朱翼のリヨント
八枝ひいろ
第1話
夕映えの光を浴びて、果てのない草原はくすんだ朱色に染まっていた。風にからまって波うつ草は巨大な羽毛のようで、足元の大地がひとつの生き物としてゆっくりと鳴動しているのが感じられた。
――鳥神リヨント様が、両翼を広げていらっしゃる。
何代も前から、秋口の暮れなずむ空はそう言われていた。天を左翼、地を右翼に持つ鳥神は、昼と夜、天と地、夏と冬の境におわしまし、我ら『朱翼ノ民』を見守っておられる。そして、あらゆる『あわい』の重なる時分、すなわち秋の夕暮れ時に、燃えるように鮮やかな朱色の御姿を現されるのだ、と語り継がれている。
しかし、鳥神の威光に満ちた神々しい景色こそ、拾われ子のミユンがいちばん苦手としているものだった。
彼方から、野牛の足音が伝ってくる。
遅れて、弓弦が弾ける音と男衆の掛け声がこだまし、狩りの始まりを告げた。ミユンは小さな弓をぐっと握りしめ、近づく喧騒に耳を澄ませる。
「行ったぞ! ミユン!」
義父の声を聞いて、ひざ丈の草を跳ね除けながら立ち上がる。灰色狼の毛皮がめくれて白い腕があらわになった。
猛然と駆ける野牛は男衆を引き離しながら、まっすぐこちらへと向かってくる。赤らんだ草原よりわずかに濃い枯草色の毛並みは、焼けた空に溶け込むようだった。傾く陽に目を細めながら、ミユンは弓を引き絞る。
ぱしん、と軽い音が鳴り、野牛めがけて細い矢が飛んでいく。しかしその矢は巨躯をそれ、ゆるやかな弧を描きながら草に飲み込まれた。二の矢をつがえる間に、土と汗の匂いがないまぜになった、むせ返るような獣の気配が濃くなってくる。
もう一射は、今度こそ野牛の体をとらえた。しかし体に突き立つ黒曜石の矢じりをものともせずに、速度を落とさず突進してくる。ミユンは思わず歯ぎしりをした。
白い角が、陽を受けて血の色に輝いている。
これ以上は無理だと判断して、ミユンは素早く身をひるがえし、野牛に進路を譲る。ミユンの矢以外にも野牛には幾本も矢が突き立っていたが、その足運びは力強く、草原の王者としての貫禄を感じさせた。
(……行ってしまった)
ミユンは野牛が草の色に紛れて消えていくのを眺めていた。突進を避けた時に打ったらしく、左腕が少しばかりしびれている。小さく首を振って、耳に残った野牛の低い唸り声と、体を芯から揺らす地鳴りを遠のかせた。
「大丈夫か、ミユン」
他の男衆も駆け去った野牛の追跡は諦めたらしい。手に弓を携えて、義父がミユンのところまでやってきた。よく焼けた褐色の肌が、汗をしたたらせてつやつやと光っている。狼の毛皮をのけてミユンがうつむくと、骨ばった白い手が情けなく震えていた。
「すいません。逃がしてしまいました」
言うと、義父は屈託なく笑って肩を叩いてくる。
「いやあ、素晴らしく強靭な野牛だったなあ! あれほど矢を射かけながら足を止めないとは。取り逃がしてしまったのも仕方あるまい。そもそも、最初の射でちっとも弱らなかったからなあ。お前のせいではなかろうて」
義父以外の狩人たちも、口々に野牛の勇猛ぶりをたたえている。その中には、大物を取り逃がしたことを惜しむ声はない。代わりに、無駄に野牛の命をすり減らしてしまったことを申し訳なく思う者がほとんどだ。彼らはみな、リヨント様の恩寵に満ちたこの大地と、そこに棲まう鳥獣たちを一様に尊び、深く親愛の情を寄せている。ミユンはそれが羨ましくもあり、わずかに恐ろしくも思うのだった。
「そら、帰るぞ。大手柄とはいかなかったが、じき日も暮れる」
はい、と小さく返事をして、ミユンは矢筒をあらため、丸木弓と獲物を担ぎ上げて帰路につく。男衆の隆々たる背の向こうに、炊事の煙が青くたなびいているのがわかった。
振り返ると、陽が山際に隠れようとしているところだった。相変わらず空も大地も一面が朱に塗りつぶされている。そのまぶしさから目を逸らして、やはりこの景色は苦手だと、ミユンは独り思うのだった。
月明かりにわずかばかり白んだ闇をなめるようにして、囲炉裏の火がちろちろと燃えていた。糸のように細い煙が、天幕の頂部にこしらえられた煙出し窓に吸い込まれていく。木組みに野牛のなめし皮を張った簡素な家屋は、食料となる獣を求めて転々とするためのものだった。
狩ってきたばかりの兎肉を入れた鍋が、囲炉裏でふつふつと茹っている。泡がはじけるたびに脂の甘い香りがただよって、鼻をくすぐった。ここのところ冬の備えにと干し肉を作ることが多かったから、新鮮な肉の匂いは久々だ。
だが、それでミユンの気が晴れることはない。
「どうした、まだ気にしているのか?」
義父のニョクドが聞いてくる。囲炉裏のわずかな明かりでも、厳めしく勇敢な顔立ちが浮き彫りになって見えた。鼻のあたりに走る横一文字の大きな傷跡は、成人ノ儀にてつけられたもので、一人前の証となるものだ。
「大丈夫だよ」
ミユンは薄く笑って受け流す。ニョクドは怪訝そうな顔をするが、そうか、とだけ言って煮汁をすすった。
「今日の狩りの話?」
鈴音のような澄んだ声は義姉のターリカだ。刺繍の手を止めて、いそいそと食事に混ざるところだった。ターリカは弓引きが苦手だが手先の器用さは抜群で、複雑な文様を苦もなく縫い上げてしまうのだった。木籠に入れられた布地を見れば、リヨント様を模した鮮やかな刺繍が完成の時を待っている。確か、成人ノ儀に用いる旗印だったはずだ。
「ああ、はぐれた野牛を見つけて仕留めようとしたんだがな……」
ニョクドが話し始め、ターリカは適当に相槌を打ちながら聞いている。野牛狩りの場面に話が移ると、ミユンはこっそり目を伏せた。肉の旨味を舌で転がしているうちに、そろそろ拠点を移さなければならん、とニョクドが言った。
「今日はなかなか野牛の群れが見当たらなかった。彼らも警戒を強めているのか、はたまた数が減ってしまっているか……いずれにしろ、冬の備えに事欠いてはまずい」
糧食としてはもちろん、野牛の毛皮は防寒着になる。冬を前にして行われる『朱翼ノ儀』にも獣の骨を削った祭具が必要となるし、供物も蓄えねばならない。だんだんと日も短くなっていくし、油断するとにっちもさっちもいかなくなる。
「『朱翼ノ儀』まで間がないし、微妙なところねえ。山近くに居を移すなら都合がいいけど、ここより豊かだとは思えないわ」
義母のサリナが話に入ってくる。『朱翼ノ儀』というのは年に一度、一昼夜かけて行われる祭儀のことで、成人ノ儀がその最後を締めくくる。リヨント様が棲まう霊山の麓で、同じく朱翼に抱かれた鳥獣、精霊たちとの絆を深めるためのものだ。『朱翼ノ儀』を行う晩秋の頃が近づくと、それに備えて祭具の準備を整えるほか、縄張りを霊山の近くに移すことになっていた。
