誰が為に、華は咲く―5―
どの物語も、親友の後押しを得た主人公は無敵というもので。
胸の奥底から込み上げる猛りに身を任せた少女が、自らの運命だと信じて疑わない歳下の少女に追い付くのはとても簡単だった。
「貴女……ちょ、ちょっと、いいかしら?」
「え?ぁ、はいっ?え!?」
息急き切って返事も聞かぬままに手を取り、そのまま一階の空き教室に連れ込むのも。もう離したというのに、その手のさらさらとした柔らかさを思い出して真っ赤に染まる。さぁ、難題なのはここからだ。深呼吸は逆効果。予鈴までにはまだ時間があるが、無論、永遠という訳ではない。天華はポジティブにこんがらがった頭のまま、決着を急いだ。
「あの、まずはごめんなさい、突然連れ出したりして……」
「い、いえ……ビックリしましたけど、全然……それで、私が何か?」
「……昨日!」
「昨日?」
「き、昨日は……ありがとう、ございました」
「……はい?」
双方、各々の理由でフリーズ。
天華は恥ずかしそうに咳払いを挟んで、おずおずと話し出した。
「……。ケーキを……」
「え?もしかして、お店で会いました?」
「!」
と、勢い良く頷いた先輩に、後輩は「ああ」とようやく腑に落ちたといった感じで苦笑した。
「あれ、バイトじゃないですよ」
「え?」
「誤解させてしまってすみません。あそこ、私ン家の店なんです。寮生じゃないんで、放課後とか休みの日に手伝ってるだけで……だからバイトしてる訳じゃなくてですね!」
「……??」
「あれ?……って、そのお話じゃなかった、ですか?」
キョトンと、居心地悪そうに頭をかく彼女。そこまで聞いて、ようやく天華はピンと来た。ヒントは、「カグジョはアルバイト禁止」。つまり答えは、「それなのに働いていた一年生を注意しようと、先輩に呼び出されたのだと勘違いした」──だろう。逆に勘違いさせてしまって申し訳ない。
(というか、普通はそう思うわね)
本当はそんな事微塵も思ってなかったなんて口が裂けても言えないし、思いがけずいい事を知れた喜びで今にもにやけてしまいそうだけれども、ここは歳上の威厳を保つのに全力を注ぐ。
「あー……違うの。驚かせてしまってごめんなさいね」
「ち、違ったんですか、私こそすみません。え、それじゃあ……?」
「あ……私は、ただ、その……」
「……?」
「あ、貴女に……“運命”を感じて……!」
「……は?」
ついに言った。今度こそ固まる空気。そして今この時を持って、天華の心臓は壊れてしまったかもしれなかった。さっきから明らかに沸騰した血液が身体中を巡りまくっている。手先は震え、汗は吹き出し、鼻はヒクつくし、喉もカラカラで。
「っと……お友達?からで、いいから……私と」
正直こうして対峙しているだけでも限界なのに、更にここで愛の告白だなんて少し前までの自分じゃ絶対に考えられない。しかも、何度も言うがこのご時世で口説き文句に“運命”を持ち出すとは。
そりゃあ彼女も、目を点にしても仕方ない…………
「それ、本気で言ってます?」
──え。 と思った時には。もう、遅くて。
改めて見た彼女の瞳に、ぞっと背筋が凍った。
昨日、温かく出迎えてくれた店員は。
今、困惑気味に応えてくれた後輩は。
果たしてこんな眼を、していただろうか。まるで、つまらないものでも見るかのような。まるで、何かに幻滅でもしたかのような……冷酷で、色もなく、感情のない眼差しを───真っ直ぐ向けて来るような、少女を。自分は、好きになったのだろうか。そんな少女に、運命を───?
