獄中のジャッジメント

八枝ひいろ

第1話

 見えない刃が鮮血を撒き散らした。

 壁を埋め尽くす分厚い本の数々、その背表紙にぶつかって血の雫が砕け散る。眼前でくぐもった断末魔を上げる男は、整った短髪に仰々しい銀縁の眼鏡。膝まである長い白衣の左胸から緋色の噴水が立ち上り、その反動で男はがくりと崩れ落ちる。自由落下する顔は驚愕と苦悶、そして微かな狂気が混ざり合って濁り、肺から漏れ出る空気の音をバックコーラスにして、人のものとは思えない猟奇的な嘲笑が響く。

しかし実に奇妙なことは、その笑い声の主、いや、その手に握る刃物さえも、この目に映らぬことだった。男は今まさに殺されたというのに、犯人の姿も、凶器の影も、そこには無かった。男が立ち上がり、目を見開いた刹那、胸に一本の赤い筋が浮かび上がったかと思うと、あとはひとりでに事が進んだ。まるで道化師の独り芝居だが、事はそう形容できるほど穏便なものではない。

僕が立ち尽くす部屋はどこかの研究室のようだった。ずらりと並ぶ本には小難しい横文字がひしめき合い、地震対策と思われる銀色の棒に囚われている。デスクの上のノートパソコンは僕に背を向けた格好になっているが、血飛沫を真正面から浴びておかしくなったらしく、壁に真っ青な光を晒している。つるつるした白い床を舐めるように血液が蝕み、姿なき甲高い声の残響が脳の芯をがんがんと揺さぶる。一方で、机に山積した紙の束は微動だにせず、ひたすらに沈黙を守る。

 そこまで見てとったところで、不意に視界が暗転した。背後で電灯のスイッチを切る音が聞こえた。直後、時計のように規則正しい足音。せわしないリズムはだんだんと遠ざかり、小さくなっていく。ブルースクリーンのほのかな光は息せききったように明滅を繰り返し、ついに途切れて完全な暗黒となった。

それが何かの合図になったかのように、突如平衡が歪み、天地が逆転するかのごとき衝撃が、僕の身を襲った。気がつくと、いつしか逆巻く渦の中に投げ込まれていて、空間をひっかきまわす激流に足をとられてしまった。懸命に抗おうとするが、息をする間もなく吸い込まれる。凄まじい酔いとともにつきつけられた無力感をかみしめながら、意識が遠のいてゆく。



「目が覚めたか」

 アルコール消毒液のひややかな匂いが鼻をつく。うっすら目を開けると、厚手の布地が目を覆っていることに気がつく。

「ここが何処だかわかるか?」

「病院……ですか?」

僕は答える。

「ふむ、では、名前は? 君の名前は何と言う?」

「僕の……? 名前……?」

「そうだ。名前だ」

「分かりません……本当です……何も覚えていないんです……」

「本当に、何も?」

「ええ、なにも……」

「素晴らしい! 実に素晴らしいぞ!」

 ははは、と医者らしき男は高笑いを始めた。僕は思わずぎょっとした。顔に覆いかぶさっている目隠しをむしり取りたい衝動に駆られたが、腕を動かそうとして、固定されていることに気がついた。身をよじらせて必死に抜けだそうとするも、手だけでなく全身が拘束されていることが明らかになっただけだった。

「いやはや、やはり奴は天才だ。ここまで完璧に記憶をブロックできるとは。あの劇的なシーンを目の当たりにしても、ちっとも揺らがない」

「何の、何のつもりだ! 僕をどうする気だ!」

 謎の男は急に笑いを引っ込めると、諭すように僕に語りかけた。改めて聞くとその声は機械を通しているらしく歪んでいて、ときどきノイズが混じる。

「いいかい、君。私、いや我々は君に危害を加えるつもりは毛頭ない。記憶を奪っているのも一時的なことだ。全てが終われば一切合切元に戻す。約束しよう。しかし、それまで君は何もかも忘れていてもらわなければならない。ある意味では君自身のためにも」

「僕……自身のため……?」

「そうだ。いいかい、ここである人物が殺された。君がたった今目にした光景は、まさにその殺害現場だ。結論から言えば、君の仕事は犯人の特定ということになる」

「記憶のない僕に、どうしろと?」

「記憶がないからこそ、だ。ここの研究所は少々特殊な場所でね、内部の情報は門外不出、第三者に知られるわけにはいかない。かといってこの事件、殺された人物の立場上看過するわけにもいかない。厄介なことに、ここではグループごとの利害関係や研究方針の確執が強くてね、内部の人間には客観的な視点、公平な判決は望むべくもない。だからこそ君の記憶を奪い、強引に第三者を仕立て上げた。つまり君は、『無知のベール』を被った裁判官というわけだ。ジョン=ロールズの思考実験だな。もっとも、君は既にその単語を忘れてしまっているだろうがね」

「ということは……もし僕が記憶を取り戻した場合は、全て最初からやり直しということか……?」

「ふふふ、流石、記憶を失っても頭の回転の早さはそのままとみえる。その通りだ。お互いの面倒を避けるためにも、自身の事は追及するんじゃないぞ。君はこれから『ジョン=ドゥ』と呼ぶことにする。いいか、ジョン=ドゥ、君の判断は絶対だ。これから知ることになるだろうが、この罪は非常に重い。『犯人には極刑を』が君を含めた全員の総意だ。君に良心があるならば慎重な判断を期待するよ」

「待て、僕は当事者の話から全てを判断することになるのか? ベッドに拘束されたまま? 拷問にも程があるじゃないか」

「いやそれは違う。忘れたのか? 君が既に殺害現場を目撃しているだろう。君はもう一度眠りにつき、夢の世界を彷徨う。しかしただの夢ではない。人が夢を見るのは記憶を整理するためと言われるが、君が見るのはその記憶の断片だ。事件の発覚した日の夜、装置をフル稼働させてここにいる全員の夢を採取した。そのデータは一つに紡ぎ合わされ、現場の写真や映像とリンクして、失われたあの日を蘇らせた。君にはその中で実際に見、聞き、判断することになる」

「いまいち状況が飲みこめないな。もっと詳しく話してくれないか」

「悪いがこれ以上は話せない。君に話すことはあらかじめ決められている。公平を期すためだ」

「公平……ね」

「では、始めさせてもらう。いいか、もう一度忠告しておくが、君の判決は絶対、犯人は極刑、だ。肝に銘じておくように」

 分かった、と答えるか答えないかのところで、急激に全身の感覚が抜けていった。覚醒の時とは逆に、夜の闇は静かに忍び寄る。いつしかあたりは濃密な暗闇に沈んでいた。



目を覚ますと、つい先刻の研究室と思しき部屋にいた。ただし、さっきと違って小さな窓から光がさし、朝の訪れを告げている。

「所長? 所長、どうかされましたか?」

 コツコツとノックの音とともに、低音の効いた男性の声が響いた。

「失礼します」

 ゆっくりと、静かに扉が開かれる。姿を現した男性は凛々しくはきはきとした青年らしい顔立ちで、すこしクセのついた茶髪を後ろに流している。胸元に光る銀色のネームプレートには『Corin Napier』と書いてある。

