隣の席のファンタジカ
八枝ひいろ
第1話
「明日、大事な話があるから」
放課後、いつもと同じように並んで昇降口へと向かった、その直後だった。
低い、押し殺したような声は、それでも、ミナの小さな肩をぴくりと震わせた。
はっ、となって、思わず下に向けていた視線を跳ね上げる。その間に、彼は傍らからそっと離れて、既に五メートル先を歩いていた。六メートル、七メートル、距離はどんどん開いていく。けれど、それが十メートルほどになったところで、彼はぴたりと立ち止まった。その一瞬、周りには二人のほか、誰もいなかった。
「悪いけど明日、ちょっと早めに来てくれないかな」
うん、とミナが小声で頷くと、彼はばいばい、とも言わずに、再び歩き始めた。ミナは、その後ろ姿が見えなくなるまで、ずっとその場に立ち尽くしている。
そしてそれは、その日二人が交わした言葉の全てだった。
一言でいえば、ふわふわした気分だった。
ミナは、昨日聞いた、帰り際のケンの言葉を何度も何度も反芻していた。でも、いつまでたっても、その一言は、夢の中の出来事にしか思えなかった。
初夏にしてはやけに冷たいそよ風が、顎の下あたりを撫でる。ふっと窓に目をやると、ガラスに小さく水滴がつき始めている。霧雨にその輪郭を滲ませた太陽の光は、どこか幻想的な、神々しい黄金の色彩を纏っている。毎日通う高校の教室、たった三十分早く来ただけなのに、その中はがらんどうで、黒板の隅っこの方に黄色のチョークで描かれた下手くそな落書きが、うっすら消えずに残っている、そのほかは人っ子ひとりいないのが、ミナにはちょっと新鮮だった。
大事な話。
もう子供じゃないし、その意味は何となく察しがついている。それを意識するたびに、少しだけ頬が熱くなるような気がするが、しかし、その熱も表面的で薄っぺらいものに感じられて、いまいち実感が湧かないのは、ケンの性格からして、その言葉がしっくりこないからだった。
ケンとはたまたま小中高同じ学校で、高校二年の今、たまたま同じクラスになって、たまたま隣どうしの席になっている。普通におしゃべりして、たまに勉強を教えて貰って、冗談を言って怒られて、そんな仲だ。彼はいつも本を読んでいた。ミステリー、ファンタジー、SF、ノンフィクション。ときには理工書や分厚い洋書を読んでいることさえあった。何読んでるの、と訊くと、いつも照れくさそうに微笑んで、本の表紙を見せてくれる。でも、何かあるかと言えば、せいぜいそれくらいのものだ。彼は、自分の周りに静けさの漂うのを好むかのようで、まるで別の世界に生きているような人間だった。
ちらり、と黒板の上の時計を見やる。おおよそ、八時五分前。早めに来てと言われて早めに来たのだが、よく考えたらそれもおかしい。ケンは呆れるくらい大真面目なので、待ち合わせのときは時間と場所をしっかり決めるのが常だった。
そして、十分が経過した。
ようやく、がらり、と乾いた音を立てて、入口の引き戸が開いた。自分の席に突っ伏して、うとうとし始めていたミナは、耳ざとくその音を聞きつけて、慌てて体を起こし、跳ね上げた視線が、入口に立つ男とぶつかる。
しかし、視界に入ったのは、ひょろりと高い体を少しかがめる、ニキビ顔の男子。
(なんだ、山田君か……)
思いのほか、自分が残念そうに俯いたのに気がついて、ミナは少しどきっ、とした。そんなところに、おはようなんて声をかけられるもんだから、おはよう、と返す声はぎこちなく、ちょっと震えていた。けれど、それに気がつくそぶりも見せず、自分の席に向かう後ろ姿を、恨めしそうに眺める。
(もう、一体どうするのよ……何のために早く来たのか、分からないじゃない)
もう一度、外の景色を眺める。正門から昇降口へと向かう、アスファルトに覆われた小路には、未だ人影は無く、いつの間にか大粒の雨が、水たまりに細かな波紋を形作っている。空を見やると、どんよりと暗い雲が音もなく滑っていく。目にかかった前髪を掻き上げるのも忘れて、茫然とそれに見入るミナの胸には、漠然と、理由なき不安の塊がわだかまり始めているところだった。
果たして、直後、背後にあの乾いた音がこだました。ほとんど反射的に、振り返った体は、そこで止まった。
間違いなく、教室の入り口に立つ男はケンだった。しかし、
「姫!」
ミナを見て、開口一番そう言った。
目の前にひざまずくケンは、全身に鎧を纏っていた。胸当て、肩当て、小手、ブーツ。隙なく、かつ、動きやすく。装飾ではなく実用に特化したような配置の黄金の塊は、しかし、その表面に、子供が書きなぐったような不可思議な模様が浮かび上がっていた。
鎧の下には、しっとりと湿ったような質感の、真っ白なオーバーコート。その他、ペンダントやイヤリング、十指全てにはめられている指輪といった、色とりどりの装飾品の輝きは、まるで学園祭のときに、これでもかと言わんばかりに廊下に貼り付けられている宣伝ポスターのようだった。
度肝を抜かれた、というほかに、言いようがなかった。
「ご無事でしたか、姫。姫にもしものことがあれば、どうすればよいものかと心配しておりました」
そう言ってミナに頭を垂れるその顔は、やはり、紛れもなくケンの顔だったが、それはミナにとって信じがたいことだった。目の前の男、首から下と首から上が、それぞれ独立した別の人間なのではないかと、突如現れた恐ろしい妄想が、背中をびくり、と震わせる。
そんなミナの気持ちは知ってか知らずか、ケンは思い出したように面を上げて、水に墨汁を一滴垂らしたような黒色のまなこで、じっ、とミナを見つめた。
「しかし、ずいぶんと、何と言いますか、不思議な格好をしてらっしゃいますね……どうなさったので?」
男がそう言った途端、左手の方から、くっくっ、と笑い声が聞こえてきた。見ると、荷物を机の上に放り出した男子生徒が、お腹と口元を押さえて体をよじっている。ふいに、自分まで笑いものになっていることに気がついて、さっと顔を赤らめる。
「ちょ、ちょっと、どういうつもりなのよ! 変な格好なのは、あなたの方でしょ!」
そう言われて、男は、幼子のようにきょとんとした表情を浮かべて、しばし呆けたように、虚ろな視線をミナの顔に張り付けていたが、しかし、その奥には、意外にも、ちかちかと鋭い光が瞬いていた。ゆっくりと視線を引きはがして俯くと、男は、すぐ目の前にいるミナにさえ、途切れ途切れにしか聞こえないような小さな声で、姫、とか、惑わされている、とか、化けている、とか、あり得ない、とか、何やら意味不明な言葉を呟いていた。
突然、男はすくっと立ち上がった。その拍子に、背中に吊った巨大な剣が揺れる。そのあまりの大きさに、ミナは呆れかえったが、ふわりと浮かんだもう一つの意識が、それを笑うことを許さなかった。
「これは失礼、おかげで状況が飲みこめて参りました」
穏やかに、ごくごく自然に浮かんだ微笑みに、ミナは、はっとなった。その、落ち着きの中に、温もりを感じさせる表情に、思わず心が揺さぶられそうになる。いや、違うんだ。静かな笑みに、滲んだような物憂げな眼に、惑わされてはいけない。唇を噛んで、もう一つの意識を追いやると、きっ、と挑むような目つきで、男を睨む。
再び目にすると、男の眼の色が変わるところだった。信号機が青から直接赤になったかのように、それまで透き通っていた瞳が急速に濁り、どんよりと不気味な光を放つ様は、獣のそれだった。反射的に、体が凍りつき、冷や汗が、服を湿らせるのを感じる。その恐怖は、動物的な、本能的な現象。
だが、その眼はミナを見ていなかった。
「おい」
低い、押し殺した声が聞こえた。それが目の前の男から発せられていることに気がつくまで、少しかかった。明らかに、刺すような殺気のこもった声だった。
男は素早く振り返り、ひょろりと背の高いニキビ顔を、力強く指差した。
「貴様、どうやら作り笑いは苦手なようだな」
男子生徒は俯いて、にやり、と、不気味な笑みを浮かべた。
突然、閃光とともに、ばりばりっと、轟音が鳴り響いた。ミナは、思わず振り返って、窓の外を見た。いつの間にか、土砂降りになっていた。雷か……そう思った、次の瞬間。
まっ黒な影が、突如、目の前に躍り出た。人間ではなかった。まっ黄色の、どでかい目の中で、縦に細長く裂けた瞳をらんらんと輝かせ、ミナに向かって、鋭い鉤爪のついた手を振り上げた。殺される。そう直感するが、強張った体は言うことを聞かない。ばっくりと裂けた口から紅い舌がのぞくのを見たのを最後に、ぎゅっと目を閉じる。
ぎいぃぃぃん、と甲高い金属音が鳴り響いた。音は教室の壁に反射して、不気味なハーモニーを奏でる。音が鳴りやんだとき、全く痛みを感じないことに気がついて、恐る恐るまぶたを上げる。
目の前で、男が背中に吊り下げていたバカでかい剣で、化け物の鉤爪を受け止めていた。黒い影は、腕や脚が針金のように細く、そのくせ極端に頭でっかちだった。その直径は、一メートルはあるだろう。全身真っ黒で、色のついているのは、黄色い目と、赤い舌、くすんだ灰色のノコギリ歯だけだった。団扇程の大きさの手足には、これまた針金のような指が伸び、先端に鋭い鉤爪がついている。化け物の細長い舌が、しゅるしゅると空中で舞う。惜しい、と苛立っているのか。
「やはり姫が狙いか。そうはさせんぞ」
ばしん、と剣を振り上げ、化け物を空中へ弾き飛ばした。ものすごい力だ。そのまま天井まで吹っ飛んでいく。が、化け物は空中でひらりと身を翻し、天井を足で蹴って、素早くミナの後方へジャンプする。
振り返ろうと、首を横に向けた瞬間、目の前をケンの顔が通り過ぎた。速い、速過ぎる。男が通り過ぎた風圧に、ミナの黒髪がなびく。男はそのまま、疾風の如く化け物に突進し、化け物が着地する前に、右下方から剣で切り上げた。それまでに、ミナはその剣が真剣であると確信していた。なのに、剣はまるで重力を無視したかのように、ふわりと空中を舞ったかと思うと、弾丸のような速度で空気を切り裂いたのだった。
化け物は、かろうじて剣を受け止めたはいいが、その衝撃で、乱雑に並べられた机のすぐ上をほとんど水平に吹っ飛び、そのまま通路側の壁に激突した。幸い、そこには窓ガラスはなく、ぐしゃり、鈍い音が響いただけだった。しかし、彼は追撃の手を止めることはなかった。剣を切り上げたその勢いそのままに、空中で素早く身をひねり、化け物に背を向けると、剣を持たない左手を高々と掲げた。すると、五本の指にはめられた指輪のうち一つに、黄色い光の球が集まり、瞬く間に、薄暗い教室を照らす輝きとなった。左手は、黄色の輝きを纏ったまま、滑らかな曲線を描いて空中に光の残像を漂わせ、化け物に向かって突き出された。
突如、目もくらむような、強烈な閃光とともに、大気を切り裂く轟音がとどろいた。びりびりと、空気の振動が、そのまま全身を通り抜ける。体の内側を直接殴られたような衝撃に、立ったままでいることなどできはしない。そのまま腰から崩れ落ちる。
徐々に、麻痺した感覚が戻ってきた。視界はまだ白んでいる。耳鳴りがする。数回目をしばたかせて、もう一度、ゆっくりと目を開ける。
ピー、という無機質な耳鳴りがフェードアウトすると、それに伴って雨のノイズがじわじわと大きくなってくる。深夜、テレビをつけた時の砂嵐のように、神経をキリキリと引っ掻きまわすような音だ。前線が通過したのか、空気はいつしか底冷えしていた。床からジワリと冷気が肌を伝わって、体の奥の方まで浸食してくる。湿っぽい土の香りは消え、代わりに何かが焦げたような、腐ったような、変な臭いが漂っている。
ようやく視界がクリアになる。ミナは腰を抜かしてへたりこんでいた。しかし、彼は立ったままだった。いつも通りに並べられた机が、雨の薄闇の中、蛍光灯に照らされて妖しく光っている。その、全くもって無機質な白色には、魂の燐光のような、不気味な薄青が混ざっている。
ゴロゴロ、ともう一度雷が鳴った。遠い。かわいいものだ。とミナは思う。雷の光に照らされて、石膏の彫刻のように整った、しかし病的な白さを併せ持った、彼の横顔が浮かび上がった。黄金の鎧は、雷の光を反射してギラギラと、他を圧倒するような毒々しい光を放っていた。耳元の宝石は純白のコートの襟元に淡い紫の影を落とし、両の手に鎮座した十指十色の指輪は、獣のようにくすんだ鋭い光を宿して、まるで息を殺し獲物の様子を窺うようだった。そのうち一つは、猫の目のような真っ黄色で、先刻の化け物の目がこちらを睨んでいるように見えて、思わず身震いする。と、その化け物がどうなったのか、という問題にようやく気がついて、恐る恐る壁際に視線を移すと、そこにはパンクしたタイヤのような、真っ黒な物体が、ブスブスと煙を上げて横たわっていた。
彼はついた汚れを払うかのように、一度ビュン、と剣を振るうと、流れるような滑らかな動作で、剣先を下に向けたまま振り上げる。シャー、と金属のこすれあう音がした後、カチン、と鞘のふちと剣の鍔がかみ合った。そのまま、カタン、カタン、と特徴的な足音を鳴らして、ゆっくりと黒い塊に近づいていった。塊まであと半歩のところで立ち止まり、一言、闇に還れ、と呟いて、右手を軽く振り上げると、塊は砂のように細かい粒となって、音もなく空中に四散し、そして、消えた。その様を見つめる目は、どこか哀愁の漂う、くすんだ深い闇をはらんでいた。
彼は振り返った。金属の触れ合う音が、こちらに近づいてくる。じりじりと後ずさるが、すぐに背中に壁がぶつかった。硬く、冷たい。逃げられない。汗ににじんだ背中に、ベッタリと服が貼りつく。さっきからカタカタと何の音かと思ったら、体の芯から冷え込んで、震えあがった奥歯が音を立てているのだった。
彼は目の前でそっとかがみこんだ。獣の目は消えていた。にじんだような、淡い黒色の瞳が、じっとこちらを覗き込んでいる。体は激しく硬直していて、目をそらすことさえできずに、そのまま吸い込まれるように、見つめ返す。
「怖がらせてしまったようですね。申し訳ありません」
ぺこり、と頭を下げて、にこっと笑った。隠居して年季を蓄えた老翁のように、柔和な、暖かい表情だった。
震える手をなんとか持ち上げて、目の前の顔に指を突き付ける。
「あ、あなた、一体何者……? あの、や、山田君は……?」
ろれつが回らず、何度も舌を噛みそうになりながら、途切れ途切れに、自分の意思を伝えるのに必要最小限の単語を並べた。勿論、あのニキビ顔が見えなくなっていることには気がついていた。周りには誰もいないが、何故か、誰かに見られている気分だ。
「ああ、今殺したのは偽物です。なに、簡単な変化魔法ですよ。ただ、すり替わるときに何が起こったかは、想像に任せるしかありませんが……」
殺した、というワードをあっさりと口にするあたり、この男の底知れなさに磨きをかけるようだった。それと何? 魔法?
しかし、もう「魔法」と言われた方が、しっくりくるような気がしている。実際、今眼前で繰り広げられたそれは、魔法と呼ぶ以外に何と呼べばいいのか、ミナには全く見当がつかなかった。目の前にいる男は、ファンタジー世界の住人なのだ。それはもう、認めざるを得ない。でも、今一度本人の口から、もっとはっきりした正体を明かしてほしかった。
「だから、あなたはいったい何者なのよ……」
彼の表情が硬くなった。視線をふっと落とした。迷ってる。そう直感する。黒々とつややかな睫毛の下に、しっとりと湿った瞳が見え隠れしていた。
次の瞬間、彼を指さしていた手が、がしっと掴まれ引っ張られ、ミナは無理やり立ち上がらされていた。あっ、と声をあげて、手を振りほどこうと思ったその時、気がついた。
(あったかい……)
彼の手は、想像以上に優しいぬくもりを宿していた。手と手の間で血管がつながり、波打つ彼の血潮がそのまま自分の体に流れ込んでくるような、不思議な感覚だった。とくん、と優しく波打つ振動を肌に感じて、すっと自我が遠のいていく気がする。
ケン……やっぱりケンなの……?
「申し訳ありません。時間がないんです。すぐ、別の場所に向かわなければ……」
目をまんまるに見開いて、しかし恍惚とした表情を浮かべるミナには、その言葉は届かない。ケンはミナの手を取ったまま、足早に教室を後にする。
「しばらく付き合ってもらいます」
「へっ?」
靄のかかった意識の中、付き合う、という言葉だけが、蛍光ペンでなぞったようにくっきりと浮かび上がって聞こえた。とくん、と何かが跳ねる音が胸の中で響いた。が、はっと我に返って、赤くなった拳を握りしめ、馬鹿、何考えてるのこんなときに、と自らを叱咤する。そして、足元を向いていた顔を持ち上げる。
いつの間にか、校門を通り過ぎていた。あれ? 少しぼーっとしていたとはいえ、いつの間にこんなところまで……? というか、靴履き替えたっけ、あたし。
周りの景色が糸を引いて後方に流れている。すごい速さだ。幼いころ、父親のバイクの側車に乗せられて、高速道路に連れて行かれた時は大いに肝を冷やしたものだが、その比ではない。けれど、不思議と風圧は感じない。何より、足は全く動いてない。透明なカプセルが二人をすっぽりと覆い、すさまじいスピードで滑っていく、そんな感覚だった。
「ちょっと飛びます。驚かないでくださいね」
えっ、と尋ね返す暇もなく、二人の体は宙を舞った。だが、がつんとか、ごちんとか、何かしらの衝撃を味わうことはなく、体が翼そのものになったかのように、風に乗ってふわりと浮かびあがり、そのまま滑らかに屋根の上に着地したのだった。驚くな、というのが無理な話だ。もう、これがケンの走り方なのだと、自分を言いくるめるほかなかった。そんなことより、もっと大事なことがある。
「あの……」
「何でしょう?」
ケンは、前方を直視したまま、口元だけを動かして答える。
「これから何を……?」
その真剣そうなぴりぴりとした空気を纏う背中は、何も聞くなと言っているようだったが、しかし、かといって聞かないわけにもいかない。
「鍵を探さなければなりません。ただ、もう大体の目星は付いております。なに、そばにいていただければ結構です。お任せください。なにも手伝う必要はございませんから」
「鍵……ですか……?」
「えぇ」
なんの鍵なのか、見当もつかない。鍵というからには何かしら扉なり戸棚なりを開けるためのもののはずだが……。何の鍵ですか、と聞こうとすると、それより先にケンが口を開く。
「そして、鍵を手に入れたら……鍵をもてあそんでいた悪戯っ子たちは、皆殺しにしないといけませんね」
背を向けたケンの表情は見えない。
お互い、それっきり口を閉ざすと、二人は際限なく湧きおこる黒雲に向かって、屋根の上をぽーん、ぽーん、と跳ねていった。
「さっきの雷ヤバかったな」
ひょろりと高いニキビ顔の男子生徒が、昇降口で出会ったクラスメイトに、おもむろに話題を振る。
「だねー。学校のすぐ近くに落ちたみたいだった。案外、その辺の木が真っ黒焦げになってたりして」
「しっかしなー、こんなに土砂降りになるとは思ってなかったぜ。おかげでびしょ濡れだ」
「天気予報で降るって言ってたんだから、傘持ってこない方が悪いんだって」
「いや、見てみろよ。もう雨止んでるぜ。全く、たまに朝早く来てみればこのザマだ。早起きなんてするもんじゃないね」
「ははっ、まだ一日は長いんだからさ、きっとこれからいいことあるって」
「だといいけどなぁ……」
がらり、と乾いた音を立てながら、引き戸を開く。中には誰もいない。
「お、一番乗りか。皆意外と遅いんだな」
「ほら、早速いいことあったじゃん」
「教室一番乗りしたくらいで喜べるほど、純粋じゃないよ」
そう言って傍らの友人を見やると、眉間に小さくしわを寄せて、すんすん、と鼻をひくつかせていた。
「ねぇ、なんか焦げ臭くない?」
つられて匂いを嗅いでみるが、別段おかしなところは感じられない。
「そうか? 気のせいじゃね?」
「うーん、そうかな……」
「それよりさ、なんでお前は今日早く来たんだ? いつもこの時間か?」
「あっ、しまった、今日僕日直なんだよ。日直かご持ってくるの忘れちゃった」
「おいおい」
男子生徒は、ふふっ、と笑う。
「じゃあ僕かご取ってくる」
「じゃあな」
「うん」
こうして日常は始まる。二人の男女を置き去りにして。
空が赤い。
こんな色の空は、たった十六年の人生とはいえ、ついぞ見たことがない。
太陽が、空の真ん中でか細く輝いている。真上だ。日本という国、下手をすれば自分の暮らす東京から出たことのないケンにとっては、それだけで十分異常な光景だ。しかし、昼間に空が赤いなどというのは、地球上のどんな場所でも観察できない現象のはずだ。それはわかっている。問題は、それが目の前に繰り広げられているということだ。
まるで血の色だ。血に染まった巨大な手をベトリと押しつけたキャンバスに、申し訳程度にオレンジ色の絵具を筆でくりくりと塗りつけ、ところどころ薄い墨汁をにじませる、もし天地創造の神がいるとするならば、この空はそうやって描いたのだろう。その光景はまさに、今ケンが置かれている状況を如実に象徴していた。さしずめ、僕はこの空の太陽だな。
「隊長」
ケンが寝ているとなりで、心配そうに呼ぶ声がある。顔を見なくても分かる。聞き覚えのある声だ。ケンが所属している理科部で一学年下の後輩、ユウキ。よせというのに、いつもケンのことを部長、部長と頼もしそうに呼ぶのだった。
「だから、違うと言ってるじゃないか。僕には、ここが何処だかすら分からないんだ」
ズゥゥンと、遠くから地響きが聞こえてくる。空を見上げたまま、風に乗って飛んできた火の粉を、学生服の袖に通した腕でものぐさそうに振り払うと、じろり、とねめつけるような視線を傍らのユウキに向ける。上質だが薄い布団の上で、そのまま今置かれた状況を再確認するかのように、あたりをぐるっと見回す。ちょうど内側が正方形になるように真紅の垂れ幕で囲われた中に、ポツンと布団が敷かれ、そのすぐ横に小さな腰かけが据えられ、ユウキが座っているのだった。時代劇で見た戦場の野営地を彷彿とさせる光景は、実際戦場の野営地だった。
純白のコート、黄金の鎧に身を包んだユウキの報告によると、ケンが寝ているのは、どうやら戦場のど真ん中、最前線から少しばかり下がったところのようだった。どうも、僕、いや、こっちの世界の僕は、作戦の合間、ここで仮眠をとっていたらしい。
全く、まいった……一体何が起こっているのか……いつもより一時間早く起きて、料理、掃除、洗濯ともろもろの家事や身支度を終えて、あとは出かけるだけ、という状態で、ケンは、これから学校で待ち構えているであろうミナのことを思ってつい気後れしてしまい、ソファーにすとんと腰をおろしてしばらく考え事をしていた。どうやら、ケンの正確な体内時計が不足分の一時間の睡眠を欲し、そのまま少しうたた寝をしてしまったらしい。目が覚めると、そこはもう、真紅の空に抱かれた異世界だった。
現実から逃れようと目を閉じると、ケンの脳裏に、ついさっき見た垂れ幕の外の出来事が鮮やかによみがえる。それはこの世界の空よりも、より強い衝撃をケンにもたらしたのだった。
ケンは、生身の人間が空を飛んでいるのを初めて見た。見えるか見えないかくらいの淡い黄色の光に包まれた彼らは、何十キロとありそうな鎧甲冑に身を包んでいるにもかかわらず、すさまじいスピード、弾丸のような速さで縦横無尽に空中を駆け、これまた身長と同じくらいの長さの長刀をギュンギュンと振り回しては火花を散らしあっているのだった。かと思えば、体をすっぽり覆うようなローブを纏った連中が、さっと手を振り上げると、そこには色とりどりの光が現れ、時には空を震わす雷撃、時には全てをのみこむ紅蓮の炎、時にはごうごうと唸り声を上げる竜巻が発せられるのだった。神速の剣と剣がぶつかり合い、天災のごとき魔術がぶつかり合うその様は、誰しも夢見たことのあるファンタジーの世界そのものだったが、いざこうして目の前にすると、それは血みどろの戦場に他ならなかった。どうやら味方は――突然戦場に放り込まれたケンにとっては味方もへったくれもないのだが――白を基調とした軍服に身を包んでいるらしかった。対して敵側は漆黒のコートやローブを身に纏い、必要に応じてガラスのように透き通った薄青の鎧を身に着けていた。このままなら、真っ黒な学生服を着ているケンは直ちに切り殺されてもおかしくないはずだが、そうされないのは、白の部隊のリーダーと瓜二つの顔を持っているから、ということらしい。
普通なら、悪い夢でも見ているのではないか、そういう発想が出てくるはずだった。しかし、ケンは夢を見ている、などとは微塵にも思わなかった。ここは現実だ。僕が今まで知らなかった、もう一つの現実世界。いや、むしろ、僕が元いた世界、コンクリートの建物が所狭しと詰め込まれ、電線が空を闊歩し、様々な人間が狭い鉄の箱に詰め込まれてそれぞれの目的地へと向かう…………日本という国の、東京という箱庭、それこそが、幻想の理想郷にすら思えてくる。ここは息苦しい。もちろん、空気が不味い、というわけではない。むしろ、都会の東京に比べれば、戦場の真っただ中とはいえ、目に見て分かるほど澄んでいる……気がする。
いや、息苦しいなんてレベルではない。空気中に、黒々とした「殺気」の塊が、すさまじい密度でドクンドクンと脈打ち、流れているのが分かる。ケンの体に指先からドロリと纏わりつき、ゆっくり、じわじわと締め上げてくる。布団一枚挟んだ地面から、刺すようなプレッシャーを感じ、たまらず跳ね起きたくなる。皮膚全体から感じる、酸に侵されているのかと錯覚するほどのピリピリとした不快な刺激が、脳に直接「逃げろ」と訴えかけている。舌の先に至っては、痺れてほとんど何も感じることができない。先刻、燦々たる戦場を目の当たりにしたからだろうか、いや、違う。こっちの世界で目覚めたまさにその時、ケンは全く同じ感覚を抱いたはずだ。おそらくはこの世界に移動した瞬間、ケンは弾かれるように目を見開いた。一瞬で眠気は吹き飛び、赤く染まった異様な空を脳がとらえる前に、薄い布団を跳ね飛ばして立ち上がっていた。あれは偶然ではない。ケンの中に眠っていた動物的本能が、「やばい」と感じ、ケンを突き動かしたのだ。これをどうして幻想と言えようか。元いた世界、平和で、居心地のいい東京、そこにいる時よりも、むしろ危機感のために頭は澄みわたり、全身の感覚が研ぎ澄まされ、現実が現実として立ち現われてくる。
「そう、言われましても……」
ユウキは戸惑いを隠さずに、すがるような視線をケンの顔に落とす。さっきから、何度も繰り返されたやり取りだ。いい加減、状況を理解してもらえないだろうか。ユウキだって、僕がこちらの世界の僕と、似ているとはいえ異質な人間だと、とっくに気がついてもおかしくないというのに。
「いい加減にしてくれよ。これで七回目だぞ」
言葉とは裏腹に、諭すような、優しい口調で言う。ユウキだって被害者なのだ。この状況、そして、ユウキが僕を隊長と呼ぶことから鑑みるに、おそらくこっちの世界の僕は、この戦争において指導的立場にある人間らしい。おそらく様々な作戦を立案し、時には戦線に立って自軍の士気を奮いたたせたことだろう。そんな上司が突然こんな腑抜けにすり替わってしまったとしたら、部下としては迷惑千万な話に違いない。そんな彼に、一方的に怒りをぶちまけるわけにもいかない。
「僕はこの世界の住人じゃない。どうも、僕と瓜二つのこちらの住人と入れ替わってしまったらしい。生憎、僕には空を飛んだり、竜巻を呼び寄せたり、そんな離れ業はできないし、ましてや戦況も分からないのに指揮を執るのも無理だ。こっちの僕の部下だっただろう君には気の毒だけど、しばらく放っておいてくれないか」
最初は諭すように、次第に呆れたように、最後は自嘲気味に締めくくった。放っておいてくれだって? 放っておかれたって、何もできることなんてないじゃないか。元の世界に戻りたい、もちろん考えてはいる。しかし、ふつふつとわき起こる虚脱感、虚無感、無力感がその儚い希望を摘み取っていく。
「できない……? 今、できないとおっしゃったのですか?」
自分の言葉に対して、ユウキは目に失望と落胆の色を浮かべると思っていた。しかし、はたしてユウキの目には驚愕の火花がぱちぱちと散ったのだった。
「そんな馬鹿な……。あなたは、確かに私の知ってる隊長とは別人なのでしょう。しかし、あなたが纏う輝くばかりの『魔力』、それは質、量ともに隊長と全く同じです。なのに、あの程度の魔法も使えないとは、どういうことですか」
今度はケンが目を白黒させる番だった。
「『魔力』だって? 一体何のことだい?」
「あなたには…………見えないのですか?」
突然こんなことを言われると、オカルトにはとんと興味のないケンでも、背筋に感じる冷たさをぬぐい去ることはできない。いつの間にか起こしていた体がぶるっと震える。相変わらずあたりは熱気に包まれ、何かが爆ぜた焦げ臭い匂いが漂っているにも関わらず、である。ユウキの目には一切冗談めいた成分は含まれていない。少年のような、無垢で純粋な驚きをたたえて、ケンの目を覗き込んでいる。
「生憎、心当たりはないけど……」
「『そちらの世界』では知られていないと、そういうことですか……」
はぁっ、と一息ため息をつくと、信じられない、と言わんばかりにぷるぷると首を振った。それを合図に、唇をぐいっと真一文字に引き絞り、まっすぐにケンを見据え、真剣な口調で語り始めた。
「いいですか、我々人間、いえ、この世に生を受けし全ての生き物は、誰しも生まれつき『魔力』を持っています。それこそが我々の使う魔法の原動力、エネルギーとなります。しかし、この『魔力』は、その質、量ともに決して変化することはありません。人生の中でどんなに努力しようと洗練されたり量が増えたりすることはないのです。つまり、魔法の強さは生得の才能、逆にいえば、適切な指輪と生まれ持った魔力さえあれば、ちょっとしたコツをつかむだけで強力な魔法が使えるのです。そして……」
ためらわず、ユウキはケンの目の前に人差し指を突き付けた。
「あなたにはその才能があります。あなたには見えないかもしれませんが、私にはあなたの纏う魔力がはっきりと見えます。あなたの魔力は、隊長、いえ、聖白軍ブランシュ皇室護衛隊隊長兼、聖白軍連合総大将、ケン将軍その人のものと寸分たがわず同じです。あなたは眠れる獅子……いえ、それ以上でしょう。本質的な戦闘能力は私の知る隊長と全く変わりません」
「な…………」
この世界に来てケンの声は初めて驚愕に震えた。
…………聖白軍連合総大将? ……それって、この国最強の戦士ってことじゃないのか?