移住に関してニョクドとサリナが夫婦で相談しているのをよそに、ミユンは黙々と食事を進める。木の実を口に入れて、薄皮の渋みに口をすぼめた。
「何を考えてるか、当ててあげる」
と、知らないうちにターリカが隣まで寄ってきていて、ミユンはぎょっとした。
「なんだよ、義姉さん」
前を向いたままミユンも小声でささやき返すと、義姉は黒目を悪戯っぽくまたたかせて覗きこんでくる。どうやら嫌な予感は当たっているらしい。
「成人ノ儀がうとましいのね」
ぐっ、と息を詰まらせるミユンを見て、ターリカはおかしそうに微笑んだ。
「口数は少ないけどすぐ顔に出るんだもの、丸わかりよ。どうせ、余所者の自分がリヨント様に帰依していいのかとか、ここに大人として居ついていいのかとか、くだらないことで悩んでいるんでしょう」
せめてものの抵抗として押し黙るが、肯定しているのと変わりなかった。まったく、八年前に草原のただ中で行き倒れていたところを拾われてからというもの、二つ年上の義姉にばかりは敵わない。いつだって自分の心を覗き込まれているのに、ターリカの考えていることとなると皆目わからないし、尋ねても適当にあしらわれるのが常だった。
しかし、今回は何もかもお見通しというわけでもないらしい。
親二人はまだ話し込んでいて、明日あたりに皆を集めて相談しようなどと言っている。それを確認してからミユンは声を低めて、義姉だけに聞こえるようにつぶやいた。
「それは理由の半分なんだ」
顔は見られなかったが、ターリカが首をかしげるのがわかった。義姉には珍しいことだったが、それで得意になるには今までの負けが込みすぎていた。
「人には言うなよ。義父さんと、義母さんにも」
「言わないわよ」
楽し気にそう言って、ターリカは聞き漏らさないよう肩を寄せてくる。柔らかい黒髪がしなだれかかってくるのをいたたまれなく思いながら、ミユンは打ち明けた。
「リヨント様のことが、ときどき恐ろしくなることがある」
息を呑む音が聞こえた。ターリカでさえ、そういう反応をする話だった。
「信じられないとか、そういうわけじゃない。むしろ、その存在が妙に生々しく感じられて怖くなるんだ。足元で何かが身じろぎしたり、ふと肌に吐息が当たったり、夕焼けの空が変に鮮やかだったり、そんな風に感じることが増えてきた」
顔の横に視線を感じる。さほどもないうちに、ターリカはへらりと軽い調子で言った。
「気のせいじゃない?」
「だと思う」
小さくため息をつく。そう言われるだろうと思ったし、自分でもそう思っていた。疲れているのだろうが、なぜか、そう決めつけてはいけないような気がするのだ。
「でも、確かに言いふらす話じゃないわね。黙っておいてあげる」
「言わないと約束しておいて、話す気満々じゃないか」
「なあに、今更?」
そう言って、喉の奥をくっくっと鳴らして笑っている。横目でにらむと、しかし、急に真面目くさった表情をして、まっすぐに見つめてきた。
「後半はともかく、前の理由は水臭いわよ、ミユン。いったい何年家族として、朱き翼に抱かれた一族として、暮らしてきたと思っているの。肌の色に劣等感を持っているのかもしれないけど、見てくれのことなんて誰も気にしてないわ」
自分でも、理屈ではわかっていることだ。しかし、どうしても一歩距離を取ってしまう。踏み出せなくなってしまう。それがどうしてか、わからなかった。
「まあ、あんたは昔からぼんやりしてるんだから、少しは腹をくくりなさいよ」
義姉は背中をはたいて、ちょっとおばさん臭かったかな、と付け足した。景気のいい激励の割にその力は頼りなかったが、ともかく、ミユンは小声で礼を言った。
夜の帳が下りようとしている。ターリカとのやり取りが終わると、ちょうど両親も相談を終えたところのようで、明朝に集まるよう他の家庭へ連絡すると言って天幕を出ていった。義姉と二人で食事の後始末をし、火を埋めると、あたりはすっかり暗くなる。
月光を頼りに寝具を整える間、埋め火のくすぶる嫌な匂いが妙に鼻について、体にこびり付いている気がして仕方ないのだった。
山を駆け下る風はかすかに雪の香りをはらんでいて、山向こうから冬が顔を出しているのが感じられる。リヨント様が棲まうとされる霊山の頂はすっかり白くなり、薄青にかすむ山肌も寒々しい大気の衣をまとっているように見えた。
集落の人々で話し合った結果、『朱翼ノ儀』に備えて山近くへ移住してしまおう、ということでまとまった。糧食に欠くことが懸案だったが、移った先の状況を見て、食料が乏しいなら儀式の日取りを前倒し、早々に引き上げるつもりらしい。ミユンの知る限りで儀式の日程を早めるのは異例のことだったが、夏と冬の変わり目であるならば、さほど目くじらを立てるものでもないそうだ。
荷車から柱やらなめし皮やら住居の部品を下ろしてから家が組み上がるまで、半日もかからない。組み立ては女衆がやる習わしになっていて、サリナとターリカが丸めた天幕を広げる間、ミユンとニョクドで草を抜いて囲炉裏を掘り下げていた。
心なしか、昨年やってきた時よりも草の匂いが濃く、土が温んでほぐれていた。早い時期に移住してきたからだと思ったが、棒で突き崩した土をすくい上げる時に、ふっと獣の匂いを感じとって身の毛が逆立つことが何度かあった。傍らの義父に話すか迷ったが、気が違っていると思われても嫌なので、やめた。
「時期の違いもあるが、どうも今年の霊山は様子が変だそうだ」
そんなわけで、義父が突然そう話し始めた時は、ターリカがするように心中を覗かれたのかと焦ってしまった。
「様子が変って……どういう意味?」
「動植物がほとんど見当たらないらしい。山肌は閑散としていて、まるで生気が感じられないと言っていた。『朱翼ノ儀』に影響がないといいのだが」
聞いていて、ミユンは心を見透かされているのではないと安堵する一方で、言いようのない違和感が胸にわだかまるのを感じた。
「この辺りではむしろ、草花は普段より茂っているように見えるけど」
言うと、ニョクドは静かにうなずいて、蒼穹と溶け合うような霊峰を見上げる。
「草木が丸ごと麓まで引っ越してきたかのようだ。かといって、動物は麓にも見当たらない。このままでは食料源に事欠くだろうな」
要するに、成人ノ儀が早まる公算が大きいということだ。ミユンは後ろ暗い気分で囲炉裏の縁を押し固め、野牛の骨でできた枠をはめ込んだ。
