遠征の道中、悪夢はより苛烈にイリスをさいなんでいた。

 一夜に二度、同じ夢を見ることもままあった。そのたびに紅紫の炎は熱を増し、煙と腐臭は死の宣告をイリスへと突き付ける。巨躯は濃い影となってのしかかり、陽炎と揺らぐ威容がきらめかせる白銀の牙は、街ひとつを滅ぼしてなお収まらぬ破壊への衝動を、イリスただひとりへと向けているのだった。

「確かに、特徴はよく一致しています」

 イリスから悪夢の内容を聞いたクルムは、慎重に言った。

「特に、翼の裏地が漆黒だというのは、凱旋の時にはわからなかったはずです。輸送の際には折り畳まれていましたからね。偶然でないとは言い切れませんが、同じ竜を見たことがある可能性は高いでしょう」

 もちろん、砦で暮らすようになってからは改めて竜の遺骸を見ることができたが、積極的に観察することはしていなかった。確証はないが、翼の裏地を目にした覚えはない。

「あれは夢ではなく、実際に起こった出来事だと?」

 そう訊くと、クルムは首を振った。予想していた反応だった。

「いえ、それが真実だとするなら、あなたが生きているはずがありません」

 そうだろう、とイリスも思う。いったいどんな存在が、あの天災にも等しい脅威から逃れ得るというのか。

「竜は賢明な存在で、わけもなく殺戮を行うことはありません。ヒューペリアさんひとりを殊更に排除するのも不自然でしょう。推測にすぎませんが、あなたはかつて紅竜を目にし、襲われることはなくとも強い恐怖を抱いたのではないでしょうか。記憶を失ったのもそれが原因で、だからこそ竜の悪夢にうなされるのでは」

 筋は通っていた。しかし、イリスは少なからず違和感を覚えた。当のクルムも、自分の推論にあまり自信は持てていないようだった。

「人が記憶を失うのは、あまりに深く心をえぐった出来事を、忘れてしまいたいと願うからだ。……そうおっしゃいましたよね」

「ええ。人によって事情は異なるでしょうが」

「……なら、よりにもよって一番深く心を痛めたまさにその原因を、どうして夢に見ることがあるのでしょうか。真っ先に忘れようと願ったその出来事を」

 その疑問に、クルムは明確な答えを持たない様子だった。もちろん人の心は繊細で、道理では語り尽くせない機微を持つのはわかっている。イリスとてクルムの推論を否定しきれるわけではなかった。

「今は考えても詮無きことのようです」

 クルムも匙を投げるしかなかった。仕方ないと思った。情報がなさすぎる。ほとんど身ひとつに近い状態でリトに拾われたイリスは、何の手がかりも持ってはいなかったのだ。

 慣れない旅路は執拗に体力を削った。眠れぬ夜を過ごすイリスにとって、それは深刻なことだ。だが、悪いことばかりではない。外の世界を何も知らないイリスは、初めての旅路に強く惹かれていた。

 水平線の果てまで続く荒野、街が丸々ひとつ入りそうな湖、昼も日の光が届かぬ鬱蒼とした森。街道から臨む景色は見たこともないものばかりだった。篝火に囲まれて過ごす夜も、酒を含んだ水の味も、馬のたてがみをなでるのも、何もかもが初めてだ。周りは屈強な武人ばかりで打ち解けることはできないが、訓練かつ食糧確保のために獣を狩る姿、仲間たちと気さくに語り合う姿は目新しく、遠目に眺めるだけでも楽しかった。不眠に悩まされながらも、一週間はすぐに過ぎた。

 ある夜半のこと、夢とうつつの狭間でまどろむイリスは馬のいななきに起こされた。何事だろうかと気になって、寝具をどけ、藍色の長衣をひっつかんで頭から被る。寝ていても咎められはしないだろうが、外がやけに騒々しいのが気になった。

 幌をくぐって出ると、荷馬車の集まる広場は天地をひっくり返したような大騒ぎだった。馬や牛が白目をむいて狂ったようにわめき散らし、武人たちがそれをなだめている。小さな森の近くを行きがかった時、毒虫に刺された馬が暴れるのは見たことがあったが、今はありとあらゆる動物が狂乱と恐怖にあてられていて、イリスは悪寒が背を這うのを感じた。

「起こされたようですね。無理もない」

 いつの間にかクルムが隣に立っていた。

「これは、いったい……?」

「竜が近くにいる証です。人と違って動物たちは竜の気配に敏感で、その脅威を感じ取って怯えます。我々が竜を見つけられるのも、動物が決して近寄らないような場所には必ず竜がいると知っているからです」

 ついに来たのだ。イリスは息を呑んだ。そして、これほど多くの生き物を狂わせる竜の威迫を思った。確かに、同じ生き物と呼ぶのはおこがましいのかもしれない。竜について語るクルムの言葉を思い出した。

「騒がしいですが、寝られるなら寝ておきなさい。馬に慣れぬ我々にできることはありません。それより、明日に備えて体力を残しておいた方がいいと思います」

 言って、クルムは自分の寝床へ引っ込んだ。イリスは逡巡して、もう少し見ていることにする。この鳴き声の中ではとても眠れそうにない。

 野営用の天幕からぞろぞろと武人たちが起き出してくる。見張りに起きていた人数では人手が足りないらしい。男たちのよく焼けた肌と牛馬の毛並みを、揺らめくかがり火が怪しげに照らし出している。馬に蹴られたり、牛に踏み潰されてはかなわないので、イリスは荷馬車の端に腰を下ろして騒ぎを見守っていた。

 そろそろ落ち着こうかというころ、手が空いた様子の武人が近づいてきた。イリスは慌てて髪を束ねて隠す。ここでも、イリスは女であることを伏せていた。

「寝れないか。起こしちまって悪かったな」

 武人は若かったが、ぼさぼさの髪と無精髭のせいでいくらか老けて見えた。幸いに、女であることはばれなかったらしい。

「いえ、大丈夫でしたか?」

「いつものことだ。馬の後ろに回らなければ大事はない。俺も最初は肝を潰したもんだ。……竜って奴は、どれだけ恐ろしいんだろうってな」

「……やっぱり、竜は怖いですか」

 覚悟はしてきたつもりだったが、野生の狂騒が臆病心を急き立てたらしい。いざこの目で見る時のことを想像してしまう。

「もちろん。竜を怖がらない無謀な人間は、ここへ来ることはできない」

 シャムリの主義は、武人ひとりひとりにまで徹底しているようだ。馬鹿な質問をしたと反省する。しかし、続く武人の言葉は意外なものだった。

「……なんて、生きた竜を拝んだこともない半人前が格好つけても締まらねえか」

「え?」

 イリスは驚いて、頓狂な声を上げた。竜狩りには来たことがあるのに、生きた竜を見ていないのは、どういうことなのか。

「まだ若いようだが、そうか、医術師殿の手伝いか。さしずめ、武人は全員が戦いに参加するとでも思ったのか?」

 うなずくしかない。武人は自嘲気味に語った。

「世間的にはそういうことになっているがな、実際は俺なんかが行っても足手まといだ。帰りの荷運びには人手が要るから、数合わせだよ。朝からはここで馬の世話さ」

 部隊は前後に分かれ、後方は支援に回るとクルムから聞いていた。ただ、それでも戦闘には参加するのだと思っていた。武術の練度を見極める目はないが、この武人は体格もいいし、荷運びに甘んじるには勿体ないように思うのだが。

「で、それを知らなかったということは前線か。若いのに大したもんだな。頑張れよ」

 おやすみを言い合って、イリスは荷馬車に引っ込んだ。長衣を脱いで髪をほどくと、暗がりに流れる銀髪が浮かび上がって見えた。懐に銀の髪留めがあることを確かめて、それを握る。いつも寝る前にしていることだった。

 自分は足手まといだ、ただの荷運びだと武人は言っていた。イリスにはそれが不思議だった。シャムリの聡明さは、直接的でないにしろ知っている。彼が無駄な人員を配置することはないはずだ。本当に荷運びだけをさせるなら、運搬の部隊は後続にして、竜を倒した後に呼べばいい。わざわざ大隊を率いればそれだけ行軍は遅くなるし、余計な犠牲を招く可能性もある。そうする理由はひとつ、竜の姿、竜との戦い方を見せるためだ。だというのに、武人は竜の姿を見たことがないという。

(考え過ぎ、かしら)

 竜狩りの勝手もわからないのに、憶測を重ねても仕方がない。寝具に体を滑り込ませて、イリスは目を閉じる。

 夢の中では、今日も竜が待っているはずだった。



 岩がちの荒野が延々と続いている。吹き付ける砂混じりの風は、街で感じるものとは違って冷たく頬を打った。まばらに生えた草木はほとんど枯れたような色をしていて、遮られることのない朝日が黄ばんだ大地をのっぺりと照らしていた。