「所長……? お出かけだろうか……」

 入ってすぐのところの衝立のせいで、入口から死体は見えない。しかし、その下の隙間から伸びる紅色の線は、白い床にくっきりと浮かび上がっている。それに気がついたネイピアはあっと悲鳴を上げて、素早く死体の方へと駆け寄る。確認すると、懐から電話を取り出して叫ぶ。

「医務室か! ネイピアだ! 所長が倒れている! 至急医師を手配しろ! 至急だ!」

 言いつつ、ネイピアは血の染みに足をつけないように気をつけながら、空いた手で『所長』の脈をとり、眉間にしわ寄せて腕時計を見やる。その背後から腕時計を覗き込むと、七時五分前を指していた。彼はそのまま部屋を出て入口の前で腕を組み、苛立たしそうにかかとを鳴らす。

 その間、もう一度死体をじっくりと眺めることにした。殺害のシーンでは気がつかなかったが、ネイピアと同じようにネームプレートをつけている。真っ白の名札には血がこびりついているが『Eric Tanner』の文字がかろうじて読みとれる。傷は深く、胸の真ん中、少し左寄りの位置を貫いている。実際にその場面を見たわけだが、即死だったに違いない。もがいたり抵抗したりした様子も見られないが、顔だけは恐怖の土気色に染まっていた。

 部屋の中は相変わらずだった。たくさんの本が雑多に並び、パソコンはつむじを曲げて黙りこみ、かさかさと微かな音を立てる書類の山が机の大部分を占領している。

僕は、その中の一枚をつまみ上げようとして、盛大にすっ転んでしまった。机に乗せようとした手がそのまますり抜けたのだ。しばし呆然として横たわり、目を白黒させながら起き上ったところでようやく悟った。


――ここは既に終わったこと、過去の記憶でしかない――


この中では僕はゴースト、何に対しても干渉の許されない傍観者なのだ。自分の手を目の前に持ってくると、白く濁ったガラスのような質感のイメージが現れた。――自身の事は追及するんじゃないぞ――あの言葉をもう一度つきつけられた気分。どうもずいぶんな厄介事に巻き込まれたらしいという実感が、じわじわと輪郭を露わにして込み上がってくる。

 その瞬間、机の上から一枚の紙が降ってきて、微かに燐光を放つ僕の膝に落ちたかと思うと、そのまますり抜けて床の上で止まった。その光景は無性に気持ち悪いものだったが、その内容に興味をそそられて、体をずらして覗き込んでみる。それはどうやら簡単な研究報告らしい。


 七月二日(月) 定期報告


記憶の制御技術に関する成果報告

エリック=ターナー


強制催眠誘導装置(Compulsory Hypnotizing Apparatus : CHA)を用いた後催眠暗示療法により、記憶の一時的な凍結処理が可能であることが確認された。ただし、あくまでも心理的なバイアスによって記憶を封じ込めるに過ぎず、通常の催眠療法で凍結を解除するのは比較的容易であり、さらには、凍結処理した記憶に関連した経験により解除され得ることも同時に確認された。今後、実験データを収集し、記憶凍結能力の時間的範囲、強さの検証を行う方針である。なお、最終目標である記憶完全抹消技術については、未だ実現の目処は立っていない。


 強制催眠誘導装置(CHA)開発に関する成果報告

 ティノ=メルザリオ


 新たに二台の強制催眠誘導装置を製造し、実用に足ることを確認した。今回、記憶リーディング研究への応用を視野に入れ、核磁気共鳴モジュールの改良と増設を行い、解像度を従来のおよそ二十五倍に引き上げた。また、外部電磁場の感知精度と電磁場出力の精度を向上させることで、ノイズキャンセリングの性能改善に成功したため、より安定的で長時間の実験を可能にすることが期待される。


 無知のベールを用いた陪審員制度に関する成果報告

 エックバート=ビューロウ

 

 複数の被験者に対しCHAによる記憶凍結を施し、冤罪認定の出た判例、通常の判例を無作為に選択、その状況を説明し、罪の有無を判断させる実験を行った結果、実際の判決よりも有意な正確性があることが確認された。ただし、現段階では催眠状態を保つのに時間的な制約によって、量刑など複雑な判断はさせられないため、装置の改良が求められる。また、実際の判例が適切であるかの検証も、より精緻に行う必要があると考えられる。


 記憶リーディング技術に関する成果報告

 ユキ=エノモト


 強制催眠誘導装置による催眠状態下において、過去の記憶を連想させる暗示をかけた上で、海馬に対してCHAによる電磁場出力を行い、その応答を核磁気共鳴モジュールにて追跡することで、海馬全領域の活動を高解像度で記録することに成功した。また、想起させた記憶の種類や被験者よって活動状況が異なることを確認した。このことから、将来的に海馬に保存されている中期記憶の読みとりと再生が可能になることが示唆される。



「即死ですね。出血多量によるショック死と考えられます。切創は心臓まで到達していて、抵抗する力もなかったでしょう」

いつの間にやって来たのか、見知らぬ三人が死体の周りを取り囲んでいた。各自、脈を診たり写真を撮ったりしている。ネイピアといえば、現場を荒らさないように部屋の入り口のところで待機して、注意深く動向を見守っている。

「凶器はあるか?」

ネイピアが訊いた。

「ありません。持ち去られたようです。傷口を見る限り、大ぶりのナイフだと考えられます」

「死亡推定時刻は?」

「死後、六時間から八時間経過しているものとみられます。おおよそ、昨晩の十一時から一時の間です」

「そうか……その時間帯だと、ここに出入りできた人間はかなり限られるな……鑑識に相当する調査は可能か?」

「我々では無理です。相応の人間を呼びましょうか?」

「頼んだ。くれぐれも現場は荒らさないでくれ。私は各グループリーダーに収集をかける。いいか、死体に気を取られて互いの行動を見逃すんじゃないぞ。君たちにはアリバイがあるが、犯人と利害関係にある可能性が高い。犯人は間違いなく内部の人間だ」

「分かりました」

「すぐ戻る」

 そう言って、ネイピアは足早に廊下を歩き去っていった。見るべきものは見たと判断して、それに続く。

 と、部屋の敷居をまたいだ瞬間、妙なめまいに襲われた。いや、その割に足元はしっかりしている。ちょっと額に手を当てて再び目を開けると、たった今くぐったはずの扉は跡形もなくなっていた。



「今回皆様にお集まりいただいたのは他でもありません、本日午前六時五十三分、本研究所の所長であるエリック=ターナー氏が死体で発見されたことについてです」

 目を白黒させてあたりを見回すと、そこは廊下ではなく会議室の真ん中であった。だだっ広い絨毯張りのホールにはゆうに百人は入りそうだが、その中央にしつらえられた円卓に座るのはたったの四人。僕が立っているのはその机の傍、今発言したネイピアのすぐ隣である。勿論、先刻までいたはずの、おそらくは所長室であろう部屋の面影は一切なく、灰色無地の絨毯には一点の血の染みも見受けられなかった。真っ白な壁面も清潔そのもので、ところどころ壁紙の継ぎ目がうっすら見える程度だった。

