エリザと焼き菓子・6

 部屋はもうすでに片付いていて、がらんとしていた。

 小さなベッドの中で赤子が泣いている。

 母親の気の乱れを感知しているのだ。

「うるさい!」

 サラが怒鳴ると、子供は泣き止んだ。

 そのぴりっとした空気に、エリザは震えた。

 確かに、そこに、サリサとサラの間に生まれた子供がいる。エリザは思わずおなかを押さえた。

 何か苦いものが喉元まで上がってきて、気分が悪い。

 今すぐここから逃げ出したい、とすら思った。

「ところで……何の用かしら? 惨めに山下りする元巫女姫を愚弄しに来たのかしら?」

 サラは荷物をまとめながら、話しかけた。身重のエリザに椅子も勧めない。

「あの、違います。祈りの儀式のお礼と……あの、お詫びを……」

 うつむきながら、エリザは言った。

 そこまで言うだけで、ものすごく気力を使った。それだけ、サラはピリピリしていた。

 サラはふわふわの銀髪をイライラと払ってみせた。

「勘違いなさらないで。祈りの儀式は、あなたのためじゃない。最高神官サリサ・メル様から直々お願いされたから。それに、あなたのでしゃばりに腹を立てるほど、私はあなたなんか相手にしていないの」

 明らかに嘘だとわかる。

 エリザの頬は、あの時の痛みを覚えているし、サラの涙も覚えている。耐え切れない何かを堪えているのは、エリザもサラも一緒のはずだ。

「サラ様。色々ご迷惑をお掛けしましたが……本当は仲良くしたかったのです」

 震える声で、エリザは言った。そして、持ってきたお菓子を差し出そうとした。

 ところが、サラは大声で笑い出した。

「仲良く? あなたと、この私が? ふざけないでよ!」

 ぎっと睨む目には、怒りとも悲しみとも取れない色がにじんでいる。

「私はあなたのような、綺麗な心しか持っていません……という顔をする偽善者が大嫌い。あなたの中にだって、どす黒い邪心が渦巻いているのが見えるわ」

「そんな……偽善だなんて」

 エリザは、必死に否定した。

 しかし、舌がしびれて言葉が途切れる。

 苛々と髪をかき上げたサラの白い指に、別の手が重なる幻が映った。

 ぎくりとした。

 エリザが惹かれてやまない細長い指先。かつて、エリザに薬草の見分け方を説明してくれた手――。

 その手は、エリザの髪に触れたのと同じようにサラの髪にも触れたのだろう。

 エリザの胸を愛撫するようにサラの胸も愛撫したのだろう。

 そして、その結果がベッドの中で泣き声を上げている。

 サラが叫んだ。

「仲良く? 笑わせないで! ひとつ心をどうやって二人でわけるというのよ! 所詮は、奪い合い、どちらかが手に入れるだけ!」

 エリザの口から漏れる言葉は、もうなかった。


 手の持ち主は、心をひとつしか持たない。心はひとつしかないのだ。


 ――どちらかが……最高神官の心を手に入れる?


 それは、絶対にしてはいけないこと――願ってはいけないこと。

 尊き清らかな存在に、巫女姫とはいえ、届かないのに……。

 そう、俗人が手にする心など、あの方にはないのだ。


 喉元に上がってくる苦いものを、エリザは必死に堪えていた。

 何度も唾を飲み込み、吐き出さないよう……。

 それこそ邪心。どす黒く渦を巻く心。

 だが、エリザはそれを捨て去ったはず。

 もうそのような大それた夢は見ないはず。


 ――そう、あの方には万人に捧げる慈愛はあれど、心はないのだ。

 なのに、サラ様は何を言っているのだろう?

 

「あなたは私が去っていって、サリサ様を独り占めできると思っているかも知れませんけれど、それは無理ですわ。私がここを去ってゆくと思ったら大間違い。私は戻ってくるのですから!」

 サラはエリザに詰め寄った。エリザのほうは一歩ひいた。

「私は一生、サリサ様に尽くすの。あなたは、そのうち山を下って誰かと幸せになればいいことよ。でも、私は違いますもの。私は……」

 サラの目に涙がにじんだ。

「私は、最高神官のために生まれたのだもの……」

 その言葉に圧倒されて、エリザはよろめいた。

「エリザ様!」

 サラに突き飛ばされたと勘違いしたリュシュが、窓を乗り越えて侵入してきた。

 その様子を、サラは憎々しげに見た。


 ――私には、誰も味方がいないというのに……何よ、この女!


 そのとたん、サラの子供のルカスが大声で泣き出した。

「うるさい! うるさい! 静かにおし!」

 サラは苛々とルカスを抱き上げ、泣き止まない子供をあやし始めた。その乱暴な仕草から、子供がすぐには泣きやむとは思えない。

「さぁ、エリザ様……。もう、いいでしょう?」

 リュシュがエリザの腕を支え、帰りを促す。

 エリザも、もう気力がはてていた。

 敵わないのだ……と思った。

 一生懸命作ったお菓子が、手の中で震えていた。

 せめて……。

 エリザはサラの荷物袋の中に、渡しそびれたお菓子を忍ばせ、リュシュにひかれて小屋をあとにした。

 それが、サラとエリザの永久の別れであった。

 だが、心の深いところで……共感し、繋がったのだともいえる。

 エリザは初めてサラの心に出会った。

 それは、とても苦い出会いだった。



 リュシュに腕を引かれながら、エリザはよろよろと山道を登った。

 天気は秋晴れで素晴らしいのに、エリザの心の中では黒い雨が降っていた。

 途中で嗚咽が漏れた。たまらなく苦い。

「エリザ様、少し休みますか?」

 体を気にしてリュシュが聞く。

「いいえ……大丈夫」

「いいえ、休みましょう!」

 そういうと、リュシュはその場にエリザを座らせた。

 座ってみると、もう立てないほどに疲れきっていることに気がついた。

 リュシュはいつでも正しい。エリザは思った。

 あさはかだったと思う。

 山道を登っている途中で、エリザは色々考え始め、頭の中がぐちゃぐちゃになってきていた。

 そして、最終的には自分が間違っていて、リュシュの忠告が正しかったのだ……という、敗北感を味わっていた。


 きっかけがあれば、わかりあえるなんて……。

 わかりあえるはすがなかった。

 サラとエリザでは、生まれも育ちも何もかも違う。


 ――最高神官のために生まれてきた――


 そのようなことを、エリザは考えたこともなかった。

 エリザの故郷一帯では、巫女姫など選ばれたことがなかった。霊山の存在もはるか雲の上の世界であり、最高神官は天上人のような存在である。

 もちろん、巫女姫になる夢は見た。

 だが、それを義務として育てられたサラの痛みなど、わかるはずがないのだ。

 生まれながらにして、血に縛られ、血から逃れられない生き方など、エリザには想像さえしたことがない。

 どこが同類だというのだろう? 憎まれても仕方がない。

 サラには……エリザが希望とする故郷の幸せさえも残されていない。

 ただ唯一、ムテの血に尽くす生き方こそが、彼女の幸せなのだろう。

 エリザには、そこまでできるだろうか?


 敵わない……そして、怖い。


 さっきまでわかり合いたいと思っていたことが嘘のように、エリザは恐怖におののいた。

 このような気持ちになるなんて、自分でも信じられない。

 心から願った。


 ――二度と、サラには会いたくないと。

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