夢様でないどなたかを連れて来るだなんて、初めての事ではありませんか! ご主人様なんて、ご連絡を頂いた日からずっとソワソワしていらしたんですよ」

「嘘でしょ、あのお父さんが?」

「ええ、ええ! この三連休に入っていた、先方とのゴルフの予定をキャンセルする、とまで仰られて、奥様に叱られておりました。うふふ。相変わらずご主人様はお嬢様の事となると……あっ、今のお話は内緒にしておいてくださいませね!」

「ふふ、あはは……うん、わかった。約束するわ」


 佐久間曰く、その会食がある為に、父の帰りは遅いのだそうだ。

 恐らく明日の午前中には全員揃うだろうという話もしながら、二人で一緒にベッドの準備をした。邪魔にならない程度に飾られていたマカロン型のクッションやカカオを模したインテリアなども収納棚にしまい、満足いくゆとりが取れたところで佐久間が退出していく。


「佐久間さんも、瀧本さんをよろしくね」

「ええ、ええ。心得てますとも」

「うん。いずれ、あの娘もウチの“お嬢様”になるから」

「……。お、恐れ入りますが…………それは……些か……お話が……お早い気が、しますが……?」

「え?」

「え?」

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