誰が為に、華は咲く―2―


 季節は春。晴れやかな昼下がり。入学式シーズンのピークを過ぎる頃、華々しい景色は青青と表情を変える。兄が運転する車の助手席から、天華は秒速五センチメートルで舞い散る桜ノ雨を眺めていた。

 こんな自然と戯れられるなら、やはり寮にばっかり引きこもっているのはもったいない。外出届けなど出さなくても、週末なら好きな時に好きなだけ遊びに行けたらいいのに。

 なんていう風に思った天華だが、その実、本日のお目当ては花ではない。団子だ。花より団子ならぬ、桜もいいけど今はスイーツだ。顔には出さないが、浮かれ気分を抑えきれず、天華は運転手に問う。


「ねえ……兄さん、まだなの?」

「ああ、なかなか車が進まなくてよ。桜に気を取られてスピード抑えてるんじゃねえか?」

「……」

「まあ待てって。この道さえ抜けたら……ほら」


 少々口は悪いが気の良い兄の言う通り、桜並木が建物に隠れるようになってから、爽快なまでに速度が増した。そうして難なく有料駐車場に車を停め、人波に飲まれゆく兄妹。二人としては普通に歩いているつもりだが、その為大勢の目には何やら悠々闊歩している風にでも見えるらしく……誰かとぶつかるどころか、気持ち、道を譲られるように進んでいく。そんな美男美女とすれ違った何人かは、わざわざ足を止めて振り返ったりもするものなのだが……


「あれ、何処だったかな……」

「本当にこっちで合ってるの……?」

「いやいや、確かこの辺りだった、はず……ははは……」


 兄の威厳を保とうと必死な男と、そんな男への睨みを欠かさない女には至極どうでもいい事で。若干苛立ちを覚え始めた天華は大きな溜息を吐いた。


 ───その時だった。


 春風に乗ったえも言われぬ甘美な香りが、天華の鼻腔をくすぐった。それはもう、蜂蜜よりも濃厚で、バターの上を行く上質な、嗅ぐだけで涎が溢れてくるかと思う程の何ともたまらない匂い。

 ──信じられない。 天華は驚愕した。

 例え焼き立てのパイを目の前にしても、パンケーキに熱々のキャラメルソースをかけても、ここまで強く香らない。それを誰より深く理解している天華だからこそ、心底驚いたのだ。


 ──まだお店にも着いていない内から、こんなにも食欲をそそらせるなんて……


(一体どれ程美味しいスイーツなの………!?)


 居ても立っても居られなくなった天華は、ついに兄を置いて走り出した。飲食店が左右にごった返している商店街の中でも何故か途絶えないその香りに、読んで字のごとく吸い寄せられるようにして、走る。走る。追い求める。そしてようやく───


「はぁ、はぁ……見付けた……っ」


 事前に聞いていた洋菓子店……バランスよく配置された観葉植物。メニューの一部が書かれたブラックボード。食品サンプルが並ぶショーケース……そしてこの匂い。間違いない、ここだ!

 破顔する天華の額に、らしくもない汗が滲む。ウォーミングアップもなくいきなり走り出したから?違う。今までにない出会いを目前に、期待と興奮が最高潮に達したからだ。手櫛で軽く前髪を整えつつも、逸る気持ちを抑えきれないまま店内へ入った瞬間──天華は即座に後悔した。

 ぶわっ! 自動ドアを開けた途端、あまりに芳醇な香りに全身を包み込まれてしまったからだ。頭がクラクラする。心の準備が甘かった。兄もいない。ああ、もしこのまま眩暈がして倒れでもしたらどうしよう、お店の人に迷惑がかかってしまう。


「いらっしゃいませー」

「…………」


 ……がしかし、こんなにも犯罪級なスイーツを出しているお店側にもいくらか責任はあるはずだ。何なら今すぐ取り締まった方がいいんじゃないか?いや、それだともうここに通えなくなってしまうから……そうだ、いっそ取り締まられる前に、原因のスイーツを全部買い占めてしまうのはどうだろう。いわゆる、証拠隠滅というヤツだ。ああ、それがいい。いやもう、それしかない。そうだ。そうしよう、さあ、今すぐにでも──……


「……お客様?あのぉ……お客様?」

「……え?あ、ああ……ごめんなさい」


 突っ立ったままの客を不思議に思った店員が首を傾げてくれたお陰で、天華は馬鹿げた妄想から解き放たれた。

 ──危うく何も買えないまま出入り禁止となるところだったわ。本当に、私とした事が。


「ええと……とにかくこの、とてもいい匂いのするケーキは」


ボンヤリとしたままの頭ではあったが、早速匂いの元を特定する為の質問を投げかけ。


「……え───」


 ───息を、飲む。


 どんなに視覚がNOと告げても、嗅覚がそれを許さない。


 天華は知った。

 ……認めてしまった。

 今、目の前に立つ、この……この店員こそが。


「はい、何か?」


 ホイップクリームのような白い肌に。

 チョコレートよりも深みがある髪色の。

 熟れた苺にも似た柔らかそうな赤い唇で。

 ハニーシロップを越えた香りを漂わせ、ニコリと笑うこの可憐な少女こそが───今も尚、焦がれ、願い、欲し、心から求めたスイーツの、その正体───……!


(お……女の子……ッ!?)


 そう!見たところ同い年くらいの、笑顔が眩しく、小柄で、でも出るとこはしっかり出ているエプロンの少女。てふてふ揺れる小さなポニーテールがまた可愛くて、なるほど、猫じゃらしに飛び付く猫の気持ちが何となくわかった気がした……じゃなくて!