突然、ビシッとユウキの体が硬直する。力強く握った右手を、ドンッ、と胸に当て、鋭い視線を遥か彼方水平線に突き刺す。太ももの側面に付けた左手の指先から髪の毛一本に至るまで、張り詰めた細い筋が通っているようだ。胸を張ったまま、ユウキが叫ぶ。
「緊急事態ゆえ、不遜ながら、全軍の指揮は聖白軍連合参謀、ユウキが務めさせていただきます! 聖剣『ラ・ルーチェ』、宝珠『十神星』には及ばずとも、こちらで相応の武器は用意させていただきます! どうかその力、我らブランシュの民のため、お貸しくださいませ!」
…………これは、思ったより相当ヤバいことになりそうだ。
ケンが浮かべる微笑は、どうしようもなく引きつっていた。
「ねぇ」
おずおずと、遠慮がちに口を開く。
「何でしょう?」
透き通るような、優しい声。
「一体、いつまで走り回る気……ですか?」
突然教室を飛び出してから、既に一時間近くが経過している。その間、ケン、いやケンと瓜二つの別人とミナは、暴走族も真っ青の超スピードで、住宅街の屋根の上を縦横無尽に駆け回っているのだった。
ケンは、細い眉をぴくりと動かした。
「申し訳ございませんが、まだかかりそうです。生憎、『ホークアイ』は苦手でして……」
ケンは苦笑を洩らすが、それはミナも一緒だった。さっきからこの男の言うことは、さっぱり意味が分からない。ミナの知っているケンそっくりだ。一般人にはちんぷんかんぷんな言葉を並べるだけで説明した気になっている。呆れるのを通り越してなんだかおかしくなって、ふふっと、つい口元をほころばせてしまう。
「全く……何言ってるかさっぱりわからないわ。どういう意味?」
と、つい敬語を使うのを忘れてしまった。勿論普段ケンに敬語なんて使うことはないが、向こうが敬語なのでどうしても合わせないといけないような気がしてしまう。しかし、ケンは、そんなこと気に留めるまでもなく、さらりと説明を続けた。
「さっき、室内で姫を襲った『ジェイド』、あれは基本的な召喚術で呼び出された『召喚獣』です。ですから、術者、そしておそらくは『鍵』を持つであろう敵も、すぐ近くにいるはずなのです。されど、敵もある程度の移動魔法は使えるでしょうから、これほど時間が経ってしまうと捜索は困難ですが…………」
またしても謎ワードのオンパレードだったが、まぁ何となく言いたいことは分かる。
「要するに、この辺にいる敵を探し出すまでは付き合え、ってことね」
今度こそ、心の底からうんざりした声をあげて、ううっ、と唸った。今日はたぶんズル休みするしかなさそうね。そこでふと、一つの疑問に突き当たった。
「でも……それなら私は必要ないじゃない。なんで一緒に行かなきゃいけないわけ?」
その瞬間、糸を引いていた景色が急激に元の形を取り戻し始めた。不思議と慣性力は感じないが、視界の急激な変化にめまいがしてよろめいてしまう。ケンはそっとミナの背中を支えると、真剣な目つきでミナを見つめた。その目は、とても同級生のものとは思えない、威厳をもっていた。何年もの年月にわたって研ぎ澄まされてきた、鋭い目。
「敵の目的は、あなたです、姫」
その声もまた、凛々しく猛々しかった。そこには何人とも抗えないような、堂々たる説得力があった。
「え……嘘……? なんで?」
「あなたには、特別な力があります。あなたの持つ『魔力』は姫、いえ、貴女のことではございません。我々の世界の姫、その魔力と全く同一です。すなわち、あらゆる魔法を無効化する『ラ・ブランシュ』、世界でただ一人しか使えぬ、麗しきブランシュに平和と安寧をもたらす聖なる大魔法を、貴女も使えるはずなのです。敵は、貴女のその力を狙っているはずです。貴女をさらうつもりでこの世界に来たのでしょう」
「は……?」
「我々の世界には、幻惑魔法なるものが存在します。そのなかに、恐ろしく煩雑な手順を必要とするものの、洗脳を可能にするものがございます……本来、姫には指輪がなくとも一切魔法は効かないのですが、こちらの姫は魔法のなんたるかすらご存じないようですからね。いえ、ご安心ください。不遜ながら、『最強の矛』の異名を授かる私がお控え申し上げているのです。必ずや、敵を一掃してご覧にいれましょう」
「あ、あのさ…………」
我ながら、驚きと戸惑いでぐちゃぐちゃになった頭脳で、この推論にたどり着いたのは奇跡としか言いようがない。
「あなた……別の世界の住人なのね? …………そして、その世界でわたしは…………王女?」
「その通りです。誉れ高きブランシュ王国において、大魔法『ラ・ブランシュ』を操り、『最強の盾』の異名を誇る麗しき姫君、ブランシュ王国第二十二代皇帝が娘、ミナ姫、あなたのことでございます」
ミナは、その情報を処理しきるために、たっぷり三十秒は絶句しなければならなかった。私が……姫……? 『向こう』の世界で……?
私は……私は、私の知ってる私は、そこらへんにたくさん転がっている高校生の一人だ。朝起きて、ご飯食べて、学校へ行って、授業を受けて、ときどき友達とおしゃべりして、ケンの横顔を眺めていたりする。部活のない週末には、ときどき服を買いに行ったり、親が買ってくれたパソコンとにらめっこしていたりする。それだけだ。その程度だ。
もちろん、私だって女の子なんだから、幼いころに、美しい花々に囲まれた宮殿で、悠々自適に暮らしてみたいと、しょうもない想像をめぐらしたりしたことならある。しかし、ケンの言っているのは、想像の話ではないのだ。
「嘘でしょう…………?」
「いえ、嘘ではございません」
一抹の動揺も見せず、それどころか口元にはふふっと爽やかな微笑を浮かべて、さらりと否定してみせる。ミナの知っているケンは冗談が心底苦手だったが、こっちのケンはどうだか。
でも、その瞳はつややかに透き通っていた。その目をみれば、誰しもその言葉に抗うことなどできないだろう。
もう一度、ミナは、『向こう』の世界の自分は一体どんな生活をしているのだろうか、と想像してみる。一国を預かる皇帝の大事な娘。さぞかし、豪華絢爛たる宮殿で、他の誰もが羨むような毎日を過ごしていることだろう。部屋には何が置いてあるのだろうか。国中から集められた、芳しい花々だろうか。それとも、職人の技術の粋を尽くしたきらびやかな調度類だろうか。あるいは、何年もかけて色を重ね限界まで美を追求した、背丈ほどもある絵画だろうか。あるいは、そのすべてかもしれない。暖かい光を反射してキラキラと輝く食器類に、色とりどりの料理が盛りつけられ、弦楽器の美しい音色がこだまするホールで優雅に食事をとっていることだろう。はたして、普通の高校生と自負するミナにとっては、想像はできても、決して実感することのできない生活に相違ない。
いや、本当にそれだけだろうか。先程ケンは、ミナの持つ力が、祖国に平和と安寧をもたらすのだ、と言った。皇族とはいえ、たった一人の人間にできることなぞたかが知れたものだとは思うが、それでも、ケンは確かにミナの力は世界に二つとない能力であると言った。もし、本当に向こうの自分がその特別な力で国を守っているのだとしたら、悠々自適な生活など、とてもじゃないができないに違いない。なにしろ、自分の小さな両肩に大勢の国の民の命運がかかっているのだ。その責任は、重い。
いやいや、いくらなんでも、ねぇ、妄想が過ぎるというものだろう。私が知っているのは、もう一人のケンの口から聞いた言葉だけなのだ。その端々から想像をたくましくしても、正しいという保証はどこにもない。あまりにも、あまりにも現実離れしていて、この透き通った瞳と視線を共有していなければ、ミナだって一笑にふしていたに違いないのだ。でも、でも確かに、ふわりと浮かんだもう一つの意識が、本当よ、とミナに言い聞かせているのだった。何故だろう。それが、ケンの態度のためだと気がつくのには、それほど時間は必要なかった。さっきから幼馴染のミナに対して敬語を使っているのはもちろん、その言葉やしぐさからにじみ出る畏怖、慈愛、それはミナの妄想を、しかと裏打ちしているのだった。ただ、とても論理的とは言えない、しかし納得に足る思考回路が完成した時、ミナは、どうしようもなく湧きおこる寂しさに震えていた。
雨はやんだものの、あたりはまだ薄暗かった。いつの間にか、ぱらぱらと降り残る雨がミナの制服にぽつん、ぽつんと小さな染みを作っていた。どうやら、走っている間は雨粒がミナに振りかかることはなかったらしい。あの間、ミナとケンは外界から遮断されていたのかもしれない。でなければ、今頃二人はずぶぬれになっていただろう。しかし、今のミナには乾いた制服が恨めしかった。雨に濡れ、か細い太陽の光を跳ね返して薄い光を投げかけるアスファルトの上、自分だけが乾いた服を纏っているのが嫌だった。いや、そのことが嫌なのではないかもしれない。むしろ、もし今私がずぶ濡れになっていたとしたならば、目の前の男は手を差し伸べてくれるのだろうか。ふと浮かんだ他愛もない疑問が、しかしきりきりと心の奥に食い込んでいくのだった。この男はケンじゃない、同じだとは限らない、とささやく声は、耳に届く前に、やわく降りかかる雨粒に引きずられて、地面に叩き落とされ、そのまま流されていった。
雨と、ひとしずくの光が頬をつたう顔を、そっと持ち上げると、そこには柔らかい頬笑みを宿したケンが、じっとミナを見下ろしていた。とくん、と胸を打つ振動が、雨とともに沁み込んできた冷気を、ゆっくりと掃き出していく。
「信じていただけましたか?」
ミナは、恐る恐るこわばった笑みを浮かべる。
「まぁ、一応は、信用することにするわ」
「それで十分です」
ふふっと、再び口元をほころばせたケンの目は、やはり鋭いままだった。
その瞳が、瞬間的にぎりっ、と縮みあがった。
右手が電光のように閃き、ワンテンポ遅れて、クリスタルのような透き通ったブルーの閃光が右手から放たれた。そのフラッシュに驚き、反射的に目を閉じる間もなく、ごうっ、と空気を震わす熱気が、ミナの髪をちりちりと痛めつけながら、禍々しい紅蓮の炎となって一直線にケンの右手に吸い込まれていった。
ぼしゅう、と激しい爆発音とともに、瞬く間に真っ白な煙が辺りを覆い、ミナは思わず腕を顔の前で交差させる。どうやら煙はただの水分のようで、熱い湯気が肌に触れ、そこかしこに水滴が纏わりついていく。真っ白な視界の奥にいるはずのケンにすがりつこうと、慌てて手を伸ばした瞬間、一本の腕がするりと懐に潜り込んできて、そのまましかとミナを抱きかかえた。『貴女をさらうつもりでこの世界に来たのでしょう』その一言が脳内に響き渡り、強烈な寒気が全身を貫く。自分を抱えるその手に見覚えのある色とりどりの指輪がはめられていることに気がついても、ミナの心臓はすぐには暴走を止めてくれなかった。
ケンが、ミナを抱えたまま、もうもうと立ち込める霧の中を脱したとき、その口元はやはり微笑んでいた。しかし、そこには先刻までの穏やかさはとうに消えうせ、ゆがんだ唇の奥に、真っ白の歯がぎらり、と鈍い光を放っている。みると、瞳は針で穿った孔のようにごくごく小さくなっていたものの、その奥で、ドクンドクンと黒々しい殺気の塊が脈打って流れているのがはっきりと分かる。いつの間にか、ケンの体はほのかな黄色い光に包まれ、ふっと下を見上げると、驚いたことに住宅の屋根が切手ほどの大きさにまで小さくなっている。三十メートル近くは飛んでいるだろう。左手でしっかりとミナを抱き寄せ、だらりと下がった右手には、赤々と激しい光が揺らめいている。
「なるほど……不意打ちを狙っていたと。道理で姿が見えないわけです」
にやり、ともう一度残忍な笑みを浮かべた。見知った顔の見知らぬ表情に、ミナの全身を戦慄が貫く。全身にじんじんと痺れが走り、体の芯から沸き起こる震えとともに、青白い顔を起こして、問いかけるような視線を向けても、しかし、ケンは気付かぬ様子で、右手を高々と振り上げると、煉獄の炎のような不気味な光はいっそう強さを増し、渦巻きながら直径三メートルはあろう、巨大な火球へと姿を変えた。ぼ、ぼぼっ、と興奮気味に息を吐く火炎の塊は、ケンが右手を振り下ろした瞬間、何十もの小さな炎に分かたれ、その一つ一つがみるみるうちにただの球体から羽を広げた鳥の形へと変わり、ばさっ、と一回強く羽ばたくと、真紅の長い尾を引いて三々五々飛び立っていった。
「さぁ、開戦です」
ケンがそう口にした瞬間、飛び立った火の鳥が炸裂し、辺りに爆音が轟いた。
ケンは迷っていた。『こちら』のユウキの言うままに、剣を取り戦うべきか、否か。
勿論、こちらの世界の戦争に干渉する義理はないし、『隊長』がいなくなり、『聖白軍』が敗北するというシナリオが、あり得べからざる不自然なものだと言われようとも、『向こう』の世界の住人であるケンには知ったことではない。わざわざ自分の命を晒してまで協力する必要性は、一見皆無に見える。だがしかし、ケンは迷っていた。『ブランシュ』なる国に、『聖白軍』なる集団に同情を覚えたからでも、『向こう』の世界でも自分を兄のように慕っていたユウキに必死に頼まれたから、でもない。ケンの唯一の目的は自分の元居た世界へと帰ること、ただそれだけだ。
そもそも、何故ケンは真紅の空に抱かれた、怪しげな魔術の飛び交う戦場へ招かれることとなったのか。ケンは考える。これが、自然発生的な、偶発的な現象だとしたら、僕が向こうの世界に戻るのは絶望的だ。なにしろ、突然異世界の住人と入れ替わるなどという話は聞いたことがない……もちろん、その事実がひたすらに隠蔽されていたのだとしても、そう滅多に起こることじゃないはずだ。もう一度偶然が重なって元の世界に戻るなんて天文学的な確率に違いない。だから、この可能性について考えるのは無意味だ。
ここで、もう一つの可能性、つまり、この不思議な入れ替わり現象が故意に引き起こされたものだとした場合、その犯人には、大いに心当たりがある。つまり、『ブランシュ』に侵攻し、今まさに『聖白軍』と対峙している敵国の軍勢、ユウキが言うには、『アーテル』の『龍黒軍』、その一員に違いない。敵の総大将を科学技術社会の真っただ中に放り込み、その代わりにやってきたのは、魔法のまの字も知らないヒヨッ子なのだ。敵にしてみれば、こんなに美味しい状況はない。いっそのこと敵がこれを機に総攻撃でも仕掛けてくればはっきりするけど、流石にそれはご遠慮願いたいかな…………
つまり、ケンが自ら剣を取って戦場に出るか否か、その葛藤と戦っていたのは、まさにこの考えがあるからだった。敵を打ち倒し敵方の将軍級の輩を問い詰めれば、この異常現象について知っている、あるいは全てを企んだ人間から、元の世界への戻り方を聞き出せるかもしれない。なにもせずここで引き籠っているよりは、実に有益だろう。
「…………すぐにイエスとは言えない。いろいろ確認しておかなければならないことがある」
ふうっ、と大きく息を吐いて、ケンは体を起こし布団を払って、胡坐をかいて座り込んだ。
「しかし……」
さっと右手を振り上げて、その続きを制す。
「時間がない、って言いたいのはわかる。ただね、僕だってわけもわからないまま戦場に放り込まれたくはない。魔法の種類、使い方、基本的なことは全て教えて貰いたい。行くか行かないか決めるのはそれからだ」
ユウキは、ちらと眉間に細いしわを作ったが、こくりと頷き再び敬礼の姿勢を取ると、なんなりと、と言った。
漂う火の粉は数を増し、顔を打つ熱気はより一層強くなっている。獣の唸り声のような地響きに割りこむ雷が耳をつんざいて、ひと時の静寂が訪れる。相変わらず肉の焼けるような焦げ臭いにおいが鼻に纏わりつき、舌にはざらついた煤の感触が抜けない。
ユウキの説明が始まってから既に二時間近くが経過していた。ケンはちらっと腕時計に目をやる。学校を出る直前だったので付けたままになっていたそれは、未知の世界でも正確に時を刻み続けていた。十時三十九分。向こうの世界では、一時間目の授業が終わろうかというところだ。目を閉じ、帰るべき場所のイメージを新たにする。そうでもしなければ、すぐにこっちに馴染んでしまう、そんな気がした。実際、つい昨日まで日常を過ごしていた場所にもかかわらず、頭に浮かぶ教室は少し透き通っているような気がする。
ふふっ、と小さく微笑して、少し湿ったつやのあるまつ毛をゆっくりと持ち上げる。左手の薬指には装飾過多な、黄色の宝石をしつらえた指輪。右手には冗談のような分厚い刀身をもつ黄金の剣。およそ戦闘向けとは思えない代物だが、ユウキによるとかなりの性能を持つ業物だそうだ。ふうっ、と小さく息を吐き、剣をまっすぐ前へと突き出す。全て黄金でできているその剣はとてつもない質量で、とても腕をまっすぐ前に突き出して持つことなどできないはずだったが、掌に感じる重さは、まるでひとひらの花びらを握っているようなものにすぎなかった。足を肩幅に広げた姿勢から、右足を後ろに下げるとともにぐっと腰を落とし、右手の剣を引きつける。一瞬、その姿勢で停止したのち、左手に力を込め、薬指に意識を集中させ、胸に押し当てる。その瞬間、左手からぱっと黄色の閃光がひらめき、空中を漂う塵の速度が、ガクッと落ちる。恐る恐る、後ろに偏った重心を左足へと移動させながら、右手の剣を突く。びゅおっ、と風を切る音がコントラバスの和音のような重低音で耳を撫でる。そのまま上半身を左にひねって切り上げ、すぐさま、再び腰を落とし、ひねりを戻しながら右に薙ぎ払う。さらに、後ろに跳び退りながら軽く切り上げ、左手も剣の柄に添えて、今度は全身を左回りに一回転させ、左足を大きく踏み込み、全体重を乗せて勢いよく振り下ろす。切っ先の触れた地面から、ゆっくりと砂粒が舞い上がり、じわり、じわりと地面にヒビが走っていく。同時に、布にくるんだ西瓜を潰したような、鈍い低音が、地を這って足先から伝わってくる。ちらり、と左手の時計に目を移す。ここまで、一秒も経っていない……
そこで止まることなく、右足で強く地面を蹴った。地面が深く沈みこむ前に、体が勢いよく空中に吸い込まれていく。思わず手を広げて、全身に空気の流れを受け止める。焼けつく火の粉すら清々しく感じる瞬間。人間誰しも夢に見る、身一つで空を飛びまわる快感。ただ、その余韻に浸っている場合じゃない。肩を少しひねり、足を水平に投げ出して素早く空を蹴る。足の裏に再び黄色い光が瞬き、確かな抵抗感とともに体が向きを変えて飛んでいく。間髪入れずに、今度は足を真上に向けて蹴り、地上へと一直線に下降する。あまり長居してはロングレンジ魔法の餌食になる。いつの間にか点のように小さくなっていた正方形の休憩場が、今度は逆にみるみるうちに大きくなっていく。そのまま左手と両足を深く曲げて着地。ずしり、と低い音がワンテンポ遅れて体を包み、ゆっくりと土飛沫が舞い上がる。
ゆっくりと立ち上がり、左手を素早く二回振り払うと、いつの間にか全身を包んでいた淡い黄色の光は消え、失われていた時間が元に戻ってきた。しばし、人生で初めての体験の余韻に浸る。全く、どういう仕組みなんだか。当然、向こうの世界で得た知識では説明できるはずもないが、かといって向こうの世界を支配する物理法則と矛盾しているとも考えにくい。なんにせよここもまた『現実』であるし、なにより左手の腕時計は見たところ問題なく時を刻み続けている。水晶でできた極小部品の約三万回の振動を正確にカウントし、一定値に達したところでモーターが秒針を六度、分針を十分の一度、時針を六百分の一度だけ回転させる。それを永遠繰り返す。その機構が正常に動作しているのだから、物理法則は確かに存在するのだろう。複雑怪奇な化学反応により生命を維持しているケン本人がぴんぴんしているのも、またその裏付けといえよう。無事元の世界に帰れるなら、指輪を一つ拝借していろいろ調べてみたいものだ。そこまで考えて、なんというおめでたい奴なんだ、と我ながら苦笑する。
それにしても、またしても一発成功である。ユウキがケンに才能があると言ったのは、お世辞でも何でもなく紛れもない事実だったようだ。これまで、火、水、雷、風、光、闇、重力、変化、探知、回復、隠蔽、召喚、そして今試した自己強化の魔法を練習してみたが、どれも初めの一回でモノにすることができた。ただ、攻撃魔法は大魔法が暴発してはいけないので、『変換効率』とやらの低い、安物を使ったのだが。
「お見事、流石です」
傍らに立つユウキは、ぱちぱち、と控えめに手を叩きながら、眩しいものを見るような目つきでこちらを見つめている。
「ええと、これで全部かい?」
表情は涼やかな微笑にとどめながらも、驚き五割呆れ三割照れ二割で、人差し指で頬を掻きながら背中に剣を収める。
「えぇ、あと、魔法無効化というのもございますが、あれは選ばれし人間だけが使える神技、私は勿論貴方にも使うことはできませんから」
ふむ、最強の戦士、という割には使えない技もあるのか。そんなことを考えながら、ふと一つの疑問が浮かぶ。
「あのさ、スタミナ切れっていうか、魔法ってバンバン使って大丈夫なのかな? 途中で使えなくなることとかはないの?」
「普通はそうです。ただ、あなただけは例外です」
自分のことでもないだろうに、にやり、と自慢げに笑って解説を続ける。
「あなたが、いえ、ケン将軍が『最強の矛』と言われる所以、それこそ、『無限の魔力』なのです。あなたの魔力は尽きることはありません。もっと正確に言うと、使ったそばからたちまち回復してしまうのです。最大級の魔法を連発し、戦場を蹂躙する様はまさに鬼神。聖白軍が数々の戦いに勝利を収めてきたのは、ほかならぬその力があってこそです」
「なるほどねぇ……」
なんという格差だろうか。これほどの才能、能力が生まれつき決まってしまう世界。自分は最高クラスの才能を持っていたからいいものの、逆にほとんど全く魔法の使えない人間も存在するに違いない。そういった人々は、どんなにか不憫な生活をしているのだろうか。いや、そんなことを気にしている場合じゃない。おそらく、それだけの能力があったからこの歳にしてこの地位にいるのであって、この地位にいるからこそ、今回のような厄介事に巻き込まれたのだ。向こうの世界で普通の高校生活を送っていた僕としては、文句の一つや二つ言っても怒られる筋合いはない。せいぜい生まれ持った力を存分に使わせてもらうとしよう。
一通り魔法とその特性をレクチャーしてもらったが、常に反応速度を上げておけば、そうやすやすと命を落とすことはなさそうだ。唯一不安なのは変化魔法だ。味方に紛れて襲ってこられては厄介だが、ユウキが言うには、姿かたちは真似られても生来の魔力はそのままなので、魔力の質が聖白軍の人間と全く異なる龍黒軍はまず使ってこないだろうということだった。魔力とやらが視認できないケンにはキツネにつままれたような話だったが、まぁユウキが言うならそうなのだろう。
ただし、最後にもう一つだけ、確認しなければいけないことがある。
「ねぇ。最後に一つ、聞きたい」
「何でしょうか?」
できる限りぐっと声のトーンを落とし、トレードマークの微笑みさえ解除して腕を組み、今までで一番真剣な態度を作る。
「単刀直入に言えば、君は僕に大量虐殺をしろと、そう言ってるんだね?」
ユウキは、黙った。
「いいかい、僕のいた世界にも、戦争はある。決してなくなるものじゃない。ただ、僕は戦争を知らない。人と人とが武器を取り、殺しあう、その現場を直接見たことはない。幸い、僕の暮らす場所からは遠いところで戦争は起こっている。実際、僕の住んでいる場所では戦争行為は、少なくとも表面上は、禁じられている。もちろん、人を殺すことは禁止されているし、そう滅多にやるやつはいない。僕だって人を殺めたことはないし、人を殺めた人も知り合いにはいない」
なおも黙るユウキに近づいて、かがんで目線の高さを合わせ、じっとのぞきこむ。その奥にある何かを、そっとすくい取ろうとするかのように。
「悪いけど、異世界の人間とはいえ、僕は殺すのは嫌だ。蘇生魔法なんて便利なものはないそうじゃないか。人は死んだら戻ってこない、そうだろう? ……そんな取り返しのつかないことをする度胸は僕にはない。そんな人間が、戦争で役に立つかな? 勿論、自分の身を守る程度、死なない程度になら攻撃してもいいけど、生憎その辺の匙加減はさっぱりわからないから、迂闊に攻撃に参加することはできない」
最後の一言二言をやや自嘲気味な微笑とともに付け加えると、意外なことに返事はすぐに返ってきた。
「いえ、それでも構いません」
ユウキは決然と、きっぱりと言い放った。てっきり落胆あるいはしどろもどろな返答が返ってくると予想していたケンは少なからず動揺したが、右の眉を少し持ち上げるだけにとどめた。
「魔法のことを何も知らない貴方に、突然戦闘に参加しろ、というのが土台無理なお願いだとは重々承知しております。作戦に参加していただけるだけで十分有難いことです。ケン将軍のお姿、ただそれだけでも、聖白軍の士気は十二分に高まるでしょう。ただ、無理はなさらぬよう、お願いいたします」
無理するな、か。敵将を打倒して元の世界への帰り方を聞き出そうというのは、無理に含まれるに相違ない。最後の忠告は聞かなかったことにして、一言ありがとう、と呟くと、学生服の上から真っ白なオーバーコートを羽織り、黄金でできた鎧をどうにか身につける。相当な厚着、相当な重装備だが、不思議とさっきよりもむしろ涼しく、体が軽く感じる。手を広げ、十指にはめた指輪の色彩を眺め、背中から飛び出した剣の柄を引っ張り、しゃらん、と涼しげな音色が聞こえるのを確かめると、ユウキが指し示すままに、真紅の天幕がめくられている場所へと、迷いなく歩を進める。