 街道沿いにしつらえた拠点で支援部隊と別れ、半分ほどにまで数を減らしていた。シャムリはそこから八つの斥候を編成し、周囲を探らせている。イリスはクルムとともにシャムリの指揮する本隊に連なり、斥候の知らせを待つとともに、竜の手掛かりを求めて探索の輪を広げた。

「痕跡が見つかったようですね」

 狼煙が上がっているのを見て、クルムが言った。すぐに本隊がその場へ向かう。着くまでにさほどの時間はかからなかった。

「足跡、ですか」

 同じく岩がちの地面が、ところどころ砕けてへこんでいた。小型の竜と聞いていたが、それでもかなり大きな足跡だ。イリスが寝そべったらすっぽり入ってしまうだろう。それはすなわち、踏まれたら全身真っ平らになってしまうということだ。

「読み取れることは多くあります。わかりますか?」

 シャムリをはじめ、武人たちがその痕跡を検分している。それを遠巻きに眺めながら、クルムが言った。

「竜のおよその大きさと、行き先がわかって……あとは通った時間くらいでしょうか」

 少し考えて、イリスはそう答える。

「初めてならそのくらいでしょうね」

 緊張が流れる部隊の中で、気晴らしのつもりだろうか。クルムは続ける。

「足跡ははっきり歩みを進めていて、途切れることがない。飛ばない竜の特徴です。ただ足が小さい割に歩幅が大きく、地面はつま先にかけて深くえぐれています。おそらく二足歩行の、小柄で俊敏な、手強い相手です」

「報告通り、でしたよね」

 頭領の部屋で交わされていた会話を思い出す。確か、獣竜と呼んでいたか。

「ええ。前もって派遣された斥候は優秀だったようです」

 大きさはざっと馬の八倍ほど、大型に比べて攻撃をかわされやすく、致命傷を与えることが難しいらしい。身の少なさも考えると、あまり割のいい相手ではないという。

「武人に技術が要求されるということでしょうか」

「そうですね、この類は格闘に特化したものが多いので、急所を突くのは至難の業です。……犠牲者が、多く出るかもしれません」

 最後の言葉に、イリスは気を引き締めた。命を繋ぎとめる役目。自分たちの出番があるということだ。

「わたしは役に立てなさそうですが……」

 癒しの導術はもちろん、医術師の補佐もまだ満足にはできなかった。何よりも、命を扱う覚悟が足りていない。自分のことで精いっぱいだった。

「ヒューペリアさんがここに来たのは、あくまで竜狩りを見届けるためです。怪我人の治療は私の領分ですよ」

 うつむくイリスに、クルムは続けた。

「でも、いざという時はお願いします。あなたの導術の爆発力は確かです。……頼りにしていますから」

 蘇生さえ可能にするかもしれないという触媒、油漬けにされた竜の心臓も荷馬車には積み込まれていた。その威力は未知数で、クルムも使ったことはないという。しかし、あらゆる可能性を準備するのが、頭領シャムリの信念だった。

 今一度、イリスは足跡を見つめた。遠くの方で木の幹が倒され、押し潰されていることからも巨大さが窺える。教えられた情報から竜の輪郭を思い描こうとして、曖昧なまま失せてしまった。夢に現れる竜とは大違いだ。だが、紅竜の方もどこか幻想的で、この世のものではないように思われた。弱さを乗り越えるために、竜を現実のものとして理解しなければいけない。

「静まれ!」

 突如、シャムリの指示が飛んだ。よく通る鋭い声だった。

 武人たちは水を打ったように静まり返って、息が詰まるくらいに空気が張り詰めた。何事かと様子を窺い、耳を澄ましているのだと気が付く。イリスが真似ると、低い地響きが耳を打った。

「第三隊はここで待機し、他の部隊と合流し次第ついて来い。本隊は続け!」

 燃えるような赤銅色の髪をなびかせて、シャムリが馬を駆けさせた。騎馬もまた勇猛で、怖気づくことなく地面を蹴る。鬨の声を上げながら、すかさず武人たちが続いた。

 一様に黄味がかった荒野で、竜槍の穂先が星のように輝いて見えた。紅や紺、翠といった色とりどりの流星が宙を走り、乾いた風を裂いて遠ざかっていった。

 イリスを乗せた荷馬車も後に続く。速さは違うが、見失わなければついていける。幸いに見渡せる範囲は広い。残った部隊は、紺にたなびく狼煙を上げて斥候を呼び戻している。

(竜狩りが、始まる)

 イリスは息を呑んだ。砂の中に、いがらっぽい煙の匂いが香った気がした。



 はじめ、それは岩のように目に映った。

 夢に見る紅竜と違って、華々しさはない。濃い灰色の鱗へ苔むしたような紫が混ざり、叢林にたたずむ巌を思わせる。それが身じろぎして初めて生きているとわかるほど、静かで厳かな威容だった。

 まだ遠く、イリスの目に仔細はわからない。ただ、想像とあまりに隔たっていることは確かだ。竜は荒ぶる怒りの性を持つものだという、夢の中での印象がぬぐえないでいた。

 本隊はシャムリを含めて数えるばかりになっていた。ざっと見積もって二、三十人。若者はおらず、いかにも歴戦の風格をたたえた厳しい壮年の男たちばかりだ。昨晩言葉を交わした武人のように、若輩者は後塵を拝する習わしなのだろうか。

 シャムリ率いる武人たちは、音を立てぬよう慎重に馬を歩ませていた。こちらから見える以上、向こうからも見えるはずだが、竜は巨大な分鈍感だという。ただ、気づかないふりをしている可能性もあった。

 あつらえ向きに岩が少ない平地で、馬を駆けさせるには都合がよかった。少し隆起した丘の上に、イリスが座る荷馬車が停めてある。クルムも傍にいて、数人の武人が槍を掲げて護衛についていた。

「気分はどうですか?」

「大丈夫です。……逆に怖いくらい、落ち着いています」

 凱旋で遺骸を目にした時の動揺が、なんだったのかと思うほどに冷静だった。しかし前後不覚になっていないだけで、気持ちが高ぶっているのは確かだ。未知の存在を前にした時の、好奇心と恐怖がないまぜになった緊張。武者震いとは、こういう心の動きを言うのだ。手が汗ばんでいくのを感じた。

「何か、探しているんでしょうか」

 クルムが言った。ずしりと重い足音を鳴らしながら、竜は巨大な頭を巡らしていた。その様子は、確かに探し物をしているようにも見える。

「それが、『目的』でしょうか」

「おそらくは。竜が求めるものなど、まるで心当たりがありませんが」

 クルムがそう言うのだから、イリスにわかるはずがない。考えるのを諦めて、そのまま竜の動向を注視する。

 しばらくして、地響きのような低いほえ声がこだました。

 竜が自身に仇なす存在に気がつき、駆け出した。迎え撃つ狩人たちは全速力で馬を駆けさせ、竜の眼前で二手に分かれた。挟撃するつもりだろう。

 近づくにつれ、竜の姿が見て取れるようになった。まず目につくのは口蓋からはみ出して伸びる牙だ。丸太のようで、実際はよほど太いだろう。牙は鱗よりさらに硬いというから、その破壊力は想像もできない。鱗は平板状で、鎧のように体を覆っている。

 そして、驚異的に足が速かった。武人の駆る騎馬より倍は速い。走る衝撃で地面が割れんばかりに揺れ、離れて立つイリスでさえ足元がおぼつかなかった。人間でいう太ももの部分が大きく膨れ上がり、並々ならぬ脚力を生み出す筋肉が埋まっているのだとわかる。それに比して前足は小さい。上半身を前に倒し、尾を振りながら平衡を保っている。牙を前に突き出した、突進の姿勢だ。

 その突進をかわしつつ、武人たちはうまく側面に回り込んだ。すれ違いざまの一瞬に竜槍がきらめき、無数の光芒となって突き込まれる。一拍遅れて、甲高い金属音が響いた。竜は傷ついた様子がない。

「……弾かれた?」

「当然です。竜鱗の硬さは竜鱗と同じですから」

「そんな! ならどうやって倒すんですか」

「うまく鱗の隙間に穂先をねじ込むか、鱗がいびつになっている『逆鱗』を探して狙うしかありません。それで初めて傷をつけることができます」

 気の遠くなるような話だ。本当に太刀打ちできるのか。

 竜が反撃に出る。突進をやめて身をよじり、予想だにしない早さで反転すると、尻尾を勢いよく薙ぎ払った。武人たちは素早く距離を取っていたが、その騎馬が一頭、血しぶきをあげて倒れた。尾の先がかすったようだ。竜鱗は至高の防具でありながら、何をも裂く刃でもあることを、イリスは思い知った。

 砂埃が上がって、攻防の一挙一動までは見えなくなった。武人たちはつかず離れずの距離を保ちながら、小回りのきく動きで竜を翻弄している。一方で、竜は体格の割に俊敏とはいえ、どうしても馬の動きには一呼吸遅れてしまう。最高速で勝っていても、小振りな動きでは追いつけない。その弱点をうまく突いていた。