「俺たちの方はこんなところだな。早速で悪いが狩りに向かうぞ、ミユン。移動で減った分の備蓄を補給せねば」
囲炉裏の体裁を整えて立ち上がると、荷車の横で二人して狩りの支度を始める。弓矢はもちろんのこと、背中には矢筒、腰帯には解体用の黒曜石を留めたり、さらには獲物の目を紛らわすために灰色狼の毛皮を被ったりと、狩りには様々な道具が入り用になる。弓弦を張って矢の数を確かめると、サリナとターリカに手を振って集落の中央へ出ていった。
定期的に縄張りを移す部族にとって皆が集まる場所というのは決めにくいものだが、ここではリヨント様の御姿を縫い上げた旗印がその目印になっている。ニョクドとミユンの二人が来た時にはまだ人が少なく、居を整えた家族から順にぽつぽつと男衆が集まってきた。
「集まったな。出発するぞ」
男衆の仕切り役であるニョクドが音頭を取り、男たちが掛け声で応えた。とはいえニョクドが最高齢というわけではなく、体力の衰えた長老たちは祭儀の支度に回っているだけのことだ。見回りに出ていた男が案内として先頭に立ち、十数人の男たちが続く。その中で顔に傷のない者、すなわち成人ノ儀を終えていない者はミユン一人だけだった。部族でも一番の弓引きであるニョクドの息子ということもあるが、そもそも成人ノ儀を二、三年のうちに控えた子供はミユン一人だけで、他の子供はまだ神聖な狩りに参加を許されていない。
青々とした草の匂いが、狩りに向かう隊列を包みこむように満ちている。一面を埋め尽くす緑の絨毯は膝を覆うまでに伸び盛り、革の装束がなければ肌をひっかかれていただろう、獣の牙のように鋭い葉を押しのけて、山の方へと歩いていく。
ふいに、視界がぐらりと傾いだ。
天の蒼と地の緑とが溶けて重なり合って見えた。足元は風に揺すられた水面のように波打って、おぼつかない。思わず地についた手がやぶで切れ、温い血がにじむのと同時に、何か巨大な存在の拍動が駆け抜けるのをミユンは全身で感じ取った。ただ一度だけ鳴り響く低い鼓動は、稲光のごとく閃いたために幻にも思えたが、得体の知れない、とてつもなく巨大な何かの存在をはっきり示していて、ミユンを震え上がらせるには十分だった。
溶け合ってひとつになった地平は深緑にゆがみ、吹きだまりに滞ったはらわたの匂いが生々しく立ち上ってくる。たまらず咳き込むと重なった景色がぶれ、少しずつ、自分の血の巡りに意識が戻るのを感じた。野牛の疾駆のごとく早まる鼓動、じくじくと血を滴らせる傷跡。荒い息をついて草の香るみずみずしい空気を吸い込むと、ようやく頭が冴えてきて、肩へ手を置かれていることに気が付いた。
「おい、大丈夫か」
はっとなって顔を上げると、義父の精悍な顔つきが目に入った。手を引かれるままに立ち上がると、背には玉のような汗をびっしりかいていた。
「そんなに地震が怖かったのか? 珍しいことなのは確かだが、お前、ひどい顔をしているぞ」
(地震、だって?)
義父の言葉がミユンにはうまく呑み込めなかった。地面が揺れたのはその通りだが、今の現象がただの地震であるはずがない。しかし落ち着いて周りを見渡せば、みな動揺こそしているものの、未知の感覚に恐怖し狼狽しているのは自分ただ一人のようだった。
「本当に、幽鬼でも見たような顔をしている。何か嫌なものでも思い出したか?」
そんなところ、と言葉を濁して息を整える。手の傷口がさほどでもないことを確認し、適当に血をぬぐった。まだ心配そうにしていたが、ニョクドにも狩人たちを束ねる役目がある。大人たちを集めて今の地震について何やら話し始めた。
とどのつまり『今年の霊山は何かが変だ』というのが共通見解らしかった。その通りだ、とミユンも思う。生まれてこのかた地震なんてものは数えるほどしか体験したことがない。しかし、ミユンはこの異常を大人たちが思っているより重く受け止めていた。
(今の鼓動は、リヨント様のものだ)
ミユンは確信していた。理屈ではなく直感がそう告げている。同時に、今まで体験した違和感も徐々に輪郭をもって浮かび上がってきた。なぜ自分だけが感じるのか、それもはっきりわかる。
(俺は、リヨント様に拒まれているのか)
招かれざるよそ者として。必要のない異分子として。ミユンという少年が朱き翼の一族に名を連ねることを、その主たる鳥神はお許しにならないのだ。
神の御心を推し量るなど、それだけでおこがましいことだろう。ましてその意志に逆らおうなどとは考えもしない。しかし従うのなら出ていかなければならぬ。拾い育ててくれた親元を離れて、孤独に生き抜いていかねばならぬ。その事実はとてもぼんやりしていて、この身に切迫していることだと考えられないでいる。
話し合いが片付いて、一度拠点へ戻ろうということになった。作業中の女衆が心配だし、自分たちの無事を知らせる必要もある。霊山を背に負ってうつむきがちに歩くミユンは、鳥神の拒絶を受け入れようとしている自分を切に恨めしく思うのだった。
平原を隔てて暮らすという他の部族はいざ知らず、木材が不足することの多い朱き翼の一族は、太陽とともに暮らすことがよしとされ、いたずらに薪を使うことはまれだった。まして昼夜をあげて行われる朱翼ノ儀を控えた今、祭儀に用いる燃材を浪費するのは褒められたことではない。
しかし最近は、老翁らを交えた深夜の話し合いが連日のように行われていた。地震が頻発し、草原から鳥獣が失せ、山の麓に至っては一面を枯れ草が覆い、生気のない荒涼とした大地が広がるばかりだという。齢五十を超す長老との対談は明かされないが、彼でさえ見聞きしたことのない異常事態だとうわさされている。幸いに未だ実害はないものの、食料は集まらないし、何かが起こっているのは明らかだった。
「迷惑な話よね」
すっかり日も暮れ、手の届く距離でも闇に紛れて見通せないような暗がりの中、義姉ターリカの声だけが透き通って響く。善良な朱翼ノ民ならばとっくに床に就いているような時分、そんなことは露ほども気にしないターリカは、どこから仕入れてきたのかわからない一族の裏事情を語って聞かせることがあった。
「おじいさま方は騒動の原因が成人ノ儀にあるとみているそうよ。なんでも、今年の成人ノ儀には『例外』が参加するのだとか」
今回の成人ノ儀に参加するのはミユンただ一人なのだから、そんな露骨な当てこすりを言われたら寝ている振りを決め込むしかない。とはいえこの義姉はミユンが起きていることも知っていれば、異変の原因が自分ではないかとミユンが悩んでいることも知っている。ミユンは仕方なく口を開いた。