再び眼前に広がったのは、禍々しい血の色の空、そして、飛び交う色とりどりの閃光、神速の剣閃。焼けつく臭いと、唸るような轟音。そして何より、指先からねっとりとからみつき、力強く脈打ちながら体の中深くまで浸食してくるどろりとした殺気。戦場の感覚がピリピリと皮膚を刺激するのを何とか堪え、もう一歩、確実に右足を踏み出す。既に意識は左手の薬指に集中している。
黄色の宝石が強く輝き、体を淡い光が包みこむ。時間の流れがシフトダウンするのも待たずに両足で地面を強く蹴り、純白の衣をなびかせて、未知の領域へと飛び立っていった。
突如、何もなかったはずの空中から姿を現したのは全身真っ黒のローブに身を包んだ人間だった。ところどころに青色の線が走るローブは、顔までもすっぽりと覆い隠し、中の人間が男か女かすらわからない。一、二、三……ぱっと視界に入るだけでも十人はいる。おそらく戦闘態勢に入っているのであろう、再び立ち込めた黒雲の暗がりの中、各々の手に浮かび上がる赤、青、緑、黄色、色とりどりの光は、悔恨尽きず現世を彷徨う魂のように思える。
「隠蔽魔法か。相変わらず龍黒軍の連中は姑息な手段が得意とみえる。まだこれで全部ではないでしょう。決してそばを離れないで下さいね、姫」
そう言う間も、ケンの目は決してミナに向けられることはなかった。敵の集団をはたと見据え、その一挙一動さえも見逃すまいと、宝石のような黒い瞳を爛々と輝かせている。言われなくとも、ミナはケンの細い左腕をぎゅっと握っていた。いつの間にか、肌を伝わってくる振動は激しさを増し、力強く躍動していた。草原を駆ける騎馬のように、あるいは獰猛な肉食獣のように。しかしその周期は決して乱れることなく、どくり、どくり、一定のリズムを刻み続けていて、獲物の様子をうかがう猛禽のような冷徹さすら感じられる。この細く白い腕の何処に、こんなたくましい血液が流れているのだろうか。ミナには不思議でならない。
不意に、ケンは右手の剣を大きく掲げ、胸を張り、猛々しいテノールを張り上げた。
「いかにも、我こそが聖白軍ブランシュ皇室護衛隊隊長兼、聖白軍連合総大将、ケン将軍である。我を打倒し、名を天下に轟かせたい者は、遠慮なくかかってくるがいい! その代わり、我の前に姿を現した者は、二度と日の目を見られぬものと思え!」
突然ケンが発した大声に驚き、まるで戦国大名ね……と、ミナが苦笑するまでの、その間、
ケンを包んでいた淡い黄色の光が急激にその輝きを増し、右手の大剣は白光を放ち、そして、ミナの手から、握っていたはずの左腕の感覚が消えた。コンマ何秒かの時間をおいて、その左腕の感覚が戻って来た時、
目には眩いばかりの黄色い光の筋が残像として焼きつけられていた。それは滑らかな曲線を描きながら、黒ローブの敵が浮遊する場所を一筆書きでなぞっていた。いや、浮遊していた場所、という方が正しいだろう。手に怪しい光を携えていた黒ローブ達は、一人残らず、真っ赤な鮮血を吹き出して落下するところだった。一瞬、頭の中が真っ白になって、しばし思考停止状態に陥ったが、やがて思い出したようにケンの方を見ると、斜め下に降り下げた剣から見たこともない量の、鮮やかな粘性質の赤い液体が、ぼとり、ぼとり、と滴っていた。それが血液だとミナが気づいた時、刀身に白い光が漂い、呪わしい赤い液体は、溶けるように空中に消えていった。
すうっ、と四肢から力が抜けていく。頭をめぐる血流が静かに吸い取られていくように、滑らかに、意識が遠のいていく。無限とも思えるほど、果てしなく広がる真っ白な空間。流れるにまかせ、そのまま吸い込まれていく…………と思ったその時、ばん、と不気味な爆発音が弾けて、はっと我に返ると、かちかち、と奥歯が小刻みにぶつかり合う音が聞こえてくる。目を開けると、ケンの左腕に絡みついた両腕は、まるで切り離されたトカゲのしっぽのように、ミナ自身の意思はお構いなしに、びくん、びくん、と痙攣している。いや、腕だけではない。紺色のスカートの下に伸びた華奢な脚も、まるで別の生き物のように、がたがたぶるぶると震えている。ケンの魔法なり魔術なりで空中に浮かんでいたからいいものの、地に足をつけていたとしたらまず間違いなく卒倒していたことだろう。しかし、しかし。そんなになっても、ケンはこっちを振り向いてはくれなかった。
新たに出現した剣士と思しき漆黒のコート、薄青のクリスタルの鎧をつけた十数人の戦士達に向かって、黄色に輝く右手を振り上げ、手首のスナップを利かせながら素早く空中をはたくと、ばしん、ばしん、と音を立てて太い稲光が空中を走り、ジグザグと複雑な軌道を描きながらもあやまたず敵兵に衝突し、ばりっと鋭い唸り声とともに黄色い火花となって炸裂、焼け焦げた黒装束が、力なく落下していく。まるで、うるさい蝿でも叩き落とすかのように、無心に、冷徹に、淡々とその作業を繰り返す。一滴の憐憫も、哀愁も、ましてや憤怒さえも感じられぬ、淡白で機械的な動き。ミナがその後ろ姿に何かしらの『こころ』を見出そうと見つめても、その視線はするり、と通り抜け、むなしくも虚空を彷徨う。ミナの震えが、脈を打ってより一層大きくなり、腕は冷え切って感覚が抜け落ちていく。にもかかわらず、左胸の鼓動は極限まで高まり、その熱はじりじりと体を焼く。そして、ぼんやりとかすむ意識だけが、ふらふらと一人歩きを始める。
なぜ。なぜこんなにも、躊躇なく…………ひ、人殺しができるのか…………
それまで、ミナは自分のケンに対して抱く気持ちが上手く整理できないでいた。たしかに、ケンはミナにとって特別な存在だった。今までずっと顧みることは無かったけれど、それは間違いない。今思えば、ケンと一緒にいるときは他の誰と居る時より饒舌だったし、何より楽しかった。分厚い本を机の上に立てて、背もたれにだらりと寄りかかって、つややかな睫毛の下で少し濡れた黒い瞳を、ちろり、ちろりと彷徨わせている、その横顔をわけもなく見つめていたり、ずらりと並ぶ活字を横から覗き込んで、呆れたような溜息をついてみたり、その後、照れくさそうに頬を掻きながらいろいろと解説をしてくれるのを、一生懸命聞き入るけれど、やっぱり意味が分からなかったり。今の高校に入るのは、ぶっちぎりで中学トップの成績を維持していたケンとは違ってミナには一苦労だったのだが、それでもなんとか滑り込めたのは、多かれ少なかれ、様々な意味で、ケンに依るところが大きい。一方でケンも、必要に迫られない限りミナ以外の人間と会話しているのをミナはほとんど見たことがない。
しかし、昨日『約束』をした時、それが、『告白』だと察した時、ミナはそれを受け入れるかどうか、大いに悩んだ。なぜか。
ケンには、決して人には見せない、『何か』があった。数年間、下手したら十数年間、すぐ近くにいたミナにすらもうかがい知ることのできない、未知の領域があった。ケンは事あるごとに、いや、何でもない時さえ、口元には静かな微笑みを漂わせていたが、その微笑みの奥に隠された暗い影は、ミナが決して踏み込むことのできない、細くも深い溝の向こうにあった。
隠された闇、その存在する原因、それははっきりしていた。ケンには両親がいない。事故か、何らかの事件に巻き込まれたのか、はたまた子を捨て失踪したのか、結局今の今まで訊くことはできずにいるが、ミナがケンと初めて出会った小学生時代、そのときから、ケンは孤独だった。小さい頃は祖母に育てられていたものの、その唯一の頼るべき人とも死別すると、小額の保障をなんとかやりくりして、たった一人で生活するようになった。だから、なのだろう。ケンには、一番の親友であるミナにさえ、どこか近づきがたい印象を与えるのだ。ほころんだ口元、透き通った瞳の奥に、しかしありありと存在感を見せつける、小さな小さな棘。それに手を触れてしまうと、じんわりと柔らかく暖かい日常が何もかも壊れてしまいそうで、どうしても、小さく、けれども致命的な、距離を取らずにはいられなかった。さらにミナを悩ませるのが、ケンへの思いは、ただの憐憫なのではないか、という疑問。ふわり浮かんだもう一つの意識は馬鹿馬鹿しいと笑っているのだが、それでも、ミナの中の『こころ』という柔らかい臓器に小さな火の粉となって、いつまでもこびりついているのだった。
しかし、突如ミナの前に現れたケン、いや、ケンの姿をした男は、ミナの迷いなどどこ吹く風、何の躊躇いもなくずかずかとミナに近づき、その手を握った。初めこそ戸惑ったものの、そのぬくもり、微笑み、息遣い、言葉の端々に現れる慈愛、男の一挙一動が次々とケンのそれと重なっていくうち、ケンが十六年間誰にも見せなかった扉の奥に詰まっているのは、満たされぬ空虚ではなく、ただ、満足な愛情を享受できなかった故に扱い方が分からなかった、誰かへの恋慕なのかもしれない……………徐々にその仮説が、確信へと深まっていった。またそれと同時に、ミナ自身も自分の気持ちが確かに恋という一文字に凝集されているのだと、気がついた。なのに…………なのに…………
(酷い…………酷過ぎるよ…………)
声にならない絶望が、脳の芯を深く抉ったとき、どこからともなく激しい嗚咽が巻き起こり、全身をわななかせ、肺を焦がす。とめどなく流れ落ちる光の粒、その一滴一滴が確かな質量をもって、青ざめた頬をしたたり、あるいは湿った白色のセーラー服をより一層濡らし、あるいはざらざらとけたたましい金属音を奏でる鈍色の雨に混じって、何処までも落ちていく。何のことはない、全ては勘違いだった。ケンを欲する心ゆえの醜い思い上がり。扉の奥に眠っていたのはミナへの恋慕などではなかった。自身に降りかかる不幸を呪い、それをきっかけに育まれてきた負の感情。恨み、妬み、嫉み、あらゆる不満を凝縮させ、心の中に押し込めた真っ黒なしずくを、ぽたり、ぽたりと一滴ずつ長年蓄積させていき、出来上がったのは禍々しい粘液でできた黒い海。さらには、その液体が滞って、腐敗した塊から浮かび上がってきた、破壊を、殺戮を求める衝動。獰猛な獣の心。歪んだ魂。救われぬ生々しい傷跡。
ミナの苦悩をよそに、ケンが漆黒の装備を身に纏った剣士たちを全て撃ち落とした瞬間、二人の目の前、一メートルもないところに、突如おぼろに霞む黒い騎士が殺到した。遠距離では魔法の餌食になると考えて、姿を消して零距離まで近づいたのであろう彼らは、二人の周囲を取り囲み、漆黒に輝く甲冑からけたたましい金属音を唸らせて、一斉に斬りかかった。条件反射的に持ち上がったケンの右手は瑠璃色に輝き、それをおもむろに地面、いや、足元の虚空に押し付ける。その瞬間、足元から刺すような冷気がミナの肌を撫で、零れる涙のしずくはたちまち凍りついた。そして、二人の周囲にはキラキラと輝く氷のドームが成長し、その外側から勢い良く伸びた氷柱が、黒騎士たちをずぶり、と貫き、そのまま剣もろとも全身をのみこんで、凍りついた。三秒で完成した猛々しい騎士たちが集う氷の彫像には、降りしきる雨さえも凍りついて突き刺さり、黒雲の下では跳ね返す光もなく、ただぼんやりと、幽霊のように青白く鈍い光を放っていた。が、ミナが頬に張り付いた氷の粒をこすり落として目を開けた時には、間髪いれずに振り回された黄金の剣が純白の光で真円を描き、その刀身に抉られた氷塊が、儚くも粉々に砕け散って四散するところだった。その一瞬、虚空を舞う氷塊の一つに、ミナに背を向けるケンの口元がはっきりと映った。醜い、今までミナが見た中で、最も醜い、歪んだ微笑みがそこにあった。
ついに、ケンの左腕にすがる両手の感覚が消えた。指先からはじまって、手足、腕、脚、体の末端部から感覚が分解されて、空気中に溶けていく。徐々に白んでいく視界に、緑色の光を宿す右手で、ケンが頬についた血の滴る傷をさすり、見る見るうちに赤い液体がふわり、と蒸発し、その上に白い滑らかな肌が覆いかぶさって、傷が跡形もなく消える、その一連の動作が焼きつく。やがて視界も真っ白に塗りつぶされると、最後に残ったのは聴覚だった。やや緊張気味に、大丈夫ですか、と尋ねる声、その直後に響いた、ターン、という軽く、乾いた音。そのどちらも、ミナを現実に引き戻すことのないまま、ごうごう、という激しい耳鳴りに押しつぶされて、ミナは優しく波打つ白い水面にその身体を同化させるかのように、深く、深く、沈んでいった。
ごうっ、と音を立てて焼けつく空気が頬を撫で、後方へと通り抜ける。ワンテンポ遅れて、右斜め後方から渦巻く空気の塊が滑らかな曲線を描きながら迫る。今の火炎球を受け止めようとしていたら、まず間違いなく背中にクリーンヒットしたことだろう。落ち着いて、両足で空を蹴り、前方に加速する。直後、斜め下方、正面から三筋の雷撃。これは、速度がケタ違いに速く、かつ軌道がジグザグで避けにくいが、金属でできた剣でそっと薙ぐだけで簡単に受け流すことができる、という知識を、つい先ほど学んでいる。慌てず、速度を落とさぬままに剣を電光に合わせると、ばりばりっ、と空気を裂く青白い筋は勢いそのままに後方へ流れていく。しかし、全くどういう仕組みで電撃の軌道をコントロールしているのか。たとえ掌が高電圧に帯電したとしても、空気よりも人体の方が電気抵抗が格段に小さいのだから、そのまま術者本人に電気が流れて丸焦げになるのが自然なはずなのだが。確かに、ユウキに言われるまま使ってみた時はケン自身も思い通りの方向に雷撃を飛ばすことができたが、実戦では怖くて使う気になれない。
今、ケンは敵の大部隊の中央に向けて全速力で突進しているところだった。おそらく国境線と思われる、幅数百メートルはあろうかという巨大な河、その向こう岸に、黒い点が虫のようにうごめいている。一体何人いるのか皆目見当もつかないが、少なくとも数百人、というレベルではなさそうだ。明らかに数千人はいる。下手したら万を超えるかもしれない。
どうやら、両軍ともに連続して飛行できる距離には限りがあるようで、河の上空で戦っていてもいずれ落下するか、退却を余儀なくされるために、両軍ロングレンジの魔法攻撃を対岸から飛ばしあう膠着状態に陥っているようだった。先程かいま見た、神速の剣を切り結ぶ戦闘は、ユウキの指揮によって前線を河岸まで押し戻したことで回避されたようだ。しかし、この膠着状態になっても敵が撤退しないところをみると、敵は意地でもブランシュに侵攻しようという気構えらしい。もちろん、こちらは撤退すれば領土侵攻を許すことになるので撤退は厳禁だが、相手方はいつの間にかこの河の向こうに長城を築いていたらしく、そこまで撤退すればまず負けることはないのだ。しかし、それはケンにとっては有難かった。下手に撤退されてしまえば、敵将にまみえることはまず叶わないだろう。そうすれば、元居た世界に帰れるのはいつになるのか分かったものではない。つまり、今ケンがしなければならないのは、敵方に撤退を許さず、かつ将軍クラスの鎮座しているであろう奥の陣地に斬り込むことだ。しかし、こう敵が固まっていてはそれも難しい。ケンの強力な範囲魔法で敵軍を丸ごと吹きとばしてしまってもいいのだが、それはケンの良心が許さない。膠着状態を打開し、乱戦に持ち込むのが理想だ。
飛び交う魔法は、全てケンを狙っていた。当然だ。たった一人で河の上空を飛んでくる戦士など、格好の的に違いないし、そうそういるはずがない。敵だってブランシュの将軍について知らない筈がないし、だからこそ、接近許すまじ、と必死になって河越えを阻止しようとするのは当然のことだ。反射速度を最高レベルまで引き上げても、少し気を緩めると連続攻撃の餌食になってしまう。どうやら、当てやすい低位の魔法を命中させ、その隙に大魔法を一斉に叩き込もう、という魂胆らしい。ということは、一発もその身に受けては危ない、ということだ。
既に、ケンは河の真ん中に迫ろうかというところまで来ていた。ここまでくれば充分、あとはタイミングを待つだけだ。ケンは、目の前にぽつり、と現れた小さな黒い渦、それを視認した瞬間、右手の中指に意識を集中させ、同時に体を左に捻って黄金の剣を大きく振りかぶる。おおおっ、とガラにもなく大声を出して恐怖を振り払うと、白い光を纏った剣を渦の中央に叩きつける。その瞬間、渦が小さく揺らめいたかと思うと、そこを中心にして、爆音とともに少し透き通った黒紫のエネルギーがほとばしる。が、水平に薙いだ剣から放出された白光がそれを打ち消し、真っ二つに斬り裂く。その直後、エネルギー波に打ち消されて、一瞬、周りに飛び交う魔法攻撃が途切れる。今だ。そう心の中で呟くと、右手の人差し指に意識を移し、そのまま勢いよく空に振り上げる。バン、という大きな炸裂音とともにオレンジ色の火炎が巻き起こってあたりを熱風が吹きすさび、近づきつつあった氷塊が音もなく溶けた。ユウキに指示された、一斉攻撃の合図。
ケンがその身に攻撃を引きつけている間、聖白軍の魔法攻撃部隊は、敢えて敵への攻撃を控えていた。勿論、怠けていたわけではない。『魔力』の回復を待ち、可能な限りの大魔法を一斉に放つための準備時間。ケンの後方で虹色の光が閃き、紅蓮の炎、薄緑色の竜巻、青白い燐光を放つ氷塊、その他にも、まるで夜空に浮かぶ星々のような華麗な光を纏いながら、しかし敵を殺傷せしめんとする確かな威力を伴って、あらゆる魔法攻撃が飛翔した。無論、この長距離では敵を一掃するに足る威力はない、むしろケンにとってはそちらの方が好都合なのだが、敵の混乱を引き起こし、ケンへの攻撃を緩めさせるには充分だ。
ケンは虹色の光を確認すると、一気に急降下した。ケンの思惑通り、敵の攻撃対象はケンから魔法の塊へと移ったようだった。少しでも相殺して被害を防ごうと必死なようだ。第一、いくら純白、黄金のケンの装備が目立つからといって、こう周りに派手な光を伴ったバカでかい星屑が迫っている中では、器用にケンを標的にすることは難しいだろう。そのまま、真っ逆さまに河の水面へと落下し、そして、右手の小指に力を込めて、瑠璃色に輝く右手を勢いよく水面に叩きつける。たちまち、ちろちろと泡立つ水面はぴしっ、と音を立てて凍りつき、ケンの右手を中心にして、空の色を反射して不気味な赤色を帯びた水が次々と青白く透き通った氷に変わっていく。血液が勢いよく右手から流れ出るようなすさまじい不快感と、全身を貫く強烈な冷気に臆することなく、右手に意識を途切れなく注ぎこむと、氷の塊はどんどん大きくなり、ケンの頭上で色とりどりの魔法群が立て続けに爆散したときには、既に河の両岸まで分厚い氷に覆われていた。
ふうっ、と大きく息を吐いて体内の冷気を押しだし、氷の中に埋まった右手をばりっ、と引きぬいて周りを見渡す。何処までも続く氷の海。我ながら無茶苦茶な力だ。腕に付いた氷の膜をこすり落としながら、思わず苦笑する。もしこれがゲームの世界だったなら、紛れなくゲームデータには設定されていない改造、チート級の威力だろう。しかしここは現実の世界なのだ。全くこの莫大な量の水から奪った熱は一体どこへ消えたのだろうか。ケンとしては大いに興味の湧くところだが、生憎そんなことを考えている余裕はない。
ケンの背後、聖白軍の陣地からは地鳴りのような歓声とともに白色の軍服を纏った兵士たちが一斉に突撃を始めた。逆サイドの龍黒軍は多少前線に混乱があったようでしばし隊列を乱したようだったが、すぐに体勢を立て直し、ワンテンポ遅れたもののこれまた一斉に進軍を開始したのは流石というべきだろう。両軍ほぼ同時に突撃を始めたのだから、戦況は全くの互角のまま。このままでは大量の死者が出るのは明らかだ。無論、それは先刻までの膠着状態でも同様なのだが。乱戦につけ込み、できる限り早く敵将の陣地まで乗り込んで短期決着を図らねばならない。そこまで考え、素早く氷を蹴って突撃を開始しようとした時、頭上を禍々しい炎を纏った巨岩が通り過ぎた。
隕石…………? と見紛う程の威圧感を伴った物体はちょうどケンの頭上あたりで粉々に砕け散り、焼けつく流星群となって黒服たちの頭上に降り注いだ。あっ、と声を上げるが、幸い敵軍にそれほどのダメージはないようだ。構わず、黒色の波が再び前進を始める、と思ったその瞬間、大きな水柱が巻き起こり、黒い影は姿を消した。
くそ、ユウキめ、僕には黙っておいて…………今の攻撃は兵士たちを直接狙ったものではなかった。氷でできた脆弱な足場を穿って大穴をあけることで敵軍の進攻を止め、混乱を誘うのが目的だ。確かに、大量の人間を標的にした攻撃であり、ケンが知っていれば間違いなく反対しただろう。しかしながら、敵陣に突っ込むというケンの目的は皮肉にもより容易になったといえる。ケンは大きく深呼吸してユウキへの怒りを収めると、今度こそ氷の大地を砕かんばかりに強く蹴り、最高速度で敵陣へと突っ込んでいく。
敵陣は、おそらくユウキの思惑通り、大混乱の有様だった。空中を駆ける技を使えないのか、あるいは魔力を切らしてしまったのか、水面で情けなく手足をバタバタさせている者、そういう連中を抱えて飛びまわる者、水色の光を手に宿して、再び水を凍らせようとしている者、陸地にいる者たちもじりじりと後ずさって落っことされた人間のためにスペースを取ろうとしている。その頭上に、容赦なく七色の光を伴って攻撃魔法が降り注ぐ。残ったローブ姿の魔法使いたちが必死にそれを相殺しようとする。けれども、ケンが思ったより被害は小さいようだ。おそらく、ユウキが気を遣って、攻撃魔法を牽制程度の威力の低いものに限定させたのだろう。しかし、今や電光のような速度まで加速したケンにとっては、数千、数万の軍勢といえども突破するには充分すぎるほどだった。遥か後方を進攻する本隊を待つまでもなく、自身に向けて飛んでくる攻撃を最小限の動きでいなしながら、一直線に敵の本陣を目指す。
ケンの感覚では一時間ほど、実際の時間間隔では五分ほどなのだが、経過した頃、急に目の前が開けた。黒服の兵士は一人も見当たらない。ふと振り返ると、追ってくる兵士もいない。いや、そもそも気がつかなかったのだ。今までは迫りくる魔法攻撃を相殺するのに精一杯で使うこと叶わなかったが、自身に向けられた攻撃が減った今は隠蔽魔法が使える。しかも疾風のごとき全速力で駆け抜けたので、気がついたとしても誰も追いつくことなどできない。後方の敵集団から充分距離をとると、隠蔽魔法と感覚強化魔法を解除し、視界の中央に映る、紫色の垂れ幕に囲われた敵将の休息場と思しき領域に全速前進を続ける。
目的の場所へとたどり着いたケンは、再び隠蔽魔法と感覚強化魔法を使用し、紫の天幕の外で聞き耳を立てる。遠く背後から聞こえる爆発音、その合間をぬって、確かな衣擦れの音、複数の足音が微かながらもケンの耳に届く。音を立てないよう、そっと剣の柄を握ると、引き抜くのと同時に天幕の中へと躍り出る。
魔法攻撃と隠蔽魔法は同時に使うことができない。魔法の属性を持っているケンの剣も同じだ。つまり、この時点でケンの隠蔽魔法は強制的に解除され、天幕の中の連中との戦闘を余儀なくされることとなる。敵は四人。誉れ高き大将軍の突然の不意打ちに、あるいは目を丸くし、あるいは青ざめ、あるいは威嚇の火花を飛ばす。彼らが剣に手をかけ、手から閃光を発する、その前に。ケンはぎりっ、と歯を食いしばり、腕一本くらいなら治ります、というユウキの言葉を反芻して覚悟を決める。くわっ、と見開かれた両眼に映る映像は、今までとは比べ物にならないくらい、極限までのスローモーション。空中を漂う、四十本の指。そこをめがけて。
純白の剣閃が空を薙ぐ。音速を凌駕するがごとき神速の剣が空気をびいっ、と震わせる。微かな手ごたえとともに、ケンを取り囲む四人の指先が鮮血をほとばしらせながら空を舞う。それぞれにはめ込まれた華麗な宝石は、赤黒い血飛沫を浴びて鈍く不気味な色彩を放つ。激痛に顔を歪ませ、喘ぎ声とともにもんどり打った四人には、指輪も剣も使うことはできない。いずれ回復魔法で手当てすれば充分治る傷だとは承知していても、喉の奥に焼けるような嫌悪感がちりちりと痛む。それをつばとともにぐっと飲み込んで、装備の壮麗さから、一番権威の高そうな兵士をひとり選ぶと、その喉元に白光を纏った黄金の剣の切っ先を、ぴたりと突きつける。
「命が惜しければ答えるんだ」
もうちょっと怖そうな声や口調はできないものか、と内心苦笑するが、そもそも剣を振り回すのさえ今日が初めてなのだから、まぁ上出来というものだろう。実際、三十路半ば程と見られるひげ面の顔に埋まった眼球は大きく見開かれ、青ざめた唇はわなわなと震えている。その顔が、わずかに縦に振られた。いつになるともわからなかったこの瞬間は、あまりにも早く、あっけなく訪れた。そうとは悟られぬ程度に、しかし確かに黄金の剣の切っ先は震えた。
「『向こう』の世界、僕が元居た世界に帰る方法を教えて欲しい」
声の震えをなんとか抑える。わずかながらその頬笑みは強張り、口元は引きつっている。
「『向こう』の世界…………だと…………?」
恐怖に息苦しそうな喘ぎ声を漏らしながら途切れ途切れに呟く。…………すぐに反応がないところからすると、こいつはひょっとして何も知らないのか…………? 不安が頭をよぎり、少しだけ、目が潤む。しかしその瞬間、男はさらに大きく目を見開いた。
「ひょっとして…………『鍵』のことか?」
「『鍵』…………? それはなんだ?」
剣を強く握り直し、眉間の筋をより一層深くする。怯えきった男は咄嗟に後ずさるが、剣の切っ先は喉元をとらえたままだ。
「し、知らん! 上の連中が話していたのを小耳にはさんだだけだ! ついに『鍵』を手に入れた、とか、『鍵』さえあれば、とか。そ、その持ち主も、使い道も俺は知らんぞ!」
一軍を預かる将軍のくせに、やけに慌てている。そう思うと、いささか気分も楽になり、その笑みも自然と様になってくる。そう、大将軍の肩書を持つ以上、威圧するような真剣な表情よりも、不気味に微笑んでいた方がかえって相手を震えあがらせられるというものだ。にやり、と口元を意識的に歪めると、剣を突き付けたまま、青ざめた男の顔に鼻先が触れるかと思うほど、自分の顔を近づけた。