 牽制するだけではなく、時に思い切りよく竜へと殺到し、突きを見舞って離れていく。その攻め際と引き際を見極めた采配は見事と言う他ない。竜も攻撃を試みるが、全てが空振りに終わった。

「馬がやられた時、これは敵わないと思ったでしょう?」

 クルムが聞いてくる。イリスは素直にうなずいた。

「……私は逆に、戦いをかなり有利に進められるだろう、と思いました。どうしてだかわかりますか?」

「……間合いをつかめたから、ですか?」

 イリスは答えた。馬は尾をかすめて死んだ。ということは、その距離こそ立ち入ってはならない竜の間合いのはずだ。

「その通り。頭領は彼我の間合いと隙とを計算して指揮を取ります。別な攻撃手段もあるでしょうし、油断はなりませんが」

 クルムは戦況をつぶさに観察している。怪我人の数と度合を見極めるためか、あるいは単に退屈を紛らすためかもしれない。俯瞰的に見られる分、ひょっとして武人よりも戦術や竜の行動には詳しいかもしれない。イリスは気になったことを尋ねた。

「あの、竜が警戒しているように見えるのは、気のせいでしょうか」

「どういう意味ですか?」

「初めに突進から切り返した時に比べて、少しだけ反応が遅い気がします。騎馬が離れていく時も、すぐには追わずに周りを確認しているような……」

 クルムは神妙な顔をして、竜の方を見る。

「よくわかりましたね。私にも違和感はありましたが、何とはわかりませんでした。頭領が気づいているといいのですが」

「今までの竜狩りでも、その、竜が警戒するようなことは?」

「ありませんでした。確かに竜は聡いですが、だからこそ人間との力の差を認識しています。手加減なく、全力で相手をするはずです」

 とすれば奇妙なことだった。人が羽虫を叩き潰そうと思ったら、何を警戒することがあるだろう。それと同じはずだ。

「探し物、でしょうか。いえ、戦いよりも優先されるとは思えませんが」

 砂煙が薄くなっていた。竜の猛攻は弱まり、何かを感じ取った狩人の部隊も警戒して深追いを避けているようだ。少しずつ、何かがおかしくなり始めている。

 しばし考えて、はっとした。竜は進んで人を襲うことはないという。ならばどうして、武人たちの部隊に気づくやいなや、突進をもって迎えたのか。そこに求めるものが、探し物があると考えたからではないか。

 ——わたしだ。

 理屈でなく、直感的に理解した。

 ——探しているのは、わたしだ!

 世界の崩れる音がした。眉間にくさびを撃ち込まれたような衝撃が走った。竜の殺意。夜の闇よりなお暗く、真夏の陽よりなお燦然と輝く双眸がこちらを見据えていた。見つかった。手遅れだ。何もかも。

 竜が駆けながら、大地に巨大な牙を突き立てる。轟音とともに地面が水面のように揺らいで、立っていられなかった。もうもうと砂煙が上がり、その中に白い光がひらめく。

 地鳴りと共に大地が裂けた。裂け目はみるみる広がって、土砂を飲み込みながら武人たちに迫る。落ちる者こそいなかったが、竜と部隊との間に亀裂が割り込んで、追いすがることは敵わなかった。一方で、イリスと竜を隔てるものは何もない。

「逃げて!」

 揺れが収まるなり叫んで、イリスは一目散に駆け出した。誰かを巻き込むわけにはいかない。リトの傷を思い出しながら、それだけは絶対に駄目だと思った。引き留めようとするクルムに、来ては駄目と怒鳴り散らす。その足が止まるのを見るや、脇目も振らずに走った。

 黄ばんだ荒野は果てることなく続いていた。イリスはたった一人、その雄大な懐に駆け込んでいく。しかし今や、イリスが踏みしめる大地そのもの、砂粒ひとつに至るまでが、イリスに明確な敵意を向けている。竜が、大地を統べていた。

 足元が震える。竜の足音が近づいてくる。



 いつしか、自分の吐息しか聞こえなくなっていた。合わせ鏡のような景色はいつまでも変わることがなく、自分が歩を進めているのかすら定かではない。頭の芯がちりちりと痛んで、今にも焼き切れそうに感じた。

(来る!)

 無意識のうちに察して、イリスは振り返った。

 竜の巨躯がそこにあった。二本の牙をイリスに向け、低くうなりながら駆けてくる。鱗は紫を濃くして輝き、特にその縁がいっそう色づいて花弁のようだった。さっきまで見なかった前脚に、鋭い爪がぎらつくのがわかる。細く開いた大あごにも整然と歯が並んで、ひとつひとつが獰猛に輝いていた。

 竜は地響きとともに砂の風を連れてきた。その姿は黄金にけぶり、牙の発する光が砂塵の鎧を輝かせる。さっきの地割れといい、特別な力が宿っているに違いない。導術だ。岩や砂を操るものまであるとは、思いもよらなかった。

 砂粒をもろに吸って、イリスはたまらず咳き込んだ。目にも入ったらしく、涙が溢れ出てきた。ともかく逃げなくてはとがむしゃらに走り出した途端、地響きに足を取られて倒れ込む。膝を擦って血がにじんだ。揺れは収まる様子がない。立ち上がれなかった。

(死んじゃ、駄目だ)

 胸に冷たさを感じた。服の内に吊り下げた銀の髪留め。リトとの約束。鳴動する地面にかじりついて、何とか顔を上げた。

 イリスにとって、死そのものの姿がそこにあった。

 天を衝いて伸びる双牙は、渦巻く砂塵を纏って白光を放ち、砂の削れる異音を奏でていた。大木のような両脚がうなりを上げて大地をとらえ、そのたびに地面が意志をもって波打つ。低い咆哮が亀裂と化して、イリスが座り込む場所を切り離した。生を奪う乾いた砂の香とともに、眼前へ灰紫の重鎧がそびえ立つ。

 そして、その目がイリスをとらえた。

 幾度も夢の中で相対し、屈服してきた、あの目だった。あらゆる闇を溶かし込み、何よりも真に邪であるために、いっそ聖なる厳かさを宿す瞳。

 全ての匂いが消えた。全ての音が遠ざかった。全ての光が失われた。幻の顕現に、イリスの心臓が跳ね上がる。胸は熱を帯び、代わりに手足は死んだように冷めていった。体を支える力が抜け、情けなく倒れ伏した。

 しかし、今や少女は無力ではない。

(死んじゃ、駄目だ!)

 盛った血脈に、一対の指輪が応えた。力を振り絞って、イリスは長衣を脱ぎ捨てる。紅と藍の輝きが閃光となって辺りを満たした。素早く指へはめた瞬間、火炎と氷雪が解き放たれ、爆発とともにイリスの体を押し上げた。

 轟音。今の今まで這いつくばっていた地面を、竜の双牙が一撃のもとに貫いた。その頭上へと高く放り出されたイリスは浮遊感と恐怖に耐え、炎と氷の腕を振るう。その狭間に風を巻き起こしながら、相異なる二つの奔流が螺旋となって降り注いだ。

 それはあやまたず竜の眉間をとらえ、炸裂して白煙を上げた。反動でイリスは横薙ぎに弾かれ、地面に叩きつけられる寸前のところで、雪に体を受け止められた。咄嗟に伸ばした氷の腕が、イリスを救ったのだった。

 めまいにも負けず、イリスは急ぎ竜の方を見やった。蒸気を牙で薙ぎ払いながら、ちょうど竜がこちらへ振り返ったところだ。その目にも、イリスはひるまない。戦うしかないと腹をくくっていた。

 休む間もなく、竜は突進を仕掛けてきた。イリスは武人たちの立ち回りを思い出す。竜の動きは小回りが利かないはずだ。回り込むように走り、立て続けに背中側で炸裂を起こした。小さな爆風は体を押し出し加速させるも、イリスは何度も転びそうになる。だが、竜の速度には何とか迫っていた。

 側面を取り、再び炎と氷の螺旋を放つ。体制が整っている分、制御は容易かった。

 炸裂音と白煙。イリスは二つの指輪へと全身全霊を注ぎ込んだ。無茶な走り方をしたせいで、足が使い物にならなくなっていた。これが最初で最後の機会だ。内なる力がほえ立て、獰猛な獣性とともに二筋の光となって跳びかかる。蒸気は瞬く間に竜の巨躯を覆いつくし、立て続けの炸裂に岩の慟哭がこだました。一瞬とも永遠ともつかない間、イリスは必死に二つの腕をかざし、力を注ぎ続けた。

 爆発音に混じって別の音が聞こえると気づいたのは、擦り切れた集中が限界を訴え始めたころだった。地鳴りのように低い音、竜のほえ声。それが苦悶の叫びか、猛り狂う声かはわからなかった。いずれにせよ、イリスにできるのは精神と体力の全てをもって攻撃を浴びせることだけだ。

 突如として、白煙が弾け飛んだ。

 何が起こったかわからない。視界は黄ばんだ土砂で一様に塗りつぶされていた。竜の姿は、猛攻の痕跡は、どこへ消えたのか。

(まさか)

