サラと毒

サラと毒・1


 最高神官は、サラを見送らなかった。

 シェールの時も見送らなかった。雪の中、山下りしたミキアの時もである。だから、この秋晴れの日に山下りするサラを見送らないのも当然であった。

 だが、サラは苛々した。

 やはり、自分だけが特別に嫌われているような気がする。見送りも、仕え人一人だった。ミキアの時は、最高神官の仕え人が代理で見送ったというのに。

 しかも、村に下りてからも、サラは安らげないだろう。

 ルカスは、相変わらず力をあまり感じない子供であるし、村に降りたあとも、人々の期待に応えられそうにない。あからさまにがっかりする者がいるかもしれない。


 晩秋だというのに暑すぎる日だ。

 日が高くなったら、ますます暑くなる。サラは皮袋から水を飲んだ。

 ちらりと霊山を仰ぎ見る。

 五年後、再び戻ってきてやる。そして、あの女の不幸を笑ってやる。

 今頃、最高神官はサラの住んでいた場所を片付けさせ、そこにエリザを住まわせるようにするかもしれない。

 そうすればいい! と、サラは笑った。


 私を愚弄すればいい……。でも、最後に笑うのは私だ。

 私は再び戻ってくる。巫女姫候補は年々少なくなっている。だから私が選ばれるしかないのだから。

 そうしたら。

 サリサ様はどのような目で私を見るだろう?

 愛しんで下さる? それとも憎しみ?

 憎むなら憎んで欲しい。私も心から憎んで差し上げる。

 相手にされないのであれば、心に留まって忘れられない存在になればいい。


 急にサラは楽しくなってきた。

 坂道を下りながら、歌でも歌いたい気分になった。いや、踊りたい。笑いたい。

 道は、比較的安全だ。サラは子供を抱いたまま、くるりと回ってみた。くすくす……と笑ってみた。

 ところが、子供は泣き出した。サラの毒々しい気分を察したのかも知れない。

「もう! なんて嫌な子なんでしょう!」

 この子は、とても最高神官になれそうにない。

 そう思うと、また再び苛々としてくる。

 落ち葉が積もった坂道の途中で、サラは座り込み、荷物を置き、子供もその近くに置いて、水を飲んだ。

 暑い日ではあるが、木陰は涼しい。

 道は崖に沿って下っている。

 右の崖はそびえたつようで、すでに霊山の母屋も何も見えなくなった。左手は木立が覆った崖であり、かなり激しく川の流れる音がしている。

 喉が渇いて仕方がない。

 サラは、ごくごくと水を飲み干した。

 おもえば……毎晩シュロの葉を挽いて粒子のように細かくしていたのだから、多少は吸ってしまっているだろう。一年以上続けていれば、何らかの影響は出るのかもしれない。喉が渇いて仕方がない。

 でも、身を削ってでも……あれだけが、サラの楽しみだった。


「ぶほっ!」

 突然、ルカスが奇妙な声を上げた。

 サラは、はっとしてわが子を見た。そして、青ざめた。

 子供は、激しく痙攣していた。白い肌を土色に染めながら、ぶほぶほと何かを吐き出している。

「ど、どうしたの! ルカス!」

 サラは慌てて子供を抱き上げた。

 口からは泡を吹いている。

 慌ててあたりを見回すと、見慣れない袋があり、中から焼き菓子が顔を出していた。

 このような物を、サラは荷物には入れていなかった。

 退屈した赤子が、近くの荷物からこの袋を取り出し、中にある物を興味本位で口にしたのだろう。甘くて美味しいので、次から次へと食べたのだ。

 サラは、食べ残しの焼き菓子を手にとってみた。齧ってみると、かすかに薬草の味がする。

 この袋には見覚えがあった。あの女が、持ってきた。

「やられた……」

 サラは焼き菓子を握りつぶした。


 ――あの女に毒を盛られた!