「そうか、ならばその、『上の連中』とやらの居場所を教えて貰………………」
最後の一言は、下腹部を貫いた激痛に押し潰された。
反射的に加速された聴覚に、やや遅れて低く、乾ききった、ターンという音が響く。
『向こう』でも『こちら』でも、一度として実際に聞いたことのない音。しかし、ケンは忽ち、その音のなんたるかを悟っていた。
銃声……………………馬鹿な…………………
左足が力を失い、ゆっくり、ゆっくりと体が傾いていく。右わき腹にあてがった左手を、ぬるり、となま暖かい感覚が包む。喉から極低音の掠れた呻き声が漏れ、全身を焼きつくすような、これまでの人生で最大級の激痛に身をよじりながら、最後の気力を振り絞って右斜め上方、銃弾の飛んできた方向を霞む視界にとらえる。そこには…………そこには、何もなかった。ただ血塗られた赤い空が、嘲笑うかのようにケンを見下ろしているだけだった。その瞬間、虚空に突然オレンジ色の火花が瞬き、くすんだ黄色の、ごくごく小さな点が、まっすぐケンをめがけて飛んでくる。
靄がかかった思考の中で、それでも、咄嗟にケンは全てを悟った。隠蔽魔法だ。魔法攻撃とは併用できないが、火薬を炸裂させ、そのエネルギーで鉛玉を撃ち出す、その機構には何ら魔法や魔術は必要としない。不可視の領域からゆっくりとスコープを覗き込み、その致死の十字架にケンをとらえ、引き金を引いたのだ。鈍い光を放つ弾丸は、ただ無表情にケンの心臓へと突っ込んでくる。かわそうにも、脚は言うことを聞かない。ケンは右手でかろうじて保持していた黄金の剣をどうにか射線上に合わせ、ぐっと力を込める。
ぎゃりいいん、とすさまじい金属音が限界まで引き延ばされて耳に届くのとともに、ケンの視界いっぱいに赤熱した火花が飛び散る。右手に、すさまじい重圧。黄金の剣が本来の質量を取り戻したかのような抵抗力に、細く白い腕は軋む。負けるものか、と歯を食いしばり、押し返そうとした瞬間、ふいに、右腕にかかる力が消えた。………………魔法と親和性の高い黄金………………しかし、その物理的強度は、金属の中でも極端に低い……………………
砕け散る金色の破片をかいくぐり飛来した弾丸は、何の光も纏うことなく、真紅の空にただ一点の影を残して、ケンの意識を深々と抉り取った。
ザアアアァァァ……………………
最初に意識下に現れたのはざらついた雨のノイズ。次第に触覚が戻ってきて、冷え切った体にぐっしょりと濡れた服が貼りつき、全身に痺れるような痛みが走るのを感じる。
ぼんやりとした意識がはっきりしてくるに従って、ピリピリとした痛みが確かな量感を獲得し、身を切るような刺激へと変わっていくのに、思わず情けない呻き声をあげてしまう。何かの拍子に口の中を切ってしまったらしく、鉄臭く、少ししょっぱい温感が舌の先を包む。霞んだ視界に映るのは真っ黒な雲のみ。いや、視界の端の歪んだ部分に、人の姿が見える。一人ではない。ぱっとわかるだけでも五、六人が、ミナを覗き込んでいる。
そのとき、左腕に、微かなぬくもりを感じることに気がつく。とくん、とくん、と優しく波打つ、暖かい鼓動。凍りついた体を少しずつ融かしていくような気がして、無意識に鼓動の中心に左手を当てようとして、その左手がぬるり、と滑った。
ぴしっ、と頭の中に小さな小さなヒビが走ったような気がした。胸にわだかまる、一抹の不安。それを振り払おうと、微かに首を振り、ゆっくりと瞬きすると、恐る恐る左手を視界に入れる。
じっとりと湿った長袖の制服はところどころ破けていて、その下に見える病的なまでに青ざめた腕には、所々真新しい擦り傷が刻まれ、雨粒を浴びてうっすらと血が滲んでいる。その袖口、本来ならば薄い水色の筋が二本入っているはずのところは、赤黒く塗りつぶされていて、その先に飛び出た白く華奢な手には、紛れもない、真っ赤な血で、べっとりと濡れている。それを見た瞬間、ミナの意識は急速にその鮮やかさを取り戻した。考えるより先に、ごつごつしたアスファルトに手をついて上半身を起こし、その傍らを見やる。
そこには、先程まで獅子奮迅たる大立ち回りを見せつけていた白服の剣士が、無惨にもうつぶせに横たわっていた。触れるだけで折れてしまいそうな細い左腕は、だらしなく投げ出され中ほどであり得ない方向に曲がっている。右腕はまっすぐ横たわっているものの、その掌の近くに放り出された剣は、その刀身の一部が吹き飛ばされ、辺りに散らばる金色の破片とともに滑らかに歪んだ断面を晒し、くすんだ光を放っている。そして、白いオーバーコートの中央には二つの穴が穿たれ、ごぽ、ごぽ、と脈を立てて血液が湧きあがり、服はもちろん、黒々しいアスファルトの地面にも見て分かるほどの染みを作っている。そこには遥かなる高みから、容赦なく大粒の雨が降り注いでいる。硬い地面にうずもれた顔からは、その表情をうかがい知ることはできない。
それ以上見たら、再び気を失ってしまいそうだった。しかし、二つの穴はミナの意識を吸い込むかのように視線を釘づけにしていた。どうして、どうしてなの。あんなに強かったじゃない。なんでこんな、簡単に………………その時、ミナは意識を失う直前に聞いた音を思い出した。冷たく、乾いた、軽い音。………………銃声。そうだ。これは、この傷は、銃痕なのだ……………………
ミナは唐突に理解した。そうだ。魔法がこちらの世界に存在しないのと同じように、銃だって向こうの世界には存在しない、イレギュラーな武器なのだ。確かに、ケンの強さは凄まじかった。ケンを愛していたミナさえも、恐怖と戦慄を刻みこまれる程の圧倒的な強さ。しかし、それも向こうの世界での強さなのだ。音速を超える速さで迫り、しかも軟らかい黄金でできた剣などはやすやすと貫くほどの威力を持つ、ライフルの弾丸。それを前にしては成す術なく、あっけなく散ってしまったのだ。敵はおそらく、現実世界とファンタジーの世界を自在に行き来できるのだろう。鬼神の如き強さに対抗すべく、『こちら』の世界の現代兵器に注目したに違いない…………
「ケン…………ケン! ねぇ! 目を覚ましてよ、ケン!」
この男は私の知るケンじゃない、その考えはとうの昔に吹き飛んでいた。全身の痛みも忘れて体をよじり、這いつくばるようにして、ケンの顔に近づく。ケンの頭を中心に両手をアスファルトにつけ、その耳元に声を届かせようとかがみこむ。その時、背中に生暖かい、粘つく液体が染み込んだ服が貼りついた。右手で背中をさすると、これまた真っ赤な血液。ミナは、自分の脚がケンの脚の上に乗っかっていたのを思い出した。守ってくれたんだ…………自分が下敷きになって………………それに気がついたとき、胸の奥から再び嗚咽が巻き起こった。さっきとは違って、喉を焼くような吐き気も、身を切るような寒気も無い。息が止まるかと思えるほど胸をきゅっと締め付ける、切なくも、どこか甘い痛み。ぼろぼろと大粒の涙が、とめどなく流れ出る。雨に紛れることなく、真珠のように真ん丸な形を保って、空中をゆっくり、ゆっくりと漂い、ミナの手の甲に落下しても、その意志を失わないかのように、はじけ飛ぶことなく、丸い形のまま、名残惜しそうに白い肌の上を滑り落ちていく。
「ねぇ…………返事してよ…………お願い………………………」
息を詰まらせながら、ようやく口にできた掠れた声。高校生のものとは思えないほど弱々しくしわがれた声。しかし、案の定返事はない。湧きあがる血液の勢い、微かに聞こえる乱れた吐息、その両方が、目に見えて小さく、弱くなっていく。逆にこぼれおちる涙の雫はより一層大きく、数を増す。透き通った真珠の粒が連なって、ざらりとしたアスファルトにぶつかっては次々と砕かれ、儚い光の粒を空中に撒き散らす。まぶたの裏に焼きついた生々しい血の色は徐々に洗い流され、視界は透き通った光の粒に覆われていく。と、その奥で、ちろり、と紫色の光が瞬いた。
突如、ミナの周りを紫色の光の帯が包んだ。はっ、と顔を上げると、黒いローブに身をくるんだ人物が、紫色の光を纏った左手を、そっとミナの方に向けていた。魔法攻撃、そう悟ったミナの体が反射的に硬直する。が、しかし、その直後、全身の力がすとん、と抜け落ち、まぶたがとろりと重くなる。全身をびりびりと貫いていた痛みも、吸い取られるように消えていく。ワンテンポ遅れて、ふわり、と芳しく、甘い花の香りが鼻をくすぐる。ぽかぽかと暖かい光が体を包み、冷え切った体を内側から解きほぐしていく。その殺人的な心地よさに、まぶたは鉛のように重くなる。薄れゆく意識の中で、ミナは思った。これからどうなるのだろう。ケンが言ったことが本当ならば、私はさらわれて、それから洗脳されてしまう。ふいに、それでもいいや、という気がしてきた。ケンを失った、その喪失感を背負って生きていくくらいなら、何もかも忘れて、誰かの道具として生きる方が、ひょっとして幸せかもしれない…………。すでに、全身の感覚は無くなっている。そのまま、導かれるままにまどろみへと溺れ、現実世界と繋がれた、細い細い糸が切れようとした、そのとき。
…………だめよ。
声が聞こえた。
……あきらめちゃ、だめよ。
優しく、しかし芯の通った柔らかい声。
(…………誰…………なの…………?)
ふわりと浮かんだもう一つの意識が、ゆっくりと語りかける。その声は、紛れもないミナ自身の声。しかし、普段の自分からは想像もつかないほど清らかに透き通った、美しい声。今度こそ、はっきりとミナの鼓膜を揺らす。
「まだ終わってないわ。私には力がある。そうでしょう?」
ふふっ、と微かに聞こえる微笑みは、どこか懐かしい、そう、ケンのものとよく似ていた。目の前に差し伸べられた、白く輝く手。いや、手の形をした、白い光。すがるように両腕を伸ばし、その光の塊を両手でそっと包みこむ。その瞬間、しゃらーん、というすきとおった音色とともに、手の中から白い光があふれだす。それはたちまちミナを包みこみ、全身からミナの肌に沁みこんでいく。視界がホワイトアウトして…………
ミナは目を覚ました。奪われていた全身の感覚が戻り、静まっていた痛覚が再び牙をむく。その痛みと、視界に残る白い光を振り払うかのようにぎゅっ、と強く目を閉じる。小さな呻き声とともに、再び目を開くと、目の前にはケンの右手があった。指には色とりどりの指輪。赤、青、緑、黄、そして無色。――私には力がある、そうでしょう? ――脳裏に、透き通った自分の声が蘇る。そのとき、ほんのごくわずか、目の前の手がぴくり、と動いたような気がした。――あなたには特別な力があります――落ち着いた、真に迫った声がミナの手を震わせる。気がつくと、全身はほのかな白い光に包まれている。淡い、今にも消えてしまいそうな儚いその光に、何故かミナは頼もしさを感じた。その頼もしさをエネルギーに、目の前の右手を両手でそうっと包み込んだ。その手は凍るように冷たい。でも、まだ確かに脈打っている。ミナの心を融かす、じんわりと暖かい鼓動。その手の中で、きらり、と赤色の宝石が瞬く。ちょっと驚いたが、すぐに口元をほころばせる。既に涙は止まっていた。ちょっと待っててね。心の中でそっとささやく。私に力を貸して。そっと赤色の指輪を抜き取り、右手の人差し指にはめる。
左手を地につき、よろよろと立ちあがったとき、黒ローブの下に確かに驚愕の表情が垣間見えた。ミナを包む紫色の帯がいっそうその輝きを増す。しかし、ミナの力は抜けない。むしろ、右手の人差指から伝わる熱気が体中をめぐり、冷え切った体に活力が満ちてくる。突如、淡い白色の光が揺らめいたかと思うと、紫の光がかき消えた。ミナの周囲を、今度こそどよめきが包む。きっ、と目の前の黒ローブを睨みつける。そしてそのままぐるりと周囲を見渡す。いち、に、さん…………ミナを取り囲むのは八人、遠くでスナイパーライフルと思しき銃を構える姿が三人。その後ろに、今回の作戦の指揮官と思われる騎士装の男が一人。合計十二人を…………倒す。
がしっ、とミナの右手首が掴まれた。骨ばった、乾いた手。もちろんその拍動は全く感じられない。激しい嫌悪感とともに、力強く右腕を振り払う。と、右手に赤い閃光がほとばしり、ごおっ、と空気をかき乱す音とともに、ミナの制服が肩口辺りまで燃え上がった。
「あぁっ! あっつ!」
慌てて敵は飛びのくが、その禍々しい炎は消えない。腕全体を何本もの剣が貫いたかのような凄まじい痛み。歯を食いしばり、目をきつく閉じて涙を堪える。その間も灼熱の炎がぱちぱちと音を立てて腕を焦がす。ぜぇぜぇ、と荒い息を吐いて、落ち着こうとする。大丈夫、と必死に自分を言いくるめる。すると、ふっ、と右腕の痛みが消えた。恐る恐る目を開けると、オレンジ色の炎はあとかたもなく消え去っていた。制服はものの見事に焼け落ち、あらわになった白い肌はところどころ醜く焼けただれていたが、まだ動く。見ると、腕の周りだけ、白い光の輝きが強くなっているような気がする。
はぁ、はぁ、と肩で息をしながら、呼吸を整えると、喉の奥のほうから湧きあがる恐怖をなんとか飲み下して、もう一度右手に力を込め、茫然と虚空を漂うスナイパーに狙いを定めると、
ごうっ、と雨粒をも吹き飛ばす轟音が再び宙を駆けた。紅蓮の炎の塊は、今度こそミナを焼くことなく、蛇のように身をくねらせながら、狙い通りの方向にまっすぐ飛んでいく。三人は、自分が狙われているのだ、という事実に、何故かその寸前まで気がつかなかったらしい。空を蹴ってかわそうとしたときにはもう後の祭り。炎の先端が三つに分かれ、牙をむき鎌首をもたげて襲いかかる。なんとか致命傷は避けたようだが、三人とも手首から先が一瞬で炭になって焼け落ち、携えていた、黒光りする兵器は瞬く間に蒸発した。ミナの胸の奥で鈍い痛みが走るが、心を鬼にして、右手に赤色の光を宿す。直後、ミナの周囲に極太の八本の火柱が屹立する。が、敵の反応は素早く、その業火に身を灰にする者はなかった。
いつの間にか、制服はからっからに乾いていた。火柱が消え、あたりにオレンジ色の火の粉が雪のように舞っている。白い肌がその光を映して、暖かな桜色に染まる。胸の中の疼きは消え、火照った体とは対照的に、思考は極限まで冷めている。手だ。ミナはその周囲で様々な色の光が瞬くのを意識した。手さえ焼いてしまえば、敵は何もできない。そこまで考えたところで、ミナの周りを虹色の光が包んだ。
ずばん、と凄まじい轟音とともに、ミナにあらゆる魔法攻撃が殺到する。炎、風、氷、雷。あるいは今までの戦闘では出現しなかった、真っ黒な球。不思議と、恐怖は感じなかった。手足を動かす気にすらならない。なんでだろう。わたし、諦めちゃったのかしら。ふふっ、と思わず静かな笑みがこぼれる。いや、違う。
その全てが致死とも思える、禍々しい光の渦がまさにミナを飲み込もうとしたその時、音も無くその全てが消滅した。体を包む白い輝き。それはさらに強くなり、今や黒雲を突き抜けて注ぐ太陽の光よりも、眩しい光を放っていた。まるで後光ね、などと、思い上がったことを口走りそうになって、ミナは思わず苦笑する。
「たかが女の子一人誘拐するだけなのに、ずいぶんと気合入ってるじゃない?」
普段のミナなら絶対に口にしないような、皮肉めいた言葉。高みから、見下ろすような態度。ふふっ、と付け足した微笑には、恨みも、怒りも、ましてや悲しみも、一切含まれていない。穏やかで滑らかに落ち着いた、山奥の清流のようなこころ。そうか、これが姫としてのわたし。一国をまるまる守る力。幼馴染の男の子を一人守るくらい、どうってことない。
「いくわよ」
もう少し力を貸してね、と心の中で囁くと、右手を強く握りしめた。
「うっ………………くっ………………」
だらしない呻き声をあげながら、右手に力を込めてうつぶせの体を起こす。喉の奥に宿る、粘ついた嫌悪感に、思わずげほ、げほっ、と咳をすると、赤黒い液体の塊が口から飛び出す。確か……僕は……撃たれて……とすると……ここは…………
視界は驚くほど鮮明だった。視界だけではない。全身を貫いた、焼けるような痛みも嘘のようにひいているし、遠くから響く爆発音もクリアだ。唯一残るのは、口いっぱいに広がる、生暖かく粘っこい嫌な触感。眼前には、不気味に笑う血の色の空が広がっている。ケンの体から、すうっ、と力が抜け、もう一度地面に突っ伏す。そうか、僕は…………
いや、ちょっと待て、確か『こっち』の空は…………
「大丈夫ですか?」
背後から、声が聞こえた。透き通った、美しい声。しかし、どこか親しげで人懐っこく、懐かしい声。がばっ、と弾かれるように起き上がり、振り向く。これは……この声は………………
「………………ミナ?」
滝のように流れ落ちる、艶のある黒髪、それと対照的に、抜けるように真っ白な肌は、あたりを漂う火の粉に照らされ、紅をさしたようにうっすらと赤みがかっている。華奢で細い筋の通った鼻、少女めいたあどけなさを残す、柔らかな曲線を描く口元。そして、細い、ふさふさした睫毛の下に潜む青みがかった黒い瞳は、少し濡れ、頬にうっすらと細い光の筋を導いている。紛れもない、ミナの顔。しかし、その出で立ちは、まるで見たことも無いものだった。袖口の方がおおきく広がった真っ白なワンピース、いや、ドレスというべきだろうか。ところどころにレースがしつらえられ、腰や二の腕のあたりに細い金色の鎖がゆったりと巻き付き、首から下がったネックレスには、大ぶりの宝石が五つ、華麗なバラの装飾を施された黄金の台座にはめ込まれて、色とりどりの鮮やかな光を放っている。ネックレスに比べるとやや控えめだが、耳元にはこれまた美しい紫色の宝石が瞬き、白く華奢な右手には三つの指輪がはまっている。よく見ると、うっすらと淡く白い光が全身を包んでいる。
(きれいだ…………)
幼馴染の姿に、ケンは思わず見とれていた。その息をのむような美しさは、豪華絢爛たる衣装のためだけではない。彼女の内面からは、澄んだ清らかな流れがこんこんと湧き出しているのだった。何だろう。ユウキの言っていた『魔力』だろうか。いや、違う。あれは目に見えるのだと言っていた。それではこれは、この、穏やかで暖かな流れは何だろう。
ふと、『向こう』のミナは、こんなにも美しかっただろうか、と考える。制服姿の彼女の像を脳裏に結ぼうとして…………しかし、それはぼやけたままだった。思えば、毎日同じ教室に、最近ではすぐ隣の席に座っていながら、ここまでまじまじと、正面からミナを見つめたことはなかった。ミナが話しかけてくるのは、いつも背後からだった。僕の読む本を後ろから覗き込んで、しかめっ面をしながら、これなあに、と訊いてくる。振り返って、慎重に言葉を選びながら説明するとき、僕の視線はいつも宙を漂っていた。その繰り返しだ。
いつからだろう。ミナとの窓口さえ、こんなにも狭くしてしまったのは。ユウキに何か尋ねられた時も、露骨に鬱陶しそうな態度を露わにするようになったのは。ケンは、知らず知らずのうちに他人を遠ざけようとしている自分に、たった今気がついた。
昨日の夕方、今までの人生で最大級の決断をして、ミナに声をかけた。もう覚悟は決まっていたはずなのに、しかし、今朝出かける寸前で躊躇ってしまった。それもたぶん、そのせいなのだろう。もう忘れたと思っていた、幼い日の記憶。両親に裏切られる、辛酸を嘗めるような思いを味わったあの日、未熟で柔らかなこころに負った深い傷が、まだ癒えることなく今でもケンの胸の奥底で疼いているのか。人間は、その身に暖かな光を投げかける太陽のように、近づき過ぎては身を滅ぼすものだという直感として、ケンの言動を縛り、どこかでブレーキをかけているのだろうか。
ふいに、ケンは自分の中の空虚に気がついた。惨めだった。そこには何もなかった。誰も入れようとはしなかった。誰にも見せず、自分さえも目をそむけていた、その扉の中、胸の中に眠る小さな核、その中には何も入ってはいなかった。大事に、大事に守り続けていたであろう宝箱は、中身のないただの箱だった。それを大儀そうに抱えていた十六年間は、まるで意味のないものだったのだ。砂漠で水を求めて彷徨うように、いやむしろ、たった一度だけ降った大雨を心の頼りにして、ずっと砂漠にとどまり続けるように。
突然、強烈な欲望の渦がケンの胸の内に沸き起こった。この空虚を埋めたい。何かが足りない。何が足りないのか知りたい。ケンは、今までほとんど何かを欲したことはなかった。もちろん、お腹も空くし、喉も渇く。保障の金額も上がってくれればもう少しましな生活ができると思ったこともある。図書館で、探していた本が見つからなくて、がっかりしたこともある。しかし、お陰様でちゃんと三食しっかり食べているし、本だってミナが時々貸してくれる。現状の生活は質素かもしれないが、不満に思ったことはない。しかし、この渇望は、飢えは、渇きは、どうしても諦めきれそうにない。今までにない『意志』がケンの意識を貫く。欲しい。その一言が、頭蓋の中を反響する。
「………………どうしたのですか?」
おずおずと、心配そうにかがみこむミナの声に、ケンははっ、と我に返った。
「いや、ちょっと…………状況が分からなくてね…………って、そうだ! 早くここから逃げないと! 隠蔽魔法を使ったスナイパーが潜んで………………」
「心配しなくても、周囲の敵は排除しましたよ」
「え…………?」
遅ればせながら、素早くあたりを見回すと、先程ケンが打倒した四人の他にも、体のあちこちが焼けただれた黒ローブ姿の人物が三人ほど横たわっているのが見えた。ケンの意識を、すうっ、と冷気が包む。
「こ、殺したのか…………? ミナが…………? …………い、いや、隠蔽魔法で姿が見えなかったはず…………」
ミナは、細く緩やかな曲線を描く眉を、少し持ち上げた。
「私に隠蔽魔法は通用しませんし、それに、とどめは刺していません。あなたを回復させるのに邪魔でしたから、幻惑魔法でしばらく動けないようにしただけです」
「回復…………幻惑魔法…………?」
一部意味のわからない単語があったが、今更ながら、腹部を二回もライフルで撃たれたことを思い出して、そっと腹部をさするが、記憶に新しい傷跡はあとかたも無く消え去っていた。
「ミナ…………僕を助けてくれたのか…………? いや、どうしてこんなところに?」
今度こそ、訝しそうに眉を吊り上げ、しかしその瞳はケンの目を心配そうに覗き込んで、答えるかわりに逆に質問を投げかけた。
「将軍…………貴方一体どうなさったのですか…………? 幻惑魔法でも頂戴してきたのですか? それとも疲れていらっしゃるのですか? どうも御様子がおかしいようです」
はぁっ、と大きく息を吐いて、ケンは手をついて座り込んだ。そうか、そうだった。目の前にいる女性は、何も知らないのだ。
「…………悪いけど、僕は君の知っている将軍とは別人だ。信じてもらえないかもしれないが、僕は魔法の類を今日生まれて初めて知った新米、魔法のまの字も無い別の世界からやって来たのさ。どうやら、こっちのケンと入れ替わってしまったらしい」
再び眉を吊り上げ、美しい瞳が疑念に曇る……と思いきや、ミナは大きく目を見開いて、息をのみ、滑らかな白い手を口のあたりまで持ち上げた。
「そ、それは本当ですか?」
「あ、ああ」
意外な反応に目を白黒させていると、ミナは、手と唇を小刻みにわななかせて呟いた。
「『鍵』…………『パンドラの鍵』…………まさか本当に存在したとは………………」
今度は、ケンが驚く番だった。思わず立ち上がり、視線の上下が逆転する。
「し、知っているのか?」
神妙な面持ちで、小さくこくりと頷くと、右耳にぶら下がった紫色の宝石から、鮮やかなパープルの光が流れ出し、ミナの手の上で小さく渦巻いて、赤い、小さな鍵が現れた。血液のように赤黒い三本の金属線が螺旋状によりあわされ、さらにそれが小さく丸められて、直径二センチほどの円環を形作っている。そこから無造作に飛び出た太さ一センチほどの同色の金属棒には、その中ほどから、表面に驚くほど繊細な加工が施され、複雑な模様が刻みこまれている。おそらく、型を取って作るのは不可能だろう。なにしろ、直径一ミリほどのバラの花と思しき紋様は、その花びらの一枚一枚が丁寧に彫り込まれているのだ。
「これは幻ですが、貴方、いえ、ケン将軍が先日私に見せてくれた幻と同じものです。先日、龍黒軍が新技術の開発に成功したとの情報をもとに、数人の精鋭部隊とともにアーテルの王宮に潜入した将軍は、隠蔽魔法と幻影魔法を駆使して持ち帰った情報を、私と王に報告してくれました。名は『パンドラの鍵』、この世界とかの世界を結ぶ橋。この鍵を差し込まれた人間は、かの世界に生きるもう一人の自分と入れ替わってしまう……私は、私は信じられませんでした。将軍も、本気にはしていなかったようです。王宮への潜入が滞りなく成功した時点で、疑わしいことだったのです。偽の情報を掴まされることはお互いよくあること…………しかし、それにしては、その細工はあまりにも精巧で…………もっと真剣に考えるべきだったのかもしれません…………」
突然、整った顔が歪み、悔しそうに俯いた。一瞬、そのまぶたから涙がこぼれおちるのではないかと危惧して、うろたえる。今までミナが泣くところなんてほとんど見たことがない。そうなってしまったら、ケンはどうしたらいいかわからない。
「お、おい、大丈夫だよ。要するに、敵からその鍵を奪って、この体に突き刺せば、全て終わるんだろう? それが分かっただけでも僕としては充分な収穫だよ。さっきまではこの世界から戻れるかどうかすら怪しかったんだ。だから、ほら……その…………」
目に見えて慌てるケンの姿が可笑しいのか、その口元がふっ、と緩む。しかし、その目は少しうるんだまま、再び暗い光を宿す。
「もう、遅いのです。確かに、貴方が元の世界に戻ることは不可能ではありません。しかし、もう来るところまで来てしまった……変革は避けられません……………」