 唖然、動揺、困惑、陥落。思考回路は当然ショート真っ只中。

 だけれども、何故か生唾を飲み込んだ天華の脳裏に、先日跳ね除けたばかりの、親友の言葉が蘇った。


『可愛すぎて食べたくなりました──』


(……食べる?)


 くだらない比喩表現。そんなのは百も承知だ。なのに、強く思ってしまう。──ああ……確かに、今なら理解る、と。


(……食べる)


 私も、私は……理屈抜きに、この子が欲しい。手を繋ぎ、抱き締めて、衝動のままに愛したい。全身全霊を掛けて尽くし抜くと誓うから、生涯私だけの物で在って欲しい。


(食べてしまいたい────)


 だからどうか、嗚呼どうか、今すぐ私に……

 その唇を……

 その心を……

 そのうなじを……味わわせて──────


「天華!」

「!」

「ああ!よかった、やっぱここだったか!」


 肩に何かが乗ったかと思いきや、それは快活に笑う男の大きな手のひらで。


「……兄さん?」

「おお、よぉくわかったなぁ店の場所。相変わらず鼻良すぎな、お前。足も速ぇしよ!さっきはマジで焦ったわ。かっかっか!」


 妹に置いていかれた事の何がそんなにおかしいのか(怒ってないならモーマンタイだが)、溌剌と笑い続ける兄。いつの間にか、いや、台詞からしてたった今ここに辿り着いたらしいが、そんな事ですら今の天華にはよくわからない。わかるけど、わからない。

 面白いとか申し訳ないとか、そういう感情を抱く為にはストレージの空きが足りなかった。脳の。


「……」

「ん、おい……何だどうした、顔赤いぞ?具合悪くなったか?」

「え……?ううん、これは……その、は、走ったから」


 混乱、茫然としながらも何とか受け答えできた天華は、確かめるべく触ったその頬の熱さに身震いする。


(どうしてこんなに身体が熱いの……それに私、今、何を考えて…………)


「……そうか?そりゃそうか!じゃなきゃあんなにダッシュで走れねえよな。ったくよー、楽しみにしてたからってあんまはしゃぎすぎるんじゃねえよ。もう高二だろが」


 と、頭を優しく叩いてくれる面倒見の良い兄には悪いが、その心配は見当違いと言う他ない。だって、本当に何ともないのだ、身体なら。むしろ元気が有り余ってると言うか、この熱エネルギーなら冗談抜きでどこまででも走っていけるような気さえするくらいで。

 ……なのに。


「あは。仲が良いんですね」


 その笑顔一つで、ああ……まただ。

 普通で、居られない。

 正常を保てない。

 タツミネテンカが、とろけていく。


 思わずと言った様子でころころ笑みをこぼした店員に、天華はすっかり見惚れてしまっていた。


 ──なんて、愛らしいの……


 今まで出会った誰よりも魅力的だ。美形の遺伝子に囲まれながら生きてきた人生を振り返っても尚、天華は本気でそう思った。


 一方店員は、そんな客の明らかな挙動不審の理由を「子供っぽさを指摘された事による恥ずかしさから来ているもの」だとでも思ってくれたのか、幸いにも特にこれと言った拒否反応も示さずに笑っている。……いや、これはこれで逆に恥ずかしい気もするが…………まァひとまずは良し。天華は顔を──鼻を抑え、改めて前へ向き直った。


「あ……すみません私ったら、お客様を笑うだなんて」

「! だ、大丈──」

「あーいいんすよォ全然!」

「………」

「うっし!じゃあさっさと好きなの選べ、何でも買ってやっからよ!……あ?何だその目は」

「別に」


 突然素っ気なくなった妹に戸惑う男は放って置くとして。天華は口で呼吸を整え、今一度視界に彼女を収めた。と、「あ、そうだ!」と何かを思い出したようなリアクション。


「そういえば先程、いい匂いがどうだとかおっしゃってましたよね」

「忘れてください」

「え?」

「……忘れてください」

「は、はぁ……かしこまりました?」


 手を下ろした店員は、不思議そうに目を丸くして。


「それでは、ごゆっくりどうぞ。お決まりになりましたら……」

「あっ、ま、待って!」

「え?」

「あ……」


 一歩引こうとしたエプロン娘を、離れたくない想いから咄嗟に引き留めてしまった。二の句も何も考えずに移した行動に天華自身が誰よりも困惑しているが、そんな事が言い訳になるはずもなく。


「……あ、そ、そう!どれも美味しそうだから、よかったら……貴女、の、オススメを……」

「え。いいんですか?」

「は、はい」


 一言。たった一言紡ぐのに、すっかり緊張でガチガチだ。


「そうですねぇ……!」


 にこやかにショーウィンドウの前に歩み出た店員は、至極当然、天華の真横に並び立つ。

 ふわり。


「…………っ!?」


 至近距離で放たれる色香に速攻で崩折れる自我の弱さは、まるで繊細なメレンゲ菓子のよう。


「こっちの二つは期間限定なので、是非ともオススメさせていただきたいです。桜色ですっごく可愛いですよね!」

「……はい、じゃあそれを……」

「わぁ、ありがとうございます!個人的にはコレとコレも好きなんですよね〜!」

「ではそれも……」

「────……」

「───────…………」

「……え、そんなに買う……?」


 兄の訴えはあまりに小さく、ついに彼女らの耳に届く事はなかった。

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