 はっとなって、イリスは視線を上向けた。そこに輝く灰紫の姿。

 竜は、自身の足元を丸ごと隆起させていた。イリスが見たのはせり上がった大地そのもので、煙を散らかしたのもそれだった。そして、高みからイリスを睥睨する竜の体には、傷のひとつもついてはいなかった。

(そん、な……)

 岩をも砕く螺旋の光芒とはいえ、竜の鎧を穿つにはまるで足りなかった。動くこともできず、打ち倒す術もない。必定の死。イリスの目の前を、絶望が覆った。

 牙に純白の光を集めて、竜が雄叫びを上げる。屹立する即席の断崖が一斉に崩れ落ち、殺意をたぎらせてイリスへと迫った。竜自身も輝く牙を向けて突進してくる。逃げ場はどこにもなかった。頭の中に焼き切れるような痛みを感じながら、イリスは眼前の死をただ受け入れるしかない。

 固く目をつむった瞬間、体が浮き上がるのを感じた。

(リト、ごめんね)

 時間が引き伸ばされる感覚。一瞬が永遠に、永遠が一瞬に収束していくのがわかる。届くはずのない懺悔が幾度も反響して、涙の粒に変わって霧散した。頭痛が強くなる。夢で聞いた笑い声が蘇ってくる。頭の中が真っ白に塗りつぶされていって……

「てめえ、なんだってこんなところにいる!」

 叫ぶ声を聞いて我に返った。はっと目を見開くと、抱えられていることに気が付いた。

 夜闇を紡いだ髪、鏡の色をした瞳。

「レアス?」

 訊き返した途端に、幾度目とも知れない地響きが耳を打った。間一髪、助け出されたのだ。イリスは目をしばたいた。

「どうしてここに?」

「先に訊いたのは俺だって言ってんだろうが!」

 怒鳴り散らして、レアスは強く地面を蹴った。同じ背丈の人間を運びながらも、その速さは尋常ではない。砂煙がみるみる遠ざかっていく。頭がぼうっとして、夢でも見ている気分だった。

 しばらく離れてレアスは立ち止まり、辺りを見回して舌打ちをする。見渡す限り一面の砂地で、隠れる場所は見当たらなかった。イリスはされるがままに横たわり、レアスの顔を見上げる。怒りと焦燥がありありとして、目には獰猛な光が宿っていた。

「ここにいろ。あいつは俺がやる」

 言って、レアスは長刀を抜き放った。その刀身は艶めく漆黒で、レアスの髪と同じ色をしている。擦り切れた若草色の長衣を脱ぎ捨てると、革鎧と厚布に覆われた体躯が露わになった。

「待って、無茶は止めて!」

 行かせるわけにはいかない。自分のせいで誰かが死ぬのは嫌だ。

「死にたくねえなら黙ってろ! 目の前で死なれちゃ寝覚めが悪ぃんだよ!」

 その言葉に、イリスは息が詰まった。自分と同じだ。その意志を否定できなかった。

「離れちゃ駄目! 竜の狙いはわたしよ」

 だから、尚更行かせるわけにはいかなかった。離れては、守ってもらえなくなる。

「なんだと? くそったれ!」

 レアスが足を止めた。悪態をついて、長刀を構える。姿は少年のそれだが、充実する気迫の並々ならぬことが、イリスにもわかった。

 大地を持ち上げて、竜が三度咆哮を上げた。今や大地は海であり、その波を導くのは一対の牙だった。盛り上がった土砂が、岩石が、ひとつの生き物としてうねり、雄叫びと共に雪崩れ落ちてくる。

 迎え撃つレアスの背中には、激情がくすぶっていた。



 刹那のうちに、漆黒の長刀が三筋の影となって疾走した。鋭い音とともに岩が弾け飛んで、風切るうなりを上げながらイリスの真横をかすめていった。

 レアスはイリスを片腕に抱えながらも、怒涛の剣捌きで砂塵を振り払い、向かい来る石つぶてを打ち落とし、岩の塊を切り裂いて竜へと迫った。レアスが体をひねるたび、内臓全部が吹き飛びそうな衝撃を受ける。イリスは歯を食いしばってそれに耐え、かろうじて意識を保った。

 竜との距離は一瞬で詰まった。砂塵に巻かれた双牙が、灰紫の鎧が露わになった。レアスは竜のそれにも負けない雄叫びを上げながら、重層鎧の威容へと肉薄する。殺到する岩盤のわずかな隙間を縫い、牙の間を駆け抜け、あごの下へと潜り込んだ。爪の一撃を避けると、花弁のように美しく、それでいて何より硬い竜鱗が二人を押し潰そうと迫った。レアスは腹の下を駆けながら、大地をにそびえる後脚へと渾身の一刀を叩き込んだ。

 半身に熱いしぶきを受けた。鱗に覆われた腹が傾いた。何が起きたのかまるでわからなかった。竜の鳴き声が聞こえる。今までとは違う、絞り出したような声。

 地面と竜の腹との隙間を滑り出て、二人は勢いのままに砂地へと放り出された。革鎧の削れる音がざりざりと響き、どうにか止まると、レアスはイリスを下ろして立ち上がる。

 イリスは半身に被った何かを検めた。たぎるように熱い、真っ赤な血液。自分のものでも、レアスのものでもない。信じられなかった。まぎれもなく竜の血液だ。レアスが黒刀を振り払うと、その滴が砂に染みた。

 竜が、大地を統べる災厄が、膝を折って屈服していた。二人へと恨みがましい視線を向けていた。イリスは唖然とするしかない。竜鱗さえ切り裂く刃、人間離れした身体能力、疾風に等しい剣の冴え。目の前に立つ少年は、何者なのか。

「まだだ。とどめを刺さない限り、じきに治る」

 レアスは身構える。見れば、竜の脚からほとばしる血は勢いを弱め、剥がれた鱗の下で真っ赤な肉が盛り上がっているところだ。竜は再生能力を持っているとクルムが言っていたが、まさかこれほどのものとは。鱗が生え変わる気配を見せないのが、せめてもの救いだった。

 地面がぐらつく。この隙に斬り込もうと踏み出した、レアスの足が止まった。

「足が動かねえなら、足場ごと動かすってわけか、畜生が!」

 その言葉通り、竜はまた岩盤を波と成して持ち上げた。立ち上がれずとも、竜は岩の波に乗ることで移動できる。

 しかし、それはイリスにとっての光明だった。

(竜鱗は無理だけど、足場なら!)

 イリスは両手に力を集めた。熱きと寒きがすぐに応じる。炎と氷をつかさどる大蛇がとぐろを巻き、風のいななきを孕みながら突進した。相反する二つの輝きはたちまち岩の塊を吹き飛ばし、その上へ鎮座する竜の体をぐらつかせた。

 しかし、竜も負けてはいなかった。足場が崩れるにまかせ、そのまま二人の方へと滑り落ちてきた。その勢いはすさまじく、とてもイリスの導術では押し返せそうにない。

 歯ぎしりをした時、レアスが笑うのがわかった。

「その力、借りるぞ!」

 言うなり、レアスはイリスの放つ螺旋へと跳びついた。あっと思う間もなく、レアスはその左手を力の奔流に突っ込む。何を、と言いかけた瞬間、イリスはその答えを目の当たりにした。

 レアスの手の中で、二筋の光が闇へと変じた。双頭の大蛇が瞬く間にその闇へと飲み込まれ、沈黙する。

「止めるなよ!」

 叫びながらレアスは刀を放り出し、両手に凝り固まった瘴気を紡いでひとつの塊へと練り上げていった。それは長刀と同じく、レアスの髪と同じく、艶やかな夜の色に輝き、目の前に壁となってせり上がる。導術だ。イリスは直感する。もう何に驚いたらいいかわからなかった。

 直後、驚天動地の衝撃が二人を襲った。

 黒壁が牙を弾いた。しかしそれを支える岩盤の方が耐えきれず、イリスはほとんど水平に吹き飛ばされた。空中で砂礫が激しく体を打つ。無心に氷の腕を振るって、イリスは雪へと体を投じた。

「仕舞だああぁっ!」

 霞む視界の中で、刀を振り上げるレアスの姿だけがはっきり見えた。それは吸い込まれるようにして竜の眉間へ降り立ち、漆黒の刃を突き立てる。

 竜の目が、牙が、鱗が、ゆっくりと光を失っていく。それ以上に早く、視界から光が失われていく。

 巨体の崩れ落ちる音とともに、イリスの意識もぷっつりと途絶えた。



 塗りこめた闇の中に、ごくごく細い翡翠の光がさまよっていた。砂の匂いの中に、ごくごくわずかな草の香がした。体が燃え立つようだった。頭の芯が焼け切れそうに痛んだ。

(……足りない)

 その光を、匂いを、潤いを欲していた。その欲望は何にも勝り、狂おしい衝動となって心をかきむしった。欲しい、欲しい、欲しい。獣のような声が湧き上がる。誘うような光の方へ、本能的に、ゆっくりと、手を伸ばす。