ケンは、その視線が自分に向けられてはいないことに気がついた。ケンの背後、数メートルほどの場所。おもむろに振り返ると、そこに落ちていたのは黒光りする一丁のライフル。もちろん現物を見るのは初めてだが、昔図鑑か何かで見たことがある。あの形状は、銃口の大きさは、間違いなく対物ライフル、つまり、人を撃つものではなく住居や車両を破壊するために設計された兵器。誇張も混じっているかもしれないが、人の眉間を撃てば、凄まじいストンピングパワーで首から上はあとかたも無く吹っ飛ぶという話だ。思い出したくもないが、自分の右わき腹に着弾しそのまま貫通した弾は、別の銃から発射されたものだろう。でなければ、おそらく第三の世界へとあっけなく旅立っていたに違いない。
「あれは、私たちの世界には存在しない武器………………あなた方の世界の武器なのでしょう? 一体どういう仕組みで、どれほどの力を持っているのですか?」
「火薬……って言って分かるかな。凄く燃えやすくて、ちょっとした衝撃で爆発する物質があるんだけど、それを細い金属筒の中で爆発させて、その衝撃で、金属製の塊を凄まじい速度で撃ち出すんだ。威力、は、……うーん、僕の住んでるところは幸い平和だから、実は銃は初めて見るんだけど…………たぶん、強力なものだと握りこぶしくらいの厚さの岩だったら粉々にするんじゃないかな。分厚い金属板でも貫通するし、人間に撃てば、一キロくらい離れた場所からでも、撃つ部位によっては間違いなく即死する。まぁ重力や風、湿度やコリオリ力が大きく軌道に影響するから、そんなに正確に狙いをつけられる人はそうそういないと思うけど」
ミナは、打ちひしがれたように首を振ると、その場にすとん、と座り込んだ。
「そう、ですか。それほどの力が……………………」
ケンはかがみこんで視線の高さを合わせると、怪訝な顔つきで濃紺の瞳を覗き込む。
「どうしたんだ? 確かに、隠蔽魔法と併用されるとかなり厄介だけど、そんなに悲観するほどのことじゃないだろう? ほら、この世界の武器である魔法の方がよっぽど強力じゃないか。それこそ、河をまるまる凍らせるくらいの芸当ができる」
ふっ、とミナは口元を緩ませる。しかしそれはどこかぎこちない。瞳に宿る感情は何だろうか。哀愁、憐憫?
「貴方は、我らがブランシュにいかほどの人間が住まっているか、ご存知ですか?」
予想外の質問に多少戸惑って、思わず首をかしげる。
「いや…………知らないけど…………二十万くらいかな?」
ミナは、再び力なく首を振る。
「いいえ、違います。およそ、一億二千万です」
「い、一億二千万…………」
数の多さももちろんだが、その聞き覚えのある響きに、ケンは愕然とする。
「それに対して、そうですね、こぶし大の大きさの石を魔法の力だけで砕くことのできる人間は、十人に一人、それくらいでしょう。さらには、魔法を使うのに必要不可欠な純度の高い宝石、或いは魔法と親和性が高い黄金は非常に貴重なものです。さらに、武器の加工にも相当な技術と労力が必要です。実際に聖白軍に所属し、魔法による戦闘に従事するのは一万人程度です。それでも、あらゆる魔法を自在に使いこなせる人は両手の指に収まる程度です。…………貴方は、おそらく貴方が思っている以上に、特別な存在なのです。魔法の源、『魔力』は生まれつき決まります。今までは、生まれつき戦いに生きる運命を背負った者だけが、命を懸けた戦場に赴けばよかった。犠牲になるのは一部の人間だけでよかった。しかし、それも今日まででしょう。それがそこに存在している以上、龍黒軍はその技術を見て見ぬふりをして素通りすることはない…………そうすれば、我々も…………対抗するしかありません。犠牲は…………格段に増えます」
右目にたゆたうすきとおった雫が、ついに頬を伝って流れ落ちた。しかし、気丈にも、そのか細い睫毛はひとしずくを最後に、今にもあふれだしそうな光を懸命にとどめているのだった。ケンは、そんなミナに言葉をかけられるほどには、あまりにも人との接し方を知らなさすぎた。初めてこの世界の空を見上げた時のような、絶望と無力感、そして、言いようもない寂しさに、ケンは深く、深くため息をついた。
もう一度、ケンはミナの掌で禍々しく光る鍵を見つめた。やはりその色は、この空と同じように血の色だ。鈍い光を放つ三重の螺旋、その円環の内側の空虚には、闇が宿っているような気がしてならなかった。破壊と殺戮、全てを破滅へと導く虚ろな闇。せいぜい十センチ程度の小さな小さな物体は、しかし明確な意志を宿している。幻ですらそうなのだ。本物はさぞかし………………まてよ、確か…………
「なぁ、あのさ…………」
ミナの顔がゆっくりと持ちあがった。先程まで、凛とした覇気さえ感じられたその目元は、涙こそおさまっていたものの、幼子のように泣き腫らして、少し赤くなっていた。
「これは…………この鍵は幻だって言ったよな。これも、魔法で作ってるのか?」
こくり、と頷いた。
「ええ、そうです。将軍が幻惑魔法でアーテルの研究所員の頭から抜き取ってきたイメージ、それを、将軍が私に報告した時と同じように、幻惑魔法を使ってこの掌の上に幻として再生しています」
「僕はその、幻惑魔法というのを知らないんだ………………一体どういうものなんだ?」
言いつつ、ケンは懸命に記憶をたどり、ユウキの説明を思い出す。確かに、ユウキは幻惑魔法とやらについては一切話さなかった。忘れていたのか?
「おや、言われてみれば、確かに幻惑魔法を使うための宝石は装備していないようですね…………一つお貸しいたしましょうか」
おもむろに、左耳のイヤリングを外す。ケンがつけている指輪や、ミナの胸元に光る宝石に比べるとやや小振りだったが、おそらく左右の耳に一つずつつけることでそれを補っているのだろう。ちろちろと揺れる宝石が、耳元で優美に動く手に紫色の光を落すのを見て、思わず微笑む。
「ええと、僕は確かにこっちの世界じゃ数千万人に一人という逸材なのかもしれないけど、向こうの世界じゃ何処にでもいる普通の人間なんだ。悪いけど、そうやって敬語を使うのは止めてくれないかな」
まっ、と少し顔を赤らめて、しげしげとケンを見つめる。そして、何故かふふーん、と意地悪そうな笑みを浮かべて、ねめつけるような視線で下から覗き込んでくる。
「先刻からの無礼極まりない態度、『向こう』の人間は礼儀を知らないのかと勝手に思っていましたが、どうやらご存じなかったようですね」
「え…………?」
ぶ、無礼だって? いやいや、確かに泣きそうになったミナに何も言ってあげられなかったけど……それは無礼とはちょっと違うだろう……というかそれで無礼だと言われては、理不尽極まりないじゃないか…………、と自分でもよく分からない考えをこねくり回していると、ミナは背筋を伸ばし、左手を腰に回し、右手を胸に押し当てて精一杯に偉そうな態度をとると、澄んだ声を鈴のように響かせた。
「千年を超える悠久の歴史を誇るブランシュ皇国、その第二十二代皇帝を父に持ち、天下に二つとない、あらゆる魔法の効果をかき消す大魔法、『ラ・ブランシュ』を操って、一億二千万の民草に安らぎをもたらすべく、日々邁進する人物…………私のことです!」
「………………はあっ?」
と、思わず盛大な無礼を付け加えてしまったのにも気がつかずに、茫然自失の体で尻もちついてひっくり返っていたケンを、得意げな笑みを浮かべて悠然と見下ろすミナ。ケンは、この世界に来てから最も大きな衝撃に包まれていた。いや、確かに、服装は豪華だし、将軍に報告を受けたとか何とか言っていたが……まさか………………
「み、ミナ、お前、こっちの世界じゃお姫様なのか…………?」
「そのとおり。故に、民草を見下すような下品な言葉は持ち合わせておりません!」
そう言って、精一杯胸をそらす姿は、あまりにも華奢で小柄で幼げで、態度と大いに矛盾した言葉と相まってひどく滑稽だ。ケンは微笑みを通り越して腹の底から大笑いしてしまう。ぱっと頬を赤らめてケンを睨みつけ、怒りを露わにするミナの顔がますます可笑しくて、は、は、はっ、と半泣きしながら、息をするのさえ忘れて笑い転げる。こんなに笑ったのはいつ以来だろう、記憶にない。いつも中身のない、仮面のような微笑みを浮かべるだけで、苦しくなるほど笑ったことなどほとんどなかった。
「な、何が可笑しいのですか!」
白く、整然と並んだ歯をむき出しにして、真っ赤な顔を上気させながらケンの鼻先まで迫ったミナの瞳には、めらめらと薄青い炎が、風にそよぐ草花のように揺れ動いている。
「や、ごめんごめん。疑ってるわけじゃないんだ。ただ、その、思ったより子供っぽいんだなって、ほっとして、さ」
今度こそ、耳まで真っ赤にしてぎりぎりと歯を鳴らし、顔全体をぶるぶると震わせるさまは、およそお姫様のものとは思えなくて、再び笑い出しそうになるのを何とか堪える。突然ぷいっ、とそっぽを向いたかと思うと、よろよろと立ちあがったケンの胸のあたりにまっすぐ左手を押しつけてくる。そこには、小指の爪ほどの大きさの、紫色の宝石をしつらえたイヤリング。涙の雫のような形にカットされた宝石は、あたりを吹きすさぶ熱風に少し揺らめいていた。
「持って行きなさい。片割れでも、貴方の魔力があれば充分に役立つでしょう」
ケンがそれを受け取ると、そのまま立ち去ろうとするミナ。慌ててそのワンピース姿に声をかける。
「ま、待ってくれよ。その、幻惑魔法ってやつはどういうことができるんだい?」
ぴたり、と歩みを止めて、ふうっ、というため息とともに肩を一度大きく落とすと、振り返らずに説明を始めた。
「幻惑魔法は、相手の精神に介入する技です。先程のように幻を見せたり、眠らせたり、錯乱させたり、或いは思考を読みとったりと、汎用性は高いのですが、いかんせん相手に手が届くか届かないかくらいの距離まで接近しないと効果が得られません。実戦で使うのは難しいでしょう」
精神に………………介入………………とすると……………………
「…………せ、洗脳は、幻惑魔法で洗脳は可能なのか? ええと、つまり、相手の精神をのっとって、強引に従わせてしまうようなことは?」
ミナが振り向いた。眉をひそめ、口を怪訝そうに突き出して答える。
「え、えぇ。可能です。ただ、それには非常に難しい過程、具体的には、術者に従順な人間の命を一つ以上犠牲にして、対象者に枷として埋め込む、というおぞましい作業が必要になりますが………………」
難しいが、可能……それならば………………
「分かった。ありがとう」
ぱんぱん、とコートについた土を払いのける。驚いたことに、真紅の染みと焦げ付いた穴はいつの間にか消え去っていた。
「それじゃあ僕は、『鍵』を取りに行くとするよ」
「……姫……私を…………助けて?」
ケンの右手から緑色の指輪を抜き取り、翡翠色の光を宿した右手で、必死に傷口をさすり続けたミナの努力の甲斐あって、血みどろだった無惨な傷口は少しずつ塞がり、血液は宙に溶けるようにして消えていった。ようやく目を開き、力強い吐息を取り戻したケンが体を起こしてあたりを見回したとき、ミナは目元を真っ赤に泣き腫らして、ケンの胸に顔をうずめて、小さくしゃくりあげていた。周りに転がる、手足を焼き焦がして気絶する十二人の人影から、目をそむけるようにして。実際、それは燦々たる有様だった。ある者は右腕が跡形も無く焼け落ち、ある者は体をすっぽり覆っていたローブのほとんどが消えてなくなり、むき出しになった皮膚は無惨に焼けただれていた。隊長格の剣士に至っては、黄金の剣は刀身が根元から融け落ち、鎧には無数の小孔が空いている。勿論その下の皮膚は真っ黒に焦げていた。ミナとて例外ではない。艶のあった黒髪は先端の方がちりちりと焼け焦げ、露わになった右腕は焼けただれて真っ赤にむくんでいる。制服はあちこち切り裂かれ、その下には鋭い切り傷が、白い肌の上を赤い糸となって走っている。もう、ミナの中の姫はいなくなっていた。体を包んでいた白い光は消え、その煤けた肌に、性懲りも無く残る雨の雫が沁みる。
「これを…………姫が………………おひとりで……………………?」
「きかないでえぇぇぇぇーーーっ!」
金切り声をあげて絶叫し、今度はわんわんと声をあげて泣き始める。全身の痛みはただの痺れに置き換わり、そのかわり、がんがんと耳鳴りが響き、まぶたの裏で白い光がちかちかとフラッシュし、脳が頭蓋の中で踊り狂っているかのような激痛を感じる。ケンの服を引きちぎらんばかりにきつく握りしめた手には、ケンの血は残っていなかったものの、凍るような冷たさの汗が貼りついている。
全然、伝わってこない。たしかに、とくん、とくんという穏やかな鼓動は、額や掌をゆっくりと揺らしている。しかしその振動は、胸の中のごつごつと硬い塊には全く沁み込んでいかない。ちっとも暖かく感じない。それを暖かいと感じるには、既に熱をその身に浴び過ぎた。ミナの熱感覚はとうに焼き切れている。もう癒すことなんてできないくらいに。首が、がくがくと揺れる。ちょっとでも背筋の力を抜いたらころりと落ちてしまいそうだ。さらに、ケンにすがる手に力がこもる。皮膚に爪痕が残らんばかりに、きつく、きつく。この手を離したら、自分の何もかもが崩れ落ちてしまいそうな、そんな気がする。ぎゅっとまぶたを閉じ、全身が強張った、その時、ミナの体が、ふわり、と持ちあがる。
恐る恐る目を開けると、ミナはケンに抱きかかえられていた。骨ばった腕が硬く縮こまった背中にこちん、とあてがわれ、膝の内側を支えている。小柄とはいえ、立派な女子高生であるミナの体を、白く細い腕でまるで赤ん坊のように軽々と支えている。いったい、どこにこんな力があるのだろう。また、何かしらの魔法の効果なのだろうか、と思ったが、よく見ると、その腕は微かに震えていた。慰めるつもりなのだろうか、それとも自分は元気だと安心させようとしているのだろうか。しかし、ミナは心身ともに硬く硬く強張ったままで、抱きかかえられているこの状況で、当然湧いてくるはずの恥ずかしさも全く感じない。無駄なのだ。何をしても。この硬さは、きっと何にも溶かすことはかなわない。きっとこれからの人生で、胸のどこかにこの欠片を埋め込まれたまま、その痛みを乗り越えられないまま、過ごしていくことになるのだ。
突然、がくん、と体が沈んだ。急に体の質量がその存在を露わにする、と思った瞬間、背中からアスファルトの地面に叩きつけられる。しかし、その衝撃はぴりっ、と微かな痺れをミナの脳に伝えたのみだった。ケンが、手を放した。ミナをとり落とした。なぜ? 問いかけるような視線をケンに向けようと、強張った体に鞭打って顔を持ち上げようとした、そのとき、
びゅおっ、と凄まじい風切り音が耳をつんざく。と、目の前に鈍い黄金色に光る分厚い刀身が現れた。ぽた、ぽた、と降り注ぐ雨の雫がその上に控えめな足跡を残し、そのたびに、滑らかな剣の表面がぎらり、と瞬く。その中央部分が砕け散った剣の切っ先は、紛れも無くミナの喉元をちくり、と刺している。一センチでも食い込めば…………がばっ、と硬直した体を振り切って、ばね仕掛けのようにミナの顔が跳ね上がった。一体どういうつも………………
ケンの顔が視界に入った瞬間、ミナの全身の筋肉がぎゅうっ、と極限まで収縮した。それによって、喉元の剣が、もう少しだけ食い込むが、痛みは全く感じない。痛い、と考える余裕すらない。ケンの顔には眼がなかった。いや、そんなはずはない。もう一度目を凝らす。ケンの眼の色はあまりにも深く、鈍く、くすんだ黒色だった。それは虚無だった。あらゆる感情をのみこみ、喰らいつくし、それでもなお埋まることのない、完全な虚無。真一文字に結ばれた口元、眉間に一直線に走る深い溝も凄まじいまでの殺気を放っていたが、全て虚ろな瞳に飲みこまれ、ミナまではほとんど届かない。
無限とも思える刹那の時間の直後、ミナの全身を凄まじいまでの衝撃が貫いた。ケンの全身から染み出した、粘つく殺気が、極細の針へと分かたれて、一斉にミナに襲いかかったのだった。皮膚の内側に嵐が巻き起こったかのような感覚ののち、ぐらり、とミナの上半身が傾く。こつん、と頭がアスファルトの上にぶつかって、ミナが地面にあおむけに寝そべったとき、全身の筋肉は麻酔でもかけられたかのように弛緩していた。指一本に至るまで全く力が入らない。声も出せないし、不思議と震えも無い。全身の感覚も消え、恐怖も焦りも怒りも、何一つ感じない、ぼうっとかすんだ思考。一瞬、全身を白い輝きが包み、すぐに消える。無駄だ。これは魔法ではないのだ。純粋な殺気によって、生きる意志というものが根こそぎ打ち砕かれてしまった。ただその一太刀を身に受け入れる、そのためだけの姿。生きた死体、まな板の上の魚。じり、じり、と金属ブーツがアスファルトをこすり、近づいてくる音がする。ミナはそっと目を閉じ…………
ぽすん、と頭に手が添えられた。ぎこちなく、ミナの黒髪をそっと撫でる。ゆっくりとまぶたを上げ傍らに視線を移すと、滑らかに伸びるまつ毛の下に少し濡れた黒い瞳をのぞかせたケンが、どこか哀愁漂う優美な微笑みを浮かべながら、ミナのすぐ隣に座りこんでいた。ケンの手が頭から離れると、何かのスイッチが切れたかのように、全身を切り裂くような激痛が駆け巡り、うぐっ、と呻き声を洩らして、思わず顔をしかめる。
「これが本当の殺人鬼です」
ケンが、そっと語りかける。その声は、甘く、切なく、悲しく、そしてどこか、空気を切り裂くような鋭さを感じさせる。
「本当の戦士、人殺したる私が人を殺すのには、何の武器も要りません。今、姫が一度死んだように。反対に、姫は、いえ、貴女は優しい。自分の魂が狙われていると知りながらも、決して敵を殺めようとはしませんでした。責任を感じる必要はありません。罪に思うこともありません。むしろ、誇るべきです。なに、心配しなくとも、あの程度の傷なら回復魔法できれいに治ります。目的を達成したら、五体満足にして帰るところへ帰らせてあげましょう」
その一字一句が、穏やかに、しっとりとミナの心に沁み込んでいく、そんな気がした。焼けつく痛みに身をよじらせ、歯を食いしばりながら、懸命に右手であの感覚を探る。今なら、今ならきっと…………果たして、中指が、ケンの左手をつつく。そのまま、そっと指を絡める。とくん、と小さな振動が、確かにミナの指先を揺らす。それに、少し遅れて、少しずつ、少しずつ、あの温感が、暖かい流れが、ゆっくりと指先から注ぎ込まれてくる。ああ…………思わず、ミナはごくごく小さな歓声を上げた。そっとまぶたを閉じ、そのぬくもりに全身を浸す感覚をしばし堪能する。しばらくして、ミナの右手が、そっと持ち上げられ、全身を駆け廻っていた炎が、その温度を急激に下げるのを感じた。
目を開けると、ミナの右手にはめられた緑色の指輪から、眩しいばかりの若葉色の光があふれだしていた。よく見ると、ケンが左手でミナの右手を支え、宝石の部分に右手の中指を押しつけていた。光に包まれた体から嘘のように痛みが引き、見る間に傷口が塞がっていく。よく見ると、焼け焦げた制服さえもその白さを取り戻し、その穴を塞いでいく。
「手全体ではなく、指輪をつけている指、ただ一本にのみ意識を集中するのがコツです。ほら、姫もやって御覧なさい」
こくん、と小さく頷くと、言われた通り右手の中指に意識を集中する。すると、光はわずかに色合いを変え、透き通るような翡翠色となって、ミナの体に降り注いだ。断ち切られた糸がほどかれ、再びよりあわされて、一本に繋がる。そんな感覚が体のあちこちで巻き起こる。火照った体をひんやりと心地いい冷感が包むと、痛みは痺れに代わり、やがて溶けるように消えていく。ふうっ、と大きく息を吐くと、ミナの体にはもう傷一つなく、制服も新品同様と言えるほどにまでなっていた。まるでアイロンでもあてたかのように、ぱりっと乾いている。空もだいぶ機嫌がよくなったようだ。雲を透かして注ぐ太陽の光が、その強さを増している。左手をついて立ち上がり、背中についた砂を払って顔を上げると、ケンと目が合う。
ケンが、敵を一か所に集め、耳元の宝石から蛇のような紫色の光を発し、横たえた体の上を這わせると、黒服の集団は例外なく泥のように眠り込んでしまった。そして、武器を持っていないことを一人一人丁寧に確認すると、ミナの右手を握った。目を合わせ、こくん、と小さく頷くと、右手の中指に力を込める。ミナとケンの足元が翡翠色に輝き、その光の円が次第に大きくなっていく。よく見ると、その円にはところどころ深緑色の筋が葉脈のように網目状に走り、その上を小さな白い光点が脈打つように流れている。光の円が横たわる人影を包み込むまでに大きくなると、突如、若草色の光の断片が花びらのように宙を舞い、柔らかな気流に乗ってゆらゆらと上昇を始めた。それとともに、さっぱりとしたハーブの匂いがすうっ、と鼻を通り抜ける。そのまま、息を止めて目を閉じ、指先への集中を続ける。三十秒ほどその状態を保ち、そっと目を開けると、横たわる人間の肌は、一様に活気ある色合いを取り戻していた。ケンの言った通り、焼け落ちていた腕も、何事も無かったかのように元通りになっている。ふうっ、と息を吐いて、肺いっぱいにハーブの残り香を吸い込むと、ケンの方を向いて、にこっ、と微笑んだ。ケンも、照れくさそうにかりかりと頬を掻くと、隊長格の敵へとまっすぐに歩み寄ってかがみこみ、その懐を探った。
「何してるの?」
ケンの後ろからそっと覗き込んで、垂れ下がった前髪をかき上げる。いつも、教室でゆったりと本を嗜むケンに、話しかけるときのように。
「『鍵』を…………『パンドラの鍵』を、この男が持っているはずなのです。その、私が元の世界に戻り、こっちの世界の私も同じく元の世界に帰るための唯一の手段を」
「『パンドラの鍵』…………それを使えば、元通りになるの?」
「……一度交わってしまった以上、完全には元通りにはならないでしょうが、ね。貴女が魔法を知ってしまい、逆に、私はこちらの武器を知ってしまった。いや、敵はこちらと向こうを行ったり来たりして、もっと深いところまで把握しているでしょう。向こうで一体何が起こるやら…………」
その横顔には、そこの知れない、深い悲壮感が漂っていた。ミナは、急にケンが大人びて見えた。まるで、十や二十は年上のような、年季の入った表情だった。
「ねぇ、そう言えば、向こうの世界ってどんなところなの? 結局、向こうの私のことしか聞いてないわ」
雰囲気を変えようと、できるだけ明るい響きを繕って訊いてみる。しかし、ケンは力無さそうに笑って、首を振った。
「『向こう』に行ってしまった、もう一人の私に聞いてください。私は、あの世界について語るには、あまりにも長い間あそこで暮らし続けてしまいました。あまりにも長い間…………武器を持ち続けて………………」
「………………」
それは、薄々感じていた。このケンは、自分が人殺しだと明言しているし、ミナがその身に浴びた殺気は本物だった。おとぎ話の世界のような、夢にあふれる世界ではきっとないのだろう。元の世界に戻れば、このケンは、新調した剣を握って、おそらくは戦争の真っただ中に飛び込んでいくのだろう。ミナは、目の前の男が不憫になった。哀れだと思った。その背中も、腕も、脚も、男性としては実に華奢で、もやしみたいに白く、弱々しいのだ。ふふっ、と微笑んで、だらん、と垂れ下がった左手を、両手でそっと包みこむ。
「ごめんね、私は、あなたのそばには居られない。でも、きっと、この世界と向こうの世界は繋がっている。知ってる? この国は、もう六十年も前に、他国との戦争は一切しない、って決めたのよ。まぁ、自分の手は汚さない、ってだけかもしれないし、他の国とのいざこざはときどきぶり返したりするけど…………それでも、短い間だけど、一億二千万の人間が、それを殊勝に守り続けてきた。私は、こっちの世界では、何にも特別な存在じゃないし、ごくごくありふれた、ちっぽけな人間で、世界を変える、とか、そんな大それたことはできないけど、あなたは違う。向こうでは、きっと凄く強い戦士なんでしょう? あなたなら、きっとできるわ。きっと………………。今は向こうにいるケンと、一緒に応援するからね。だから…………そんな悲しい顔しないで」
一瞬、はっ、と目を丸めたケンの瞳が、正面からミナを見つめた。ちいさな少年のような、どんぐりまなこ。しかし、すぐに川のせせらぎのように落ち着いた色を取り戻し、その半分が黒々と伸びるまつ毛に覆われる。口元には、嬉しさと、それでもあの悲壮感が半分混じった、優美な曲線が刻まれる。
「全く、貴女は気がお早い。そういう台詞は、鍵を見つけてからにしましょう」
そう言いつつも、呆れたような仕草は何一つ見せず、右手でゆっくり丁寧にポーチやらポケットやらを探っていく。ついに、鎧の下に隠れていた胸ポケットを見つけ、そこに手を突っ込むと、にやり、と笑った。
「それらしいものがありましたね」
そう言って、ゆっくりと右手を引き抜き、ミナの目の前で握った手をそっと広げる。そこには、不気味なまでの血の色をした、小さな鍵が乗っかっていた。螺旋状に紡がれた三本の金属線が真ん丸な円環を形作っている持ち手は、その中央に、冥界の入口で訪問者を見つめる、不気味な瞳が宿っているような気がする。そこから伸びた少し太めの金属棒には精緻な装飾が彫り込まれている。が、しかし、その先端が、無惨にも融け落ちていた。
はっ、と大きく息をのみ込んだ二人の頭上に、うっすらと影が落ちた。
「『パンドラの鍵』について、教えてくれるかな?」