「そうやって君は言うがね」

 ネイピアの対面に座る恰幅のいい男性は、彫りの深い、岩から削り出したような渋面に太い指を絡ませて、皺の寄った目じりの奥から青色の眼光を爛々と輝かせている。胸のあたりに目を向けると、案の定、白色のプレートに『Eckbert Buehrow』の名が見える。

「私はターナーの死体をこの目で見ておらんのだよ。その発見時刻というのも、現場の状況とやらも、全て君の口から出ただけのことだ。悪いが、貴重な研究時間を割いてまでここに来ている以上、万事納得のいくように取り計らってもらいたいのだが?」

 と言いつつ悪びれる風もなく、苛立たしそうに指の先で机を叩いている。中の詰まったチーク材の机にそれほど音は響かなかったが、それでも独特の威圧感を放射するには十分だった。

「流石お堅いねぇ、言うことが。えっと、ネイピア君? 所長秘書君が可哀想じゃないか。あんまりいじめてあげるなよ」

 茶々を入れた男は、目をみはるばかりの金髪をなびかせて、皮肉っぽい笑みを浮かべながらネイピアの方にウインクした。その瞬間、ネイピアの表情が余計強張るのがよく分かった。やたら身ぶり手ぶりの激しい男で、指には派手な指輪がはまっていたが、目立ち過ぎて安っぽく見えることもなく、真っ白だが芯の通った指によく馴染んでいた。名前は、『Tino Merzario』だそうだ。

「それに、検死をしたのは全員君の部下だそうじゃないか。ある意味、一番怪しいのは君なんだぜ?」

「黙れ、お前には聞いておらんぞ、メルザリオ。それに、私の部下が検死をしたという話も、こいつから聞いたことだ」

「ビューロウ爺さんはどうしてこうも頑固なのかねぇ……」

「貴様、私の研究内容くらい知っているだろう。いいか、犯人は必ずこの研究室内にいるんだ。全員が容疑者、内部の人間が独断で事件調査を取り仕切るのはご法度だと言いたいんだ。何故それが分からん?」

「とは言ってもね、外部の人に連絡するわけにもいかないだろ? この研究所の存在を知っているのは大統領だけだし、他の人が知ってはならない。まさか彼女自ら調査に乗り出してもらうわけにもいかないしね」

「そんなことは分かっとる。だからこそ、全員で正確な情報を共有するべきだと言っとるんだ」

「勿論、最初からそのつもりです」

 やや緊張の色を濃くして、ネイピアが割って入った。

「只今から、現場にご案内します。なお、あらかじめお伝えしておきますが、皆様にお見せする前に、私と、医務室の医者三人が現場検証をしています。その三人は他者との接触を禁じて別室に待機させておりますので、聞きたいことがあれば後ほどお聞きください。鑑識班の現場検証はまだ始まっておりません。皆様の監視の下で作業をさせたいと考えています」

「三人の医師、とやら、ちゃんと一人一人別室に隔離しているんだろうな?」

「はい、そうです」

「……ふん、まぁいいだろう」

 ビューロウはそう言って、机を叩くのを止めた。ネイピアは小さく肩を落として、残る二人に目配せをする。

「異存はないね。御苦労、御苦労!」

 メルザリオは快活に笑ってみせたが、ネイピアはかえって迷惑そうな顔をしている。

「案内してくれるかしら」

 沈黙を貫いていた最後の一人は女性だった。艶やかな黒髪を肩まで垂らし、整った顔だちと雪のように白い肌で、なかなかに美人だった。ネイピア、ビューロウ、メルザリオの三人がスーツを着ている中で、唯一白衣を身にまとっていた。そこには例によって、白いプラスチック片が取り付けられ『Yuki Enomoto』の字が刻まれている。

 ネイピアがやれやれといった風に小さくため息をついて立ち上がると、三人もそれに倣った。そのまま連れだって会議室を後にする。部屋には僕一人が残された。


 敢えて四人を追うことなく、僕はそのまま立ち止まり、頭の中を整理することにした。

 ネイピアが所長室を出てから、いくぶん時間が経っているようだ。つまり、記憶の断片というのはこういうことなのだ。人間というのは取るに足らないことは忘れてしまうようにできている。事件に関係のないシーンは記憶の片隅に追いやられた結果、夢の世界では端折られているのだ。改めて周りを見渡してみると、先程まで鮮明だった机の質感はおぼろげで、それが机であるという暗黙の了解があって初めて机に見えるような代物だった。それでも、四人がこの部屋にいた間はほとんど気にならなかった、というよりは気がつかなかった。四人の言動に気をとられていたから気にも留めなかったのだ。夢は、起きてみてからあり得ないと笑うことでも、見ている間は不思議と現実感がある。全ては無意識の思い込みの力だ。

 どうやら、僕が場所を移動するごとに場面が切り替わるようにできているらしい。しかし、ひとつ気になるのは、一体誰がこの世界を作ったのかということだ。明らかに、この世界には人の手が入っている。研究報告書が目の前に現れるなど露骨にも程があるし、夢の断片だと言うことを考慮に入れても、必要な情報だけを取り上げているように感じる。公平を期すと言うのなら、それを編集する人物はいてはならないはずだ。それに、そもそも夢の中から記憶の断片を取り出せるというのならば、わざわざこんな凝ったことをしなくとも犯人は分かるのではないか。

 目の前の堅牢な机は、次第にその輪郭を朧にし、触れた空気に溶け込んでダークブラウンの色彩を漂わせる。そろそろ限界らしい。まだ先はあるのだし、ここで立ち止まって考えていても仕方あるまい。僕はようやく、ぐにゃりと歪んだ扉の奥の暗闇に身を投じた。


 再び、所長室の中だった。先程の四人以外は既に出払っている。

「ええ、では、判明したことを整理致しましょうか」

 手帳を取り出したネイピアが口を開く。

「外傷は左胸の切創、膝、胸部、腹部、頭部にみられる打撲、左腕の注射痕。うち切創が心臓に到達しており、致命傷となる。打撲は床に倒れるときにできたものとみられ、注射痕はほぼ治癒していることから、一昨日の健康診断の際できたと考えられる。死因は出血多量によるショック死、死亡推定時刻はおおよそ昨晩十一時から一時の間、現場にはターナー氏、ネイピア、ビューロウ氏、メルザリオ氏、エノモト氏、検死を行った三人の医師全員の指紋、髪の毛が検出され、凶器と思しき大型のサバイバルナイフが所長室の近くにあるダストシュートから発見された。血はほぼ拭きとられていたが、僅かに残っていた血はDNA鑑定からターナー氏のものと判明したほか、刃の形状と大きさが傷口と一致。刀身のルミノール反応から、多量の血液が付着していたことが分かった。さらに、所長室からダストシュートへと続く廊下にも、ターナー氏の血液と多量の血痕が検出された。犯人は多量の帰り血を浴びたと予想されるが、血の付いた服や布は見つからなかった。皆様、以上のことは事実として納得していただけますか?」

