エリザと焼き菓子・2


 サラは完璧な祈りの儀式を演じた。

 今回、すでにシェールは訪れず、ミキアが子供を抱いて付き添ってはいたが、その子供は女である。当然最高神官にはならない。

 霊山においてきたサラの子供――ルカスのほうが、ずっと将来が明るいのだ。

 最高神官の手をとり、すべての力を共有して一体となり、人々に分け与えたのもサラである。

 日々の苦悩を忘れ去るほどに、サラは満足した。

 ミキアにもシェールにもマヤにも勝ったと思った。そして……エリザにも。

 サラは美しく輝いた。

 大勢のムテの人々の羨望と憧れ、希望の象徴となったのだ。



 儀式が終わり、霊山に帰ったあと、サラは必死で最高神官の姿を探した。

 霊山は儀式の後、休養の日々を迎える。

 儀式の高揚した気分のままに、サリサと語り合い、休養の期間を過ごしたいと思っていた。それと……今日、決心したことを、ぜひ伝えたかった。

 最高神官は、湯浴みの岩屋から仕え人を従えて出てきたところだった。

 儀式用の衣装は、優雅ではあるがかなりの重さを持つ。すでにサリサはそれを身に着けておらず、柔らかな木綿の長衣を羽織った軽装である。

 洗い立ての長い髪はまだ乾ききってはおらず、マントのように羽織った布地にかすかな水染みを広げていた。

 まったくの素のサリサ。

 だが、煌く銀の粒子が濡れ髪にますます鮮やかに艶を与え、サラは一瞬ひるんだくらいだった。


「サラ? どうしたのです? あなたも疲れたことでしょう。早く着替えて湯浴みでもし、体を休めたほうがいいですよ」

 先に声をかけたのは、サリサのほうだった。だが、話はそこまでであり、彼はそのまま立ち去っていこうとする。

 サラは慌てて、重たい衣装のまま中腰になり、正式な挨拶をした。

「最高神官サリサ・メル様と、お話したく参りました」

 そのかしこまった態度に、何か特別な意味を感じて、サリサは仕え人のほうを見た。仕え人は、さっと敬意を示すと、その場を外れた。

 渡り廊下から見上げる山に、大きな月が浮かんでいた。


「サリサ様、私は決心いたしました」

 サラは神妙に話しはじめた。

 今日、感じたままのこと。

 大満月の光を浴び、一体になった感覚のまま。

 なぜ、この世に生を受けたのか? それは、誰しもがサラに語り続けてきたことである。そして、今日、はっきりとサラも感じた。

 最高神官に仕え続けること。その血を脈々と伝えること。

 そのために、サラは生まれてきたのだ。

「私は、山を降りてルカスを学び舎に入れた後、再び巫女姫としてサリサ様のお側に参ります」

 そのようなことをした巫女姫は、シェールくらいである。

『癒しの巫女』としての確かな地位を手に入れた女は、その地位を捨てて、再び一からやり直さないものだ。

 その誓いは、サラにとって人生すべてをかけて最高神官に尽くすという、サリサへの愛の告白でもあった。

 だが、サリサはうつむいて、小さなため息をついたのだった。

「サラ……。気持ちはありがたいのですが、私はそれを望みません」

 大満月の光が、銀糸の髪に反射した。

「なぜ……ですの? 私はきっと、何度でも巫女姫として選ばれると思いますわ。その力も血の強さもあるはずですわ! なぜ、期待して待っていますとは、言って下さらないの?」

 巫女姫としての力をもつ少女の数は、年々減っている。霊山としては、サラのような力ある存在を望んでいるはずだ。

 すがりつこうとしたサラの両手首を、サリサは掴んで距離をとった。

「ムテは滅びに瀕している。でも、最高神官のみが血を残せばいいわけではありません。山を降りた後、あなたの血は、あなたが愛する人のために、伝えていくべきものです。それもムテには必要なこと」