 それが、指に触れるのを感じた。光がほとばしった。

 イリスは目を見開いた。翡翠の指輪が閃光を放っている。渇望していた光が、匂いが、潤いが、一度にイリスの体を満たした。目が潰れそうなほどの光を、イリスはまっすぐに見つめ、受け入れる。全身の熱が洗い流され、いびつな肢体と内臓が溶け落ちて、正しい形に収まっていく。体を支える細い糸が正しく縒り合されていく。

 大きく息をした。もう呼吸は楽になっていた。眠るように弱まっていた拍動が、一気に力を取り戻して高鳴った。体中が息を欲している。翡翠の光が弱まっていった。

「ヒューペリア、さん……?」

 枕元に、声をかける姿があった。木肌のような薄茶色の肌に脂汗を浮かべた若者の姿。

 クルムは、右手の指を押さえながら立っていた。自分の手を持ち上げると、翡翠の指輪がそこにある。無意識のうちに奪い取ったのだ。イリスは理解して、申し訳なくなった。

「まさかとは思いますが……治ったのですか? 今の一瞬のうちに? あれだけ、あれだけ満身創痍だったというのに……」

 うろたえるクルムの言葉を聞いて、イリスは自分の体に注意を向けた。全身が怠くて、とても力が入りそうになかった。しかし、痛みも、異物感も、息苦しさもない。激しい運動をした後に、寝台へ吸い込まれた時のような気分だった。

「……わかりませんが、たぶん、大丈夫です」

 深呼吸してから答える。クルムは汗をぬぐって、観念したように腰を下ろした。

「全く、わけのわからないことばかりです。あなたは逃げ出すし、あなたを追う竜は見たこともないような規格外の導術で襲い掛かるし、落ち着いたと思って近づけば倒されているし……。いったい、何が起こったというのですか」

 それは、イリスとしても訊きたいことばかりだった。

「竜は、倒れたのですか」

「ええ。死んでいます。片方の牙が折れ、眉間を貫かれた状態でね。ここは例の簡易診療所ですよ。寝台をひとつだけ広げて、応急手当を試みていたところです」

 ゆっくり首を動かせば、確かに一週間の旅を過ごした場所だとわかった。とすると、あれからほとんど時間は経っていないらしい。耳をすませば、武人たちのざわめきが聞こえてきた。その中に上がる、怒りの声も。

「じじい、どういうつもりだ!」

(……レアス!)

 イリスは飛び起きて、よろめいた。体が鉛のように重かった。手で体を支えながら、イリスは何とか立ち上がる。

「イリスさん! ちゃんと寝ていてください」

 クルムの制止も構わずに、壁伝いに歩いて外を見やる。紅い長衣の人影へ、革鎧の少年が刀を向けていた。

「あの女は何だ! どうして連れてきた! 答えろ!」

 レアスは憤怒をむき出しにして、頭領の証である緋色の長衣姿へと問いかけた。一方のシャムリは悠々と笑みをたたえながら、視線だけは刺すように鋭かった。

「お前に何の関係がある?」

 冷たく言い放つ。その言葉に、レアスはますます怒りをたぎらせた。

「ぬかせ! 俺ひとりで充分だろう。どうしてあいつを連れてくる必要がある。いったい何を企んでやがる!」

 まくし立ててから、不意に探るような目つきに変わって、静かな声で訊いた。

「……導術は、ただのお伽噺じゃねえってのか?」

「質問が多いな。少しは自分の頭で考えたらどうだ」

 シャムリは突っぱねると、長衣を脱ぎ捨て、携えた槍をぐるりとひと回しした。

「それとも、よもやその刀で聞き出せると思っているわけではあるまい」

 武人たちがどよめいた。イリスも息を呑む。レアスは少年の姿ながら、身体能力は化け物じみている。いくら歴戦の武人であるシャムリとはいえ、老いた体で敵うはずもない。

「上等だあっ!」

 すかさず、レアスが斬り込んだ。甲高い音とともに何かが飛ぶ。二人を取り囲む武人たちが、悲鳴を上げて後ずさった。

 シャムリの首は繋がっていた。弾け飛んだ鞘の下から、漆黒の穂が露わになった。竜鱗すら切り裂き、竜牙さえへし折る闇の輝き。シャムリの竜槍もまた、レアスの長刀と同じ素材でできていた。

 二者の速度差は歴然としていた。シャムリが槍を一巡りさせる間にレアスは四筋も五筋も剣閃を放ち、シャムリが一歩を踏み出す間にレアスはその背後へ回り込んだ。しかし、シャムリは全ての攻撃へ的確に応じ、一筋すらその体へと近づけることを許さなかった。

 悲鳴は感嘆へと変わった。重なり合う必殺の斬撃は澄んだ旋律となって場を満たし、風切り音や足さばきの振動と共にひとつの歌を形作った。それは華美なようでいて、その実どこまでも殺伐とした、剣技と剣技のぶつかり合いだった。

 イリスは目を凝らした。もちろん見切れるわけではない。特に、レアスの剣筋を追うのは周りの武人にも不可能だろう。しかしシャムリの立ち回りなら、槍術の鍛錬を眺めたイリスにもわかる部分がある。シャムリの槍は穂先だけでなく、その反対側の石突も同じ素材でできていた。穂先と石突の両方で応じることで手数を増やし、さらに手の中で槍を滑らせることで間合いを制御して、レアスの速度に追いついているのだ。

 レアスの猛攻と、シャムリの応手は果てることなく続いた。その応酬は弱まるどころか激しさを増しているようにさえ思える。もう何度刃を打ち合い、しのぎを削ったのか、知る者はなかった。

 しかし、その攻防は突如として終わりを告げた。

 一瞬のことだった。槍の穂が空を斬ったかと思うと、レアスがその背後に着地した。槍の間合いの内側。そのまま突き込んだ刀は、しかし、シャムリを貫くことはなかった。

 槍を離したシャムリが組みつき、レアスを鮮やかに投げ飛ばした。地面へ叩きつけられた顔の横に、石突が音を立てて刺さる。槍は既にシャムリの手へと戻っていた。一拍置いて、弾き飛ばされた長刀が地面へと突き刺さった。

 決着。静まり返った荒野に、レアスの舌打ちだけが響いた。

「お前の敗因は二つだ」

 レアスを見下ろしながら、シャムリが口を開いた。

「お前は人との戦い方を知らぬ。だから挑発に引っかかる。少し隙を見せてやればこの通りだ。もうひとつ、お前は戦いには殺し合いしかないと思っている。だから機が来たと見るや、無駄な力が入って隙を生む」

 シャムリは地面から槍を抜いて肩に担いだ。レアスの方も倒れたままで、これ以上やり合う気はなさそうだった。

「わしを舐めるな、小童。独力では成せぬことがあると知れ」

 言って、シャムリは長衣を拾う。レアスは立ち上がり、刺さった長刀を手に取った。武人たちに緊張が走ったが、レアスは何も言わず、ゆっくりと歩いて離れていった。イリスはその方向を見やる。

(あれは、竜の……)

 レアスは、自ら屠った竜の死骸を前に立ち止まった。クルムの言ったように、片方の牙が半ばから砕け、眉間には刀傷が残っている。あれほど激烈な力でイリスを襲った竜も、命の失われた姿はあまりに静かで、襲われたイリスでさえ憐憫を感じるほどだった。

 長刀を地面に突き立てて、レアスは竜の前で瞑目する。八つ当たりでもするのかと思ったイリスは、驚くとともに自分の考えを恥じた。しかし、奔放なレアスにしては随分と殊勝な行為だとも思った。その表情を、そっと窺う。

 気性の激しいレアスには珍しく、その顔はどこまでも無表情で、仮面のように固まっていた。しかし、それはイリスが知っている表情のひとつだった。

 レアスは自ら殺した竜を弔いながら、今日が人生で最悪の日だという顔をしていた。



 後続の部隊が到着し、竜の死骸を回収する中で、イリスとクルムは一足先にミルナシアへの帰路に付いていた。今回の重傷者であるイリスの治療が済んだ以上、クルムが戦場に残る理由はないからだ。しかし一番の理由は、同じく先に帰路へ付くと決めた頭領シャムリが、内々に話をしたいと言ってきたからだった。

 三日ほど進んだところで街道を逸れ、イリスたちを乗せた荷馬車は荒野の真ん中に停まった。戦場になった場所よりも草が茂っていて、そよ風がさらさらと音を立てている。招かれるまま、イリスとクルムは紅蓮の幌をめくり上げる。シャムリが奥に座っていた。

「知っている、ということですよね」

 幌が閉じ、護衛の武人が草を鳴らして離れたのを見計らって、イリスが口を開いた。

「何を想定しているのかわからんが、話すことならある」

 箱状になった荷台は、両側と奥に造り付けの長椅子があるだけで、がらんとしていた。イリスとクルムは両側に分かれて座り、顔を横向けてシャムリを見ている。膝の上で手を組むその男は、ゆっくりと口を開いた。