「いいだろう」

 渋面を貼り付けたままのビューロウが頷くと、残りの二人もそれに倣った。

「つまり、我々四人の中に犯人がいると言うわけだ」

「あーあ、何となく予想はしていたけど、面倒なことになってきたねぇ。所長が死んだだけでも一大事だってのに、各研究グループのリーダー全員が容疑者か。まぁ、深夜にこの所長室に出入りできるのは俺達だけだから、仕方ないんだけどさ」

「いえ、むしろ手間が省けたと思うわ、メルザリオ博士。ここの研究員をしらみつぶしに調べる必要が無くなったんですもの」

「何か作為的なものを感じるがな。凶器もそうだ。わざわざ持ち去られているのは気になる」

ビューロウの言葉に三人も頷いた。

「ま、ここまでわかったら後は簡単だ! ひとりずつCHAで調べればいい」

 ぱん、と手を叩いてメルザリオが口を開いた。

「いや、それは駄目だ」

「あー、もう、またビューロウ爺さんか。何だって言うんだ? さっき医者三人をCHAにかけて彼らの発言に偽りがないことを確認したばかりじゃないか! 同じようにやればいいのさ。CHAにぶち込んで、催眠状態にして、『あなたは犯人ですか』と訊くだけで済む。なにが駄目だって言うんだ!」

「やれやれ、これだから機械屋は困る。自分の作った機械で何もかもできると思いこんでいる。傲慢だとは思わんのかね」

「なんだと!」

「いいか、もしそうするのなら、貴様が初めにCHAに入ることになる。そしてお前が目を覚ました時、我々三人は『お前が犯人だ』と言う。現在、全てのCHAは、催眠状態中の記憶を凍結する後催眠暗示を自動で出力するように設定されている。お前には自分の発言を確かめる術はない」

「そ、そんなもの、ちょっとコードを書き換えて設定を変えれば済むじゃないか」

「この研究所の中でそれができるのはお前とお前の部下だけだ。我々三人は全くの素人、お前の都合のいいように設定を変えられては困る」

 ビューロウが言い終わると、唸るメルザリオにエノモトが追い打ちをかける。

「それにまだ、確実に本音を喋らせられるほど研究は進んではいないわ。確かに催眠ラポールの構築や煩雑な催眠誘導の手順を省略できるとは言っても、現在CHAで実現できるのはただの催眠状態。医師達の件については三人の供述が一致したから信用に価するけど、犯人当てに関しては複数人による裏付けが取れないから、信頼度は格段に落ちる……」

「いいか、この際だ、よく覚えておけ。催眠状態で可能なのは、記憶の再生と凍結、性格の変更、幻覚、筋肉の硬直と弛緩、一時的な記憶力の向上、それくらいだ。それも本人の意思は残っているから、被験者が本当に嫌うことはさせられない」

「じゃ、じゃあ、エノモトが研究しているという、リーディング技術はどうなんだ。人の記憶が覗けると言うのなら、それでわかるじゃないか」

「根本的な問題の解決になっていないわ。あれもCHAによる催眠状態下で行うんですもの。それに、まだ海馬の活動を忠実に追跡するだけで、得られたデータの解析方法は確立できていないのよ。まぁ一応データは取っておこうと思うけれど」

 しどろもどろのメルザリオは、エノモトにばっさりと切り捨てられて、それっきり口を閉ざしてしまった。

「……では、通常の手順で検証を行うこととしましょう。まずは動機についてですが」

 ネイピアは険しい顔で、自分の胸に手を当てて続けた。

「私には、明確な動機があります。ターナー氏が亡くなれば、記憶末梢研究の副責任者である私がグループリーダーになる可能性は高く、研究方針を自分で決めることができるからです。正直なところ……」

「いや、そもそも、ここにいる四人、共通する動機があるんじゃないかね?」

 突然割って入ったビューロウは意地の悪いうすら笑いを浮かべて、三人をじろりと見まわした。

「皆、薄々勘付いている筈だ。何故ターナーが所長、唯一大統領と連絡を取り合える立場にあったのか。まずもって研究内容だろう。一連の研究に実用化の目処がつけば、我々はターナー指導のもと記憶を消されて閑職へ飛ばされるものと相場が決まっていた」

「……まぁ、一理あるわね」

 エノモトは、慎重にその発言を受け流した。

「そうだ。考えてみろ。奴の研究と言ったら、単に後催眠暗示をかけるだけじゃないか。普通の催眠状態でもできることだ。まるで進歩がない。そんな実力であのポストにいる時点で、そもそも不可解なのだ」

 その言葉にエノモトはきつい口調で反論する。

「いや、それは違うわ。そもそもCHAの理論的ベースを構築したのは彼なのよ? 人間の感覚器を介さずに、電磁場によって脳に直接アプローチできるようになったのは大きなブレイクスルーと言えるわ。私の記憶リーディング研究も、彼の手法をほとんど逆転させただけですもの。強制催眠誘導だけでなく、無音通信やVR、AR、様々な応用が期待できるわ。勿論、研究が公になっていればの話だけれど」

「そうそう、ここのルールは年功序列じゃないんだぜ、ビューロウ爺さん。そう言うあんたはなんか成果を出したんだろうね?」

 さっきの仕返しとばかり、メルザリオがまぜっかえす。

「ちっ、若造めが」

 舌打ちするビューロウを見て、メルザリオはしたり顔で鼻を鳴らす。

「……えぇでは、次に本題ですが、皆様のアリバイについて」

 部屋の空気が険悪になるたび、ネイピアの顔に陰りが強くなる。一人だけ立場が下であるうえ、成り行き上議論の進行役となっている彼は相当居心地が悪いに違いない。

「殺害の行われた昨晩十一時から一時までの間と、その後、私が死体を確認した今朝七時までの間、どこで何をしていたか、そしてそれを証明するものはあるか、お聞きしたいと思います」

「待ってくれよ。殺人のあった時間帯のアリバイは分かるけど、その後のことを聞くのはどうしてだい?」

「念のため、です。廊下の血痕を拭き取ったり、身につけているものの後始末をしたりでおそらく三十分程度は必要だったと考えられます。逆に言えば、後始末に費やす時間が少ない方は、それだけ犯人である可能性が低いというわけです」

 

件の廊下を見やると、滑らかな硬質プラスチック覆われた床には、あちこちに白いビニールテープで円が描かれていて、その中に血痕が発見されたことを示している。中には、遠目にもうっすら蛍光の見えるところもあって、その血の量の尋常でないことがわかる。確かに、全てきれいにふき取るのには三十分、いや、もっとかかるだろう。


