サラと毒・2


 やや金具が甘くなったのか、髪留めがカランと音を立て床に落ちた。

 サリサは身をかがめて拾った。少し嫌な予感がした。

 ちょうど、エリザのところへ行こうとしていた。

 仲直りしたあの日、落ちかけた髪留めに手を伸ばしてくれたエリザの瞳を思い出す。 

 エリザと子供のこと……。

 二人を守るためならば、少し嫌なことでも我慢しなければなるまい。

 言いたくない、したくない提案を、サリサはエリザにしなければならなかった。


 先ほどまで、医師がこの部屋にいた。

 サラが山下りしたら、すぐにエリザを山小屋から下ろすべきだ、と、進言しにきたのだった。

「エリザ様のお子の状態は、思いのほかよくありません。ですが、エリザ様の精神状態を考えると、闇に篭るのもよくありません。私や癒しの者、薬草の者がすぐに集まれる場所に、エリザ様を大至急移す必要があります」

 その場所とは……。

「サラ様の小屋、もしくは、巫女姫の母屋です」

 巫女姫の母屋を使う身重の女は、今までにいない。後々の巫女姫が気を感じて嫌がることを恐れたマサ・メルが、禁止したからだ。

 感情の波、激情の嵐に敏感だったマサ・メルは、実は女心をよく理解した男だったのかも知れない。

「でも……さすがにサラの住んでいたところには、移りたがらないでしょう」

「特別扱いを嫌っているエリザ様のこと、巫女姫の母屋も嫌がると思います」

 サリサは、ふっと医師の顔を見た。

「特別扱い?」

「エリザ様は、かつての霊山のしきたりと違うことがあると、どうも自分が至らぬせいで、特別扱いをされていると思い込むふしがあるようです」

 サリサもそれを感じている。

 だから、サラやミキアたちのように、エリザは朝食も一緒にとらないし、誘いにも乗らない。サリサが訪ねるしかないのだ。

「それだけではありません。エリザ様を特別扱いしていると感じている仕え人もいますし……」


 エリザとのつきあいが公になった頃、霊山の気は大いに乱れた。サリサにとっても苦い思い出である。

 シュールの改革の頃も確かに確執があったのだが、彼女の強さがそれをしのいでいた。だから、あれほどの圧迫感はなかった。

 霊山の仕え人たちは、世を捨てた存在である。世のしがらみとは無関係である。だが、最高神官に関わることとなると、微妙に話が変わってくる。

 彼らは、最高神官のためだけに、この世に生を残している存在であるのだから。


 ――個人であってはならぬ最高神官を、個人にしてしまう存在。

 それが、エリザなのだ。


 エリザの存在が霊山の気の乱れのもとになる。仕え人たちは恐れている。

 サリサは苦笑した。

 忍んでいるつもりなのに、てんで隠しきれない想い。

 なぜ、悟られるのだろう? と、サリサ自身は不思議に思うのだが、サリサの態度を見れば、きっとリューマ族のカシュだって悟るだろう。ムテ人で気がつかないのは、エリザその人だけである。

「サラの小屋に引越し……。それを、説得するのは心苦しいものがありますけれども、仕方がありませんね」



 まだ大満月の休養中であるサリサは、木綿の長衣を羽織って山を登っていた。

 今日ほどの天気なら、マントは不要だった。

 ふと、朝に山を下っていったサラのことを思い出した。天気がよくてよかった。今頃、どこまで行っただろうか?

