悪夢とサリサ・3


 手に拒絶の痛みを感じていた。

 さすると心まで凍りつく。

 この手は、おぼえている。

 指先が柔らかい肌に食い込んでゆく感覚を。その生温かさを。

 その手に力を込めた時の我が身のおぞましさを。その恐怖を。

 おぼえている。

 そして、忘れることはない。

 自分の手の中で、命が消えてゆく、あの感覚を。


 サラの骸の一瞥で、エリザは自分のしたことに気がついて、恐怖した。

 悲鳴を上げて逃げ出したが、走っているのか、泳いでいるのか、ただその場でもだえているのか、わからなかった。

 ただ、無我夢中で大きな声で叫びながら、救われたい一心で逃げ惑っていた。

 赤黒いどろどろとした激流。

 気がつくと、エリザはその中でもだえ苦しんでいた。いくら手を伸ばしても、足で蹴っても、前にも後にも進めない。

 まさに溺れ死ぬのだ……と思った瞬間に、エリザはかすかな銀の光を見た。


 ――ああ、サリサ様。

 どうか、助けてください。


 光はほんのわずかであったが、すがるに充分の明るさがあった。

 エリザは、自分の行くべき方向を見いだすことができた。必死に手足を動かして、光を目指した。

 そして、手を伸ばし……。

 最高神官は、エリザの手を払った。

 わずかな希望に突き放されて、エリザは放心のまま、水底に落ちていった。

 なぜ? という疑問には、内から答えが湧いてきた。

 当然のことだろう。


 ――だって……私の心は汚れているから。


 次に気がついた時。

 エリザは、砂の上に座り込んでいた。

 いつからそこにいたのだろう? わからない。

 ずっといたのかも知れないが、気がつかなかっただけなのかも知れない。泣き続けていたのかも知れないが、すでに渡る風が涙を乾かしていた。

 エリザは、恐る恐る風景を見渡した。

 黄土色の空の下、灰色の砂漠が広がっている。

 果てがないほど広い。風が渡っていくだけだ。

 そこに、たった一人でずっといる。風に吹かれて、ずっといたのだ。

 いや、一人ではない。

 エリザの横には、サラが殺されたままの形相で、骸となっているのだから。

 風が渡り、地表に文様が浮き上がる。そこに、命の欠片が落ちている。 

 たった今、息絶えたばかりのサラは、ムテの死――すなわち、骨と化してゆく。

 エリザは、それをただ見送るだけだった。

 恐怖はない。なぜか、虚しいだけだった。

 この広い砂漠は、ムテのなれの果てなのだ。さらさらの砂一粒一粒が、かつて命だった。

 いったい、どれだけ多くの悲しみや苦しみが、この砂漠を生み出したことだろう? エリザには想像もできない。

 そして、やがて自分もその砂と化して、この風景の一部となるだろう。

 あまりにも簡単に、エリザはその運命を受け入れた。

 

 ――邪な私を無にする時がきたんだわ……。


 だが……。

 背後に人の気配がした。

 振り返らなくても、エリザにはその人が誰なのか、わかる。

 一番、この場所に来て欲しくなかった人だ。

 一番、自分を見て欲しくなかった人だ。

 ただ、消えればいい……というものではないらしい。ちゃんと罪を告白せねば、消滅することも許されないらしい。

 哀れを通り越して、自分をあざ笑いたくなってきた。

 ふと目を落とした先、サラであったものが風に吹かれて消えてゆこうとしていた。

 エリザはそっと手を伸ばし、砂を握りしめた。

 その感覚は……忘れない感覚。苦しみをはらすための心地よい感覚だ。

 手の中の砂が、きりり……と、かすかな音を立てた。



「サリサ様……」


 サリサは、名を呼ばれて歩みを止めた。

 必死に悪夢を乗り越えてたどり着いた場所は、何とも異様で空虚な場所だった。

 砂丘の上に、エリザは放心状態で座り込んでいる。

 サリサは、言葉をなくしていた。

「サリサ様、見て欲しくなかったのです。あなたにだけは、私の汚い心を……」

 砂を掴んだエリザの指先から、砂がさらさらとこぼれ落ちた。

 その砂が何なのか、サリサはすぐに気がついた。


「私、サラを殺してしまった……」


 

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