「なるほどね。いや、よく気が回るじゃないか。感心、感心!」

 それを華麗に無視してネイピアは話を続ける。

「私は、昨夜は十時ごろから自室に戻っていましたが、およそ十一時四十五分から二時間程度、ビューロウ氏と通話していました。通話記録が残っていると思います。その後は六時半ごろまで自室のパソコンでカーター氏の資料を整理していました。カーター氏の研究データは、カーター氏の部屋以外では私の部屋からしかアクセスできないようになっていますし、生体認証も必要なので、カーター氏のファイルサーバーの編集履歴で証明できる筈です。ビューロウ氏との通話の前は仮眠をとっていたので、アリバイはありませんね」

「あぁ、確かに私がそれくらいの時間にかけた。映像で秘書の姿を確認したことを保障しよう。逆に言えば、その時間帯、私のアリバイもあると言うことになる」

「えぇ。私と通話している間、ビューロウ氏は確かに自室にいました」

「ふーん、なんか釈然としないな。ビューロウ爺さんがどうして秘書君に用があったんだい?」

「本当はターナーにかけるつもりだったが、応答が無かったので秘書の方にかけたというわけだ。その前、十時半ごろから十一時半ごろまでターナーと通話していたのでな。記憶凍結と理性の損失の関係、凍結の深度や安定化は私の研究に密接に関連している。詳しい話を聞いておきたかったのだ」

「それは重要な情報ね。本当に通話記録が残っていたとしたら、その時間までターナー博士は生きていたということになるわ」

「ま、待ってください。通話記録が残っていたとしても……その……ターナー氏が出たとは……」

「あら、あなたは知らないのね。私達グループリーダーは、通話の際に生体認証が必要なのよ。指紋と静脈、死人では反応しないようにメルザリオ博士のグループが作ったの。かけるときにも出るときにも必要だわ。盗聴やなりすましを防ぐためね」

「なるほど、失礼しました。すると、確かにその時間帯、ターナー氏は生きていたと……」

 ネイピアは小さく頷いて、手帳に何か書きつける。

「私はずっと研究室にこもっていたわね……新しく導入されたCHAの性能テストをしていたの。だいぶ解像度が上がったから、いろいろパラメータを変えて応答を調べていたわ。証明となるものとしては……そうね、グループリーダーの管理者権限でCHAを起動していたから、IDと生体認証を使ってサインインを繰り返していたわ。ログを見れば分かるはずよ」

 エノモトの言葉を聞いて、ビューロウはまた不敵な笑みを浮かべた。

「ずっと、か。本当にそうか? 私は知っているんだぞ? 最近足しげくターナーのところへ通っていたじゃないか。人目につかない夜に」

「……何が言いたいのかしら? 言っておきますけど、ここのところ、夜遅くターナー博士は所長室から出払っていたわよ。まぁでも、そう言えば、一度所長室に行ったわね。あれは……いつだったかしら……」

「ちょっと待ってくれ。エノモトの研究室っていうと三番棟? とすると、所長室に行くためには監視カメラの前を通るはずだぞ」

 メルザリオの言葉に、ネイピアが顔をあげる。

「監視カメラ? 映像は残っているんですか?」

「ああ、三番棟から所長室に向かう途中には銃火器の保管されている九番倉庫があるから、その周辺にいくつか監視カメラを置いているんだ。過去二週間分は映像が残っているはずだぜ。もちろん時刻付きで」

「なるほど、三番棟から所長室に行くには一・三連絡通路を通るのが近いですから、九番倉庫前を通ることになりますね。後で確認しましょう」

「確か、十一時半くらいに所長室に行って、書類を渡して少し話して帰ったわ。十分くらいだったわね。ああ、なんで忘れていたのかしら」

「十一時半というとビューロウ氏とターナー氏の通話の直後ですね。そして、十分程度と言うのが本当なら、現場の後処理をする時間はなさそうです」

「そんなもの後からやればいいだろう。凶器と服をダストシュートに捨ててくるだけなら五分もあれば済む」

「いえ、CHAのログ次第では、そもそもエノモト氏には他の時間のアリバイがあるわけですから。エノモト氏の研究室から所長室まではかなり遠いですし、カメラに映らないように遠回りをすれば、走ったとしても倍近い時間がかかってしまいます」

「深夜、ほとんど明かりもない中、監視カメラなどごまかしがききそうだが? どうなんだ、メルザリオ?」

「いや、その辺はちゃんと作ってある。可視光と赤外光の両方で録画しているから、深夜でもはっきり映るし、九番倉庫前の廊下は全て視野に入るぜ」

「……まあ、全ては映像を見てからだ。それで、貴様はどうなんだ? メルザリオ」

「お、俺かい? 俺は部下達と一緒にCHAの調整や修理をしていたな。第七開発室で、一晩中ずっとだ。部下達が俺がいたことを証明してくれるはずさ」

「部下達、だと?」

 ビューロウの顔は曇る。

「顔も名前も知らん連中の証言を信用しろと言うのか? 貴様が言い含めているかもしれないだろう。エノモトのように、もっと客観的な証拠はないのか」

「きゃ、客観的な証拠? そうだな……開発室を出入りするときに生体認証を使ったけど、それくらいだな」

「出入りではなく入るときだけだろう? だとすると、分かるのはある時間に開発室に入ったということだけで、好きな時間に出て好きなところに行くことができる」

「ま、待てよ、俺が犯人だとでも言いたいのか」

「この問いに答えられないと言うのなら、現状で一番怪しいのは貴様ということになるな。いや待て、そもそもここのセキュリティ関連のシステムは全部お前のグループが設計していたな。お前ならいくらでも欺けるんじゃないか?」

「ふ、ふざけるな! そんなこと言ったら俺にアリバイの示しようなんてないじゃないか!」

「しかし、事実なら仕方があるまい。どうなんだ、え?」

「く……」

 さっきまで余裕綽々といった様子だったメルザリオは冷や汗を垂らして、青ざめた顔をわななかせている。その形相から、自分の無実を証明できるものがないか必死に考えていることが分かる。

「そ、そうだ、エレベーターだ! 第七開発室は四番棟にあるだろ? 四番棟のエレベーターは昨日の午後に壊れて動いていなかった。つまり俺は昨晩、開発室のある四番棟二階から出られなかったんだ」

「エレベーター? 動いていなかったとしても階段があるではないか」

「いや、そうじゃない。夜十時から朝七時までは、防犯上、通行に生体認証の要らない階段は閉鎖されるようになっている。こいつはターナー指導で整備されたシステムで、俺は関わっていない。所長室に通じる扉の認証システムと一緒だ。要所要所は俺の好きにできないようになってるんだよ」

「ええ、確かにそうです。私もターナー氏がシステム設計に関わっていたのを見ていますから。それに、階段の閉鎖される直前、私も四番棟二階にいましたが、メルザリオ氏にエレベーターが止まっているから、出たいなら急げと声をかけられました。実際、私が連絡通路のある一階まで降りた直後に階段が閉鎖されたので、メルザリオ氏は四番棟二階からは出ていない筈です」