「俺のせいじゃないって言いたいのか」
「成人ノ儀に出るべきなのかどうか、迷っているわね」
ターリカに質問をしてまともに答えてもらったことはないが、今回もそうだった。
「……おかしいか?」
探るような視線を向けるものの、獣脂の灯すらない闇の中では表情さえわからなかった。ターリカの声音は平坦で、その感情は本人のみぞ知ることだ。
「ミユンはここにいるのよ。リヨント様がそれを認めないのなら、ミユンはここにいないはずだわ」
「相変わらずわかりにくいことを言う」
「拒絶するなら遅すぎるってことよ。それに回りくどい脅しなんてしなくとも、煮るなり焼くなり好きにすればいいじゃない」
煮るとか焼くとか、そんな理不尽を働くのはおよそ神様らしくないと思うのだが、義姉はいたってまじめな口ぶりだ。からかっているのかたしなめているのか、せめてそれくらいはわかるようにして欲しい。
「俺は、俺が関係ないとは思わない」
「偶然じゃなければそうでしょうね。今までと違うことってそれだけだもの。でも、気にしたってどうするのよ。ミユンはどうしたいの」
自分の中で堂々巡りしてきた問いを改めて義姉から投げられる。怒るなよ、と前置きしてから、ミユンはぼそりとつぶやいた。
「できるなら、このままふっといなくなってしまいたい」
「馬鹿」
ひときわ低い声で言われた。
「できもしないくせに軽々しく口走っては駄目よ。あなたはひとりでにいなくなってしまえる勇気なんて、これっぽっちもないんだから。どうせ、リヨント様に見放されるならそれでもいいかとか、そんなことを考えているんでしょう」
自問自答の行く末をターリカにまるっきり言い当てられると、自分で自分が情けなくなった時よりもよほどこたえて、苦笑が漏れる。
「やっぱりね。そんなにくよくよしてどうするの。朱翼ノ儀は華やかな祭儀だっていうのに、そんな顔をされたらあたしだって興が冷めちゃうじゃない。自然と同じように神様だって気まぐれなんだから、その思し召しに悩むのなんて忘れて、ぱあっと楽しめばいいのよ」
たちの悪い冗談と笑い飛ばせばいいのか、至極もっともですとしおらしくすればいいのか、はたまた元気が出たと礼を言えばいいのか、判別がつきかねる。しかしいつもより言動が過激に感じて、内心でおやと首をひねった。
「普段に比べて無茶苦茶だな。神様の意志なんて知ったことじゃないと言うのか」
微妙な間が空いて、夜気が頬をなでていった。季節の変わり目にありがちな、暑さと寒さが入れ替わり立ち替わり訪れる周期の、今晩は寒い日の方だった。山肌に湿気を吸われた空気はぴりりと澄んでいて、黒曜石の鋭さをそなえている。
「自分じゃどうしようもないことまで責任を感じているんだもの。あまりに不憫だと思っただけよ」
「なんだか今日はやけに素直だな。どうしたんだ?」
ターリカならもう少し上手いあしらい方を心得ているだろうに。暗がりの向こうで、義姉が身じろぎをするのが伝ってきた。
「馬鹿」
もう一度そう言ってターリカは立ち上がる。そのまま背を向けた拍子に、黒髪の匂いがふわりと鼻をかすめた。
「こんな時間に出かけるのか」
「どこにも行かないわよ。刺繍の残りを片付けるだけ。あたしだって祭儀の準備で大変なんだから。ともかく、朱翼ノ儀には出なさいよ」
言うと、ターリカは天幕の端にうずくまる。ミユンは狐につままれたような気分で、寝具に身をうずめた。
義父母はまだ戻ってこなかった。義父はともかくとして、義母は朱翼ノ民の中でさほど重要な立場にいるわけではない。きっと、ミユンのことについていろいろ聞かれているのだろう。口にはしないが、ターリカと違ってサリナの表情は読み易い。自分が呼び出されるのも時間の問題だろうかと、ミユンは他人事のように考える。
忍び寄る夜気はいよいよ濃く、肌から染みてそのままはらわたを凍りつかせるのではないかと思われた。ミユンは寝具を固く抱き寄せ、義姉は大丈夫だろうかと、ふと見やる。
ターリカは静かに座していた。闇を透かしてよくよく見れば、手には何も持っておらず、膝に顔を押し付けているようだった。
そこでようやく、こう暗くては縫物などままならないだろうと、ミユンは気が付いたのだった。
風に削られた山肌は、それ自体がひとつの神様のように、自らの掌で群れる人々を泰然と見下ろしていた。斜めから差す陽光を照り返し輝くさまは、天を衝く巨大な刃にも見える。
そんな、神域と呼ばれ敬われる霊山の中腹で、朱翼ノ儀が始まっている。
頂へ至ることの敵わない弱き人々のために鳥神が賜ったとされる儀式の場は、槍の穂先を切り落としたような形をしている。すなわち、山の中腹にありながら周りを切り立った崖に囲まれ、斜面から突き出た格好になっていた。上面は磨かれたように、あるいは長年祭儀に使われるにあたりご先祖たちが磨き上げてきたのかもしれないが、平らになっており、天と地のあわいに棲まうリヨント様を祀るには、まさにおあつらえ向きの場所となっているのだった。
鋭い骨笛の音は風に乗り、骨を打ち合わせる音が山にこだまし、巨大な太鼓の音が地を震わせる。ある者は野牛の頭骨を被り、ある者は鳥の羽を髪に挿し、またある者は土着の精霊を表す仮面をつけて、混然一体となって踊っている。天と地、昼と夜、生と死、夏と冬。あらゆる『分かたれたもの』の融和こそ、それらのはざま、あわいに棲む鳥神のなせる御業であり、あらゆる生をひと連なりにして舞い踊るこの儀式は、矮小な朱翼ノ民による、いわば神の奇跡の真似事、その恩寵を改めて理解するためのものだった。
その中にあって、成人ノ儀を控えたミユンだけは人間の役として、普段通りとまではいかないまでもわりに装飾の少ない地味な出で立ちをしていた。額と手首に飾り紐、首には青い石を結わえた革紐をぶら下げ、右の袖に炎、左の袖に氷雪を意味する文様が縫い込まれた上着を、腰帯で締めている。しかし何より重要なのは、成人ノ儀で自らに傷を刻むために用いる黒曜石の短刀を腰に帯びていることだった。
「何をぼうっとしているのよ。そろそろあたしたちの番よ」
そう呼び止めるターリカは、鳥を模したきらびやかな装束を身にまとっていた。鳥神を祀る儀式なだけあって、鳥の姿を借りた衣装が一番目を引く。頭には色とりどりの飾り羽をあしらった被り物をし、普段は洗いざらしの髪も耳の前で編み込んで、後ろ髪は結い上げている。首には羽根飾りと鳥神をかたどった装飾を付け、紅、藍、朽葉色の端切れをひらひらさせた布地を腰に巻いて、鳥の尾羽を表現していた。
