エリザと悪夢・3


 エリザは闇の中にいた。

 まるで祈り所のような暗さで、なぜ自分がそこにいるのかもわからないままに。

 何かがおきて、何かを忘れた。

 ぼんやりとそのようなことを考えた。


 ――いい子のふりはおよしよ、偽善者め。


 闇のどこからか声がして、エリザはぎくりとした。

 目の前に格子窓がある。

 そこから見えるものは、エリザが見たくないもの、忘れ去りたいもののはずだ。


 ――卑怯者。真実から目をそらしてばかりね。


 再び声が響く。

「私は、偽善者でも卑怯者でもないわ! ただ、巫女姫を全うしたいだけ」

 エリザは闇に向かって叫んだ。

 それこそが、自分が長年抱いていた夢。

 神官の子を生み育て、村に癒しを与える巫女。それ以外に何もない。

 闇の声は、くくく……と笑う。


 ――嘘つきね。私にはあなたの心が見える。邪心が蛇のようにのたうちまわっているのがね。


 違うと言いたいのに言えない。

 喉元が締め付けられるように苦しくなり、声が出ない。何か苦いものが上がってきて、喉に詰まったようなのだ。

 エリザは吐き出そうとして、再びそれを飲み込んだ。

 それは、自分の中に封印し、けして表に出してはいけないものだった。


 ――吐き出せるはずがないわよね。それを見られたら、最高神官に軽蔑されてしまうわよ、きっと。


 声の主は、エリザの思いをそのまま代弁してくれた。まったく、ありがたくないことだった。

 我慢ができないほどに吐き気がする。


 ――あなたは言ったわね。私と仲良くしたいって。ええ、そうね。前言撤回してあげる。今になってはっきりわかる。あなたと私はとても似ているって。


 エリザはごほごほと咳をした。

 その瞬間、体中の中から汚いものが逆流して戻してしまった。次から次へと、赤黒く淀んだドロドロしたものが口から出てくる。

 あまりの気持ち悪さに、エリザは放心し、再び吐いた。

 声の主は甲高く笑った。


「……サラ様?」


 その笑い声で、エリザはやっとその人を思い出した。

 忘れて、絶対に思い出したくなかったサラのことを。


 エリザの両手は、赤黒く汚い吐瀉物で染まった。激しく吐いたので、涙も出ていた。

 誰かの手が闇から伸びてきて、涙や口元を拭こうとしたが、エリザは恐怖におびえて振り払った。

 そして、さらに闇の向こうへと逃げようとした。

 そこには格子窓がある。エリザは指を絡ませて、必死に窓を外そうとした。そこから出られれば、再び光のある方向へと行けるはず。

 確かに向こうはぼんやりと明るかった。


 その光は……。


 銀のムテ人が発するかすかな光。そして繋がれた手。

 エリザは大きな目を更に大きく広げて、瞬きも忘れてその二人を見た。

 絡まる指先、絡まる髪、絡まる肢体、吐息。

 だが、その人と繋がったはずのエリザの指は、ただ檻のような窓の格子に絡み付いたままである。

 エリザの中に命を宿した時と同じ行為が、目の前で繰り広げられている。

 もう吐き出すものはないはずなのに、エリザの口からは更に黒いものが飛び出してきた。

 サリサに抱かれている女はサラだった。

 サラは、恍惚とした表情で彼の愛を受けていた。半開きの口からは、いやらしい声が漏れた。そして半開きの目が、エリザをとらえた瞬間。

 彼女は笑った。


 ――私は、巫女姫になる為に生まれた女。これは、仕事。


「い、嫌っ! 嫌!」

 エリザは格子窓を思い切り叩いた。そして、力一杯握りしめ、何度も外そうと揺すった。

「サリサ様! サリサ様!」

 ごほごほと吐きながら、エリザは叫んだ。

 だが、最高神官はまったく聞こえないがごとく、サラを愛することに没頭している。

 それはまったくエリザにした行為と寸分違わず……。

 ついにエリザは目を伏せて悲鳴を上げた。

 白い胸を広げたまま、サラは高らかに笑い出した。


 ――私だって、巫女姫としての使命を果たすのよ。あなたはそのまま、山を下りて癒しの巫女になればおしまい。それがあなたの望みでしたわね?


「嫌よ、やめて!」

 声はエリザの悲鳴を無視した。


 ――でも、私はまた巫女として何度でも霊山に戻るの。そして、何度でも愛を重ねる。サリサ様の心は、私がいただくの。


「違うわ! 最高神官は神のごとき存在ですもの。誰か一人のものになんてならない!」

 必死にエリザが叫ぶと、サラは更に甲高く笑った。


 ――ええ、あなた一人のものではないわ。あなたは優しくてつつしまやかでいい人だから。だから、しっぽを振って山下りすればいい。

 でも、私はもっと正直に自分を出すわ。私は、サリサ様と愛し合うために生まれてきたのだから。


「嫌ーーーーっ!」


 

 指先で格子がくだけた。

 気がつくと、エリザの指先はサラの首にかかっていた。

 いつの間にか、サリサの姿は消え、闇にサラとエリザの二人だけになっていたが、エリザは全く気がつかなかった。

 ただ、サラの首元に残った赤い痕を見つけ、そこにサリサの面影を見た。

「違うわ! サリサ様はムテの最高神官で珠玉の方だからっ! そんなこと、許されない!」

 その印が消えるほどに、エリザは指をサラの首に食い込ませた。


 消さなきゃ!

 邪な想いを抱かないように消さなきゃ!

 それじゃないと私、もう生きてゆけない。 


 格子を握りしめたように、サラの細首を締め付けると、彼女の瞳は裏返った。その陶酔にもにた表情が、先ほどの愛の行為を思い出させ、エリザをますます追いつめた。

「くくく……」

 苦しみとも笑いともとれる声をサラは漏らした。

 あざけ笑われたとエリザは思った。さらに指に力が入り、そのままこわばって緩まなくなった。

 ついにサラは泡を吹き、かっと目を見開いて叫んだ。


「サリサ様! サリサ様!」


 その声を聞いて、エリザは我に返った。

 指先から力が抜けた。

 頭の中に響いたサラの断末魔の叫び――まさに鮮やかに、いや、それ以上に残酷さをもって、エリザの記憶によみがえった。

 指先に死の感覚が残っている。

 エリザはよろよろと崩れ落ちた。

 しかし、その足下には既に息絶えたサラが、老婆のような姿で転がっている。

 呆然としながら、エリザは自分の手を見つめた。

 赤く染まっているのは、格子を破ったときにけがをしたせいか、それとも自分が吐き出した汚物のせいかわからない。

「わ、私……。何をしたの?」

 思わず呟いた。

 すると、死んでいるはずのサラが、ひっくり返ったまま答えた。

「私を殺したのよ」



 八角の部屋に悲鳴が響いた。


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