「『銀の民』と呼ばれる人々がいる」

 二人は神妙に、続く言葉を待った。

「最近わかったことだ。古神話の語り部であり、神代の時代に生きた人間の記憶を受け継いでいる、言わば古の一族。各地に散在する彼らは、本当に信用のおける友人にのみ、滅んだ文明の逸話を語ることがあるという。細々と過去を守り、細々と過去を伝える。彼らの目的はわからないが、その中に時折、非情なさだめを背負った娘が生まれるそうだ」

 さだめ。その言葉に、イリスは暗い影を見た気がした。

「その娘らは『銀の香の乙女』と呼ばれる。竜にしか嗅ぎ分けられず、同時に竜を強く惹きつける『銀の香』を生まれながらに持つ娘。それゆえに竜を呼び寄せ、命を狙われる運命にある。……イリス=ヒューペリア。おそらくお前さんのことだ」

 クルムが息を呑んだ。イリス自身は、至極冷静にその言葉を受け止めた。その反応を推し量るように間を置いて、シャムリは先を続けた。

「今回の竜狩りはあまりに異常だった。先の竜狩りから間がなかったこと、ギルドの近辺に竜が現れたこと、竜が目的をもって移動していたこと。その原因はイリス=ヒューペリアにあった。竜は群がるわしらには目もくれず、普段の竜狩りでは見せないような力の全てを解放し、お前さんを抹殺しようとした。確証はないが、それ以外に考えられん」

 シャムリが話し終わると、重い沈黙が垂れこめた。それを破るように、イリスは言う。

「わたしも、そうだと思います。竜が何かを探していると気が付いた時、探し物はわたしだと直感しました。ミルナシアに来る前のことは忘れてしまっていますが、わたしはその『銀の香の乙女』なのでしょう」

 いったん言葉を切って、イリスは息を吐いた。集中すべきはここからだった。

「しかし、それを伝えるためだけに、わざわざ呼び出したわけでもありませんよね」

 シャムリの眉が、ぴくりと動いた。

「その通りだ。お前さんに頼みたいことがある。ヒューペリア」

 部屋の雰囲気がぴりっと引き締まるのを、イリスは敏感に察した。竜との戦いを通して全力を賭した導術を放ってから、イリスは自分の感覚が鋭敏になっていると気が付いた。死地は人間を飛躍的に成長させる。今回イリスが学んだことだ。

「竜狩りでの、囮役を頼みたい。レアス=イスチェリーと組むのだ。わしは今回の戦いを見ていた。お前さんの導術は、レアスが作る武具の材料となる。竜がお前さんを狙うことを計算に入れて連携を身に付ければ、これ以上にない竜への対抗策となるだろう」

「頭領。危険に過ぎます。イリスさん相手では竜が本気を出すと忘れたのですか」

 クルムが口を挟む。この青年がこれほど語気を強めるところを、イリスは初めて見た。

「しかし、だな。竜狩りにヒューペリアを連れていけば、竜は我々には目もくれないとわかっただろう。そして、竜は彼女のいる場所に現れる。彼女をミルナシアに置いていったとして、竜狩りで留守にしているところへ竜が現れたらどうなるか、予想できないわけではあるまい」

 クルムは言葉を詰まらせる。熟考して、渋々といった風に言った。

「ならば、あの少年と組ませた方がまだしも安心だと、そう言いたいのですか」

「それが我々にできる、最大限の譲歩だというわけだ」

 クルムの顔が青ざめる。言外の意味を察したのだと、イリスにもわかった。

 三日のうちに、ある程度予想していたことだった。自分は竜を惹きつける。竜狩りギルドとしてこれ以上に嬉しいことはない。しかし一方で、イリスのもとに現れる竜は全力でイリスへ襲いかかり、普通の武人では手が出せない。そんな危険因子を自由にさせるはずがなく、街を追放されてもおかしくないだろう。そしたらあとは野垂れ死ぬだけだ。

「いくつか、質問をしてもいいでしょうか」

 つとめて平静を装って、イリスが訊く。下手な演技がシャムリに通用するはずもないから、気休め程度だった。

「レアス=イスチェリーと言いましたね。あの少年は何者ですか。常人離れした能力を持っていて、ギルドの中でも秘密にされているようですが」

 言いながらクルムの様子を窺うと、医術師はわざとらしくため息をついた。いつか砦で会った時、レアスが武人に顔を知られていなかったのも、そのせいだろうと思った。

「さてな。面識があるわけだし、自分で訊いてみてはどうだ」

 はぐらかすだろうと思っていた。イリスは強く出る。

「そういうわけにはいきません。死線を共にする相手なら、あらゆることを知っておく必要があると思います」

 シャムリは眉をひそめた。

「悪いが、わしもあいつについて知ることは少ない。ひねくれ者で口をきいてくれないからな。秘密にしているのもその謎ゆえだ。竜狩りには大きく貢献してくれるが、その力の源はわからない。慎重に扱うのが賢明というものだ」

 微妙だが、畳みかけるならここだと思った。

「おかしいですね」

 鼓動が早くなる。声が震えそうになるのをこらえながら、勇気を出して言った。

「あなたは彼から古神話の内容を聞いているはずです。頭領」

 シャムリの表情が動くのをイリスは認めた。だがその驚きも一瞬で、すぐに静かな笑みへと変わった。

「褒めてやろう。わしを出し抜いたのはお前が初めてだ。ヒューペリア」

 意外にもシャムリは自分の非を認めた。イリスは内心動揺しながら、質問を続けようとする。

「わしが古神話について隠し立てをしていると、疑っているのだな?」

 しかし、あっけなく先回りされてしまった。レアスは古神話にイリスの名があることを知っていた。なら、シャムリも聞き出している可能性が高いと考えて、知りつつもあえて伏せていたのでは、と思ったのだ。ならば、他に隠し事があってもおかしくない。『銀の民』の話だって、今まで聞かせてくれなかった。

「わしを出し抜いた褒美として、正直に答えよう。わしは確かにイリスと呼ばれる女神のことと、『銀の民』のことを伏せていた。『銀の香の乙女』として利用できる可能性が、万に一つながら存在していると気付いたからだ。その点については謝罪する」

 イリスは動揺を隠せなかった。クルムも狼狽していた。なぜ、この男はここまで話すのだろう。警戒を買うだけだとわかっているはずなのに。

「しかし、それ以上のことは知らん。クルムへ渡した手記に残りは全て書いてある。その上で、言っている。他に道はないだろうと」

 イリスは黙る他なかった。確かに、生きていく道はそれしかない。竜を招き寄せる体など災厄でしかなく、竜狩りギルドという組織しか、受け入れてくれる場所はないだろう。

「……考えさせてください」

 言うと、シャムリは重々しくうなずいた。イリスはふらふらと立ち上がり、荷台を出ていく。一緒に外へ出たクルムへ目配せをして、ひとりにさせて欲しいと頼んだ。

 荷馬車の床に横たわり、寝具に体を滑り込ませて、自分の肩に鼻を近づけてみる。銀の香。そんな香りがすると感じたことも、言われたこともなかったが、それは正しいのだろう。竜にしか嗅げないのなら、確かめる術もない。他のことをイリスは考える。

(わからないことは、まだある)

 全ての始まりである、竜の夢。それは夢ではないのだと、イリスは確信していた。あれは実際に起こったこと、忘れてしまった過去の出来事だ。

 大地を統べる灰色の竜。彼が見せた激昂は、夢に現れる竜のそれと全く変わらない。過去に同じことが起こったのだ。証拠はないが、直感が間違いないと告げていた。

 とすると、わからないのは自分が生きていることだ。導術は強力だが、竜を倒すには役に立たないし、そもそも自分は触媒を知らなかった。

 そしてもうひとつ、今回の竜狩りで感じたことがある。

(わたしは、竜を恐れているのではなかった)

 これも、確信に近かった。もちろん、竜が怖くないと言えば嘘になる。しかし、今回倒した竜の死骸には、憐憫すら感じたのだ。自分の命を狙う竜にも、『銀の香の乙女』としての運命にも、不思議と憎しみは湧かなかった。理不尽だとは思うが、無感動に受け入れていた。記憶を失うほどの出来事ではない。竜の悪夢も、もう見ないだろうと思った。

(わたしは、何を恐れたのだろう)

 目の前に広がる闇を意識しながら、イリスはそっと目を閉じる。

 夢のない眠りは、かえってイリスを不安にさせるのだった。



 昼過ぎにミルナシアに帰り着いたイリスは、真っ先にリトへ会いにいくことを考えた。侍女舎へ行くべきか、自室に行くべきか。部隊の凱旋より一足早いから、リトは今日この日の帰りを知らないはずだ。それでも、イリスはまず自室へ向かった。いて欲しいと願った場所に、何食わぬ顔で待っている。それがリトという友人だった。

