タイム・ディメンジョン・スペクトロスコピィ

八枝ひいろ

第1話

 冷却器【クーラント】の電源を入れて五分待ち、内部温度が二十三度を割ったところでチタンサファイアレーザーのスイッチをひねって、モードロックが始まるまでに他の装置を立ち上げていく。

 会議机くらいの大きさの光学台は、やたらたくさんの機械類に囲まれているが、一つとして不要なものは置いていない。シグナル・ノイズ比を良くするためにロックイン検出という手法を使うのだが、そのためにはロックインアンプ、プリアンプ、レーザーに変調をかける音響光学素子【AOM】と、信号発生器【ファンクション・ジェネレータ】が必要になるし、光学遅延をつけるためのディレイステージ、信号をパソコンに取り込むためのアナログ・デジタル変換器【ADC】などもなくてはならないものだ。ときどき信号が謎の挙動を示すので、オシロスコープを使って波形を確認することもあるし、光学系の調整にはライトが必需品だろう。

 一通り準備を終えて、取り留めもなく辺りを見回す。実用一辺倒の直方体、飾り気の欠片もない実験室が薄暗いのは地下なのもあるが、レンズや鏡の調整は暗い方がやりやすいという事情がある。貴重な試料を保管するために真空を引く油拡散【ディフュージョン】ポンプが稼働しているせいで、無機質な騒音が部屋を覆っているものの、実験に集中していれば別段気になることもない。

 レーザーが出ていることを確認して、レーザー光を止める絞り【アパーチャー】を開く。服に当たれば穴が空いてしまうので、ほとんど無意識のうちに裾を手で押さえながら作業する。実際、新品の黒いシャツを焦がしてしまったことがあるのだ。とはいえ、自分が使うレーザーの出力はせいぜい一ワットで、肌に当たろうとも火傷をすることはない。目に入らないように気を付けてさえいれば安全な実験といえるだろう。

 しかし、どうしても慎重になってしまうのは、光学台に乗っている実験器具が軒並み高価だからだ。チタンサファイアレーザーは言わずもがな、レーザーを反射させる鏡だって銀鏡ではなく反射率の高い誘電体鏡を用いるため、一枚あたり三万は下らない。そもそも鏡やレンズを支える棒ですら一本あたり一万もするのだ。それを何でもないように扱うなど、自分のような学生風情にはとんだ贅沢に違いない。

 もしも自分の利益を顧みず分け隔てなく他人の不幸を願ってやまない殊勝な悪党がいたとして、誰彼を構わずに効率よく他者へ損害を被らせることを第一に考えたとしたら、大学の実験室に忍び込んで荒らし回るのが手っ取り早いに違いない。研究室によっては億単位の装置が平気であるし、装置がその実験室にあるというのは値段以上の価値を持つ。例えば世界に二つとない性能を持っていたり、超々高真空を実現するために数か月かけてポンプを回し続けていたりするから、その準備に要した時間が無に帰することとなる。目の前にある光学台だってそこまでの労力はなくとも、コツコツと組み換えや調整を繰り返して測定ができるセットアップを実現しているので、嫌がらせに一つでも鏡を外されたとしたら冗談と笑って済ますことはできないだろう。他にも、低温実験をやっているところで液体ヘリウムのタンクや回収用のパイプラインを壊されれば、その場所だけでなく人類そのものの損失と言っていい。冷却用のヘリウムはそれだけ貴重なのだ。

 さらにはもっとわかりやすい話として、実験室は日中深夜に関わらず施錠されていないことが多い。これは管理している人にもよるだろうが、実験がいつでもできるように開放されていて、その状態で人がいないこともざらだから忍び込むのは容易い。とはいえ、現実問題として空き巣が入ることがまずないのは、人気のない深夜は建物そのものが施錠されているのもそうだが、仮に高価な実験装置を盗み出したとして取り扱いも売る相手もわからないからだろう。たとえ似たような研究をしている同業者であろうと、装置が違えば勝手を知らないことがほとんどだ。自分だって未だに鏡の性質や調整のテクニックなど把握し切れていないところがあるし、実験はある種の職人芸、一目で委細を理解されてはたまらない。

 ロックインアンプの表示を見ながらディレイステージのねじを回し、シグナルが一番大きくなる場所を探す。電圧を示す数字とゲージが薄暗い部屋の中で赤く光っている。レーザーも赤いし、アンプの電源ランプも赤い。とかく機械類が発する光は赤いものと相場が決まっている。パルスの発振周波数が赤色領域に対応しているレーザーはともかくとして、他の発光がことごとく赤色なのはきっと暗闇に映えるからだろうと、そんなことを考える。

 放物面鏡、レンズ、非線形結晶、EO結晶。シグナルを強くするためにあちこちのねじを回して数字とのにらめっこを続ける。道具立ては仰々しいが、やっていること自体はそんなに難しいことではない。ただレーザーで光を発生させて試料にぶつけ、通り抜けてきた光量を測定することで試料の性質を調べる、分光実験というやつだ。さっきから調整を繰り返しているのは要するに鏡やレンズの位置と向きを調節してレーザーや光が綺麗に飛ぶようにするためであり、それだけなら中学理科の範疇になる。大事なのはこの実験装置でどんな試料を調べ、どんな現象を見つけるかだ。それはまさに実験屋の才覚が求められる場所だが、一方でこういった地道な調整もまた実験に携わるものに必須の技量なのだった。

 非線形結晶の場所を水平にずらすと一気にシグナルが大きくなった。しめた、と思って一番シグナルが大きくなる場所を探す。昨日光学系を組み替えてからは最高記録だ。三ミリボルト、これだけあればシグナル・ノイズ比はだいぶ良くなるだろう。昨日はあれこれ考えながら動かしてみてあまり強いシグナルは見えなかったが、なんだかんだ手を動かした方が手っ取り早いこともあるのだ。

 と、試しに光を手で遮ってみると、それがぬか喜びであることがわかった。光が検出器まで届いていないはずなのにシグナルが出たままになっている。漏れ光、つまりは光がどこかで反射なり屈折なりして意図した経路を外れ、検出器まで届いてしまっているということだ。よく見れば、非線形結晶を取り付けた縁のところにレーザーが当たって反射しているようだ。ねじを戻して、改めて光を遮ってみる。正しい挙動に戻ったが、シグナルの強さも元通り、むしろ少し弱まっている。

 今日も長くなりそうだ。苦笑いしながらも、そんな簡単にいくわけがないとあきらめの気持ちもある。いずれにせよ、時間はまだまだあるのだった。

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タイム・ディメンジョン・スペクトロスコピィ 八枝ひいろ @yae_hiiro

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