鳥の精ならぬ義姉に手を引かれて、ミユンは鳥獣の跋扈する舞踏場へと進んでいく。ターリカのむき出しになった褐色の肌から香油の匂いが漂ってくる。いつもさりげないお洒落を楽しんでいるターリカだったが、今日はここぞとばかりにめかし込んでいるようだった。
思い思いの装いをして踊るとはいえ、一昼夜続く祭りの間じゅう全員で踊っていては身が持たないから、おおよそ四か五の組に分かれて代わる代わる踊るのが習わしになっていた。しかし、『分かつ』ことはリヨント様の恵みに反するので、分けられた組もまた流動的に組み合わせが変化する。誰がいつ誰と踊るのか、完璧に把握しているのはターリカくらいのものだった。
仮面を被った精霊たちの輪が解け、代わりにミユンたちが広場に招かれる。人がはけたことで、緩やかな坂の上に簡素な祭壇があるのが目に入った。石を切り出して作られたそれには供物にささげられた野牛が横たわり、両側にはリヨント様の御姿を縫い上げた旗が揺れている。成人ノ儀の段には自分一人で広場に立ち、あの祭壇を見上げることになるのだろうと考えた。
骨笛がひときわ高く響き渡る。その音色に身をゆだねて、皆でゆっくりと腕を突き上げていく。高く昇った日差しへと手を伸ばし、それが指先まで伸びきった時、腹に響くような太鼓の音がずん、と響いた。
あとは決まった動きはなく、特別な場面を除いては好きなように踊ればいい。踊りが不得手なミユンとしては即興よりも決められた動きがある方がやりやすいのだが、奔放こそ自然の本質であるがゆえなので、そうも言っていられない。比較的ゆったりとした太鼓の調子に合わせて足を運び、見よう見まねで手ぶりを加えるけれども、どうしてもぎこちない。
対して、ターリカの舞踊は見事なものだった。ひとつひとつの動きがなめらかで、美しさ、華やかさを表現する勘所をよく心得ている。色鮮やかな衣装を翻してくるりと回ると、ミユンの方に片目をつぶって見せた。
「いつの間にそんなに練習したんだよ、義姉さん」
小声で耳打ちすると、義姉は心底嬉しそうに含み笑いをした。
「さてね。才能じゃないかしら?」
「嘘つけ、去年はそんなじゃなかったくせに」
「あら、失礼ね。あたしは毎年こんな感じよ。ミユンの見る目が変わったんじゃないかしら」
「どういうことだよ」
「さあ? でも、褒めるにはちょっと早いわよ」
そう言うと、聞き返す間もなくターリカは軽やかに跳ね去っていった。その足取りはまるで自身の重みから解き放たれたかのようで、とうとう本物の鳥になってしまったのだろうかと錯覚するほどだった。しかし、万が一には鳥になって飛んでいってもおかしくあるまい、と思ってしまうのは、謎めいた義姉の性ゆえだった。
義姉が去っていくのと同時に、再び人波がざあっと散り散りになっていった。出番交代だ。ミユンも義姉を目で追うのをあきらめて、広場の中央から離れていく。
代わって広場に立つのは狩人の装束をした壮年の男が一人だけだった。手には黒曜石の穂がついた槍を携えている。槍舞いが始まる、とミユンはひそかにつぶやいた。
呼び名の通り槍を振るって舞う儀式は、狩りを獣と人とのつながりを深める行為ととらえ、半獣半人のなりをした狩人がその武を示すことで、獣の血肉をすする人間の勇猛さ、獣が人間との戦いによって知恵を深めていくさまを表現する。普段の狩りに槍はほとんど使わないのだが、祭儀としての見栄えを優先してのことだろうか。槍の舞い手は一線を引いた狩人が受け持ち、このためだけに槍術の腕を磨く。
地鳴りのような太鼓の音だけが、足元を伝って響いている。獣の足音にも似たその音は狩り場の緊張を呼び起こし、広場を囲う人々は自然と背筋を伸ばして見入ってしまう。狩人は槍を高々と掲げ、一息に振り下ろした。
びゅう、と空気を裂く音が駆け抜ける。黒い切っ先が虚空を薙ぎ、そのたびに風の鳴き声を呼び起こした。一息の間に三方を突き、四方を払う技の冴えはまさに嵐のごとく、その中心にある狩人の姿が霞んで見えるほどだった。膂力の衰えた壮年の舞いとはとても思えない。誰もが押し黙り、舞い手の一挙一動に括目していた。
疾風を思わせる槍さばきはしだいに緩慢になり、代わりに重々しくどっしりとした動きへと変化していった。同じ槍を使っているはずなのに重さが倍は違って見える。草原の主たる野牛の構えだ。力強く踏み込み、ゆっくりと天を突き上げ、それに合わせて笛が吠え声のように吹き鳴らされる。枯れ草色の毛並みをした猛々しい野牛の姿が目に浮かぶようだった。
ふいに、重々しかった槍の動きが軽くなり、その速さを取り戻した。そのさまはさながら山から風への変転のごとく、野牛の舞いから人間の舞いへと瞬時に切り替えたのだ。ここからは、草原にて邂逅した人と獣との戦い、そしてその二者が徐々にひとつとなって、人と獣のそれぞれを超越した存在へと昇華する過程を表現する。
激しさを増す旋律の中で、人と獣の姿を行ったり来たりしながら、舞い手は縦横無尽に駆け、槍を閃かせる。真昼の日差しを受けて黒光りする槍の穂先は雷光のごとく、砂塵の巻き上げられた広場をくまなく照らし出す。不規則な『切り替え』はいつの間にかそれと分からないほどなめらかになり、一連の動きの中で幾度となく行われていた。人と獣、獣と人とが一体となる、舞いの終焉はもうすぐだ。
よくよく見れば、人の姿を借りる時は槍の柄の中央部を持って激しい動きを表現し、獣の姿を借りる時は柄の端を持って雄大な体躯を表現しているらしい。去年までは全く動きを目で追えなかったから、ミユンは少し嬉しかった。
舞い手が槍を大きく振るって弧を描き、ぴたりと止まる。砂塵がゆったりと地に舞い戻っていくのを合図に、槍の石突を足元に突き立て、槍舞いの終わりを告げた。
この槍舞いをもって、朱翼ノ儀は一旦の区切りを迎える。舞い手を囲んで口々に讃える人々の群れに混ざりながら、ミユンはそっと義姉の姿を探した。義父や義母はもちろん、朱翼ノ民のほとんどはその輪に加わっていたのだが、なぜか、義姉の姿だけは見当たらなかった。
探すのを諦めて、ミユンは天を仰ぐ。まだ日は高く、紫がかった山岳の空の中で燦々と照っている。リヨント様の気配が濃くなる夕暮れ時、成人ノ儀が行われるまでには、先は長いのだった。
事前の心配をよそに朱翼ノ儀は滞りなく進展し、日の傾きとともにその締めくくりが近づこうとしていた。じわじわと満ちてくる山の冷気と、あらゆる生の舞い踊る熱気とがないまぜになって、砂と汗の匂いがいっそう濃く立ち上ってくる。夕映えの朱色はまだ見えないものの、空の蒼みは少しずつ薄らいでいた。