あたりを漂う火の粉は数を減らしている。指揮官を捕虜とされた龍黒軍が、ようやく撤退を始めたのだった。捕虜を連れて戦場の真っただ中を引き返すのには骨が折れそうだと思ったが、ミナに促されるまま隠蔽魔法を使うと、ミナが近くにある抜け穴まで案内してくれた。どうやら、かの潜入任務のときに作ったらしい。通りで、お姫様が誰に止められることもなく、最前線のさらに向こう側まで来られたわけだ。しかし、よくもまぁお姫様にそんな危ないものを教えたものだ、と言うと、こっそり幻惑魔法で聞き出したのだと言うから、全く油断ならない。かくして、全てが始まった真紅の天幕の中に戻ってきたわけだが、本番はむしろこれからだ。
「『パンドラの鍵』……? いえ、聞いたことがありませんね」
参謀、というにはあまりにも幼いその顔だち。向こうの世界では高校一年なのだが、正直言って、まだ中学生のような印象さえ受ける。ケンに言わせればまだまだ知らないことがたくさんあるのだが、その頭の回転と飲みこみの早さは、時にケンをひやりとさせたものだった。その薄い眉毛が持ち上がり、眉間に怪訝そうなしわを浮かべるのを無視して、ケンは語る。
「最初からおかしいと思っていたんだ」
腕を組み、ゆったりと胸をそらして、右手の人差指で二の腕をとんとん、とつつきながら、やや顔を下に向け、上目遣いでユウキを見やる。
「歴戦の勇者たる『こちら』の僕がそうやすやすと敵の策略にはまるなんてね。勿論、未知の力には違いなかっただろう。しかし、仮に任意の人間を遠く離れたところから異世界に送り込めるのだとしたら、僕じゃなくてこの国の王様を狙っただろうし、戦闘中のどさくさに紛れて罠にかけられたなら分かるけど、味方の本陣で仮眠をとっているときだったわけだしね。実際、その手段は、『パンドラの鍵を体に差し込む』ことだったわけだ。………………『こちら』の僕に鍵を差し込んだのは、君だね? ユウキ」
しかし、ユウキは、その表情を崩さない。少し尖らせた口元は全く動かない。
「何のことでしょうか? 私が将軍を裏切るとでも? いえ、もし裏切っていたとしても、そんなまどろっこしい方法をとるのではなく、寝首をかくのが普通というものでは?」
「僕もね、それは考えた。でも、『こちら』の僕を殺すことは、君の、いや、おそらくはアーテル王の計画の一部でしかない。味方の陣地の真っただ中で大将軍が殺害されては、裏切り者やスパイが潜んでいることがすぐにわかる。真っ先に、嫌疑は君にかかるだろう。なんたって側近なんだからね。しかし、こちらと向こうの僕を入れ替えることで、もう一つの選択肢が生まれる。すなわち、元の世界に帰る方法、というのを餌にして、潜在的な力は大きいものの、全くの新米である僕を最前線まで送り込み、戦死させる。士気が下がらないように、と言って、君は入れ替わりのことを兵士たちに伝えなかったから、僕が別人であると知っているのは君だけだ。そうすれば、何の疑いも無く、ナンバーツーである君が聖白軍を取り仕切ることになる。敵軍を内側から支配できるんだからね。もう国をとったも同然だ。王に近づき、鍵を差し込む機会だって得られるかもしれない。君が、殺生はしたくないという僕の我儘をすんなり受け入れたのも頷ける。僕の死亡確率が格段に上がるし、何より龍黒軍の被害が減る。そして、囮として配置していた本陣の近くに狙撃部隊を配置していたのも、魔法攻撃で僕を倒すのは難しいとの憂慮からだろう? 本当に、ミナが来なかったらどうなっていたことか………………きっと、最終手段として、僕には敢えて教えなかった幻惑魔法もバックアップに用意していただろうね。ただ、ミナの乱入で叶わなくなったみたいだけど……………いや、言い逃れする必要はない。君が先日のアーテル王宮潜入作戦に参加したことはミナから聞いた。きっとその時に幻惑魔法で洗脳されてしまったんだね。…………君が『パンドラの鍵』のことを、知らないはずはないんだ」
不意に、ユウキの口元が醜く歪んだ。思わず、背筋にぞくり、と不気味な冷感が走る。人の命を犠牲にして埋め込まれた枷、その呪わしい運命を背負わされた魂の悲痛な叫び声、それが口元に現れたかのような、痛々しい頬笑み。何の変哲もない黒い瞳に、毒々しい狂気の色が牙をむく。これはユウキの精神ではない。ユウキの精神を縛るためにその体から引き裂かれ、ユウキに埋め込まれた、哀れな魂。
「なるほど、『向こう』の世界でも、その慧眼にお変りはないようですね? いやはや、そこまで看破なさっているとは、正直想定外、と言わざるを得ない。しかし、よもや麗しき姫君が前線へおいでになるとは。その想定外の方がよほど致命的だったようです」
その豹変ぶりに、多少戦慄を覚えないでもないが、態度には全く出さずに、人差し指をとんとん、と振り続ける。
「しかも、これだけ大掛かりな暗殺計画も、計画の半分なんだろう? 全く、向こうの世界で何が起こっていることやら…………あのお姫様、いや、ミナの持つ力は、どうやらとんでもないものらしいじゃないか。きっと、喉から手が出るほど欲しいんじゃないかな…………?」
ひゅうっ、と掠れた口笛を鳴らして、少年は眼を見開いた。
「これはこれは………………ふふ、確かに、龍黒軍の精鋭部隊が、向こうの世界に行っていますよ。勿論、強力な銃を携行してね」
正直、これにはケンもたじろがずには居られなかった。ミナ………………今度こそ、その顔がはっきりと浮かび上がる。平凡なセーラー服に緩やかに流れ落ちる黒髪、柔らかな曲線を描く眉、口元は溢れるような笑みにほころび、目元は少しばかり横に引き伸ばされて、豊かなまつ毛が青みがかった黒い瞳を軽く覆っている。脳裏に浮かんだ、そのあどけない顔と、目の前の、陰気な、野獣のような瞳を見比べる。………………あらゆる魔法を無効化する力、それが潜在的に備わっていたとしても、何のレクチャーもなしに使いこなせるかどうかは分からない。ケンの体に、うら寒い、薄い灰色の恐怖が音も無く纏わりつく。小さく首を振って、それを追い出そうとしても、体の奥の方の冷気はぬぐえない。いや、何にせよ、元の世界に戻って、自分の目で確かめるしかない。そう言い聞かせて、ケンはとうとう口火を切る。
「さあ、鍵を出してもらおうか。さもなくば…………」
ケンの右手にひらめいた赤い閃光を浴びて、再び、少年の口元がぐにゃり、と歪んだ。
「殺す、と? 殺せますかね? この姿を? いや、殺せまい。いえ、貴方が発狂していたとしても、私を殺すことはできませんよ。確かに、私は鍵のこと、幻惑魔法のことを貴方に黙っていました。しかし、黙っていたのはそれだけではありません」
不敵な笑みを浮かべながら、少年は音高く指を鳴らした。その瞬間、ケンの右手から血液の流れ出るような感覚が消えた。驚いて手元を覗くと、赤い光はかき消えていた。
「な…………魔法無効化はミナだけの特権じゃ……………」
ついに、少年は、腹を抱えて狂喜を口元からほとばしらせる。唖然とするケンのまえで、は、は、は、と苦しそうに笑う。
「魔法無効化ではありません。やすやすと敵に塩を送る真似をするとでもお思いか? 召喚魔法で創りだせるのは何も使い魔だけではない! 高度な召喚魔法では、かりそめながらも、武器そのものを創りだすことさえできる。そして、それは術者の思い通りに出し入れができるのですよ」
驚いて、両手を顔の前に掲げると、確かに、十指にはめた指輪は一つ残らず、あとかたも無く消え去っている。眩しいほどの純白に輝くコートも無くなり、見慣れた黒い学生服がむき出しになっている。おそらく、戦場の真っただ中にうち捨ててきた黄金の剣も、その破片一つ残らず消滅しているのだろう。少年は、はっはぁ、と気合のこもった笑い声をあげると、右手から紫がかった黒色の闇をほとばしらせると、素早く虚空を撫でる。すると、一瞬にして銀色に輝く細い剣が現れ、そのまま、少年の左手が黄色に瞬き、一呼吸おいて、同色の輝きが全身を包む。
「貴方を消すだけでも、充分な収穫なのです!」
ぎらり、と白い歯を剥き出しにして、少年は電光のような速度で、一直線にケンに迫る。点のような白銀の刀身が、見る見るうちにその大きさを増し、伝説上の生き物である一角獣の角のように壮麗な、かつ致死の白光を纏った切っ先がケンを貫こうとする。指輪を失った今、感覚強化はできない。少年とケンを隔てていた十メートルの距離は無いに等しい。しかし、それでもケンは全く慌てなかった。腕を組んだまま流れるように体を右に傾け、左耳に意識を移すと…………
幾筋もの曲線が、左耳の、紫色の宝石からほとばしった。少し青みがかった、暗いパープルの光が蛇の形となって、少年の四肢に絡みつく。一瞬、驚愕に見開かれた眼は、すぐにその光を失って濁る。風を切って突進してきた小さな体が急激に慣性を失い、スローモーションになったかのようにがくり、とその速度を落とし、流麗な剣の切っ先はケンの頬に一筋の小さな傷を作ったあと、音も立てずに地面に突き刺さった。大きく右足を踏み込み、右腕を突きだした少年の全身が、その姿勢のまま一瞬硬直する。
「おやすみ」
そう耳元でささやいた瞬間、ユウキの背中を這い上がった細い蛇が、優しくその首筋を噛んだ。まどろみに揺れていた目がそっと閉じられ、ユウキは全身の力を失って、がくっ、と体を垂直に沈ませて、柔らかな布地に包まれた腕の中に吸い込まれる。地に刺さった剣は真っ黒な影に姿を変え、ぎゅっ、と凝縮して小さな闇の雫となり、しばらくその場に留まっていた。しかし、少し熱のこもった、暖かいそよ風が通り過ぎると、流れるように、ふっ、とかき消えた。
果たして、それは確かにユウキの懐にあった。すやすや、と小さな寝息をたてるユウキを、十数時間ほど前に自分が横になっていた、真紅の薄い布団の上にそっと横たえる。先刻の、邪悪とまで呼べるような猟奇的な気配は一切消え、無防備に熟睡するその姿からは、ケンにつきつけられたあの白銀の剣は夢の中の出来事だったのではないかとさえ思えてくる。ふうっ、と軽く息をつくと、親指と人差し指でつまんだ赤色の鍵を、その先端が体に触れないように気をつけながら、恐る恐る持ち上げる。
「全く、無茶をなさるのね」
背中から声をかけられ、ぎょっとして振り返ると、そこには誰もいなかった。幻聴? いや、今の声は…………と、そこまで考えた時、目の前の空気が朧に霞んだかと思うと、その中から、ケンの予想通りミナが姿を現した。ケンは、わざとらしく盛大にしかめっ面を作って出迎える。
「自軍とはいえ、突然軍の野営地、それも大将の鎮座する本陣に侵入してくるお姫様には言われたくないね。…………いつから居た?」
「最初からです。私の隠蔽魔法は誰にも看破できませんからね。………………武器を消滅させられたときは、大いに肝を冷やしましたよ」
「そのことについては、お礼を言わなきゃいけないね。ありがとう、おかげで助かった。でも、欲を言うなら助太刀してほしかったけどね」
冗談めかして付け加えた一言は、しかし、ミナを大いに落ち込ませたようだった。
「…………御免なさい…………私、あのとき、体が竦んでしまって…………あんな、あんな怖い顔をする人がいるなんて、知らなかったものですから…………」
慌ててしどろもどろに言い訳なり慰めなり励ましなりの言葉を並べ立てながら、ケンはユウキの中に埋め込まれた魂の狂気の瞳の色を思い出していた。確かに、あの目に睨まれながらも落ち着いて対処できたのは、我ながら天晴れと言うべきかもしれない。ましてや、このお姫様は、実戦闘などしたことがないだろう。聞けば、毎日のように黄金製の武器や防具に、自身の固有魔法である「ラ・ブランシュ」の光を沁み込ませて、魔法への耐性を底上げする作業に追われているという。先程まで握っていた剣、結局はそれはユウキが召喚した紛いものだったのだが、「聖剣ラ・ルーチェ」は、三日三晩かけて光を注ぎこませた逸品とのことで、その話を聞いた時、イレギュラーな武器に遭遇したとはいえ、盛大にぶち壊してしまったことを大いに申し訳なく思ったものだ。いやはや、一国の王女ともあろうものが、そんな地味で気の遠くなるような作業に毎日を悩殺されているというのは信じられない話だが、逆にいえば、凄まじいまでの能力を持ちながら前線に出てこないのも納得できるというものだ。しかし…………
「…………しかし、なんでわざわざ誰にも内緒で慣れない前線に出たり、ここまでやってきたりしたんだい? 王様や、王宮の人も心配するだろうに」
泣き出しそうなほど暗い顔をどうにかひっこめていたミナは、ふん、と小さく鼻息を鳴らして、少し頬を膨らませた。その頬は、気のせいか、少し色づいているように見えなくもない。
「決まっているでしょう…………あ、貴方が心配だったからです。妙な胸騒ぎがしたものですから…………貴方の身に危険が迫っているのではないかと…………父上やじいやについては心配ありません。召喚魔法と変化魔法を併用して身代わりを置いてきましたから」
「な…………」
唖然として、しばし絶句するケンの顔を、ミナはちらりと横目で覗き見る。その視線は、少しケンの目をとらえて留まった後、すぐにそらされて、虚空を彷徨う。
「…………ってことは、未来予知みたいなことができるのか? …………魔法で? ……そんな馬鹿な……こっちでそれが可能ということは、向こうでも原理的に不可能ではないわけで……ということは、因果律が崩れるじゃないか……科学の大前提が…………」
「ち・が・い・ま・す!」
そう言うミナの顔は、真剣に怒っているようだった。ついこないだ、ケンがミナを子供っぽいと評した時のように、耳まで真っ赤にした顔で、目には揺らぐ炎を宿して。肩を落として、ふううっ、と大きく息を吐いて、もう一度、はぁっ、と盛大にため息をつくと、落ち着いた、神秘的な雰囲気を取り戻して、ふと上を見上げる。
「空が……空が、妙に赤かったものですから………………不安になって…………不思議ですね。将軍が前線に出かけるのはそう珍しいことではないというのに、いてもたってもいられなくなって…………先日受けた報告が、私の中で尾を引いていたのかもしれません」
つられて、ケンも空を見上げる。目覚めたときは天頂に在った太陽は、既に大きく傾いて、柔らかな陽光が、空をオレンジ色に染め上げている。血のような赤色とは程遠い、見慣れた夕焼けの色。一人帰路につくケンが、何度となく見上げていた空。そうか、これで、長かった一日が終わる。ケンは唐突に感じとった。
「…………さて…………お別れだ」
改めて、ケンは右手でつまみあげた小さな鍵を見つめる。目の前のミナも、神妙な面持ちで、諸悪の根源たる、その不気味な紅色の色彩を食い入るように見つめている。そのミナに、ケンはそっと右手を差し出す。
「これは、君が使ってくれ。君は知らないかもしれないけど、僕の身につけているものは、そっくりそのまま向こうの世界に移動するんだ。僕が、自分で鍵を突き刺せば、この鍵は向こうの世界に移動してしまう。これは、この鍵は、こっちの世界で創られた、こっちの世界の道具だ。僕が持っていくわけにはいかない」
と、そこで、左耳に、こっちの世界の道具をもう一つぶら下げていることに気がついた。慌てて、右手に鍵を持ったまま、片手でイヤリングを外そうとするけれど、中々うまくいかない。その様子に、ミナは少し微笑んで、両手でケンの右手を包み込む。
「分かりました。この鍵は私が預かります。でも、その宝石は差し上げます。どうか、何も言わずに持って行って下さい。この世界の私との絆、そして、このささやかな冒険の証として」
ケンも、涼やかな微笑みを返して、そうか、と一言つぶやくと、右手から、そっと鍵を放した。小さくも禍々しいその物体がミナの掌の上に収まる。そしてケンは自由になった右手を、左耳の代わりに、おもむろに左手首に添える。
「代わりと言っちゃなんだけど、これを受け取ってもらえないかな。生憎、この宝石に比べれば、安物かもしれないけど」
ミナの掌の上の鍵の横に、クリーム色の腕時計が置かれた。相も変わらず、ちっちっ、と微かな音を立てて、無機質に針を回し続けている。
「これは?」
「時計、って言う機械だよ。この三本の針は、一定の周期で回り続けるんだ。ええと、一秒、一分、一時間、って言って分かるかな?」
ミナは、意外にもこくん、と小さく頷いた。
「この一番細い針が一目盛ぶん動くごとに一秒、少し太い、長い針が一目盛ぶん動くごとに一分、そして、この太くて短い針が、五目盛ぶん動くごとに一時間、だ。えーっと、太陽電……光のエネルギーを吸収して動くから、暗い所にしばらく放っておかなければ、動き続けると思う」
そう言って、人差し指で頬を掻いていると、ミナは説明を理解してくれたようで、自分の掌を物珍しそうにしげしげと眺めている。先程、宝石に比べれば安物だとは言ったが、貧乏なケンにとってはなかなかの高級品だった。しかし、中学から高校に上がるときに誕生日祝い兼卒業祝いだと言って、当のミナから半ば強引に贈られたものなのだから、まぁ悔いは無い。まぁ、向こうのミナにちょっと拗ねられるかもしれないが、他にこれと言って渡す物も無いので仕方ない。
「ありがとうございます。あの、えっと、取り扱いに気をつけないといけないことはありますか?」
「そうだな……さっき言った通り、暗いところに長いこと置いとかないように、ってくらいかな。燃やしたり、剣で切り裂いたり、高いところから落したりしない限りは、よっぽど大丈夫だと思うよ。あ、中身が気になるからって、むやみに分解するのとかは止めてね? 僕にとっても、けっこう大事なものだからさ」
と、そこまで言って、ふと自分が逆の立場だったらどうだろう、と思った。もし、自分の半身がこのケンと同じくらいの好奇心探究心を備えているとするなら、黙って従ったりはしないだろう。食い入る様に仔細に眺めまわした後で、中身を調べてみたいという欲求を果たして抑えきることができるだろうか? いや、というか、僕自身もこの紫色のイヤリングは、大いに気になるところだけど…………すると、ケンの心の内を見透かしたかのように、ミナは悪戯っぽくにやり、と笑って、目線の下から鼻先をこちらへ押しつけてくる。
「…………むやみに分解するな、ねぇ…………その言葉、そっくりそのままお返ししますわ」
気まずそうにえっと、とか、うーんと、とか、情けない声をひとしきりつぶやいた後、
「やっぱり、いまのはナシ、ってのは駄目かな?」
むっとした顔で、だめです、の四文字をぴしゃり、とケンの顔に叩きつけた直後、ふふっ、とその口元が、緩やかにほころぶ。ため息をつくのも忘れて、その頭にそっと右手を乗せる。
「じゃあ、頼む」
ぴくり、と小さく肩を震わせたミナの華奢な両手は、その胸の前で紅白の金属を乗っけたままだった。いそいそと、右手に鍵、左手に時計を移動させると、ケンがミナの頭の上に乗せていた右手をぱっ、と離し、ひょいっ、とつるつるとした細い皮バンドを持ち上げると、そっとミナの左手に巻きつけ、ぱちん、と金具を留める。
ごく薄いミナの肌の色素をぎゅっと集めて凝縮したような、少し茶色がかったクリーム色はミナの肌に溶け込むこともなく、かといって目立ち過ぎることもなく、要するによく似合っていた。手首の掌側に顔を出す文字盤は、控えめに輝く銀色の円に縁どられて、柔らかな黒色の数字を浮き上がらせ、つやを抑えた乳白色の上で薄赤の秒針がちこ、ちこ、とさりげなく、無機質に時を刻んでいる。シリコン型の太陽電池ではなくて色素増感太陽電池を使っているらしいが、それにしても白色の文字盤が太陽の光を吸収して電気に変えるというのが、どうもケンはあまり納得できない。しかし、確かに今まで電池が切れたことはないから、おそらく本当なのだろう。
ミナは、左腕に取り付けられた珍妙な機械を、もう一度ひとまわり眺めると、右手に乗った鍵を恐る恐るつまみ上げ、胸の前にそっと掲げる。その動作は、修道女が十字架を掲げて祈りをささげるような、どこか神秘的な雰囲気を感じさせる。その姿勢のまま、ミナは、しばし押し黙る。その口が、小さく開かれようとして、すぐに閉じる。
「別れの言葉なら、いらないよ」
その心中を察して、ケンは迷わず呟いた。いとおしそうに細められた目を、長いまつ毛が半分覆い隠す。ミナは、そっと顔を持ち上げてそれを覗き込むようにして、二人の視線が、そっと交わる。
「君はお姫様かもしれないけど、でも、ミナだ。同じように、僕はケンだが、将軍だ。そうだろう? だから、お別れの言葉は必要ない」
そうすると、向こうのミナもお姫様、ってことになるのかな。と、心の中で呟いて、口元を緩めそうになったとき、目には見えない陰鬱な野獣の眼が、背後から睨みつけてくるのをはっきりと感じた。向こうのミナは、ミナじゃないかもしれない……心臓が急激に縮み上がり、切り裂くような冷気が全身を駆け巡り、視界が眩んで…………
しかし、異変はそこまでだった。今まで経験したことのないような、柔らかいぬくもり。はっ、とその源に目を向けると、ミナがその華奢な左手を、ケンの左手にそっと絡ませていた。
「言葉はいらない、とおっしゃるのなら、せめてこれくらいは許して下さいね。……大丈夫ですよ。私がそう簡単にやられるとお思いですか?」
例の、悪戯っぽい、にやりとした笑いに口元を歪ませると、つられて、ケンもふふっ、と微笑む。
「そうだな。そうだよな」
半ば自分に言い聞かせるかのように繰り返す。その目の前で、ゆらり、と紅の光が揺れる。
「ケン…………」
その言葉が、懐かしい響きが、目の前の女性から発せられたものである、という事実に気がつくまで、少しかかった。顎を引いて、少し唇を引き締め、きりっ、と真剣そうな顔つきを作る。
「それでは、姫…………」
ミナもまた、少し間を置いてから、しかし、どこか哀しそうに微笑んだ。ぎこちなく、血の色の鍵を持ち上げ、一度まぶたを閉じ、また開いた時には、この世界で初めて出会ったような凛としたまなざしを宿して、滑らかで優美な動作で、しかし強い意志を持った力強い動きで、ケンの胸のまん真ん中に、小さな小さな鍵を突き刺した。
ふわり、と舞い上がったのは、意外にも、眩いばかりの白い光だった。ケンの胸を穿った鍵の先端から、何本もの清らかな光の帯があふれ出し、あたりを照らす。痛みは全く感じなかった。ただ、少しずつ視界が真っ白に染まり、四肢からは、あふれる光に導かれて力が流れ出していき、代わりに心地よい痺れが全身を蝕んでいく。光の渦に沈む、青みがかった黒い瞳。その深海のような、しかし透き通った、いとおしいその宝石を眺めながら…………ケンの意識は途切れる…………
ミナは、それでもいい、と思っていた。確かに、ミナのよく知るケンは戻ってこないかもしれない。でも、ミナの傍らに立つこの男も、紛れもなくケンなのだ。代わり、ではない。唯一違うのは記憶。ただそれだけ。そう、ミナは確信していた。だから、ケンがもはや修復不可能となってしまった呪わしい道具を、ただ茫然と眺めていた時、ミナの胸の奥で、ちくり、と鈍い痛みが瞬いた。ケンに会えない、という悲しみではない。ケンは、私を、この私を欲してはいないのか、という、とっても我儘で自分勝手な痛み。
ふるふる、と大きくかぶりを振り、黒髪をなびかせて、ミナは自分を叱る。馬鹿ね、向こうのケンはきっと、たくさんの命を預かる存在。早く向こうに戻らないといけない。その責任があるのだ。
と、そこまで考えた時、ミナの肌がどくり、と震えた。獲物を狙う獣のように激しく力強く、しかし、淡々と一定のリズムで刻み続ける、躍動。そうか、そうだった。今ケンは、向こうにいるのだ。あの、虚ろな目のはびこるであろう、鋭い殺気の飛び交うであろう、戦場に。気がつくと、ミナの右腕は、力無くだらり、と垂れ下がっていた。果たして生きているのか…………全身から、力が抜け…………その体を、素早くケンが支える。大丈夫ですか、と、強張りながらも、優しく、穏やかな声。しかし、視界は白んで………………
ミナは、すとん、と尻もちをついた。慌てて眼を開けると、目の前に眩いほどの光の帯が舞っていた。しかし、それは見る間に勢いを失い、しまいにはほとんど糸のような細さになって、消えた。
ケンは、居なくなっていた。
その後のことは、よく覚えていない。
独りだった。
人形のように生気のない眠りに沈んでいた十数人の人影も、いつの間にか姿を消していた。降りしきる雨もとうに止み、訪れた完全な静寂に耐えきれずに、がむしゃらに地面を蹴って走り始めた。まぶたの裏に焼きついた光の帯を探し求めて。
ほとんどが破れ落ち、焦げ落ちた記憶のページをめくると、次に現れるのは夜の帳が訪れた、薄暗い自室。電気もつけず、カーテンも閉めず、制服姿のままで布団にくるまり、引きちぎらんばかりにきつく握りしめてか細い声で泣いていた。改めて、ケンとの隔たりを痛感せざるを得なかった。直接、ケンの家に行けたら、どんなに良かったことか。あるいは、機械越しの会話だけでも、充分にミナを落ち着かせてくれるはずだった。しかし、ミナはケンの家の場所はおろか、メールアドレス、電話番号さえ知らなかった。そもそも、ケンが携帯電話を持っているかどうかすら怪しかった。流石に固定電話もないなんてことはないだろうが、それにしたってミナは知らない。ケンは、ケンは何処へ行ったのか。あてもなく街を彷徨っても見つかるはずもなかった。両親は、ただならぬ娘の様子に大いに心配だったろうが、どんな顔つきで、どんな言葉をかけられたのかさえ覚えていない。
いつの間にか、朝になっていた。
結局一睡もできなかった。まぶたを閉じても、眩しいばかりの光の帯がいつまでも消えない。いい加減寝よう、と思うたびに、それがケンを諦めてしまうことのような気がして、無意識に眠気を拒絶してしまうのだった。
涙の奥の暗がりで、時計が七時を指しているのに気がつく。昨日起きた時間だと、その数字の意味をつかむのに、さらに一分を要した。ぼんやりした頭に、ある決意が確かな輪郭を持って、浮かび上がってくるのが意識された。
ともかくも、行こう。あの場所に。
ケンとの唯一の接点。