 果たして、リトはそこにいた。かける言葉もわからずに跳びついて、消え入りそうに細い体を抱きしめた。郷愁。なぜかその二文字が浮かんで、気が付いた。故郷のない自分にとって、リトのいる場所こそが帰る場所なのだ。

 しばらくそうしてから、どちらともなく、名残惜しそうに腕をほどいた。自然とほころぶその顔は、いつかのように隙のない化粧をしている。リトは地獄耳に違いなかった。

「持って、帰って来たわ。助けてもらったの。ありがとう」

 言って、銀の髪留めを差し出した。帰りの道中では、飽きもせずにこれを磨いて過ごしていた。竜との戦いの最中、失くさなくて、傷つけなくて、本当によかったと思った。

「役に立ったなら嬉しいわ。……おかえりなさい」

 二人して、寝台に並んで腰掛ける。リトがそっと指を絡めてきた。

「たくましくなったわ。見違えるようよ」

 感心したようにリトが言うので、驚いた。成長は自覚していたが、目に見えてわかるほどだとは思わなかった。

「ありがとう。自分でも強くなれたと思う。……竜の悪夢も、見なくなったの」

「……そう。よかったわね」

 言って、リトは背中に手を回し、肩に頭を預けてきた。

「……本当に、よかったの?」

 耳元でささやいてくる。甘く、誘うような声で、絡め取るように。本当に敵わないと思った。特に、そこへほんのわずか、心配そうな響きを隠しきれていないようなところが。

「……強くはなれた。竜にも過剰に怯えることはもうないわ。でも、自分の身を守るには何をしたって足りないの」

 臆病ゆえ、自分の身を守れぬ弱さゆえに、人を傷つける。そんな自分が嫌で、イリスは導術を学び、竜狩りへと飛び込んだ。結果、イリスはそのどちらも克服できた。しかしイリスが負う運命の前では、半端な強さはまるで役に立たなかった。

「……竜狩りには、行くの?」

 ささやき声が震えた。リトだって、問い質すのはつらいのだ。イリスを傷つけるとわかっているから。でも訊かずにはいられない。そんな声だった。

「……行かなくてもいいかなって、思ってる」

 竜狩りギルドを、ミルナシアの街を、出ていくことになっても。真意が伝わっているかはわからなかった。どんなことでも気が付くリトとはいえ、『銀の香の乙女』としての運命は知り得ないと思った。それでも、背を抱かれる手には力がこもる。暗い悲しみはさとられていた。

 これ以上竜狩りに行っても、自分は強くなれない。自分を守れるようにはならない。なら、参加する意味はないと思った。野を渡り、たったひとりで生きていく。それなら誰も傷つけることはないはずだ。

「どちらにせよ、ずっと一緒にはいられないのね」

 肩にすがって、か細い声でリトが言った。見たことがないくらいに辛そうだった。

 どうして、自分の運命を、気持ちを、知らないだろうと決めつけたのか。リトはいつだって傍にいて、理解してくれる、最高の友達だというのに。

「わたしだって、一緒にいたいわ」

 言いつつも、自分が泣いてはいけないと思った。自分はリトを置いていくのだ。生まれ持った運命に抗おうとせず、ただ諦めて。街を出ていくしかない。リトを危ない目に遭わせるわけにはいかない。イリスは決心した。

 肩に顔をうずめるリトの、黄昏にも似た髪をなでる。暖かい色だ。折しも暮れかけた陽光が斜めに差して、透き通った頬を艶やかに照らし出した。それは熟れた果実のようで、同時に磨いた硝子玉のようでもあった。可憐ながら侮れず、しかし芯には少女らしい繊細さを持っている。リト=カッシュ。わたしの親友。

「決めて、頭領に伝えたら、あたしのところに来て」

 それまでとは変わって、ぐっと低い声でリトが言った。理由を訊いてはいけない。イリスは直感して、ただ小さくうなずいた。

 ふっとはにかんで、リトはうるんだ目を向けてきた。水晶のような薄青の瞳はどこまでも澄んで、吸い込まれてしまいそうに思った。

「今日はここに泊まっていくわ。いいかしら」

 なんとなく、そう言われるような気がしていた。

「ビートリッシュさんはいいの?」

「クルムなら、帰ったその日は頭領に付いて商談を聞いているはずよ。部屋には戻らないわ。それに、そうでなくとも今日はイリスと一緒にいなくちゃ駄目でしょう」

 イリスは笑って、礼を言う代わりに抱き寄せた。甘い匂い。目を開くと、リトも笑っている。

 日が沈もうとしていた。



 耳元に当たる寝息がくすぐったかった。寝台の上で、イリスは身じろぎをする。部屋の中は闇に包まれていた。

 平穏な眠りには慣れなかった。深く安らかに寝られる分、すぐに目が覚めてしまう。でも、それが普通のことなのだろう。

 顔を上げると、銀の髪が零れ落ちる。暗闇の中でさえ内から輝くように見えた。リトの髪にも、銀の羽が飾られている。外すのを忘れて寝てしまったのか。そういえば、いつ寝付いたのか判然としなかった。

 長いまつ毛に覆われたまぶたが、ぴくりと動いた。薄青の目を細めて、リトが訊く。

「朝……?」

「まだよ。起こしちゃったわね」

 イリスがリトのうなじに手を置くと、むずがるような可愛らしい息遣いが聞こえた。そういえば、寝ぼけたリトを見るのは初めてのことだ。普段はリトの方が早く起きていた。侍女舎の二人部屋で、一緒に過ごした時間。数ヶ月しか経っていないのに、遠い昔のことに思えた。

 リトはゆっくりと目をしばたいて、言った。

「本当だわ。星が綺麗。イリスの目、みたい……」

 イリスは窓の方を振り返る。濃紺の闇をたたえる空に、確かに一筋の光明が見える。その輝きは黄金に近い、秋の実りの色をしていた。静謐な夜にはそぐわない、豊穣の色。

 イリスは布団をはねのけて、叫んだ。

「起きて、リトっ!」

 凶星が、瞬く間にその輪郭を露わにする。稲光を散らし、風の歌を纏い、翼を雨に濡らしながら。

(こんなにも、早く!)

 竜狩りに出てから、一ヶ月と経っていない。どうして、ここに、竜が。考えるまでもないことだ。運命は、決して待ってはくれなかった。

 リトの手を引く。机の上に目をやって、紅と藍の触媒を確かめる。手に取って駆け出そうとした瞬間、雷鳴が轟いた。

 リトが悲鳴を上げた。それ以上に大きい音が体を揺すぶって弾けた。まるで紙屑のように屋根が吹き飛ぶ。重い雨が叩きつけ、水しぶきが頬を打った。

 逃げ出そうにも、もう遅い。

 イリスは見上げる。白銀の角を振りかざす、空の覇者。大小二対の翼を複雑にはためかせ、まっすぐに見下ろす竜の姿があった。黄金の鱗が稲妻を浴びてきらめき、長い手足の先に生える爪はいかなる剣よりも鋭かった。首を覆う毛はふさふさと白く、吐く息が雷雲となって天を塞いだ。

(させない、絶対に!)

 守るべきものが後ろにいた。行かせるわけにはいかない。リトの手を離し、炎と氷の奔流を握りしめた。

 竜の背後で雲が光った。稲妻が来ると直感して、叫ぶ。

「離れないで!」

 氷の腕を振るうと、幾本もの氷柱がそそり立った。大気を切り裂く光の筋を、すんでのところで受け止める。蒸気が上がり、霜の粒が飛び散った。

 竜が動きを止めた隙に、天へ向かって火柱を打ち立てる。焦熱は雨粒を霧へと変え、うなり声を上げながら竜の肩口へと食らいついた。ひるんだところに、休む間もなく氷の腕を振るい、翼へと放つ。たちまち氷が翼を覆い、その羽ばたきが鈍ったかに見えた。空から引きずり降ろさなければ勝ち目はない。竜の全身を凍らせるつもりで、全力で冷気を放った。

 瞬間、竜の体が融け落ちた。否、あまりの速さに、残像しか見えないだけだった。

 旋風が巻き起こり、火炎を、氷雪を、いとも容易く吹き散らした。竜が疾風と化していた。放つ火炎は、氷雪は、ことごとく竜の体を逸れて雲へと呑まれていった。速過ぎる。もはや目で追うことすら難しい。がむしゃらに腕を振るいながら、イリスは焦った。

(動きを制限しなければ)

 自分に言い聞かせ、再び氷柱を作り出した。それをいくつも天へと伸ばし、竜の飛跡を阻む。氷を避ける竜に狙いを定めて、炎と氷を束ねた螺旋を放った。

 炸裂が竜をとらえた。渾身の力を注ぎ込んだ。雲が吹き飛び、煙が立ち上った。黄金の体躯が落ちていく。

 しかし、まるで効いてはいなかったのだ。

 縮めていた翼を振り払って、竜は難なくイリスの導術を弾き飛ばした。同時に幾条もの雷光が降り注ぎ、氷柱は残らず水煙と変わった。イリスはひるんだ。次にすべきことがわからなかった。

 空にあるのは、生ける災厄。どこまでも尊く、同時に邪である虚ろな目が、立ち尽くすイリスを覗き込んでいる。

 雷と、雨と、風を統べる嵐の化身。人智の及ばぬ絶対の王者。それが一声高く鳴き、爪をひらめかせ、真っ逆さまに襲い掛かった。

 衝撃。

 それは、想像していたものよりずっと弱く、それゆえに最もイリスを戦慄させた。風景が、ゆっくりと傾いていく。緩慢になった時間の中で、華奢な腕が頭上に広げられた。

 ――やめて。

 腕を伸ばすよりも早く。

 ――お願い。

 声を出すよりも早く。

 ――駄目!