成人ノ儀まで、残された時間はごくわずかとなっている。ミユンは人知れず緊張の色を強くして、高鳴る鼓動を抑えつけていた。ただ解せないのは、霊山の麓に居を移したあの日に鳥神の鼓動を感じてからというもの、リヨント様の懐深くまでやって来たというのに、心臓を直接まさぐられるような、あの奇怪な感覚を一切味わっていないことだった。拒絶されているにしろ、そうでないにしろ、朱翼ノ儀を早めねばならなかった異常の原因が自分にあるというのなら、何かしら反応があるはずだ。しかし、だからといって安心するミユンではなく、これが嵐の前の静けさに思えてならず、いっそう緊張を増しているのだった。
伸びやかな骨笛の音を最後に、ただ一人を除いた全員での踊りが終わると、ミユンの出番は成人ノ儀を残すのみとなった。ミユンはざっと視線を巡らせて、やはり義姉の姿がないことを確かめた。もしや、と思った瞬間、一人の女が広場の真ん中に躍り出る。
ターリカだ。ミユンは目を丸くして、聞いてないぞ、と思わず口走った。
日の入りを前にして行われる、朱翼ノ儀の最高潮。槍舞いと対をなすこの儀式は『鳥呼び』と呼ばれ、夕暮れ、すなわちリヨント様の御姿を招く意味をもつとされている。全員での踊りをもって、ありとあらゆる生の融和を、ありとあらゆる死の潜む霊山の中腹で示した後、『鳥神リヨント様が両翼を広げる時分』、昼夜のはざまを迎えるためにささげる舞いだ。
先ほどまでとは装いを異にして、ターリカは半鳥半人の姿をしていた。髪は下ろし、羽根飾りを挿すにとどめる代わりに、肩口にふさふさと羽毛を生やしている。腕はむき出しのまま色彩豊かな飾り紐が絡みつき、ちりばめられた宝石がさらに彩りを添えていた。朱翼ノ儀における主役のひとつであり、半身とはいえ神の姿を借りる役だけあって、その豪華さはこの日この場所でしか見ることのできないものだった。
大中小の骨笛が、絡み合う糸のように複雑な旋律を奏で始める。力強さと繊細さをあわせ持っていた今までの音色と違い、笛の音はどこまでも清澄で、たゆたう湖畔を思わせた。どの音も気が付くと飛び去ってしまいそうなほどに頼りなく、移り気な鳥の性をよく表している。
ターリカの足取りもまた、地に足がついていないのではと思わせるほど軽やかなものだった。つま先立ちになって小刻みに跳び、そのたびに腰から垂れ下がった朱色の尾羽がなびいて、きらきらと鮮やかな弧を描く。区切りの存在しない弧は、あらゆる境界を是としない朱翼ノ民にとって大きな意義を持つ。曲線、回転を基調とするその舞いは、水の流れと同じようにひと時も留まるところがなく、なめらかでよどみがない。地という頸木を知らぬ生き物であるところの鳥が、風と自由を謳歌する姿がそこにあった。
それにしても、ターリカの姿はとびぬけて美しかった。長くつややかな黒髪、色の濃い肌には華美な装飾もよく映える。もしミユンが同じものを身に着けたとして、きらびやかな宝石は白い肌の上で安っぽく見えてしまうことだろう。もちろんその外見だけでなく、ひとつひとつのしぐさに目を見張るものがあった。ただ虚空をなでるだけでも風に多彩な光を散らし、ただ足を運ぶだけでも大地に万の花弁を育む。その居姿は人ならぬものの気配をそなえていて、まぶしかった。そして何より、その姿の義姉はほかのどんな時よりも義姉らしいのだ。
槍舞いの時と同じく、鳥呼びの目的は、鳥神リヨント様とその雛たる生命の融和にある。ターリカの足さばきは見る間に速さを増し、つま先が地を離れることの方が多くなった。しかしその速さに比して振る舞いは優雅そのものであり、にじむ汗さえ宝石に見えるほどだ。そうして少しずつ天地の境目、すなわち中空に舞台を移していく。振り上げる腕をもって翼となし、気ままに宙を駆け踊るさまは、まさに鳥神の眷属と言っていい。けれども義姉らしさは決して損なわれることなく、妖しく無邪気に舞う彼女は半神よりも小鳥と呼ぶ方が似つかわしい気がした。
笛の音が高らかに響き渡ったところで舞いは唐突に終わり、気が付けば太陽が霊山の頂に貫かれようとしているところだった。地に降り立った半神ことターリカは皆の賞賛を浴びながら、大きく肩で息をしている。感慨と混乱の冷めやらぬ面持ちで見やると、義姉はくすりと笑って、ミユンに片目をつぶってみせた。
夕方が、成人ノ儀が迫っている。義姉がミユンを誘ったのは自身の舞いを見せたかったからかと考えて、ミユンは小さく首を横に振ったのだった。
人々の熱気も迫り来る宵の気配に飲み込まれて、水を打ったように静まりかえった広場は、肌のしびれる冷たさに支配されていた。対して山際に日の突き刺さった空は朱色に燃え盛って、今にも火の雨を降らさんとばかりに鮮やかだ。
広場を囲むように焚かれたかがり火が不規則に爆ぜては、いがらっぽい煙の匂いを振りまいている。その中心に座し、神妙な面持ちで祭壇を見上げるミユンの心境もまた、揺らめく炎のごとく穏やかではないのだった。
(リヨント様が、いる)
ミユンは言葉にならぬ何かによって、その存在を感じ取っていた。見られている、と心中でつぶやいた。もちろん朱翼ノ民は全員が顔を連ねているし、成人ノ儀を見られているのは当たり前だ。しかし感じる視線の迫力たるや並々ならぬものがある。考えるまでもなく、これは自分にしか分からぬ感覚だろうと直感していた。
成人ノ儀は朱翼ノ儀におけるほかの祭儀と比べていたって単純であり、鳥神の御前で自らの覚悟を宣誓し、黒曜石の短刀で顔に傷をつけるだけだ。もちろん、火を焚くとか贄をささげるだとか些末事がないではないが、一番大事なのは本人の決意である。
ミユンは腰に帯びた短刀を引き抜き、逆手に持って目の前に構える。あとはこの切っ先を自らの顔に引っ掛けるだけだ。刀身は空の朱を映して毒々しい色に染まり、その鋭い牙で覚悟の強さを問うていた。ミユンはたまらず、固く目をつぶった。
(俺の、覚悟……)
決められた手順も、作法もない。あとは自分の好きなように傷をつけるだけで済む。しかし、ミユンにはそれができなかった。
手が震える。鼓動が早くなる。あの奇怪な感覚かと思ったが、違う。自分が今感じている恐怖は決して外界からもたらされる類のものではなかった。もやもやと肚の底に沈んでいた心象が急速に形を伴って、のどをせり上がってきた。
(俺には、覚悟なんてものがない)