「私が愛しているのは、あなただけですわ!」

 その言葉を放ったとたん、サラの心はがらがらと崩れ去った。


 ――明らかな態度。


 驚くこともなく、たしなめることもなく、最高神官は目を伏せてしまった。

 握られていた手首から、その指が離れてゆく。

 たとえ困らせてもいいから、自分だけを見て欲しい。

 サラの願いは、ただそれだけだった。たったそれだけだったのに。

 その希望は打ち砕かれた。

「あなたにそのようなことを言わせてしまうのは……私の不徳のいたすところです。心苦しいことですが……私には応えられません」

 もう二度と、最高神官はサラを見ない。見たら、ますますサラの希望を繋いでしまうからだろう。

 完全に全身全霊をかけて、拒否されたのだ。

「あなただからではありません。シェールでもミキアでもマヤでもそうです。私は最高神官であり、あなたたちは選ばれた巫女。ですが、私には、あなたたち巫女姫の人生を捨てさせることはできません」

 その言葉は、サラの心の空洞を風のように通り過ぎた。

「私があなたに願うのは、最高神官に一生を捧げることではありません。残された人生を幸せに過ごし、霊山で得たことをムテの村々に伝え広めることなのです」


 きれいごと……。

 むごすぎる……。


 サリサの言葉を聞いているうちに、サラの中に渦巻いてきたのは、純粋な憎しみというものだった。

「それを。あの女にも望む?」

 涙を堪えて、サラは言葉を搾り出した。

「エリザに?」

 ふと緩んだ最高神官という仮面。ほんの一瞬、ただ一人の男としての顔。

 サラが見逃すわけがない。

「……もちろんです。エリザにも、あなたと同様、それを望みます」


 ――嘘つき。


 ずっと、誰か他の女を思っている……と感じてきた。

 だが、その度に、最高神官はすべての巫女姫を平等に愛するのだ……と、納得しようとして保ってきた。

 そんな騙しなんか通用しない。そう、心など隠し通せるものではない。

 我々は、銀のムテ人――古代の尊い血を伝える、心言葉こころことのはの種族。

 いくら言葉が嘘を連ねても、心の言葉は雄弁に真実を語る。


 私だけを愛して欲しい――

 ――最高神官は、特定の誰かを愛さない。


 嘘つき!


 あの女……と言った。

 エリザに? と返ってきた。

 サラは、長年感じていた疑念に、やっと確信を持ったのだった。


「サラ、もうあなたは自由になれるのです。まずは……その重たい衣装を着替えなさい。そして……ゆったりと薬湯に浸かって体を休めて……」

 サラのほうを見ることもなく、サリサは言葉を連ねてゆく。


 卑怯者!


 そのような上っ面の安らぎを、サラは求めてはいなかった。

 ただ、どうしても手に入れられないものを、どうしても諦めきれないだけで、常に心は闇に捕らわれている。一筋の光も、そこにはない。

「わかりましたわ。サリサ様……。今夜のことは、お忘れになって」

 サラは深くお辞儀をした。

 だが、未練はなかなか消え去らない。

「最後に……約束に口づけを……」

 サラはそっと目をつぶった。

 額でも頬でもいい。

 どこかに唇の感触さえ残れば、再び霊山に来ることを許されたのだ、と思うことができる。

 たとえ最高神官がいやだといおうが、巫女姫候補として精進する日々を送ることができる……。

 しかし、サラが待つものはこなかった。

「私の髪は濡れています。今、あなたに触れたら、巫女の衣装を台無しにしますから……」


 間違いなく拒絶。


 たった、それだけの言葉を残して、最高神官は去っていったのだ。

 それは……それこそ、詭弁に違いなかった。


 サラはしばらくその場を動けなかった。

 だが、最高神官の気配が完全に消え去ったあと、渡り廊下から飛び降りた。

 土の上に転んでしまったが、彼女はすぐに立ち上がった。

 草露に裾を濡らし、小枝に衣装を引っ掛けたが、ずんずんと歩いた。

 その道が、彼女の小屋に一番近かったのだ。

 倉庫に入ると、曲がったサークレットを直すこともなく、衣装の袖口が粉まみれになるのも気にせず、サラは石臼を取り出した。


 そして……。


 きこ、きこ、きこ……。

 と、心を落ち着けるように挽き出した。

 きり、きり、きり……。


 大満月の光が、高窓からかすかな光となる。

 巫女姫の衣装にちりばめられた輝石が輝く。それは銀の粒子のようだった。

 あたりには、石臼にひかれて細かな粒子となった粉が舞う。

 月の光を浴びて、青白い光の帯となった。

 静寂。かすかな音。

 それは、サラのすすり泣く声だった。

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