サラと毒・6


 ――最高神官のために生まれてきた――


 悲痛な声が脳裏に響いた。

 それは、まさに断末魔の悲鳴。


「……サリサ様! どうか……サリサ様!」


 身の毛も逆立つような恐ろしい映像が、エリザの目の前に稲光のようによぎった。

 雷に打ち抜かれたような衝撃――。

 サリサが鏡写しのようにはっとした表情で固まっていた。

 心臓が一瞬止まり、慌てて激しく打ちはじめる。冷や汗が噴出した。


「……あぁあ……」


 小さな悲鳴を上げたとたん、サリサが強く手を握り締めた。

「何も見ていません! 何も感じてはいけない!」

「でも! でも!」

 更に強く、痛いほどに手が握られた。

「今のことはすべて忘れて! 思い出さないで!」

 

 でも……。

 できない! と思いつつ、エリザの記憶は混濁していった。

 最高神官の強い暗示を感じた。

 心の奥底を鷲掴みにして、無理やり引き裂かれたような、乱暴で優しくない暗示。

 相手に対する敬意を感じさせない、ただ屈服させるような……。

 対等に向かい合っていた分、余計に残酷な行為だった。


 ――すべて忘れて……思い出すな!



 その瞬間に見えた映像は、川の流れに打ち広げられた白い髪と痩せこけたサラの姿。

 サラは老いたる姿になっていた。あの白く美しい手は水面から棒のように突き上げられた。

 必死に助けを求めて叫んだ瞬間、彼女は骨となり、あっという間に灰となり、川の流れに消え去っていった。


「……サリサ様!」


 その声が耳に残り、離れない。

 鮮やかな映像が目の奥に焼き付いて離れない。


 ――いったい何が? 何が起きたの!

 忘れなさい!


 忘れろといわれても、忘れられない。

 あまりにも鮮明な絵。あまりにも悲痛な叫び。


 ――何が起きているの!

 すべてを忘れて、思い出すな!


 有無を言わせない強すぎる最高神官の命令。それは、暴力とも言えた。

 エリザは暗示に抵抗しつつ、その力に屈した。

 最後まで、サラの声を聞きながら、ついに意識を手放した。




 興奮したエリザがサリサの暗示に屈して眠りについた時、ちょうど医師とリュシュが戻ってきた。

 小さな部屋の中に緊迫した気が充満していて、二人は一瞬ひるんだようだ。

 サリサはふっと息を吐き、立ち上がった。

「い、いったいどうしたのです? サリサ様」

 リュシュが恐る恐る声をかけた。

「ちょうどいいところに来てもらえました。エリザをお願いします」

 医師は、胸に手を当てた。

 足早に部屋を出て行くサリサを、リュシュは慌てて追いかけた。

「サ、サリサ様。何か、私、失敗しましたでしょうか?」

 小屋を飛び出した後も、小走りになってリュシュは追いかけてきた。



 秋晴れでまぶしいほどの日差し。

 この伝書の言葉をサラから受け取らなければ、最良の日といえただろう。だが、今日はサリサにとって、最も辛い日になりそうだった。

「サラが……おそらく死にました」

「ひゃっ!」

 リュシュは小さな悲鳴を上げた。

「これから仕え人を召集して、サラを探しますが……あなたはエリザについていてあげてください」

 こくこくうなずくリュシュを残して、サリサは山道を急いだ。


 伝書言の葉は、サリサに向けられて放たれた。

 その想いのすべてを受け取って、サリサは驚愕した。

 彼女の切ない心は、死の翼を持ってサリサの胸の奥にまで突き刺さったのだ。抜け落ちない鋭い矢羽根となって。


 しかも……。

 同じ傷をエリザにも与えた。


 偶然にも言葉を受け取った瞬間、エリザとサリサの心は極めて近い状態にあった。それが災いした。

 まるで落雷が流れるように、サラの断末魔の悲鳴がエリザにも伝播してしまったのだ。

 同じものをエリザとサリサは見た。そして感じた。


 確かに、気も狂わんばかりの思いが、痛みとなってサリサを貫いた。

 だが、エリザも同時に傷を負ったために、サリサは自分を保つことが出来た。


 ――エリザに強い動揺を与えてはならない!


