悪夢とサリサ・2


 赤黒くどろどろとした液体の中、サリサはエリザの手を握ったまま、立ち尽くしていた。

 果てが見えないほどの、赤黒い大河だった。見上げる空は重々しい灰色の雲が渦を巻きながら、まるで川の水のように踊って見える。

 上を見ても下を見ても、翻弄されて酔いそうだ。

 サリサは、肩で息をしていた。

 一瞬止まった心臓は、再び激しく打ち続けている。

 意外と臆病なサリサだが、身にこれほどの恐怖を感じたのは、初めてかも知れない。

 この赤黒い液体は……まるで血、それとも……エリザが吐き出しているものか?

「サリサ様まで、汚したくはなかったのに……」

 エリザが隣で呟いた。

「こんな汚れた私を、見られたくはなかったのに……」

 そのか細い声を聞いていると、サラの声に動揺してしまった自分が情けなくなった。

 この手を引いて、赤黒い川を渡り、霊山に戻らなければならない。

 二人で渡り切らねばならない試練なのだ。

 大丈夫ですから……と声をかけようとして、サリサは詰まってしまった。

 エリザらしきものは、赤黒い液体を頭からかぶっていて、顔も判別つかない状態だった。握っているサリサの手も、どろりとした赤いもので汚れてゆく。

「サリサ様まで……汚したくはなかった」

 エリザがそう呟いたとたん、同時に口からどくどくと赤いものが飛び出してきた。

 一瞬、ひるんでしまった。

 でも、たとえどんなに汚れていても、この身が汚れようとも、エリザを連れて戻らなければならない。

 自分まで、この夢の恐怖に囚われてしまうわけにはいかない。


 二人で堕ちるために、ここに来たわけではない。

 二人で戻るために、ここに来たのだ。


 サリサは、最高神官の白い衣装の袖で、エリザの顔を拭った。

 しかし、エリザはうつむいて小さな声でささやいた。

「サリサ様は、私がお嫌いなんだわ」

「まさか……なぜ、そのようなことを……」

 この汚物に一瞬でもひるんだのを、エリザは察してしまったのか? うつむいたまま、悲しい声で訴える。

「私だけ愛してくれないのなら、愛していないのと同じだわ」

 想いもよらない言葉。

 サリサは戸惑いながらも答えた。

「あなただけを愛しています」

 赤黒く汚れた顔を上げ、エリザはほんの少し妖しく笑った。

「では、約束に口づけして……」

 ねっとりとした髪に触れ、サリサはエリザの唇に唇を重ねた。

 嫌な苦い味がした。

 サリサの髪も、やはり赤黒く汚れていった。

 ふと、エリザだと思っていた存在の顔を見て、サリサは驚愕した。

 サラが、高らかに笑ってた。


 思わず突き飛ばしてしまった。

 突然激しく河が踊る。

 轟々と水がしなるように暴れる。

 サラの体は、赤黒い汚水の中に落ち、激流に巻き込まれていった。

 手が、足が……。そして、時に顔が。

 何度か水から姿を現しては、再び水にもまれて見えなくなる。

 サリサの目の前で、サラはみるみるうちに老化していった。


 ――サラの絶叫が川面を渡った。

 いや、それは引きつったような笑い声。


「サリサ様! どうか、サリサ様!」


「やめろ!」

 サリサは思わず悲鳴を上げて、赤黒い液体の中に膝をついた。

「お願いだから……サラ、もう許して欲しい……」

 この苦しみから逃れたい。

 がんがんと頭がやみ、目から涙がボロボロとこぼれた。

「……僕だって……どうしていいのかわからなかったんだ……」

 川の中から手が伸びる。

 ぎょっとする間もなく、サリサの衣装を握りしめる。


 ――サリサ様……。


 うわっ! と叫んで身をひいた。

 思わず手を払う。


 ――サリサ……様?


 大きな瞳が見開かれた。

「エリザ?」

 女の姿は、川の中に沈んで行った。

「エリザ? エリザ?」

 サリサは半狂乱になって、川の中をあさり始めた。


 


 

 霊山では、眠り薬の切れた仕え人たちが、許可もなく最高神官の秘所に入り込んでいた。

 リュシュが助けを呼びに走ったからである。

 やっと動き出したサリサの心臓は一定せず、医師と癒しの者が付きそっていた。

 最高神官の仕え人が湯たんぽを作り、そのひどい臭いは辺り一面に漂っていたが、誰も気にする者はいなかった。

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