「はぁ。アタシ、一番嫌いなんすよね、それ」
「…………」
突然一人称も言葉遣いも、雰囲気も何もかもガラリと変わった──そういえば、まだ名前も知らない──少女に怯む天華に、彼女は遠慮なく、心底うんざりとした様子で続ける。
「だから付き合ってくださいって話っすよね?あー、実は結構言われた事あるんすよ、君こそボクのワタシの運命だって。ぶっちゃけもう聞き飽きました。アタシはそんなの今まで誰にも感じた事ないし……そんで、そういう人達って何でかみんな、自分が運命と思ったから相手もきっとそうだろうって、勝手に思い込んでるんすよね〜。ほんと、馬鹿みたい」
「なっ……!」
「大体、今時運命とかってめっちゃ遅れてません?アタシ、ベートーヴェンとかロミオとジュリエットとか、そういう昔の作品でしか聞いたことないっすよ!別にロマンチックなのが悪い訳じゃないっすけど、アタシは全然信じてません。所詮、作り物だと思ってるんで」
そのあんまりな言い様に、天華は為す術もなく絶句した。悲しみやショック以前に、理解が全く追い付かない。ただ、脳が投げた匙が転がる耳障りな音が、空虚に響くだけで。
だが。それでも天華は、何も言い返せなかった。何故なら、「自分が運命だと思ったから相手もきっとそうだろうと勝手に思い込んでいた」から。だって、だって、運命とは……
──そういうものなんじゃ、ないの?
天華は愕然と、目の前の少女を見つめて立ち尽くすばかり。
違和感。それは微かで、でも確かに存在する、拭いきれない小さなしこり。
違和感。今さっき言葉を交わしたその時には、気付けずにいたそれ。
「ねぇセンパイ、思いませんでした?もしアタシが本当に運命の相手だったら、」
「……っ」
「“どうして覚えて貰えてなかったんだろう”って……!」
「…………!!」
───違和感。
『え?もしかして、お店で会いました?』
(……確かに……っ)
それはつまり、彼女にとって自分は記憶にも残らない人物だったという事になる。こっちは昨日からロクに食欲も湧かず、睡眠不足にも陥っているというのに……。
知らなかったとは言え、嫌いな言葉で繋ぎ止めようとしたのが癇に障ったのは謝ろう。でも、だからと言ってどうしてここまで言われなければならないんだ─── 天華は、途方もなく泣きたくなるのを、必死に隠し通して。
「………貴女、それが素なの?昨日とは随分違うみたいだけど」
「え、今その話すか?ああ、まあ……素っちゃ素っすけど、元々、仕事とプライベートは別でしょう。あ、何?今度はそんな子だと思わなかったって言いたいんすか?」
「別に。ただ驚いただけ」
「……そですか。ま、時と場合で使い分けてるだけですよ。ここまで色々崩して話してるのは…………」
「…………?」
「……いえ、何でもありません。すみません」
何か思うところがあったのか、少しの空白の後、彼女はいきなり深く腰を曲げ、謝罪の意を示した。何に対しての詫びなのか──実に色々ありすぎて──天華にはわからなかったが、その気持ちに嘘はないらしい事だけは何となく察する。
「……とにかく。センパイが今、アタシに対して感じてる気持ちって、風邪みたいなモンなので」
と、しばらく何も言えないでいると、これまた飛ばされたとんでもない発言に、心を抉られて。
「今までの経験だと、しばらく会わないでいればその内何でもなくなるはずっす。だから気にしないでくだ……」
「ま、待って!どうして……どうしてそう言い切れるの?風邪みたいなものって、気にするなだなんて……!」
「…………」
慌てて口を挟んだ天華はその時ようやく、体の中心で暴れ回るこの痛みが、悲壮感から産み出された化け物の仕業なのだと知る。
……とにかく、堪らなかった。このまま何も無かった事にされるのは。
「そんなの……無理よ」
たった一日で募ったとは思えない程、膨大で、切実な想い。
それを貴女は、忘れろと言うのか。受け止められもせず、昇華も出来ないままで。「何でもなくなる」ようにしろと言うのか。他でもない、貴女が……