見開いた視線の先で、黒曜石の刃は今まさにミユンを断罪せんとあぎとを広げ、飲み込もうとしているように見えた。ミユンにはそれをにらみ返す勇気がない。情けなかった。絶望だった。自分が自分であるという拠り所が足元から音を立てて崩れ、どこまでも落ちていくような気がした。否、拠り所など自分には最初からなかったのだ。所詮は拾われ子で、何の気負いもなく暮らしていた自分には。
冷や汗が背を伝う。のどがからからに乾いて、舌の根が張り付きそうだった。視界がぼやけて、目を閉じる気力さえ失われている。朦朧として、自分の息の音がやけに早く聞こえた。諦めればどうなるか考えるのも億劫で、今にも短刀を取り落としそうになる。
そして、自分はこの醜態を鳥神に見られている。
ずずっ、と経験のないほど低く重い振動が伝ってきた。はじめ、その鼓動に気付かなかったミユンだったが、それに止まる様子がないので、はっとなって顔を上げた。
あたりでどよめきが起こっていた。今や地面は水面のように波打ち、ずずっ、ずずっ、と巨大な石臼を挽くような、おぞましい地響きが続いている。ミユンはもちろん、儀式を眺めるほかの面々も一様に蒼ざめて、尋常ならざる事態に畏怖していた。
誰かが空を指さして叫ぶ。夕映えの朱色が、陽炎のように揺らめいているのが分かった。何が起こっている、と怒鳴り声が聞こえた。遠くの方で、がらがらと山肌が崩れ落ちる音がする。
まさに驚天動地のさなかにあって、ミユンは逆に落ち着きを取り戻していた。裁きに来たのだ、と思った。ついに、どうしようもなく不甲斐ない自分が相応の罰を受けるのだと思うと、いっそ諦めがついたのか、すこぶる冷静になることができた。
今や、幻であるはずの鳥神の鼓動は全身を駆け抜け、夢とも現ともわからなくなっていた。来る、とミユンは確信する。それに応えるかのように、天地の鳴動はひときわ激しくなった。
天空で大気が逆巻き、大地で砂礫が跳ねまわる。壮絶な地鳴りは天地の境をあいまいにし、そのあわいに凄烈な覇気が凝り固まっていく。神威は烈火にも似て、同時に静謐な厳かさもそなえていた。岩に挿してあったかがり火が揺れに耐え切れず倒れると、こぼれた火炎がひとりでに地を駆けてミユンを取り巻いた。その赤々と輝くさまは生命の息吹を感じさせ、荒廃した岩肌に魂の灯をともした。
炎は天を衝いて屹立し、風は渦巻いて吹き下ろす。雲もなしに稲妻が爆ぜ、雪の粒がきらきらと光を散らした。乾いた砂と、腐ったはらわたと、熱い汗の匂いが一度に香って場を満たす。あらゆる分かたれたものが、ひと連なりに繋がっていく。その交点に集まる気配は、目を閉じようとも、耳を塞ごうとも感じられるまでになっていた。
大きな影が、空を覆って伸びた。
気付けば、そこに鳥神の御姿があった。天空を抱く左翼と、大地を抱く右翼とをいっぱいに広げ、呆然とする仔、朱翼ノ民たちを見下ろしていた。
その巨躯はたとえようもなく大きく、山や草原と比することは敵わないまでも、屈強な野牛ですら虫のように見えるほどだ。翼から腹にかけて鮮やかな朱色に染まり、風切り羽は部分的につややかな漆黒をしている。尾羽は端だけ緩やかに伸びて、地面をこするぎりぎりのところまで垂れ下がっていた。
しかし、その御尊顔だけは不思議と定かでなかった。形つくりは鷲のようであって、影か靄かを被っていてよくわからないが、目の下あたりに横一文字の模様があることだけ、なぜかはっきりと見て取ることができた。その模様は、成人の男が顔へつける傷跡によく似ているのだった。
鳥神が顕現してからというもの、あたりの風景をうまく知覚することができなくなっていて、祭儀に使われる広場だけが混沌とした虚空に浮かび上がっているように見えた。あらゆる境界が失われていて、人の認識にはそぐわないのだろうか。しかし、戸惑う朱翼ノ民たちの声だけは、不可思議な空間にざわざわと響いていた。
その喧噪を払うように、どこからともなく声がする。
――聞くのだ、我が仔らよ。
ミユンを除いて、雷に打たれたような緊張が走るのを感じた。託宣だ、と誰もが思った。無論、いくら齢を重ねた長老とて、この状況に遭遇するのは初めてに違いなかった。
息を呑む音だけが耳をついた。ミユンもまた、静かにその言葉を待つ。
――この地に危機が訪れよう。
――いずれ、草原の果てより現れし者ども、この地を平らげるであろう。
――我が愛し、汝らが慈しむこの地を守りたくば、備えよ。
――願わくは、我の尊ぶ和が成らんことを。
静かに凪いでいた胸の内が、いびつにざわつくのを感じた。この地の危機? 外からの侵略? 自分が予期していたのとまったく違う文言をリヨント様は賜った。広くこの大地と空を統べる鳥神が、自分というたった一人の人間にかかずらうはずもないと今更ながら気が付いて、おこがましい考えと自分の浅はかさを恥じた。
と、鳥神の託宣はまだ終わっていないようだった。
――そこなる青年よ。
呼ばれたのが自分だと気が付くのに、しばらくかかった。驚いて見上げれば、鳥神の視線こそ元のままだったが、なんとなく、こちらを見ているのだろうということが察された。
――汝、内と外とのはざまに生まれし者。
――汝、老いと若きのはざまに立つる者。
――汝、個と群れのはざまに生きる者。
――汝、草原と住居のはざまに棲まうもの。
応えもできずに、ミユンは鳥神の言葉がただ体を通り抜けるにまかせていた。やめてくれ、とミユンは思った。リヨント様がその続きを仰せになるのが、なぜだか無性に恐ろしかった。
――はざまに在りし汝、和を成すに足る者なり。
――我が望み、汝の往く先に開けん。
――我、汝を光明となし、これを助く。
――汝、これを是とすれば、備えよ。
言葉の意味を、しばらく呑み込めなかった。鳥神に希望を託されているなどと、実感が湧くはずもなかった。ミユンが呆然と見上げる間に、リヨント様の御姿はたちまちおぼろげになり、気が付けば、元のように広場の中心に立ち尽くすのみだった。
危機、希望、自分。三つの言葉が頭の中をぐるぐる回ったまま、ミユンは長い息を吐いたのだった。
こごった手をさすりながら、ミユンは獣脂の灯りを見つめていた。中断となった朱翼ノ儀から戻ったものの、当然のことながら夜はすっかり更け、心身ともに困憊した面々は、ともかく相談事は明日にして今晩は休息をとろうということになった。しかし、いったいどれだけの人が安眠にあずかれるだろうか。きっと、寝ずの晩を過ごす人の方が多いに違いない。何せ、自分たちの信ずる神様との邂逅を果たしたのだ。
ミユンは天幕を離れて、草を刈ってならした場の、縁ぎりぎりのところに一人で腰を下ろしていた。ターリカがついて来ようとしたが、一人になりたいと言って置いてきていた。