「エレベーターが止まっているのは確認したのかしら?」

「勿論です。いや、あの時は焦りましたね……」

「ふん、成程」

 面白くなさそうな顔のビューロウ、その隣で胸をなでおろすメルザリオの方が、よっぽど焦っていたように見える。

「では、今出た情報の裏付けをとるとしましょう。通話記録、CHAのログ、監視カメラの映像、の三点ですね」

 三人は静かに頷き、ネイピアに連れだって所長室を去った。



 がらんどうになった所長室は鑑識による調査が終わった後で、遺体は運び出され、ビニールテープで縁どられた人型がそれにとってかわっている。見るに堪えない血だまりは、すでにおおかた固まっていて、赤黒いざらざらした表面に嵌め殺しの窓から差す光が吸い取られていく。

 今のところ、最も怪しいのはビューロウ、その次はメルザリオだ。あまり触れられていなかったが、結局検死をした医者三人は全員ビューロウの部下だったのだから、メルザリオのアリバイを彼の部下の証言によって立証できないのと同様に、ビューロウは死亡推定時刻を操作できる立場にあると言える。CHAによる検証は行われたようだが、催眠状態下でも意思が残っていると言っているのだから、強く口止めをしておけば隠しとおせる可能性が高い。つまり、現段階ではビューロウにはアリバイが無いことになる。メルザリオの方は、確かに一晩中アリバイはあるが、逆にエレベーターの件さえごまかしてしまえば一晩中好き勝手に動けることになる。

 そして、共犯の可能性もある。容疑者は四人だから、四人全員が共犯だとするならそもそもこの議論は行われない筈だし、三人だったとしても、残った一人を密室裁判で有罪にすればいいだけの話だから、その可能性は除外していいだろう。まあ、まだ正確な情報は集まっていないから、おいおい検討することにしよう。

 しかし、犯人の正体以上に気になるのは、一体この研究施設はなんなのだ、ということだ。通話ごとに認証の必要となるシステム、銃火器を保管する倉庫、生体認証の必要なエレベーター、それに、たった四つの研究グループに対して、開発室は七つ以上、倉庫は九つ以上、建物も四つ以上ある。それが大統領の一存で揃えられていると言うのだから、まったく恐るべきことだ。おそらくは外界から遮断された孤島などで、自給自足で運営しているに違いない。各種金属材料もここで調達している可能性すらある。ひょっとして、この施設にいる人間のほとんどはインフラ整備に関わっていて、実際に強制催眠誘導装置による研究に携わっているのは一握りなのかもしれない。と考えると、全てを総括するエリック=ターナーの権力は相当なものだっただろうし、その死の意味するところは、確かに重い。

 振り返ると、衝立の奥には昼下がりには不釣り合いな暗闇が広がっていた。そのゆらゆらと揺れる輪郭は、おいで、おいで、と手招きしているように見える。半ば吸い寄せられるようにして近づくと、白い霧のような体は闇に溶けて消えていった。



「監視カメラの映像はこれで全部ですね」

 ディスプレイの青い光を浴びたネイピアが言った。どうやらモニタルームのようだ。壁一面にびっしりとディスプレイが敷き詰められ、代わり映えのない、退屈な映像を垂れ流している。四人は、部屋の一番奥にある大型モニタの前に集結していて、ネイピアがコントロールパネルを操作し、他の三人がその作業とモニタを交互に見つめている。

「まったく、こんなにたくさん監視カメラがあるとは知らなかったわ。おかげでいろいろはっきりしたわけだけど、中々ぞっとしないわね」

「俺はこんなにつけた覚えはないぜ。きっとターナーの仕業だな」

「それはお前が言っているだけかもしれないだろう。あんまり状況をややこしくするんじゃない」

「ちぇ、新しくアリバイができたからって調子に乗りやがって」

 睨みつけるメルザリオの視線もビューロウはまるで意に介さない。

「では、時系列順に整理しましょう」

 メインモニタの電源を切ったネイピアは例の手帳を取り出す。

「まず、エノモト氏が初めてCHAにサインインしたのが九時三十一分、以降、十一時十五分まで十から十五分おきに認証記録があります。この時間で所長室まで往復するのは物理的に不可能です。

その後九時四十六分に、一・二連絡通路に設置された監視カメラが、二番棟に向かうビューロウ氏の姿を捉えています。ビューロウ氏の部屋のある二番棟から所長室に行くにはここを通らなければなりませんが、これ以降ビューロウ氏の姿が映っていないことから、所長室へ行かなかったことが分かります。

 十時ちょうどには、私が四番棟二階にてメルザリオ氏の姿を確認し、直後階段が閉鎖されました。エレベーターの故障についても、所長室に残されていたターナー氏のIDカードで稼働履歴を参照、確認したところ、確かに昨日の午後三時二十二分以降、稼働していなかったことが判明しました。

 十時三十一分から十一時二十五分の間、ビューロウ氏とターナー氏の通話履歴がありました。発信したのはビューロウ氏です。

 十一時十五分、エノモト氏のサインインが一度途絶えた後、十一時二十四分に九番倉庫前の監視カメラに、所長室のある一番棟へ向かうエノモト氏の姿、十一時四十五分には戻ってくる姿が記録されており、十一時五十五分にCHAへのサインインが再開しました。その後、同じく十から十五分おきに認証記録が続き、最後の認証は朝六時四十二分となっています。なお、所長室からカメラのある九番倉庫前までは三分ほどかかります。

 十一時四十二分、ビューロウ氏からターナー氏への発信記録がありましたが、ターナー氏は応答しませんでした。直後、十一時四十七分、ビューロウ氏は私に発信し、一時五十六分まで通話履歴があります。

 その後、二時一分から六時二十九分の間、私がカーター氏のファイルサーバーにアクセスしていたことが確認できました。ファイルの読み書きや移動ごとに認証履歴があり、最長でも二十分の間隔しかありませんでした。私の自室は一番棟ですから、所長室までは往復十分程度です。

 最後に、今朝七時ちょうど、四番棟二階の階段が通行可能になり、メルザリオ氏が外に出られるようになりました」

 顔を上げたネイピアに対して、傾聴していた三人は皆神妙な面持ちだった。

「とりあえず、全員に何かしらアリバイはあるわけね」

 最初に口を開いたのはエノモトだった。

「ま、アリバイについて考えるのはなかなかしんどいから、他のことから先に埋めていこうぜ」

「そうですね。まず凶器について、サバイバルナイフに記載されていた通し番号を照合したところ、五番倉庫に保管されていたものと判明しました」

「五番倉庫って言うと所長室の近くのところか。へぇ、よくもまぁそんなところに置いてあったな」

「非常時のことを考えて、各倉庫に災害時の必需品はそろっていますから」

「それにしても、なんでわざわざ燃えないゴミの方に捨てたのかしらね。燃えるゴミの方に捨ててしまえば、すぐ焼却炉送りなのに……返り血の付いた服はたぶんそうしたんでしょうけど」