 後悔するよりも、ずっと、ずっと早く。

 竜の爪が、リトの体を貫いた。

 雨の音が、うるさいくらいに響いていた。絹を裂くような悲鳴を上げて、雷が背後へ落ちた。イリスは、ただ見上げるしかできなかった。竜の掌の上で、リトがこちらへ腕を伸ばしているのを。

「イリ、ス……あな、た……は……」

 ひゅうひゅうと肺から空気の抜ける音が、嫌というほど耳に付いた。持てる生気の全てを振り絞り、リトが言葉を吐いていた。

「……自由、に……生き」

 血しぶきとともに、声が途絶えた。

 目の前が真っ白に塗り潰された。かすれたリトの声が、最期の言葉が、がんがんと頭の中に反響した。心が死んでいく。自分が自分でなくなっていく。指の先から塵となって、吹きすさぶ風に流れていく。

 ずっしりと垂れこめる、乳白色の霧に巻かれていた。何もかもがそれに遮られて、うまく感じることができなかった。ただ、頭の芯が焼き切れるような痛みだけがあった。ふつふつと、体の内側から、暗く深い記憶の底から、這い上がる痛みだけがあった。

 どれだけの時間が経っただろう。篠突く雨が肌を打った。きっと地獄だろうと思った。痛みもなく死ねた代償を、延々と払い続けるのだろう。

「生きてんのか、お前」

 混濁した思考へ、ひとつの声が滑り込んだ。あどけなさと、深淵をないまぜにした声。

 呆然と倒れ伏すイリスの横に、黒髪の少年が立っていた。黒雲の渦巻く空を背にして、長衣に身を包むその姿は、確かに地獄からの遣いにはふさわしいと思った。

 手に、泥のはねる感触があった。

(……生きてる)

 気付いて、イリスは飛び起きた。濡れそぼった髪が肌に張り付いている。雨と泥の匂いに混ざって、鉄臭い、血の香りがした。

「……お前は、無事だったか」

 声の主はレアスだった。湿った空気を吸い込んで、それが喉の奥に詰まった。言葉が口から出てこない。レアスはうつむいて、それから視線を横に流した。

「竜は、倒した」

 そこに、黄金の骸が伏していた。毛の一部がそぎ落とされ、その下に見える首筋から今も血が流れていた。爪も何本か砕けている。その手の内側が、不自然に赤く濡れていた。

「……お前の、友人だよな。間に合わなかった。悪い」

 鋭く息を吐き出そうとして、喉にせき止められる。リトはどこ。荒い息とともに、必死に言葉を紡ごうとする。レアスはきっぱりと言った。

「見ねえ方がいい。生前の顔を忘れたくないならな」

「あ……」

 腕が力なく落ちた。もうどこへ伸ばせばいいかわからなかった。死んでしまいたい。そう思った。でも、できなかった。自由に生きて。それがリトの遺言だった。

「……狸じじいもじきに来るだろう。お前はここにいろ。俺は体を休める」

 レアスは背を向ける。それで初めて気が付いた。手のあるべき場所に、手がなかった。レアスは片手で刀を握っている。片腕が、肩から先がなくなっていた。

「……どうして、助けに来たのよ」

 本当に訊きたいことは声に出なかった。しかし、恨み言はすらすらと口をついて出た。むなしかった。どこまでも惨めで、卑怯な自分が。

「知るかよ。……さっさと行かせてくれ。俺は疲れたんだ」

 つっけんどんに、レアスは言った。イリスは聞かなかった。

「そんなになるまで戦って、それほどのものなの、わたしは」

「……守ってくれる友人がいるほどには、な」

 こぶしを握り締めて、レアスをにらみつける。少年は、鏡の色をした瞳に無機質な光を宿して、こちらを見下ろした。

「感謝されてもいいと思うんだがな。そんなに自分が可哀そうか。しおらしい顔をして、香水の匂いを振りまいて媚びれば、それで許されるとでも?」

 言い返せなかった。しかし、香水という言葉が引っ掛かった。何か、大事なことを忘れている気がした。

 黙るイリスを一瞥して、レアスは再び背を向ける。しかし一歩踏み出したところで、その体が揺らいだ。うめき声を上げて、うずくまる。

 はっと息を呑んで、イリスは駆け寄ろうとする。しかし、凝り固まった足がうまく動かなかった。レアスは腕を失くした肩を抑えながら、苦しそうにつぶやいた。

「畜生……こんなにも早い、とは……」

 があっ、と獣のような声を上げる。弾かれたように背筋が伸びて、酷く痙攣する。歯ぎしりが聞こえた。苦しそうだった。

 そして、イリスは信じがたいものを見た。

 ずるりと音を立てて、粘性質の何かが滑った。長衣に隠れた肩口が、少しずつ盛り上がっていくように見えた。肉の裂ける音がする。骨のきしむ音がする。イリスは吐き気を覚えた。肩口に膨れた肉塊が、一息に滑り落ちた。

 戦いにおいて呼吸のひとつも乱さないレアスが、大きく肩で息をしていた。むき出しの腕がそこにあった。かさぶたの取れた直後のような、薄桃色をした肌。なくなった腕が、生え変わっていた。

「……いったい、何者なの」

 訊かないわけにはいかなかった。だが、答えるはずがないともわかっていた。レアスの吐息と、雨の音だけが響いた。

 そこで、イリスは思い出した。

(変わった髪色と、匂いだと、言っていた)

 初めて会った時の、レアスの言葉。銀の髪が変わっているというのはわかる。だが、匂いはどうか。

「……わたし、香水なんて付けたことないの」

 普通の人間なら、感じるはずのない香り。イリスが生まれながらに持っているもの。

「……竜なのね、あなた」

 銀の香。嗅ぎ取れるのは、竜だけのはずだった。

 青白い稲妻が、辺りを照らし出した。嵐の主が死んでもなお、その勢いは衰えることがなかった。気が付けば、レアスがこちらを見ている。鏡の色をした目に無表情を、凝った闇をたたえて、こちらを見ている。

「……だったら、何だ」

 レアスは立ち上がった。生え変わった腕は、もう動かせるようだ。驚異的な再生能力。竜の特徴のひとつだった。

 胸の奥底に、黒い潮流を感じていた。ぽっかりと抜け落ちた、空になってしまった心を埋めるように、それはゆっくりと渦巻いていた。意味はないとわかっていた。しかし、それを何かにぶつけないでは気が済まなかった。

「……あなたが、竜を連れてきたの?」

 長刀を握る手が震えた。レアスは眉を寄せて、目を細めた。

「……そうだと、言ったら?」

 頭に血が昇るのを感じた。リトが死んだことへの、やり場のない怒りが一度に燃え上がった。

「……ろ、す」

 力のない足で、ふらふらと立ち上がった。レアスは表情を変えなかった。

「黙れ。それ以上言うんじゃねえ」

「こ……ろ、す」

 頭の芯が、どんどんと熱くなっていく。黒い潮流がせり上がってくる。

「聞こえねえな。……聞こえねえよ」

 レアスは舌打ちする。酷く苛立っている様子だが、イリスには関係のないことだった。

「……殺、す」

 頭の芯が焼き切れそうに痛んだ。それも今や気にならなかった。

「……黙ってろよ。胸糞悪いんだよ。自分で助けたってのによ」

 憤怒をたぎらせながら、鏡の色をした瞳がこちらを見た。

「殺すと言われて、斬らねえわけにいかねえんだよ! できもしねえくせに、勝手なこと言いやがって!」

「できるわ」

 ついに、焼き切れた。その先には快楽があった。イリスは微笑んだ。

 胸の奥から力が湧き上がる。留まることを知らぬ、無限の光。それに身をゆだねると、惚けるような喜びが背を這い上がった。

「全部、思い出したもの」

 言って、イリスは甲高い笑い声を上げる。おかしかった。こんな簡単なことに、どうして気が付かなかったのか。触媒なんて、最初から必要なかった。ただ自身に眠る力を、それ自体が望むままに解き放てばいいだけだった。全身からまばゆい光が、熱が、破滅がほとばしる。レアスの表情が歪むのを見た。全能感、支配感。笑いが止まらなかった。

 恍惚に溺れるまま、快楽の赴くまま、衝動に導かれるまま、イリスはその光を振るう。

 そうしてイリスは、地上の太陽となった。

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