 エリザと子供を救わなければならないという一心で、どうにか踏みとどまれたのだ。

 やっと心を無防備にしてさらけ出してくれたエリザを、まるで手のひらを返したような仕打ちで押さえ込んだ。

 あまりに痛すぎる傷を、エリザに負わせることはできない。サラの悲鳴は骨と化すまでサリサを苛み、同時にエリザを苦しめるだろうから。

 エリザにかけた暗示は強い。だが、暗示というものは、本来弱いものだ。

 矛盾を見つけてつけば、どのように強い暗示でも簡単に解けてしまう。

 サリサは痛む胸を押さえて、顔をしかめた。


 ――願わくば、エリザが一生、この暗示から覚めぬよう……。



 霊山の仕え人たちの大部分が、サラを探しに霊山を歩き回った。

 サラは見つからなかった。最高神官が示した場所に、死にかけたサラの子供ルカスを発見し、それで捜索は打ち切られた。

 川中に浮かぶマント。岸辺に打ち上げられた皮袋。

 誰もが、サラの死を確信したのだった。

 しかし、その死を悼むよりも神官の子供ルカスの命を救うほうに、霊山のすべては注がれていた。

 元々ムテは、最高神官以外の者の葬儀を執り行わない。ただ、去るのみだからだ。

 死を直視したがらないこの種族は、他族からすると死者に薄情とも言われているが、それだけ死を恐れているとも言えた。

 他に類を見ない癒しの業や医学が進んでいるのも、そのせいである。


 ルカスは八角の部屋に運び込まれ、癒しが行われた。

 変色しかけて、呼吸も時々途切れたが、霊山を上げての看病が効を奏した。夕方までにルカスは峠を越し、やっと霊山に落ち着きが出てきた頃だった。


「医師の者をエリザ様のほうから戻し、ルカス様につけたいのですが」

 サラの仕え人だった者――彼女はかつての唱和の者であり、エリザとは敵対している――が、提案し、サリサはそれを承諾した。

「……それと、巫女姫の仕え人を尋問させていただけませんか?」

「どういうことです?」

「実は……」

 サラの仕え人は、小さな袋と中に入っているお菓子を取り出した。

「ルカス様に毒を盛ったようです」

「まさか!」

「この菓子から、毒が……」


 ルカスが何らかの原因で意識不明になっているのは、サリサにもわかっていた。だが、まさか毒を盛られているとは、思いもしなかった。

 しかも……。

 サリサは気が遠くなりかけた。

 このお菓子を作ったのは、リュシュではない。エリザだ。

 エリザが、リュシュの手を借りずに作るといって……何度も失敗したところを、サリサは見てきている。その日々を、楽しく過ごしてきている。

 あの笑顔、あの健気さに……なぜ、子供を殺そうなどという邪心が入るのだろう? ありえない。

 子供好きで、必死にマリを救おうとしたエリザが、なぜ、ルカスを殺そうとするのか? ありえない。

 だが、この状況下では、事実があからさまになればなるだけ、エリザが疑われてしまうことになるだろう。

 エリザの名前を出せない。

「菓子から毒が出たからといって、なぜ彼女を疑うのです?」

「このような物を霊山で作るのは、巫女姫の仕え人だけでございますし、ミキア様の時代から、あの方はサラ様を嫌っておりましたゆえ」

 サラの仕え人とリュシュは、ミキア対サラの頃から仲が悪かった。

 もちろん、世を捨てた仕え人同士、目に見える嫌がらせなどはなかった。だが、何かあったら疑心を抱くのが当然だろう。

 しかも、神官の子供を殺そうとしたのだとしたら……。

 犯人はムテを追放されることになる。

 サラがミキアの子供を戸棚に隠したときは、大事になるのを恐れ、皆でうやむやにしたのだが、今回は無理だ。

 サラが死んでいる。ルカスが死に掛けた。

 犯人を許すわけにはいかない。


 ――でも、犯人がエリザやリュシュであるはずがない!


 しかし、物的証拠を見ても、かなり不利な状況である。さらに、どの仕え人たちよりも、サリサが一番その事実を把握しているのだった。

 どうにかこの事実を隠したい。


「尋問なんて……今はそれどころではないでしょう」

「ですが、サリサ様。暗殺に失敗したのですから、もしかしたら証拠隠滅される可能性もあるのです。巫女姫の仕え人の拘束を望みます」

 公平な立場から、それを断ることは出来ない。

 だが……リュシュは濡れ衣だ。

 お菓子を作ったのは、エリザなのだ。サリサは、それを知っている。

 とすれば……尋問されるべきは、エリザだ。

 でも、今、エリザに負担を掛けることは……。

 頭の中がぐるぐる回る。

「巫女姫の仕え人への尋問を許可します」

 内心、リュシュにすまないと詫びつつ……サリサは、そう言うしかなかった。

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