 そうしているうちにも、ルカスの容態は悪くなり、呼吸も苦しそうになる。

 サラは動揺した。必死に子供の背を撫でて、毒を吐き出させようとした。

「あの女め! あの女め! あの……」

 泣きながら、怒鳴りながら、サラは必死になった。

 巫女姫として優れた祈りの力を持ちながら、サラは『癒し』については何の力もなかった。

 まったく興味がなかったのである。

『癒しの巫女』として力を発するのは、薬草を使って多少の節約をしても、寿命を使うことである。自分の命を削って人を助けるなど、サラは考えてもいなかったし、薬学を究めれば充分に薬師として責任を果たせる。

 下手に癒しの力を持てば、損をするだけ……。そう考えて、学ばなかったのだ。

 ここに至って後悔してももう遅い。子供は死にかけている。

「落ち着いて……とにかく水よ。水を飲ませて、毒を吐かせなければ」

 サラはブツブツと言いながら、皮袋を取り上げた。

 が、そこにはもう水がない。

 自分がすべて飲んでしまったのだ。

「ああああ!」

 サラは泣き出した。


 今の今まで、サラは自分の子供を愛していることに気が付かなかった。

 子供は、最高神官の血を伝える道具であった。どうせ、五歳になれば学び舎に入れる『神官の子』であり、サラが産んでもサラの子ではない。

 どうにも自分の血を活かしきれなかった子に、苛立ちばかりを覚えて日々を過ごしてきた。

 でも……。

 狂おしいぐらいに、わが子を愛していたのだ。


 泣いてわめいている場合ではない。

 子供はもう毒を吐く力もない。とにかく水が必要だ。

 水を飲ませて吐き出させる。

 あの女に対する復讐はそれからだ。

 まずは、子供だ。まずは、水だ。


 サラは、皮袋を持つと、木立伝いに崖を降りた。

 崖の下からは川の流れる音がする。激しい流れである。

 下草に足を滑らせては、木立に激突し、額を割り、手を傷だらけにしながらも、サラは水を求めて崖を下った。

 そして、木々がまばらになった向こうに、やっと川の流れを見た。

 サラは喜び勇んで、皮袋を川に差し入れた。だが、なかなか流れが速すぎて、水がうまく入らない。

 木に手をかけ、さらに体を伸ばした。

 もっと、深く……。サラは必死だった。そして、やっと皮袋に水がずっしりと入った。

 サラは、ほっとした。皮袋を引き上げようと、体を起こしたとたん……。

 濡れた土ですべり、勢いでつかまっていた木から手が離れた。

 サラは、あっという間に激流の中に飲み込まれた。


 激しく水が渦巻く中に、サラの体は捕らわれた。

 水は清らかで、たくさんの泡を含み、時に水底の白い石を、時に水面に揺れる光を、サラの目に映し出した。

 巫女姫の体をもて遊ぶ水は、銀糸の柔らかな髪を水草のように巻き上げた。

 だが、水の流れは、サラの体を水面に押し上げることはなかった。


 死ぬわけにはいかない!

 私が死んだら、あの子も死ぬ!


 あの女は今頃ほくそ笑んでいるに違いない。

 あの女の思い通りになんかさせるものか!

 ……絶対に許さない! 死ぬものか!


 サラは必死にもがいた。

 一度はかすかに水面に顔が出たが、再び水に引き込まれた。

 三度死んだが、寿命の限りを尽くして生き返った。

 だが、四度目。

 かすかに水面に突き出せた手は、すでに柔らかなものではなかった。

 二度目に顔を上げたとき、サラはすでに水の中で干からびていた。

 やっと、激しい渦から川の流れに戻されたとき、サラの寿命は尽きていた。

 真白になった髪を川の流れに打ち広げ、骨と皮になった体を服に包み込んで流されていた。

 最期に浮かんだのは、子供への思いか? 

 それとも、エリザへの憎しみか?

 しかし、彼女の最期の心の叫びは、どちらでもなかった。


「……サリサ様! どうか、サリサ様……」


 その言葉が伝書となって、霊山の奥へと飛んでいった。

 川には何も残されなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る