「……今更、信じてもらえないかもしれないけど、私も……本当は、運命なんて信じてなかったわ。証明出来ないアヤフヤな占いの類だとかも、内心、ずっとくだらないと思ってた。でも、貴女に逢って……考えが変わったの。私の中の常識が、一瞬でひっくり返った!」
視界の中の彼女が、やけに波打って見える。必死になって懇願している自分が、結局堪えきれず泣いているのだと理解したのはその時で。
「それくらい……貴女が、好きです」
後輩はただ、黙ってそれを聞くばかり。
「ごめんなさい……こんな風に誰かを好きになったのって、これが初めてで……馬鹿げてるかもしれないけど、本気で運命だと思ってしまった。想いを伝えるのが貴女の迷惑になるだなんて、思ってもなかったの。本当にごめんなさい」
「……はい」
「それでも……悪いのだけど、気にしないでって言われても、その、今は頷けそうになくて……」
「なんかセンパイ、謝ってばっかっすね」
「……」
反射的に謝りそうになった口を噤む。その様子が面白かったのか、彼女が小さく吹き出した。誰のせいでこんなになってると思ってるのよ、と少々イラッとした天華だったが、笑い終えたその瞳から毒素が抜けているのがわかり、静かにほっとした。
そんな彼女は、今までの空気が嘘だったかのように、至って普通に話し始める。
「なんか、センパイって、普通にいい人っすね?」
「そ、そうかしら……?」
「はい。これまでの人と違って、無理やり気持ちを押し付けて来なそうっすし……」
「……そう」
「正直言って、センパイもそういう人なんじゃないかと思って警戒してたっす。失礼な事ばっか言ってすみません、ほんとに」
「それは……いいのよ。私も大して変わらないでしょう」
「いいえ、だからお詫びに、アタシも───私も、ちゃんとお答えしますね」
「!」
その時。ふ、と佇まいが変わった──元に戻った?──のがわかり、言い知れぬ緊張感が天華を包み込む。不安に高鳴る胸が煩い。こうして態度を改めるのは、もしかしたら彼女なりの礼儀の尽くし方なのかもしれなかった。
「ごめんなさい。でも、やっぱり先輩とは、お付き合い出来ません」
「………理由を、聞いても?」
「……。……先輩って、α、ですよね?」
「そうだけど……」
「もしかして、ちょっと濃いめだったりしません?」
「……!」
「…………ですよね。だから、です。」
「え?」
「先輩が、αだからです」
「……は?」
聞き逃した訳でも、言われた事の意味がわからなかった訳でもなかった。が、それでも、天華は強く思った。一体何を言っているんだ──と。
αが蔓延している現代社会で、そのαだから駄目?いやいや、全く理解出来ない。ハッキリ言うが、理由として成立していない、と天華は視線で訴えた。何せそれは要するに、O型だから無理だとか、2月生まれだから嫌だとか、そんなレベルの話である。普通は、好意や嫌悪の対象に上げさえしないもの……
だったら何か、世界人口的に数少ないβやΩの人でなければ恋愛対象にならないとでも……?!
「あ、いえ、正確には、私の事を好きになったαだから……ですかね……?」
「……お願い、わかるように話して」
「そんなに知りたいですか?」
「……」
「どうしても?」
「……どうしても」
「……わかりました」
ふぅ、と溜息を挟み、彼女は語り始めた。
「実は私も、先輩と同じで……血が、少し濃いんですよ」
「αの?」
「いえ────Ωの、です」
「Ω……」
その事実には、純粋に驚かされた。天華のような強いαを「あまりいない」とするならば、彼女の言う強いΩは「滅多にいない」とされる存在だ。極めて稀、と言ってもいい。血液型でいう「RH-」だとか、苗字でいう「
「これがどういう意味かわかりますか?」
「どうって……もしかして、偏見を気にしてる、とか……?」
「……」
「もしそうなら、私は違うわ。今はもう、第二次性に振り回される時代じゃないんだから……!」
「……本当に?」
「もちろん。私の努力、私の判断、私の気持ちに……αもΩも関係ない」
そうすっぱり言い切った天華は、憤慨しかける気持ちと共に、いつしか抱いた屈辱を思い出す。例え何を成し遂げても、例えそれがどんな事でも、天華のαの濃さを知った途端──周囲が浮かべる納得顔が、何よりも嫌いだ。