 冷たい別れをしてしまったので、気になって仕方がない。だが、心を鬼にして突き放さないと、彼女は巫女制度から自由になれないだろう。

 ましてや、サラを愛せない。一生苦しめることになるだけだ。

 そのようなことを考えながら歩いていると、小屋の前にリュシュの姿が見えた。

 彼女は、サリサを見かけると、まるで霊獣のような勢いで転がり降りてきた。

「サ、サ、サ、サリサ様!」

 リュシュは止まり切れず、サリサに激突した。

 やはり、彼女はマリと精神年齢が一緒である。リュシュの二百年の人生を顧みてみたい。サリサは苦笑した。

「あ、あのですね。ご報告があります」


 リュシュは今朝の出来事を事細かに話した。

 エリザがお菓子を焼いていたのは、どうにかサラと仲直りしたかったからであり、その目論見は外れて、エリザは今、落ち込んでいるということ。

「それは……ちょっと困りました。私はこれからエリザにサラの小屋に引っ越すように言わなければならないのに」

 最低の提案が最悪の提案になる。

 エリザは間違いなく『嫌!』と言うだろう。

 リュシュはしばらく、うーんうーんとうなりながら、考え込んでいたが、やがてすくっと頭を上げた。

「あの! サリサ様は考えをまわしすぎるのではありませんか?」

 突然、思いもよらないことをリュシュは言い出した。

「え?」

 リュシュは大きく深呼吸した。

「サリサ様、無礼を承知で提案させていただきますけれど……。サリサ様は慎重すぎるんです。もうはっきり気持ちをお伝えしてしまってはいかがでしょう?」

 思わず、足が止まってしまった。

 そのようなことはできない。

 エリザに気持ちを伝えたところで、彼女を苦しめるだけだ。

 それを……より気持ちを穏やかに保たなければならない時に。

「な、何を言い出すのです?」

 動揺を隠せないサリサの前で、リュシュは背筋を伸ばして意見した。

「エリザ様は、サラ様の強い気に押されて、自分自身の思い込みが揺らぎ始めているんです。だから、いい機会なのです。はっきり気持ちをお伝えしたほうが、きっとエリザ様の気持ちも落ち着くはずです」

「できません。そのようなことは……」

 即座の否定に、リュシュは喰らい付いてきた。

「できないと思うからダメなんです! いいじゃないですか! 好きだから、その後も霊山に残って欲しいって言えば!」

 それは、実に甘い誘惑である。

 だが、霊山の気は、寿命ある者の存在で揺らぐ。だから、仕え人たちの多くが時を終えたメル・ロイなのだ。

 だいたい、私利私欲・己を捨てた聖職者の最頂点にいる最高神官が、わがままで愛人を置くなんて……聞いたこともない。

 ムテ中から批難の嵐が巻き起こっても、いいわけのひとつもできないだろう。

「リュシュ……。無理です」

「そりゃあ、霊山の負担は大きくなるかも知れませんけれど、一人くらいなんてことないですよ。こっそり隠しちゃえばいいんです」

「リュシュ、それは……」

 それでは、霊山を祈り所にしたようなものだ。一種の幽閉ではないか。

 エリザの幸せを考えたいサリサには、そうしたくてもできない。

 言葉をなくすサリサに対し、リュシュの声は自分のアイデアに陶酔しているのか、やや興奮気味だった。

「何をいっているんですか? 今の制度はマサ・メル様が作り上げたもの。サリサ様が自分勝手に作り変えてどこが悪いんです? それとも、サリサ様は怖いんじゃないんですか?」

「な、何が? です?」

「エリザ様が、サリサ様じゃなくて、自由になることを選ぶことを……ですよ」


 どきりとする一言だった。


 サラの告白が蘇る。

『私は、山を降りてルカスを学び舎に入れた後、再び巫女姫としてサリサ様のお側に参ります』

 迷いもなく、サラはそう言った。でも……きっと、エリザは言わない。

 エリザには、元々霊山に捕らわれる運命はなかった。

 エリザには、捨てるには愛しいものがありすぎる。父、兄、故郷……。そして、人々に癒しを与える夢。

 エリザは、おそらくサリサを選ばない。


「エリザ様には、確かに愛する家族と恋しい故郷がありますよ」

 サリサの不安を、リュシュは見事に言い当てた。

「でも、サリサ様がちゃんと気持ちを伝えてお願いしたら、エリザ様だってそれに応えますよ! 別れを前提に考えるよりも、制度と共存して二人で生きる方法を、二人で考えればいいんですよ!」


 ――二人でともに生きる方法を、二人で考える……。


「やめなさい!」

 つい声を荒げてしまった。

 聞いているだけで、胸が詰まる。

 リュシュは、さすがにビクッと身を引いた。

「し、失礼しました。私は、巫女姫の仕え人……首でしょうか?」

「いいえ……こちらこそ」

 そういいながらも、サリサは頭を殴られたような衝撃を感じていた。


 思えば、常に選択権はサリサにあったのだ。

 エリザの意志といえば、あの嘆願書を保留したことくらい。それも、サリサ自身の気持ちを伝えて選択させたことではない。

 一度だって、まともに自分の気持ちを伝え、彼女の意志を問うたことがない。

 一度もエリザの運命には、エリザ本人の選択がなされていない。

 巫女姫として選ばれて以来、エリザの運命はいつもサリサが押し付けている。


 叶うはずのない、夢を見るのが怖いから?


 ……そうかも知れない。

 サリサは、よくフィニエルに『お子様』とか『小心者』と言われていた。だが、今日ほど本当に自分が小心だと思ったことはない。

 エリザの幸せ、幸せと連呼して言い聞かせながら、実は勇気がないのだ。

 勝手にエリザの幸せは故郷の蜜の村にあると決めつけて、勝負に出る前に敗北宣言をしているのかも知れない。


 告白する? 告白しない? 告白する? 告白しない?


 リュシュの言葉を拒絶しておきながらも、サリサの心はふらふらと揺れた。

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