「ああ、金属が混入すると焼却炉にいろいろと弊害があるから、金属探知機がついていて、自動的に燃えないゴミの方に分別されるようになってるんだよ」

 メルザリオが解説する。

「あら、そうなの。じゃあこれからは気兼ねなく捨てられるわね」

「まだそんなに正確じゃないから、止めて欲しいな。金属は貴重だし……」

「まあ私は金属片を捨てる機会なんて滅多にないでしょうけど」

 エノモトはふふっと笑った。

「血の付いた服、そういえば、DNA鑑定だが、やけに結果が出るのが早かったな」

「一昨日の朝健康診断で採血をしたから、その血液を使ったんじゃないか? 確か、あれはエノモトのグループが管理してたな」

ビューロウの言葉にメルザリオが答える。

「いえ、お二人は知らないかもしれませんが、我々のDNA情報はデータベースに保管されていて、一定以上の権限を持つ人なら閲覧できるようになっているんです。主に被験者のCHAに対する応答と遺伝子情報の関連を視野に入れてのことですが、まさかこんな場面で使うことになるとは……」

「成程、既にデータがあるなら、その一部分の照合で済む」

 ビューロウは頷く。

「一応確認しておきたいのだけれど、鑑識の調査、何かおかしなところは無かったわよね?」

「ま、みんなでじっくり見てたし、各グループから同じ人数だけ出して複数人で調べさせたんだから、異論はないんじゃないか?」

「ああ。全く気にならないと言えば嘘になるが、疑いの余地はないだろう。ごまかそうとするには不確定要素が多すぎる」

「私も、異存はありませんね」

「私もよ。ならいいわ。他に何か聞きたいことがある人はいるかしら?」

 沈黙の中、視線だけがふらふらと漂う。


「それでは、最初の話、アリバイに戻るわけですが……正直、私の手には余りますね……」

 重苦しい空気の中、口を開いたのはネイピアだった。

「状況的に単独での犯行は不可能ね。でも、共犯まで視野に入れるとすると誰でも犯人の可能性があるわ」

「誰でも、はおかしいだろう。エノモトはメルザリオのシステムによってアリバイを立証しているし、メルザリオはネイピアの証言によってアリバイを立証しているが、私の場合は誰と組んでいたとしてもアリバイを成立させることができる」

「そいつは違うぜ、ビューロウ爺さん。言っただろう、検死をした三人の医者はあんたの部下なんだ。CHAにかけたとはいえ、信用できないな」

「ふん、成程、お前が監視カメラに細工をし、私が死亡推定時刻をずらすというわけか。確かに可能だ。しかし、いずれにしろお前が犯人だと言うことは確実になるな」

「おいおい、待てよ! 仮に俺が犯人だったとしても、単独犯じゃないんだぜ? 俺だけ捕まえるのはおかしいだろう!」

「そうよ。事件の全容が明らかになってから、事を起こすべきだわ」

「そんなことはわかっとる! このままでは迷宮入りだと、そう言いたいだけだ」

 荒々しいビューロウの声に、一同は波をうったように静まり返ってしまった。


「……皆様、どうするべきとお考えですか?」

「どうするったって……どうしようもないだろ。これ以上手掛かりは無いんだ。コインを振って犯人を決めるわけにもいかない」

「……コインを振る、か。それもいいかもしれんな」

「は? 爺さんよ、遂にもうろくしたか?」

 はやし立てるメルザリオの言葉に、ビューロウは敢えて反論しなかった。

「……私の研究内容を忘れたか? 未来へ託すのだ。この謎を」

 三人は、意表を突かれた様子で、その場に立ち尽くした。

「……『無知のベール』の陪審員に、判決を任せると言うことですか?」

 恐る恐る尋ねるネイピアに、ビューロウはゆっくりと頷いた。

「その通りだ」



 その言葉を聞いた直後、四人の動きが徐々にスローモーションになり、視界が暗くなっていくのが分かった。これで終幕か。そう思った時には、僕はダークブラウンの机の前に突っ立っていた。

 確かに、奇妙だ。ビューロウにはアリバイが無いと思っていたが、所長室に向かえば監視カメラに映るとのことだから、単独犯であれば、全員にアリバイが成立している。メルザリオと誰かが組めば犯行自体は可能になるが、メルザリオとビューロウ、或いはメルザリオとエノモトの組み合わせでは、メルザリオのアリバイはネイピアに依存しているのだから偶発的と言えるし、メルザリオとネイピアの組み合わせでは逆に、ネイピアのアリバイはビューロウによって証明されているのだから、同じく偶発的だ。片方がもう片方に罪を全てなすりつける魂胆でアリバイを用意しなかったという見方もできるが、最悪の場合道連れにされかねないので、あまりいい判断とは言えないし、そのリスクを背負うだけの意義があるとも思えない。


 何か、もっと根本的に違う発想が必要だ。


 もし犯人だったらどうするか。そう考えてみることにした。

 犯人は、自身のアリバイは完璧に作ろうとするだろう。つまり、全員にアリバイがある以上、そのアリバイを能動的、かつ取りこぼしなく作っている者が犯人の可能性が高い。最も犯人らしくない人物こそ、犯人だというわけだ。

 この方法論でいくと、ネイピアとメルザリオは除外される。ネイピアはビューロウからの通話と、通話以前はターナーが生きていたという情報からアリバイが成立したわけだし、メルザリオはエレベーターの故障、そして、たまたまネイピアが居合わせたという偶然からアリバイが成立したからだ。逆に、ビューロウとエノモトの二人は、監視カメラの存在、或いはCHAの認証履歴が残ることを知っていれば、任意にアリバイを作ることができる。

 ビューロウと、エノモト。ビューロウは死亡推定時刻を操作できるが、所長室に行くには監視カメラの前を通らねばならず、エノモトは、所長室には向かったものの、時間が足りない。


 足りない?


 その瞬間、一つの疑問が胸の中でわだかまるのを感じた。形容しがたい、小さな引っかかりは、記憶の坂を転がり落ちる間に、あちこちから言葉を拾ってきては互いにかみ合い、一つの答えに向かって輪郭を露わにしていく。


 ――注射、健康診断、採血、夜毎の所長室訪問、血液の管理――

 ガラクタの寄せ集めかと見えたそれは、ダイナミックに回転しながら、正しい位置へと収束し、たった一つの構造体を作っていく。


 ――後処理は、後処理ではない。


 廊下の血痕、確かにDNA鑑定からターナー氏の血液と判明した。しかしそもそも、血痕はほぼすべて拭きとられていたのだ。朝、所長室にネイピアがやって来た時、気がつかないほどに。つまり、鑑定に使われた血液はごくごく微量だったのだ。ルミノール反応によって蛍光を放つ血痕が、全てターナー氏のものとは限らない。

 エノモトの行動はこうだ。『後処理』は犯行以前の夜に行われた。まず、所長室から、その近くのダストシュートまでの間に血液をまく。ターナー氏の血液である必要はないし、ルミノール反応さえ出ればいいので人間の血である必要もない。そしてそれを、血液鑑定ができないよう、徹底的にふき取る。血液鑑定ができなかったとしても、ルミノール反応は血中ヘモグロビンを触媒とした化学反応であるから、鋭敏に血液の存在を示す。次に、健康診断にて入手したターナーの血液を、ところどころに付着させておく。こうすることで、血液鑑定が行われたとき、廊下の血痕はターナーのものだと判断され、自動的に、犯人には廊下の血痕をきれいにふき取る時間が必要だった、という結論に至る。