だから。
「だから、私……そうよ、私なら!ありのままの貴女を……」
「──本当にいい人ですね、先輩」
「……え」
「ほんとは私達、すごく似てるのかもしれませんね……だからこそ、今、」
とても残念です。───と、悲しげな笑みに、予鈴の鐘が降り注ぐ。
開いた口が塞がらない天華は、ゆっくり扉へ向かう彼女を止める事が出来ない。
「どうして私が、先輩が濃いめのαだってわかったと思います?それはですね、今まで告白してきた人……全員、同じだったからですよ。先輩と」
「同じ?どういう──待って、まさか……!」
「そのまさかです」
「そ……そんなはずない!じゃあ、私はただ───」
Ωの彼女に惚れた奴らが皆、濃いめのαという事は……
「負けただけって言いたいの!?“Ωを求めるαの本能”に!」
「はい」
「私が……!それを勝手に、運命と感じてるだけだって……?」
「はい」
「貴女が好きな、この気持ちも全部……!?」
「そうです」
「…………そ、んな……」
淡々と頷かれたそれは、承服するにはあまりにも苦痛で、畏怖で、思わず笑いが込み上げてくる程の───大きすぎる矛盾。
第二次性による区別は必要ない。そんな世間の嘘を自分だけは本当にしたい、そう心に決めていた天華だからこそ。
矛盾を認めない世間で、自分だけは自分で在り続けようと誓っていたからこその、救いのない敗北感────………
「……信じたくないですよね、わかります。自分は関係ないって、振り回される訳ないって、思いますよね……決められたくないですよね、そんなのなんかに!アタシらの“運命”を!」
真っ青な天華を見据えた声色が徐々に強張り、ついには堪えきれずといったように低く吠えた。だがその怒りは、目の前の人物にでなく、もっと広く深いところへ向けられたものだ。
世界、本能、理性、人間…………
「アタシも……っあ、ごめんなさい。ふぅ……。……少なくとも、私はもう信じられません。先輩はどうですか?何も知らない人から突然、君は運命の人だから一緒になろうって言われて、はいわかりましたって受け入れられますか?次々現れる“運命”に、毎回ときめいていられますか?……無理ですよ。だってみんな、私を私と見ていない。だからもう何も響かないんです」
「……」
「……すみません。あまり気にしないでください。仕方ない、で済ませた方がお互い楽な事もありますよ」
『仕方ない』。その言葉は、竜峰天華が竜峰天華たる為のプライドを、いとも容易く握り潰すものだった。
「ね?───それでも私が“運命”だって、本当に言えますか?」
まるで小さい子に言い聞かせるかのような奇麗な笑顔を浮かべながら、ガラリと扉を開けた美しきΩ。そして、力無く崩れ落ちるαに手を差し伸べる事もなく、「あ、そうそう」と振り返りざまに。
「先輩の事、話してる途中で思い出しました。いっぱい買って行ってくれた方でしたよね、イケメンのお兄さんと一緒に。だから、ほんとはここまで詳しく言うつもりじゃなかったんですけど……ケーキのお礼で、サービスって事で」
「…………」
「あの、予鈴も鳴りましたし、そろそろ行かないと……」
「…………」
「先輩?」
「……嘘よ……そんな訳……私が、まさか…………」
気力を失い、呻くようにして吐き出された天華のそれは、もはや単なる呟きでなく、一種の嘆きに近かった。誰に問うた訳でも、明確な答えを求めた訳でもない……それを理解した上で、今一度、少女は少女に近付く。
「……最後に言っときます、センパイ」
俯き、乱れた黒髪が揺れる天華の視界に、青の上靴が映り込んだ──のとほぼ同時に、ぐわっと大きく顔を上げられた。顎に添えられた細い指で強引に目を合わせられたのだと気付くのに、そう時間は掛からなかった。
「アタシの“運命”は、アタシが決めますから」
生意気に言い放ったそのΩは、どこまでも真っ直ぐに未来を夢見ていて。
その光に射抜かれた瞬間、天華の中のどこか遠くで、何かがヒビ割れる音が聞こえた気がした───……
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