ご飯も食べずに、学校へと出かけるミナは、文字通り藁にもすがる思いだった。
心を、静かに落ちつけて。自分の脈拍に意識を移す。その流れるのに任せるのではない。とくり、とくり、一定の周期で波打つそれを、静かな、清らかなせせらぎのように、抑える。滑らかに流れ出るように。そっと沁み込んでいくように。目の前の、黄金の剣に、命を吹き込むように。目を閉じ、さらに意識を体の中の流れに集中させ、そっと右手を前に突き出して………………できない。
はぁっ、と大きくため息をついて、力無くへたり込んだ。手に触れるのは、暖かい絨毯。小鳥のひなの羽を思わせる、柔らかでふかふかとした真っ白な海は、ただそこに横になるだけで、すうっ、と眠くなってしまうほどの心地よさなのだが、今はその毛先が肌に絡みつくような気がして、鬱陶しい。恨めしそうに、もう一度剣を見つめる。いつの間に作ったのか、その剣は忘れもしない、聖剣「ラ・ルーチェ」にそっくりだった。刀身はもちろん、あろうことか握る場所さえきらびやかな黄金でできた大業物だ。しかし、あしらわれている宝石が三つほど増えているのには、ミナは大いに辟易したものだ。それほど、今回の仕事には質が求められるということだ。そのうえ、「ラ・ルーチェ」ですら、光で満たすのに三日かかるほどの大きさだった。ましてや、今回の代物は、その刀身の厚さといい、太さといい、長さといい、微妙とはいえ確かに一回り大きくなっているのだ。これほどの大質量の黄金の塊を、光で満たすのにはいったい何日かかるのだろうか。気が遠くなりそうだ。しかし、名誉にかけて言おう。集中できないのは、そのせいではない。
ちりんちりん、と小さな鈴の音がミナの頭上で鳴った。どうぞ、と割と大きめな声で叫ぶ。その声はきらびやかな調度類に囲まれたがらんどうの空間に吸い込まれたが、来訪者は気がついたようだった。そっと観音開きの扉が左右に動いて、柔和な顔の初老の男性が、姿を現し、軽く頭を下げて、上品な口調で告げた。
「姫様、将軍が御面会を所望されておりますが」
「通していただけますか」
「かしこまりました」
もう一度軽く会釈すると、きびきびした動作で横にずれ、その背後に立っていた男に道を譲った。そのまま素早く横をむき、男が目の前を通り過ぎるまで、上体を傾けたままの姿勢で固まっていたが、男が完全に部屋の中まで入ると、滑らかな動作で頭を持ち上げ、再びミナの方に向き直って頭を下げると、ゆっくりと扉を閉じた。
ケンは、堂々たる足取りでまっすぐミナの方へと歩み寄ると、しかし、十メートルは離れた場所で、素早く腰を落とし、ひざまずく。全身に染みついた動作は、あまりにも華麗で、様になっていたが、しかし、どこか機械じみた、ぎくしゃくしたものに見える。ミナは、はぁっ、と小さく心の中でため息をついて、もう少し近くにいらっしゃい、と言ってみたが、果たして将軍は、恐る恐る、せいぜい五十センチ、にじり寄っただけだった。
「戦況の御報告に参りました」
「続けてください」
「圧勝、です。捕虜奪還の名目で国境線まで攻め込んできましたが、三時間の戦闘ののち、敵軍は撤退。こちらの損害はゼロです。戦死者、負傷者ともに出ませんでした」
「…………引っかかりますね」
「えぇ……おそらく時間稼ぎ、いえ、偵察でしょう。例の武器が配備されているかどうか、確認に来たものと思われます」
ミナの顔に、ゆらりと影がさした。例の武器。目の前の、歴戦の勇者をやすやすと貫いた禍々しき、心ない兵器。
「ジュー、とか、ライフル、とか、いろいろ呼び方があるようでしたね。逆に、敵軍には配備されていましたか?」
「いえ、注意して見ていましたが、全く。勿論隠蔽していた可能性もありますが、それでもせいぜい一個小隊程度であったと推測されます。範囲攻撃や探知魔法で看破できたものは一人もいませんでしたから」
もちろん、その答えは、ミナが既に予期していたものだった。あれからまだ三日しか経っていないのだ。いくら敵が「鍵」を所持しているとはいえ、向こうの世界でもなかなかの危険物として扱われているであろう品物を、向こうの人間に気がつかれず、しかも大量に仕入れるのは、幻惑魔法を用いても限界があるだろうし、異界の技術も無いのに独自に量産するにも、まだしばらくはかかるだろう。しかし、その時は必ずやってくる。こちら側も、相応の準備をしなければならない、のだが。
「父上は、どうお考えでしたか? その……我々がジューを配備することを?」
「……何故、御自分でお尋ねなさらないのですか?」
「…………父上と、喧嘩するのは好きではありません」
「私とであれば喧嘩してもいい、と? ……いえ、失礼しました。……王は、検討中だ、とおっしゃっていました。現在、鍛冶師や彫金師たちが総動員であの武器の材質や構造を調べているところです。しかし、私の想像では、いずれ、聖白軍に配備されることは間違いない、と思われます」
「……そう」
悲しいが、聖白軍に配備される、というのは朗報と言わざるを得ない。あれが、生まれ持った才能のない、平和に生きるべき民草にも使うことができる兵器だということは、父上には黙っておこう。と、ミナはひそかに決意する。人生で初めて、父上を裏切るようなことを考えるのには少々心が痛まないでもないが、しかし、天秤の片側に乗せられた錘は、限りなく重い。そして、父上のお考えもまた、ミナにはよく分からないのだ。
「……ところで、参謀の御容態はいかがですか?」
姿勢を崩さぬまま、ケンが尋ねる。
「まだ、元に戻るかどうかは分かりません。しかし、少しずつですが、自我を取り戻しつつあるように感じます」
軍曹、ユウキは、あれから、ほとんどずっと眠り続けている。定期的に幻惑魔法をかけられ、強制的に眠らされているのだ。弱る体を回復魔法で癒しながら、ミナの「ラ・ブランシュ」の光によって、かけられた呪いを打ち消そうと試みている。しかし、あまり強過ぎると幻惑魔法がかき消され眠りから覚めてしまうので、少しずつ、少しずつ。さらには、定期的に身体は麻痺させたまま催眠を解き、その意識をチェックしている。そのとき、あの邪悪な魂は、ユウキの意識を前面に押し出して欺こうとするのだが、ミナにはそのざらついた卑しさをはっきりと感じ取ることができた。しかしそれは、日に日に弱まっている、ような気がする。
「それを聞いて、ほっと致しました。軍曹はわが軍には必要不可欠な戦力でございますから…………」
ちらり、と自分の心に影が走った気がした。しかし、それはおくびにも出さずに、ため息をつくように、呟く。
「…………そうね」
ケンは、しばし黙り込んだ。それでは失礼いたします、と声が聞こえるのを待ったが、中々その一言は口に出さない。俯いて、ふわふわした羽毛ばかり眺めていた視線をそっと持ち上げる。その目の前で、ケンは立ち上がり、視線がぶつかる。いつもなら、ばっ、と立ち上がりびしっ、と敬礼してやや視線を上向けるはずなのだが、今日は、その動きがどこかぎこちない、というか、明らかにゆっくりで、たどたどしい。思わず眉間に小さな筋が走る。ケンは、まっすぐにミナを見つめている。
「………………姫は、戦いはお嫌いですか?」
どきっ、とした。が、表情には出さない。額の筋を少しばかり深くするばかりにとどめる。でも、しかし、声の震えだけはどうしようもない。
「………………どうしてそんなことをお訊きなさるのですか」
「『向こう』の姫は、戦いを心底嫌っておられるようでした。私の戦う姿を見て、まるで……まるで小動物のようにぶるぶる震えておいででした。自ら武器を取り龍黒軍に立ち向かったときさえ、決して敵を殺めようとはしませんでしたし、今度は、敵を傷つけた自分自身に、怯えていらっしゃるご様子でした」
「……………………」
「………………姫、もう一度お伺いします。戦いは、争いは、お嫌いですか?」
「………………それでも、戦わなければなりません。一億二千万の民を守るため、我々、才を生まれ持った、戦うべくして生まれた人間は、戦わなければいけないのです。それが我々の使命……」
そう言いながら、そっと背を向けるミナの背中を、ケンは黙って見つめる。その視界には入っていないだろうが、それでも、ケンのことだ。私の頬に一筋のか細い線が這うのに気がついているかもしれない。しばらく、押し黙った後、ケンは再び口を開いた。その声色は、一オクターブ下がっていた。
「姫…………姫は、おかしいとお思いになりませんでしたか?」
ぎこちなく振り返って、しばし間を置くが、心当たりはない。
「何のことです?」
「………………向こうの世界とこちらの世界、紛れも無く、その文化は根本からして異なります。しかしながら、話す言葉は全く同じ。隣国のアーテルですら、我々には解さぬ言葉を話しているというのに。さらには、時間の単位まで、その大きさまで同じだった。そうでしょう?」
ミナは左手の『時計』を見やる。そのか細い針が刻む『一秒』は、紛れもない、ミナが慣れ親しんだ一秒だ。
「確かに…………変ですね」
「言語、というのは文化の根本であり、密接にかかわりあっているはずなのです。しかしながら、向こうでは魔法が知られていないという。それほどまでの確執があってなお同じ言葉を使い、同じ単位を使うのであれば、それぞれの世界が独立に発展してきたというには、あまりに偶然が過ぎるというものです。我々が思っている以上に、こちらとあちらは関わりあっている…………それはおそらく、人間も同じです。向こうの姫、向こうの私が暮らす国の…………名前は存じ上げませんが…………その人口はおよそ一億二千万………………我々の国に暮らす数と同じです。しかも、私が向こうの世界に行ったとき、城下町で見知った顔も見かけました。おそらく、姫や、私だけではございません。こちらの世界に存在するあらゆる人間が、あちらの世界にも暮らしているのです。その性格や信条、人間関係をある程度そのままにして。しかし、常時厳密にその状態が保たれていなければ、そんなことはあり得ない。つまり…………こちらの世界で死んだ人間は、同時に、あちらの世界でも死んでいる、そうでなければ、こちらとあちらの人間は見る間にその共通性を失っていき、もはや完全に別人になっているはずなのです。これほど瓜二つの人間が相当数存在する、という現象は、そうでなくては説明できません…………」
ミナは、思わず立ち上がっていた。真っ白な肌は目に見えて青ざめ、か細い指先はわなわなと震える。しかし、その背筋はまっすぐのび、ぶれない。
「なんですって! ……では…………それでは…………」
一通り目を白黒させた後、ぐっ、と生唾を飲み込んで、肩を落としながら、大きく息を吐き出す。熱がこもった息が漏れ、体温がさっ、と低くなる。が、荒い息は収まらない。
「…………軍の方々が戦闘により亡くなられるのは、いたしかたの無いことと自分に言い聞かせてきました。人よりも豊かな才を受けてこの世に生まれ落ちた代償として、その生命をかけて他の者を守り抜く使命があるのだと。でも、違うのですね…………貴方も私も、向こうの世界ではごく普通の人間でした。…………彼らもまた、向こうでは選ばれた人間とは限らない…………こちらの世界で一太刀受ければ、あちらの世界の方は…………天性の才も…………使命も何も関係のないところで…………命を、散らす、と…………そうおっしゃるのですか?」
「断定は、できません。しかし……おそらくは…………」
今度こそ、体を支える力が抜ける。さっと吹きすさんだ風に手折られる草花のように、ぽっきりと、体の芯が折れてしまったかのように、白い草原が、すぽん、とミナの体を包み込む。
「そんなことって……………………」
そう言って俯き、微かに、本当に微かに、すすり上げ始めた。命の数に単位は無い。でも、敢えて言うなら、その重さは、ミナが思っていたより二倍も大きかった。いや、二倍どころではすまないかもしれない。こちらの人間には、守るべきものがあった。そのために命を懸けなければならなかった。しかし、向こうの世界は違う。もちろん、その違いで命の質に違いが出るとは、露ほどにも思ってはいないが。いや、さらには、この世界とつながる世界が、たった一つとは限らないのだ。
「姫、一つ、私に考えがございます」
たっぷり数十秒は沈黙を守った後、響くケンの声には、少し危ういものが感じられた。何だろう、地獄のような戦場で長年培ってきた殺気だろうか? いや、違う、これは………………薄氷の上を躊躇いもなく踏みしめて歩んでいくような…………
「ジューが量産されれば、我々に勝ち目はありません。不幸中の幸い、敵もその解析の最中、或いは、鍵を使って次なる画策の用意をしているかもしれません。先日の潜入作戦ではまんまと敵に泳がされてしまいましたが、もう敵も、軍曹がこちらの手に渡ったことで、我々がわざと招き入れられたことに気がついた、と知っています。警戒も薄くなっていることでしょう。かくなる上は………………」
「なりません!」
思わず、大声で叫んだ。ケンの目の前に映る、大きく暗い穴の幻を打ち消すかのように。その姿に少しずつかかっていく靄を振り払うかのように。
「しかし、姫!」
ケンも、声を張り上げた。しかし、その響きは透き通っていて、先程窺えた危うさはきれいに無くなっていた。
「なりません! 無闇に命を落とさんとするような試みは、私が許しません!」
自分でもびっくりするくらい、大きな声が出た。はあはあ、と肩で大きく息をして、まっすぐとケンを見る。思わず振り払った右腕では、じっとりと、貼りつくような汗が体温を奪っていく。
「建国より千年以上、されど未だ見ぬ平和という理想、今しかないのです! これ以上戦乱が続けば、行くところまで行ってしまう! 私には、異界の兵器がジューだけだとは到底思えません。アーテルが向こうの世界の識者たちをさらい、貪欲に異界の技術を求め続ければ、ひょっとして、このブランシュ、或いは、世界そのものを穿ってしまうような、非情なる兵器が生み出されるやも分かりません。いえ、ジューだけでも充分に脅威です。なにせ、あの存在は、今までの争いを根本から変えてしまう。誰にでも使える武器。もはや、戦うべき人間と守られるべき人間の差は無くなったのです。あらゆる民が戦闘に従事し、死人の数は何十万、何百万ともなるでしょう。同時に、向こうの世界でも尊い命が失われる。彼らには関係の無い、我々の世界で起こった戦争で、理不尽に殺されるのです! 我々の使命は、もはや戦うことではありません!」
堂々と言い放った最後の一言は、しかし、ミナの意識をするりと通り抜けた。
「将軍…………貴方………………ジューが誰にでも使える、ということを………………王に、…………父上に、話されたのですか?」
「勿論です」
きっぱりと、断固たる口調で、ケンは言い切る。
「そんな…………どうしてそんなことを! それを知っては、父上は、そう遠くない未来に、あの武器を、戦うべきではない民衆に………………」
ミナのささやかな抵抗は意味がなかった……もう、何もかも悪い方向に進んでいる。もはや憤りは感じなかった。感じるのは、息の詰まるような閉塞感。ごつごつとした薄青の岩壁に囲まれた、黴臭い牢獄に囚われた時のような、孤独。そして、その岩壁は、じりじりと確かな速さで、自分の体を押し潰さんと迫ってくるのだ。
「伝えなければ、民に武器を持つことを拒めば、それこそ、民に無抵抗に命を落とさせることになります。敵もまた、ジューを力無き民に与えることでしょう。軍に属するような貴族は民衆には手を出しません。しかし、彼らはどうでしょうか? 我らが領内に入ったとき、同じ立場の人間に武器を向けても、何ら不思議はありません」
ミナには想像できなかった。素朴で簡素な服を身に纏い、一切の装飾品を持たずして、しかし、黒光りする謎の武器を手に、城下町の人々を襲い、蹂躙するさま。そんなことができるのか? 人間に? いや、しかし、幻惑魔法に長けた龍黒軍では、心理的なストレスを緩和し、より効率よく作戦を実行できるようにはからう、という行為が、それなりに日常的に行われていると聞く。やってくるのだろう。その時が。ミナは、ケンの方が現実をしっかりと見極めていることを、認めざるを得なかった。
「でも…………でも………………」
ミナの体は強張り、ときどき思い出したように、指の先がぴくり、と震える。冗談でしょう、となけなしの視線を投げかけても、ケンの瞳の深い夜空の奥には、確かに燃えるような星の光がちらちらと瞬き、その度にミナの胸の中を、ちくり、と刺すものがある。
「大丈夫です。お任せ下さい。必ず……………………戻って参ります。ですから、前回のようにこっそりついてきたり、なさらないでくださいね」
「な………………?」
驚愕に顔をひきつらせて、まじまじとケンを見つめる。その様子が可笑しいのか、ケンの口元がごくごく僅かながら、真一文字から曲線へと変わる。
「そんな、どうして……私の隠蔽魔法は誰にも看破できないはず…………」
ふぅっ、とため息を漏らして、今度こそ小さく苦笑いして見せたケンは、まるで子供を諭すかのような口調で語り始めた。
「他の人にはわからなくても、私にははっきりとわかりますよ。お姿が見えなくても、姫からは独特の、清らかで、澄み渡った、暖かい流れが感じられますからね。いえ、魔力ではございません。魔力は隠蔽されては私にも見えません。……先日の王宮潜入では大いに焦らされましたよ。いいですか、敢えてこのことは王には御報告しておりません。どういうつもりかは存じ上げませんが、以後は慎んでいただきたい。見逃すのは今回だけですよ」
「いえ、私も行きます」
静かに首を振った後、すっ、と立ち上がって、まっすぐにケンを見据える。涙も汗も、とっくの昔に引いている。
「姫………………?」
今度はケンも、少し怒ったように少し眉を吊り上げた。しかしその目は、問いかけるような深い光をたたえている。にやり、と小さく笑って、ミナはせいいっぱい背筋を伸ばして胸を張り、右手を力強く胸に当てる。
「『こっそり』ついて行くのが駄目だとおっしゃるのであれば、堂々とついて行きますわ。勿論、父上の了承を頂いて、ね。あらゆる相殺を受けつけない私の魔法を、役立たずとは言わせませんよ」
盛大なため息とともにうなだれたケンが、再びミナの方を見上げた時の表情は、ミナの予想とは異なり、驚くほどに暖かい頬笑みだった。艶のあるまつ毛に覆われた瞳は、真っ黒なのにもかかわらず、満天の星空のごとく眩しいまでの光を放ち、緩んだ口元は微かに歪んでいて、それが苦笑であることをほのめかしていたが、整った白い歯をわずかに晒している。ミナは思わずはっと息をのみこんで、その表情をくいいるように見つめる。
「そんなに私は頼りないのですか?」
ケンの言葉にようやく我に返って、慌ててもう一度姿勢を整える。
「『向こう』の貴方を見て、心配になっただけです。初めて会った時などは、ちょっとしたことで慌てふためいて、見ているこちらが冷や冷やさせられましたよ。それに、その…………ずいぶんと、な、なれなれしい言動をするものですから」
ふっ、とケンが息を漏らして、唇をわずかに引きつらせながら目を閉じ、少し顔を横に向けて肩を落とした。すると、一呼吸おいて、ゆっくりと立ち上がった。こちらを見下ろす瞳には溢れんばかりの暖かな星の光を宿していて…………
「それはきっと、姫の前だったからですよ」
ゆっくりと肩が持ち上がって、体温が一度上がった。
「ど、どういう………………」
答える代りに、ケンはゆっくりと歩み寄ってきた。思わず半歩下がろうとするが、そのまま踏みとどまる。さっきとはうってかわって少しも躊躇うことなく、十メートルが八メートル、七メートル、六メートル、どんどんその距離が短くなっていく。その一歩ごとに、とくん、と揺れる胸の中の鼓動が、一段ずつ強くなる。
気がつけば、あろうことか、ケンは文字通り目の前まで迫っていた。一メートル。手を伸ばせば届く距離。ケン、いや、将軍の姿を、こんなに間近で見たのは、いつ以来だろうか。記憶の中よりも、ずっと背が高かった。ミナの頭のてっぺん程の高さにある目が、そっとミナを見下ろしている。その瞳はまるで大粒の宝石のようだった。黒色の物体で、こんなにもきれいな光を発しているものが、他にあるのだろうか。しかし、それは光を発するだけではない。頭上を照らすシャンデリアの暖かな光、壁にかかる絵画の滲んだような色彩、流麗な石像の放つ鈍い輝き、それらを一息に吸い取って、溶けあい、一層その深みを増す。か細い眉はわずかに曲線を描き、つやつやとした黒髪をかぶっている。まぶたは半ば閉じられ、いつくしむような微笑みが、口元に優美な線を刻みこんでいる。暖かな鼓動が、とくん、とひときわ高く胸を揺らした後、大きく吸い込んだまま、息が止まる。
「私の心の中では、姫はお庭を無邪気に駆け回っていた、幼い日のお姿、そのままなのですよ」
そういって、そろ、そろ、と静かに右手が動く。その動きはぎこちない。いったん止まって、しばらくその場で震えた後、思い出したかのようにぴくり、ともう一度小さく震えると、恐る恐る、ふたたび動き始める。しかし、憑かれたようにケンの顔に見入るミナは、全く気がつかない。
左手に、ぴりっ、と小さな痺れが走った。はっ、となって、思わず引っ込めようとした手は、あっというまにすくい取られて、ケンの両手に、上下からそっと挟みこまれる。じわり、と独特の温感が手のひらを包んで、体全体にまで沁みわたる。一瞬強張った体が、内側からときほぐされていく。いっぱいに空気を満たした肺がその感覚にくすぐられて、耐えきれずにほうっ、と息をはきだす。高まっていた鼓動も、とくん、とくん、と、微かに左手に伝わる振動に合わせるかのように、少しずつ、少しずつ、落ち着いていく。時間がすうっ、と引き伸ばされ、自分の吐息が空気とゆっくり混ざり合っていくのが感じられる。いつの間にか、自分の右手が、ケンの左手の上に重ねられ、指先でそっと撫でまわしていた。指先が白い肌に触れるたび、ぴりりと柔らかな刺激が電気のように体中をかけめぐって、意識が少しずつ痺れていく。
「しかし、それも今日までです。貴方は、ずっと、ずっと強かった。私が思っていた以上に。今回の一件と今のお言葉で、ようやく気付かされました。…………私からも、是非、お願いします。ともに、ともに来ていただけますか? この世界で、最後となるはずの『戦い』に」
はい、と反射的に呟いた時には、姫の眼は、黒い闇に縁どられた真っ青な炎を揺らめかせていた。
「ありがとうございます」
ケンは、ひときわ眩しい微笑みをきらめかせて、そっと両手をほどいた。失礼します、と小さくささやいて、ゆっくりと、名残惜しそうに振り返ると、いつものようなきびきびした動きではなく、緩やかに、滑らかに、流れるような足取りで、少しずつ離れていく。六メートル、七メートル、八メートル。およそ十メートルまで歩いたところで、急に立ち止った。その一瞬、周りには二人のほか、何もなかった。
ケンが、振り返った。
「お父上、王には、私からお願いしておきます。王と喧嘩をなさるのは、お嫌いなようですからね」
ケンはそう言って、ゆっくりと振り返り、そのまま立ち去った。しかし、ゆっくりと閉じる扉の向こうで確かにこちらに向かって、小さく頭を下げた。ミナは二歩前に進んで、そっと微笑み、離れていく後ろ姿を見送った。
かたん、と小さく音を立てて扉が閉まったあと、すとん、と腰を落として、しばしぼんやりとしていた。思い出したようにそっと振り返ると、驚いたことに、すぐ目の前で黄金の剣が白い羽毛にうずもれながら、白い遮蔽物の奥から、ちらちらときらびやかな光を漏らしている。まるで、かくれんぼでわざと見つけてもらおうと、頭の先だけぴょこんとのぞかせた子供のように。思わず、くすっ、と笑ってしまう。
(…………そうだった)
ふわふわした純白の羽毛をかき分けて、そっと剣を持ちあげ、その全体像が露わになる様に置き直すと、体の真正面をまっすぐ剣の方に向けて、姿勢を改めて座り直す。
(…………なんで忘れてたんだろうなぁ………………この剣こそ、私と彼の、絆の証)
左手は、まだ暖かかった。ゆっくりながらも、力強い鼓動によって、そのぬくもりは冷めていくのではなくむしろどんどん全身に広がっていくような気がした。あえて、その鼓動を抑えようとはせず、そっと目を閉じる。両手に、今までにないほど強い、澄んだ光の流れを感じる。その強さは一定ではないけれども、乱れることなく決まった周期で滑らかに強弱を繰り返している。じわじわと両手にかける力を増していく、という、いつも通りの手順ももどかしくて、体の中の光の流れを一気に解放する。薄目を開けて剣をのぞくと、自分の両手から血流のように激しくほとばしる白光を、剣が貪欲に飲みこんでいくところだった。すうっ、と体の芯から冷気が湧き上がり、背筋を伝って意識を痺れさせようと迫ってくるが、心臓が力強くとくん、と震えるたびに、柔らかな温風が、ひとかけらも残さずに吹き飛ばす。脳裏に浮かんだ微笑みを写し取るかのように、ミナはそっと口元を緩めると、両手にこめる力をさらに強くする。
光は、力強く躍動しながら、滑らかな螺旋を描き、豪奢な黄金の剣に残らず吸い取られていく。いつまでも、いつまでも。
ミナは今、教室の机にただ一人で突っ伏して、また泣いているのだった。いつもより一時間近くも早く来たが、当然のように誰もいなかった。硬い机に押し当てられた腕が軋み、擦り続けた目じりがひりひりと痛い。涙ももう枯れかけていた。嘆き声に一晩中酷使した喉も渇ききっている。が、そんな感覚はミナの意識にはとうに忘れ去られている。ぼうっとかすんだ意識の奥に、ずきずきと鈍い痛みが波打っている。しかし、その痛みもだんだん意識の外に押し出されていって…………
あれ?
