サラと毒・5
――聞いちゃダメ……。
そんな最高神官であるはずがない。
そんな最高神官であってはならない。
エリザは必死に自分に言い聞かせた。
このまま、サリサの告白を聞いていたら、きっと邪悪な妄想にとらわれて後々酷い傷を負う。
これは妄想だ。
これは幻で、自分の醜い願望が語っているのだ……。
――この言葉をまともに受けたら、私は生きてはいられない。
目の前に、銀色の瞳がある。
それは、本当のように見えるけれども幻だ。
それは、本当に幻……?
突然、何かがエリザを突き抜けていった。
目の前を一気に走る去るように……。
おそらく、名を呼ぶとしたら記憶というものかも知れない。
エリザは、この状況を思い出していた。たしかに、経験していた。
ひどく体調が悪くて、その上寒く、温かい感触は目の前にいる最高神官の手だけだった。
でも、それはすべて妄想が生み出したものなのだ。
寒いから……火鉢を。
そして、もう目覚めない。
急に目の前が真っ暗になった。
エリザの回りにガシガシと音を立てて鉄格子が落ちた。かすかに差し込む光は、手に届かない。
妄想に取り憑かれたら、もう死ぬしかない。
――このままだと、きっと呼吸が止まってしまう。
意識が遠のく。すっと深い地の底までも落ちていく感覚。
祈り所の闇の中、毒を口移しする幻の姿――妄想は死に至る毒なのだ。
満月の下、結ばれた手が二度と離れないと思いたかったから……。
あの幸せが自分だけのものだと思いたかったから……。
だからもう、あの時、深く眠りたいと思った。
――二度と目覚めないほどに。
だめ……。
起きて。
何かがエリザの中で騒いだ。
気がつくと、自分の中に海があり、そこにまどろむ存在がいた。
小さな者は、水の中で銀色の目を開け、ほろりと一滴の涙を流した。
それは、エリザの思い違いかも知れない。
でも、その者のために目覚めなければならないと感じた――
激しく揺り起こされた。
しかも、頬に熱いほどの痛みを感じた。
エリザは、祈り所の夢から醒めたのだ。
「……サリサ…様?」
「お願いですから、目を覚ましてください!」
エリザはぱっちりと目を開けた。
サリサは、美しい眉間に皺を寄せていた。エリザの声とともに多少緩んだが、かわりに少し目が潤んでいる。
どうやら。
エリザはかなり長い間、意識を失っていたようだ。
「お願いですから……」
お願いというのは、私欲を捨て去った最高神官にはあまり似合わない言葉かも知れない。
一瞬、最高神官の手が震えているのか……と、エリザは思った。それだけサリサは動転しているように見えた。
でも、違った。震えているのは、エリザのほうだった。
とても怖い夢を見たのだ。
だが、もう思い出せない。思い出せないほど、怖い夢。
あまりにもきれいに忘れてしまったので、エリザは最高神官の動揺に戸惑っていた。
きっと、いつもの健忘症の症状が出てしまったに違いない。最近は、かなり無くなっていたのに。
「私は愚かです。あなたをもう失いたくないのに……」
サリサのほうは、それっきり言葉が無くなった。
ただ、ぎゅっと抱きしめるだけだった。
「苦しいです……」
「すみません」
サリサの腕が緩んだ。だが、別に抱擁が苦しかったわけではない。
エリザの意識がはっきりしたせいか、サリサは多少眉を歪ませているものの、いつもの表情に戻っていた。
サリサは身を起こし、ベッドのふちに座り直した。
「わがままを言って、あなたを追いつめるつもりはなかったのです。今のことは忘れてください。すみませんでした。いや、あの……忘れないでください」
なんとも切れの悪い言葉である。
エリザも、よろよろと体を起こした。
「私……苦しいんです。サリサ様」
思わず胸を押さえ込んだエリザに、サリサは心配そうに声をかけた。
「え? まだですか? 苦しい……って、どこがですか? 大丈夫ですか?」
その様子は、うろたえている……と言えた。
胸を押さえ込んだまま、エリザは小さな声で言った。
「そう……じゃなくて……。自分がどうしたいのかわからなくて……。とても……苦しいんです」
――どうしたらあなたを失わずにすむのですか?
夢はすべて忘れてしまったが、その言葉だけが残っている。
そして、その答えを見い出すことは、エリザにも困難だった。
故郷に帰りたいのは事実だった。
でも、知らず知らずのうちに、二人で過ごす穏やかな日々を楽しみにしてしまっているのも、まぎれもない事実なのだ。
今度、ここに戻ってくる時は……。
巫女姫ではない。最高神官でもない。
――そう思ったことを、どうして忘れてしまったのだろう?
どうして素直に自分の気持ちを出せなくなってしまったのだろう?
どうして少女だった頃のように、ただ好きだと思う気持ちだけで幸せになれないのだろう?
いつから、夢を見ることがわがままになってしまったのだろう?
初めて霊山で会った日のこと。エリザは、最高神官を助けたいと思った。
少女の頃の勇ましくも恥ずかしい誓いは、口に出せなくなってしまった。
この人が最高神官じゃなければ良かったのに……。
そんな考えがふと頭に浮かんでしまうのに、重石をつけてすぐに沈めなければならない。
苦しくて、重くて……。
いつも死にそうな気分になる。
「私、わからないんです。考えると苦しくなって……死んじゃいそうに思えてきて。きっと私、身のほど知らずなんです。でも……サリサ様は、わがままなんかじゃありません」
そう言ったとたん。
エリザは急に涙が止まらなくなってしまった。
お互いのわがままが、ほんの少しだけ許されるような気がした。
「私も……サリサ様の側にいたいんです」
それは、とても小さな声だった。
でも、サリサには充分すぎるほどの声だった。
まさに二人の唇が重なろうとした瞬間――。
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