つまるところ、鳥神は外敵の襲来を予見し、収集を付けるための準備をせよとおっしゃったのだ。そして、朱翼ノ民とは異なる血筋を持つミユンにこそ、その可能性があるのだということらしい。
その場の皆で改めて神意を確かめると、自分を中心にめぐる事の大きさに、冷水を被せられたような心持ちだった。自分に向かって、我々を助けてくれと懇願する者もあった。その瞬間、すさまじい嫌悪感に駆られた。頼み込んできた人に対してではない。その矛先は自分に向いている気がしたのだが、具体的にどういう嫌悪なのかはわかりかねた。
しかし、帰りの道中で義姉の言葉を聞いた時、その正体をつかんだ。
「わかったでしょう? あなたはここにいていいのよ」
ターリカはそう言った。即座に、違う、と口に出た。義姉はその意味をつかみかねたようだが、ミユン本人には理由がわかった。
(俺は、何ひとつ自分で決めたことがなかったのだ)
腰帯には、未だ黒曜石の短刀が収まっている。その鞘をミユンはそっとなでた。
狩りの時も義父の指示を聞くばかり。朱翼ノ儀に出ると決めたのも、義姉にそう言われたからだった。そもそもここで暮らしているのだって、家族、一族がミユンを受け入れてくれたからだ。そこに自分の意志はまるで関係がない。
そしてあまつさえ、神様が自分を受け入れたことを理由に、ぬくぬくと朱翼ノ民として暮らそうとしている。そんなのは違う、とミユンは思った。
(自分はここにいていいんだと、一族の命運を背負っていいんだと、自分で納得できるような人間に、俺はならなければいけない)
留め具を外し、黒曜石の短刀を抜き放つ。
漆黒の刀身は宵闇にその輪郭を溶かし、静かにミユンを見据えていた。ミユンは真っすぐとそれを見つめ返し、ゆっくりと呼気を整える。
(俺の中には、何もない)
朱翼ノ儀の広場、リヨント様の御前で刃に相対しながら、ミユンは自らの虚無をさとった。他人の意思の寄せ集め、それこそが自分の本性なのだと気が付いた。だからこそ、一人で見聞し、一人で考え、一人で決断しなければならない。それが、今の自分にとって一番大事なことだと思った。たとえそれがいくら迂遠な道のりであったとしても、そうでなければ自分は納得できないと思った。
肚は据わったか、と誰かに聞かれた気がした。
刃の切っ先だけは、闇に紛れず輝いて見えた。目を開いたまま、それを自らの頬に近づけていく。ぷつっ、と血が滴って、膝がしらに垂れ落ちる。
痛かった。今まで経験したことのない痛みだった。思わず目を閉じそうになって、何とかこらえる。これは覚悟を示す儀式だ。自分の信念、朱翼ノ民として生きるに足る決意を示すためのものだ。父も、その父も、さらにその父も、朱翼ノ民として生きる男が誰しも通り抜けてきた道だ。
しかし、ミユンが負うものは大きい。何も知らない外の世界、そしてこの地を侵しに来るという人々のことを思うと、心が萎えそうになる。自分がいかに矮小か、朱翼ノ民を背負って立つにはどれほどの艱難が待ち受けているかと思うと、今ここで放り出してしまいたくなる。誰かに押し付けてしまいたくなる。しかし、それは嫌だった。そんな自分には、自ら愛想をつかしてしまうだろうと思った。
歯を食いしばり、目を見開いて刃を直視する。夕暮れ時と違って、黒曜石の刃はただ冷ややかにたたずむのみだった。こんなものはただの道具だ。恐れるべきは、自らの弱さのみ。
集落のはずれ、夜に呑まれた草葉の脇で、ミユンは独り儀式を終えた。
その間、彼は決して声を上げなかったのだった。
それから三日目の朝、旅装の仕上げとして革の胸当てを巻いたミユンは、腰帯の短刀を確認し、膝を叩いて立ち上がった。
「ちょっと、包帯替えるの忘れてるじゃない」
と、義姉に背中を引っ張られて立ち止まる。夜寝る前に替えたからよかろうと思ったのだが、そう言えば倍は小言が返ってきそうだったので、しぶしぶ囲炉裏に腰を下ろした。
ターリカはすっかり普段通りの恰好をして、鳥呼びでの姿とはまるっきり装束を変えていた。しかし羽根飾りだけはえらく気に入って、無理を言ってもらってきたらしい。滝のように流れ落ちる黒髪に目立たぬよう挿している。そのせいか、あの時の面影がふいに蘇ってきて、思わず目をそらしてしまいそうになる。
「こら、動かないの。傷が擦れるわよ?」
ターリカは器用に包帯をほどいて、顔の傷跡に薬を塗っていく。それくらい自分でやると言いたかったが、革の手袋をつけていてはそういうわけにもいかない。結局、包帯を巻きなおすところまで義姉にまかせきりになってしまった。
旅に出ると決めたのは、成人ノ儀を終えて天幕へ戻った時だった。傷を見て驚いた家族にその旨を告げ、余計に仰天されたのが遠い昔のことに思える。一族の危機に際して頼みの綱であるミユンを、みだりに旅に出すのはどうか、と反対の声も上がったが、まさに外の敵に立ち向かうため情報を集めなければいけないと言うと、その意見も萎んでいった。しかし、それはあくまで理由の半分であり、もう半分の理由を知っているのは、例によってターリカだけだった。
「ちゃんと戻ってくるのよ」
天幕を背に妖しく微笑みながら、義姉はミユンの背中を叩いた。相変わらずその力は頼りなかったが、じん、と胸の奥に響くものがあった。
「もちろん。そのための旅なんだから」
自分がここにいていいと、納得するための旅。自分にしか見えないものを見て、自分にしかできない決断をして、帰ってくるために旅に出ると決めたのだ。
「帰ってきたら、結婚してあげるから」
まったくこの義姉は、平気でこんなことを言う。どんな表情をすればいいのかわからず、宙ぶらりんにひきつった顔になってしまう。
「ほんとよ」
言って、義姉は身を寄せてきた。背が上回ったのは、いつのことだったろう。意外にだいぶ前のことだった気がして、ミユンは面映ゆい気分になる。
「ああ」
答えて、ターリカの目元をぬぐってやる。彼女の涙は、見たことがなかった。
「行ってくる」
臨む草原は朝日を浴び、涼やかな風に芳しい草の香を乗せていた。一面の緑を前にして、その道程の果てしなさを思う。しかしそれこそ、ミユンが挑まねばならぬものだった。
じくじくと痛む傷に包帯の上から手を置いて、ミユンは歩き出す。
帰るころには、傷も癒えているはずだった。
朱翼のリヨント 八枝ひいろ @yae_hiiro
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