あたし…………どうして………………
ふと、視界が真っ白に染まった。ちょうど、その奥の、小さな紫色の光が白色に飲みこまれてかき消されるところだった。
いつの間にか全身の感覚が消えていたのに、ようやく気がついた。全くの無感覚から、ぽかぽかと暖かい温感が通り過ぎて、さっと冷たい朝の風が肌を撫でた。ずっと同じ角度に固定されていた腕がきしり、と悲鳴を上げる。曲がった背中が、ミナの顔を机に押し付けているのに逆らって、どうにか重たい頭を持ち上げようとする。冷たい風が頭蓋にぶすぶすとくすぶっている煙を吹き散らしていく。それにともなって、聴覚が戻ってきて…………この…………静かな吐息は………………
息を大きく吸い込んだ肺が一時停止した瞬間、ばん、と机に手を叩きつけて、勢いよく立ちあがった。がたん、と音を立てて倒れる椅子の向こう側の、その影は。
「ケン…………」
一日ぶりに会うだけなのに、ミナはひどくやつれていた。泣き腫らした目じりとは対照的に、手や顔は青白かった。しかし、それでも水晶のように透き通る肌の質感は、全く損なわれていなかった。それどころか、全身を包む白い光に照らされて、妖しげで、神秘的な雰囲気を加速させていた。ところどころくせのついて跳ね上がった髪も、そのつややかさは保っていたし、何より、宝石のような濃紺の星は、朝露のように透き通った滴を纏ったまつ毛に縁どられて、物静かに瞬いていた。
紫色の光の断片が、ついに砂粒ほどの大きさになって姿を消した。きょろきょろ、とそれを見回したミナが、ふと、ケンの耳元を覗き込んだ。
「ちょ、ちょっと、どういうつもりよ?」
どうやら、左耳の宝石の力はよく知っているらしい。いたたまれなさに視線をそらして小さく頬を掻く。
「い、いや、どうも全然寝てないみたいだったからさ。つ、疲れてるかなーって」
じとっ、と胡散臭いと言わんばかりの視線を突き付けられて、思わず少しだけ顔をのけぞらせてしまった。
「怪しい………………変なことする気じゃなかったのよね?」
「えっと、その…………」
ケンのしどろもどろな反応がミナには少々意外だったようだが、ケンの視線が自分の右手に止まったのを見逃さなかったようで、華奢な右手を持ち上げると、小さくあっ、と叫んだ。すかさず、ケンが抵抗する間も与えずに、素早くケンの胸ポケットに手を滑り込ませて、二つの指輪を奪い取った。
「あ、いや…………これは…………その…………ごめん」
万が一の可能性を考えて、武器は奪っておいた方がよい、と判断したのだが、幻惑魔法を打ち消す光を使えるようになっているようなので、おそらくは大丈夫だろう、とまで考えた、ケンの頭の中は知ってか知らずか、ミナは、ふっと肩の力を抜くと、やれやれ、と小さく首を振って、再びケンを見上げた。
「なんて言うか…………ずいぶん大胆になったわね」
「そう言う君こそ、だいぶ泣き虫になったみたいじゃないか」
え? と小さく疑問符を瞬かせたミナの目から、ぽろり、と真珠の粒が転げ落ちた。わわっ、と小さく叫び声をあげて、慌ててすくい取ろうとするが、とめどなくころころと流れ出すまんまるの雫は、ミナの意志に反して一向に収まろうとはしない。次第に、青白かった頬に赤みがさしてきたのを見て、ケンは思わずふっ、と吹き出して笑いだしてしまった。それを見て、一層顔を赤らめる。
「もう、誰のせいだと思ってるのよ!」
「はは、悪い。…………………いや、ごめんな」
「本当に…………心配したんだから」
そう言って俯いたミナは、うっうっ、と小さく肩を震わせながら、本格的に泣き始めた。ふうっ、とため息をついて、ぎこちなく、そっとその頭をさする。その髪の毛は、乗せた手が滑り落ちてしまいそうなくらいつるつるとしていたが、その冷たさにぎょっとしてしまった。髪の毛ですらこうなのだ。その手はさぞかし…………と思ったときには、左手でぎゅっ、と指先を握っていた。思った通り、刺すような冷たさがびりっ、と手を痺れさせた。しかし、その痺れが薄れるとともに、目の前の小さな嗚咽は静かな吐息に変わっていった。
「…………あれ、時計はどうしたの?」
俯いたまま、じっとケンの左手を見ていたミナが突然尋ねた。
「あ…………それも謝らなきゃいけないな。向こうのミナにあげてきたんだ。貰いっぱなしじゃ悪いからね」
そっと左手を放すと、耳元の宝石を軽くはじいた。つられて顔をあげたミナが、不満げに唇を尖らせた。
「なにそれ、せっかく気に入ってたのに」
「気に入ってたなら自分で付ければよかったじゃないか。あれは僕には似合いじゃなかったんだよ。ミナがつける方がよっぽど似合う」
「自分が気に入らないものを人に贈るわけにはいかないで…………」
「……どうした?」
不意に口をつぐんだミナはいまだ涙のたゆたう瞳を見開いて、まっすぐにケンの顔を見上げていた。
「……いや、私の名前、久しぶりに呼ばれた気がして……気のせいだよね、きっと」
ケンは、ははっ、と力なく笑って、小さく首を振った。
「…………気のせいじゃない、と思うよ。…………僕、長いこと、ミナのことを正面から見ようとしなかった。本当に、長いこと…………ようやく気がついたんだ。我ながら呆れるよ」
「い、いいのよ。私はそれでも」
そう言うミナの言葉に、余計に申し訳なくなって、小さくごめんな、と呟くと、ふと、あることを思いついた。
「そうだ」
きょとん、と不思議そうな顔で見つめるミナの視線をわきに置いて、左耳に意識を集中させると、さっきとは違って、細い紫色の帯が宝石から紡ぎだされると、そのままケンの左腕に絡みついていく。光の帯が途切れ、ひとしきり腕に巻き付き終わると、ぼんやりとその輪郭がとろけて、見覚えのある時計の姿に変わった。
「これでどうかな?」
と言って、左手を掲げてみせる。が、ミナはなぜか再び唇をとがらせる。
「一瞬見えたけど、私には見えないわよ」
「あ、そうなのか…………うーん、武器も召喚できるって言ってたけど、僕の持ってる宝石はこれだけだからなあ…………」
「だから、いいのよ。結局、私に返してくれたわけだし。それにひきかえ私は貰いっぱなしだからなぁ……しかも二つも」
そっとほどいた掌の上の、紅と翠の宝石と、それを取り巻く黄金の輝きを眺めながら、ミナは小難しい顔を作る。
「そうだ、持ってってよ、どっちか一つ」
「えぇっ? 悪いよ、それは」
「いいのいいの。向こうのケンに貰ったんだから、それを返すだけ」
「なんか向こうの僕が不憫だなぁ…………」
「どうせ向こうのあたしが代わりに何かあげてるって!」
「無責任だなぁ全く」
ははは、と小さく微笑んで、ひょいっとケンが持ち上げたのは、翠色の宝石に、黄金の細い筋がツタのように絡みついた指輪。ありがとう、と呟いて、物珍しそうにしげしげと眺める。
「あ、分解とかしないでね、絶対」
冗談めかして付け加えた一言は、しかしケンを大いに動揺させたようだった。顔をそむけて視線を宙に漂わせる横顔をきっ、と睨んで、ふん、と鼻を鳴らす。
「…………図星なの?」
「いや、その、このイヤリングを貰った時、全く同じことを言われたからさ、ミナに」
「…………でも図星なんでしょ?」
「いや……その…………まぁ、そうかな」
「あっきれた!」
はぁっ、と大きく息を吐き出すと、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
「まぁ、そう言わないでくれよ………………間違いなくこれは、僕らが今まで知らなかった技術の塊だし、しかもこっちの世界でもちゃんと機能する。真に調べる価値のあるものだよ。特にこれなんか、人体だけじゃなくって、服まで直してしまうっていうんだからね、非常に興味深い」
そう言って、ケンは分厚い本を広げているときに時折見せる、あの細いしわを眉間に浮かべながら、目を細めて蛍光灯の光に透かした鮮やかな色彩を眺めている。ミナは横目でその様子をちらと窺った後、恐る恐る顔を正面に戻した。
「……何が違うのよ? 人の傷が治るんなら破れた服も直ってよさそうなものじゃない」
「いや、全然違うよ。人間を含む生物の体には自然治癒能力が備わっている。つまり、ある程度の傷なら元あった通りに戻せるように、体の情報が細胞一つ一つにDNAとして保存されている。しかし、生き物じゃない服は別だ。破れたり、焦げたりした時点で元のかたちの情報は失われている。それが戻るってことはだな、熱力学第二法則、エントロピーは増大するという原則に逆らっているわけだ。勿論、無から有が生み出されている、ということにもなる。いや、まてよ、幻惑魔法もそうだったけど、人間のイメージを元に再構築しているのかな……? すると、人の心というのは、決してその本人だけのものじゃなくて、外部から読みとれる、何かしらの情報の塊、ということになる。うーん、こっちの方も、ずいぶんと面白そうだ」
「へ、へぇ、相変わらず小難しいことを考えるのね。でも、指輪を有効に使える人間はかなり限られているのよ? 結局私たちにしか使えないならあんまり意味ないんじゃ……」
「……それなんだけどね、そうとも限らないよ。誰にでも使いこなせるわけじゃない、その理由は、この指輪本体にエネルギーを供給する力がないから、という可能性が高い。まぁ勿論人によってコントロールする能力に差がある、とも考えられるけど、それなら努力次第で成長しそうなものだし。つまり、これが『魔力』なるエネルギーを変換する装置だとするなら、工夫すれば、別にそのエネルギーは魔力じゃなくても、例えば電気とかでも変換できるはずだ。向こうの世界には膨大なエネルギーを産出するインフラがなかったからね。この仕組みが分かって応用できるようになったら、間違いなく世界は変わるよ」
「ちょ、ちょっと、それじゃあ何? あたしやケンは普段から建物一つ吹き飛ばすくらいのエネルギーを纏って歩いてるってわけ? そんなわけのわからないエネルギーなんて本当にあるの?」
「……わけのわからないエネルギー? ……まてよ、宇宙膨張に必要とされる莫大な、正体不明のエネルギー……いや、考え過ぎか…………」
ひとしきり虚空を眺めた後、ふうっ、と一息ついて、視線をミナの顔に戻すと、呆れたような、戸惑ったような、でもほっとしたような、静かな微笑みを浮かべていた。
「全く……あたしはこの指輪は金輪際使うまい、と思ってたのに。よくもまぁそんなこと……さっきあたしを眠らせようとしたときもそうだったし」
「いや、僕は最初っからこいつを活用するつもりだったよ? ひょっとして、こちらにやってきた僕の存在が、誰かに知られているかもしれない。そういう人たちの記憶は消しておかないと、あと後面倒そうだし」
「ちょ、ちょっと、それで記憶全部吹き飛ばしちゃったりしたらどうするのよ! 取り返し付かないわよ」
「まぁ大丈夫だよ、きっと。向こうでも、ぶっつけ本番で失敗したことは無かったしね」
「ほんとに、ほんとに、呆れた……」
ミナはそう言ってかがみこむと、倒れた椅子を起こして、その背もたれの上にちょこんと腰を預けた。ケンも、軽く腕を組んで、教室の背面黒板に寄りかかる。二人の間を、日の出とともに少し冷たさの緩んだ朝の風が通り抜けた。しばし訪れる静寂。
ケンは、軽く握った左手を胸の高さまで持ち上げて、そっと開いた。その奥から零れ落ちる、翠と金の輝き。どうしたものかな…………と、心の中で呟いて、じっと眺める。その時、ふと思いついて、おもむろに右手で指輪をつまみあげると…………
「ちょ、ちょっと、何してるの?」
ふと目線をあげたミナは椅子からずり落ちそうになって、ぶらぶらさせていた足を慌てて床に押し付ける。その目の前で、ケンは指輪をはめた左手をそっと顔の前まで持ち上げ、緊張した面持ちでじっと見つめた。その、薬指にはめられた指輪を。
胸の奥からこみ上げてくる熱で、息が詰まりそうになった。大きく息を吐き出したかったが、どうにか堪える。できるだけ表情に現れないことを願ったが、今までに体験したことのない気恥ずかしさに、顔の少し火照るのはどうしようもなかった。それをごまかすかのように目の前の指輪に視線を集中させる。今ミナの顔を見ることはできそうにない。
指輪を見つめたまま、波打つ鼓動に揺さぶられながらも、なんとか左耳へと意識を向ける。あふれ出す紫色の光はたどたどしくぎこちなく、途切れ途切れになりながらも、微かに震える左手の薬指に巻きついていく。集中が足りないせいか、中々うまくいかない。陽炎のようにその光を揺らめかせる指輪は、徐々にその輪郭を朧にしていき、しばらくして、ようやくその姿を消した。
「だ、だから、そんなことしても、私には見えるんだってば…………」
目に見えて慌てるミナの言葉に少しだけ勇気づけられて、ふっと微笑みを洩らすと、途切れないように、あらかじめ用意した言葉を一息に言い切った。
「でも他の人には見えない。だから、二人だけの秘密だ」
黒板から背中を離して、そして、ミナの顔を見た。耳まで真っ赤になった顔はまっすぐケンに向けられ、大きく見開かれた瞳の奥で薄青の光が揺らめく。息を大きく吸って持ちあがった肩はそのままの位置で止まり、への字型にきつく結ばれた唇が懸命に空気を押しとどめている。ケンは、そのまま一歩近づいて、止まる。
「ミナ………………」
「はい……」
お互いかすれるような声を投げ合って、その視線が絡まり合う。ケンの顔もきっと赤みを増しているのだろう、さっきから高鳴る鼓動がぎこちない静寂に覆いかぶさっている。そしてそれは、明らかに加速していく。
「あのさ…………」
鼓動が最高潮に達したその瞬間、沸き起こってきた熱に喉が押しつぶされた。胸がぎゅっ、と詰まって、息すら吐き出すことができない。どうにか口を開いて声を出そうとしても、強張った舌はなかなか言うことを聞かない。あと、たった三文字、言わなきゃ、と思うたびに、どくん、と激しく突き上げる鼓動が胸を焼き切るかのように疼く。ふぅっ、と大きく息を吐き出して…………
「…………やめた」
ぽつり、と呟いて、いつものように緩やかに口元をほころばせると、全身の焼けるような痛みは、一度強烈な痺れとなって駆け巡り、次第に小さくなっていった。
「え…………?」
ぽかん、とした表情で、小さく口を開いたミナの肩は激しく上下して、体中の熱を懸命に吐き出しているようだった。ケンは、小さく肩をすくめて見せる。
「僕にはまだ早いみたいだ。まだ次の機会まで取っておくさ。この言葉は」
「何なのよ、もう!」
はぁっ、と盛大にため息をついて、顔をあげたミナは語勢とは裏腹に、どこか安心したような苦笑いを浮かべていた。強張った体に入る力も少し弛んだようだ。
「だからさ、」
今度は、確かに、力強く、一歩踏み出し、両手を大きく広げて…………しかとミナの体を包み込んだ。
びっくりした。
再び、息が詰まって、全身がぎゅっ、と縮こまった。咄嗟に押しのけようと、両手が腰のあたりまで持ちあがったとき、しかし、体を支える糸が切れたかのように、だらり、と腕が垂れ下がった。
とくん、全身から伝わる、暖かい音色に、全身が形を失って融けていく。とくん、もう一度鳴り響いた鼓動に、はっ、と我に返る。とくん、その一音一音を確かめるかのように、そうっ、と肩に頬をすりよせて、目を閉じる。じわり、と穏やかなぬくもりが体を包み込むと、時間の流れが急に遅くなって、まるで、春風を浴びて、小川のせせらぎを船で渡っていくかのような、ゆったりと、心地よいひととき。胸のどこかで疼いた、もっと、という言葉に、糸の切れた両腕が小さな力を与えられて、そっとケンの背中にまわされる。
それならそれで、いい。
でもね。私のこころは、とっくに決まってるよ。
重いまぶたを少し持ち上げ、背中に回したままの右手をそっとほどいて、その中の指輪を、手探りで左手に移す。そのまま、強弱を繰り返す意識を、左耳に向ける。そこには、ケンの左耳からぶら下がった紫の光が、ちらちらと瞬いている。そこから、か細い、糸のような紫色の光が紡ぎだされて、ぼんやり霞む視界の外で、左手の薬指に巻きついて、紅と金の光を覆い隠す。これで、あたしの指輪は、ケンにも見えない。いつか、その言葉を聞くときまで、秘密にしておこう。
直後、まぶたがとろりと重くなった。物理的には、決して朝の冷え込みを忘れさせるほどの温度ではない。しかし、柔らかいこころという臓器に、じんわりと沁み込んでいく暖かさは、何よりも心地よい。ミナは、自分の存在を忘れた。体はとうに空気に溶け込んでいる。いや、その溶け込んだ欠片は、全てケンの体にせき止められて、包み込まれていた。そのうち、ケンの存在も空気に溶けていくような気がした。二人は溶けあい、混ざり合う、恍惚とした感覚の中、ミナはゆっくりとまどろみに溺れていった。
これだ。
目を閉じて、かき抱いた体から、ふつふつとわき起こる流れは、穏やかで、暖かく、清らかで、どこまでも澄んでいた。水草一つない透き通った泉の、波一つ立たない鏡のような表面をすくい取って、そよ風になびかせたような流れ。それは絹のようにつややかで、滑らかで、そう、肩口から首筋にかけて絡みつく、ミナの黒髪のようだった。
これだったんだ。僕が欲しかったのは。
その流れは、十数年間何人たりとも開くことを許さなかった、難攻不落の扉をやすやすとすりぬけて、胸の中に眠る硬い殻につつまれた空虚を、溢れんばかりに満たしていった。
きれいだ、そして、いとおしい。
ミナの背中に回した手に込める力が、わずかに強くなる。何のことはない、あれほど、無意識に欲していた『何か』は、ごくごく近くにあった。ケンはそのとき、思わず涙が滲んだのに気がついた。鼻を少しひくつかせて、うっすらと目を開けると、ミナが自分の背中に手を絡めてくるところだった。途端、清らかな流れは一層その強さを増した。こころの奥底から湧きあがる充足感に、思わず声にならないため息をつく。これは、この流れはなんだろう。僕にはわからない。わからない、けど、それでもいい。結局、あの言葉は言えなかった。でも、それでもいい。
充分だ。今の僕には、これで…………
いつしか、無限とも思えた、恍惚とした時間は、しかしあっけなく過ぎ去っていた。気がつくと、ミナはケンの腕の中ですやすやと寝息をたてていた。ぱっ、と少し顔に赤みがさすのを感じたが、しかし、その寝顔のあまりのあどけなさに、ついついふふっ、と微笑んでしまう。ミナの体を両腕でしっかり支えながらも少し離すと、肩に降りかかっていた黒色の滝がばらばらっと流れ落ちた。その一本一本が、名残惜しそうに、最後まで肩に纏わりつこうと、明確な意志をもって抗っていた。
ふと、窓から外をのぞくと、雲ひとつない青空が広がっていた。夏の訪れを思わせる、水に濡れたような、透き通る濃紺の空。それはどこまでも透き通っていて、まるで、あの瞳の中を覗いているかのようだった。こんな空を見るのは、いつ以来だろう。見上げた空は、自らの表情を写し取って、微かに微笑んでいるように見えた。
隣の席のファンタジカ 八枝ひいろ @yae_hiiro
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