エリザと悪夢・5


 そのような事件があったというのに、サリサはいつものように夕の祈りをこなした。

 精神的な動揺はあっても、霊山という慣れた場所がうまく力を引き出してくれるのだ。唱和の者たちの気も一つになっていて、最高神官を助けてくれる。

 しかし、いつもと違ったのはその後だった。

 夜になっても、仕え人がその場を後にしない。もう着替えも終わったし、あとはサリサの時間であるというのに。


「今夜は、恐れ入りますが側にいさせてもらいます」

 彼女は胸に手をあてた。これは、礼を尽くすという意味であるが、有無を言わせない気迫がある。

 狭い部屋を仕切った壁の前で、サリサは歩を止めた。仕え人は、小さな椅子を引き出した。サリサがベッドに入ったら、その椅子に座ったまま、夜明かしすつもりらしい。

「どうしたのです? 下がっていただかないと、この狭い部屋では気になって休めません」

「私が下がると、サリサ様はエリザ様を癒しに行ってしまいます」

 薄闇の中、彼女は仕え人らしい紙切れのような表情で、ぴしりと言った。

 確かにそのつもりだった。

 子供も大切だが、エリザはもっと大切であるサリサにとって、この事態は許しがたい。しかも、誰かが毒殺をもくろんでいるのでは? となると、医師も癒しも誰もかも信じられなくなっていた。

「寝ずに私の見張りですか? それを何日続けるつもりです? あなたが倒れてしまいますよ」

「明日は、サラ様の仕え人が代わりにまいりますゆえに」


 ……。

 あきれた。


 どうやら、エリザ派・サラ派入り乱れて、この件に関しては心一つらしい。

 子供の命を救うために、エリザは犠牲になっても仕方がないという意見なのだ。

 出産までには、あと半年。あまりに長過ぎる。

 エリザを回復させるため、最高神官の手を煩わせる以外の全ての方法を試みてはしくじり、やるべきことはもうなくなっていた。

 まさにエリザも赤子の器となって、寿命を終える運命にあるのかも知れない。

 医師と癒しの者を含め、仕え人一同、親子共々命を失う危険を犯すよりも、せめて、子供だけを助けるつもりだ。

 だが、サリサは納得できない。


「あなたは、エリザに薬草の知識を教えたではありませんか? その後も我々の気持ちを察してくれていた……。それが、なぜですか? あなただって、エリザを殺したくないはずです」

 サリサの仕え人は、かつて薬草の仕え人である。霊山での薬草管理を一手に引き受けていた。そして、エリザの先生でもあったのに。

 しかし、彼女はひとつも表情を変えることなく言った。

「巫女姫は、子を育む器でしかありません。大切なのは器ではなく、中で育つものです」

 表情が変わったのは、サリサのほうだった。ぴくりと眉が痙攣する。

「エリザを……ただの器だと?」

「巫女姫はそうあるべきです」


 ――そして。

 最高神官は個であってはなりません。神のごとき存在でなければ。

 そうあって初めて、人々の心に平安をもたらす存在であり得るのです。


 サリサの頭の中に、マサ・メルの言葉がよみがえってくる。

「そして、最高神官は私情など持たない、心など持つべきではないと?」

「霊山の……いえ、ムテの誰もがそれを望んでおります」

 胸に手をあてたまま、仕え人は頭を垂れた。

 サリサは、小さく息をつき、天井を見上げた。

「よくわかりました」

 サリサはベッドに向かわなかった。再び謁見の間にある窓辺に歩み寄り、しばらく外を見ていた。

 そこからは、サラが住んでいた小屋が見える。それと、かすかな蝋燭の明かりで反射する仕え人の蒼白な顔が。

 そう、彼女にしても、エリザの死を望んでいるわけではない。ムテのために、そのような感情を捨て去ろうとしているのだ。

 この世に生ある者で感情に心動かされない者がいるだろうか? しかし、感情は時として不公平であり、わがままであり、私欲に繋がる。

 ムテの聖職者として個を捨てた者であれば、感情で物事を決定するのは悪である。

「マサ・メル様の遺志を引き継いで、朝夕に祈ってきた私です。最高神官というものが、ムテの人々にどれだけ希望になり、支えになってきているかもよく知っています。そして、あなたたち仕え人たちが、すべてを捨てて尽くしてくれることに感謝しています」

 ややほっとした仕え人の表情が、硝子の窓に浮かび上がった。

 サリサは、そのまま窓に向かって話し続けた。

「巫女姫が神官の子供を宿す器ならば、最高神官もムテの神を宿す器でしかありません。滅びの悪夢から希望をすくって入れておく器です」

「尊きお方……」

 やや震えた声で、仕え人は言った。

「サリサ様、まさにその通りでございます。霊山に最高神官がおられる。ただそれだけでも、我々ムテ人には救いになるのです。絶望という死に至る病から」

 サリサは振り向き、微笑んだ。

「せいぜい、長生きできるように気をつけます。皆さんのために。でも」

 ふと、仕え人が顔を上げたわずかな隙だった。

 サリサの手は、彼女の眉間に触れていた。

「でも、それってずるいと思いませんか?」

 その質問に、仕え人は答えなかった。

 フィニエルに比べれば、彼女は遥かに力が弱い。一瞬の隙をつき、暗示をかけたのである。


 力はすべてムテのために……。

「冗談ではありませんよ。全く……」

 サリサは、放心状態の仕え人の横を抜け、部屋を出て行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る