 そこまで準備をしてしまえば、あとはたやすい。CHAで作業を行いアリバイを作った上で、所長室に向かい、素早く所長を殺害して、凶器の血と指紋を拭い、服と凶器をダストシュートに捨てて帰ってくるだけだ。廊下には血痕を落さないように気をつけなければならないが、脱いだ服をビニール袋にでも突っ込めば、そんなに難しいことではないし、返り血についても、白衣を着て、凶器を引き抜く際に露出部を布で覆えば、防ぐことができるだろう。そして、何食わぬ顔で研究室へ戻り、作業を再開したというわけだ。

 残念ながら、証拠はあげられないかもしれない。研究の進捗やビューロウの言葉から鑑みるに、この事件が起こってから、だいぶ日が経っているようだ。ひょっとして数年前の事件かもしれない。証拠があったとしてもとっくに隠滅しているだろうし、それを承知の上で、僕に判断を任せようとしているのだろう。

 

 ふと我に返って顔を上げると、会議室の真ん中に据えられた机の上に、黒く渦巻く球体が浮かんでいた。心を決めたのなら入れ、ということだろう。しかし、これまで見てきた暗闇へと続く扉と違って、宙に漂うそれは、どっしりとした存在感を放つ台座の上に鎮座しているからか、一種の近寄りがたさを伴っていた。

 ――君の判決は絶対、犯人は極刑、だ。肝に銘じておくように――

 あの言葉が蘇る。

 いや、間違いない。反射的に浮かんできた不安をふるい落として、僕は一歩前へ踏み出した。



 無音。

 渦の中は、意外にも静寂に満ちていた。光もなく、まさに一寸先は闇といった様子で、この暗闇が延々と続いているのか、はたまた狭いところに閉じ込められているのか、皆目見当もつかなかった。

 ――何かおかしい。

 そう感じたのは、背後からカツーン、カツーン、と微かな足音が聞こえてきた時だった。これは、ハイヒールの音だ。いや、ちょっと待て、この音は、どこかで聞いたことがある。

 カツーン、カツーン。まっすぐこちらに近づいてくる足音がどんどん大きくなって、遂に僕の数メートル後ろにまで迫ったとき、ようやく気がついた。

 ――殺害現場から、逃げる足音。

 突如、前方に、『何か』が現れた。最初はおぼろげだったその輪郭も、徐々にこちらに迫ってくる。逃げようとしても、足は根が生えたかのように動かない。

 足音が、自分のすぐ横を通り過ぎようとした時も、僕は振り返ることもできず、ただそれを待つことしかできなかった。三メートル、二メートル。足音が迫る。そのまままっすぐ、僕にぶつかってくる。ギュッと目を閉じた瞬間、確かに僕の一歩後ろで足音が鳴った。しかしその後も、足音は通り過ぎることなく、僕の足元で鳴り続けた。

 恐る恐る目を開くと、前方の『何か』もすぐ近くまで迫っていた。

 『何か』は人影だった。いや、よく見ると、人影は『何か』の奥にあった。

 ――歩いているのは、僕だ。

 その時、唐突に理解した。足音は僕のものだ。つまり、目の前の人影は……


 『何か』は鏡だった。


 その奥で、一人の女性が笑っていた。艶やかな黒髪を肩まで垂らし、丈の長い白衣の下に真紅のハイヒールをのぞかせて、女性が笑っていた。エノモトだった。

――頼んだわよ、『僕』。

 そう言って振り返ると、けらけらと笑いながら去っていった。その声は、所長室に響いた嘲笑と、まったく同じものだった。



「答えが出たようだな。ジョン=ドゥ」

 ノイズの混じった金属質の声が、僕の意識を呼び覚ました。

「どうした、やけに息が荒いな」

 しばし黙り込む僕に、声は心配そうに語りかけた。

「まだ答えが出ていないのか? それならば、もう一度記憶の中に戻ることもできるぞ」

「いえ!」

 僕は、思わず大きな声でそれを遮った。自分の衝動的な反応に焦ったが、逆に自分の中の焦りを認識したことで、徐々に思考が冷めていくのを感じた。

「おお、そうか。ならば教えてもらおう。この事件の『黒幕』を」

「事件の……『黒幕』……」

 しばし口をつぐんで、唇の端を小さく歪めてから、僕は答えた。


「エックバート=ビューロウ」



 人事異動報告書


 二○××年六月一日をもって、以下の者を免職とし、本国へ送還することを報告する。


 二班 リーダー

 エックバート=ビューロウ


 二班 サブリーダー

 バリー=ポーター


以上


 コンコン、とノックの音が所長室に響いた。

「失礼します」

 男は、キーボードを叩く手を止めて、衝立の奥から現れた人影に目を向けた。

「おお、エノモトか。ちょうどいい、こちらから呼ぼうと思っていたところだ」

 エノモトは、まっすぐ所長の席に近づくと、机の上に置かれている人事異動報告書を手に取った。

「本当に、良かったのですか? その……」

 目を伏せたエノモトに、男ははは、と笑って言った。

「いいんだよ。君が気にすることじゃない。君だけじゃなく、研究所のどの研究員で実験しても、失敗に終わったんだ。ビューロウの発想は確かに奇抜だったが、アイデア倒れだ。皆、自分の身がかわいいし、君なんかは賢すぎた」

「それにしても、ビューロウ博士はどうしてこんな実験をしようと思ったのでしょうか。折角、『無知のベール』をかぶせた状態だというのに、人のエゴに訴えるような真似をして」

「さあな、あいつとは長い付き合いだが、何を考えているか良く分からん。しかし、しいて言うならば、『人間とは何か』、それをいつも知りたがっていたような気がする」

 不可解な説明ではあったが、エノモトは既に男の言葉を疑う心を失っていた。

「そうですか……でも、それにしたって……」

「免職はやり過ぎかい? まぁ確かにそうかもしれないな。しかしね、そもそも、『無知のベール』をかぶった陪審員だなんて必要ないんだ。ビューロウは、私がさんざん言った通り思想統制の研究をしていればよかった。この世の全てをたった一人の男が決める。その手段を作るために、この研究所は設立されたんだから」

 その言葉に微かに混じった狂気の色も、今のエノモトには分からない。

「それにね、実のところ私は怒っているんだよ。夢の中の出来事とはいえ、私を殺したことに」

 男は真面目な顔で付け足した。

「なるほど……あら、そう言えば、私に何か御用でしたか?」

 エノモトの表情をしげしげと眺めていた男は、微かにほくそ笑んだ。

「いや、いい。もう済んだ。ああそうだ、ついでにその報告書をネイピアまで届けてくれないか」

「分かりました……と、サインをお忘れですよ?」

「ああ、すまない」

 人事異動報告書を受け取った男は、勝ち誇ったような表情で、滑らかにペンを走らせた。


Eric Tanner

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獄中のジャッジメント 八枝ひいろ @yae_hiiro

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