エリザと焼き菓子
エリザと焼き菓子・1
その気配を、霊山に戻ってきたときから、常に感じていた。
読書の途中、エリザは胸が苦しくなって、思わず本を閉じた。
開け放たれた窓からは、春の風が心地よく入り、エリザの髪を撫でるというのに。エリザは胸を押さえながらヨロヨロと立ち上がり、窓を閉め、カーテンを閉めた。
かつて、この窓からはエリザを見守る最高神官の気配を感じることができたものだ。しかし、今は別の小屋がその間に建っていた。その建物を、エリザは不安げに見上げる。
子育て用の小屋であり、本来は【離れ】として、外れた場所にあるべきものだった。ミキアが執念で押し切ってその場に建てさせ、今はサラが住んでいる小屋である。
小屋の周りには花が咲き乱れ、芳しい香りさえ感じるというのに。その小屋の小さな窓から放たれる鋭い敵意に、エリザは震えた。
読みかけの本をとると、自室に戻ることにする。そこならば、狭くてここよりは暗くて、勉強には狭すぎる机があるだけだが、窓は小屋のほうを向いていない。少しはサラの瞳から逃れられるのだ。
常に彼女は窓辺に立ち、エリザを睨みつけている。
なぜ、そこまで憎まれるのか……。
エリザには、なんとなくわかるような気がする。
似たような感情を、どこかで経験したような気がしている。
でも、それはいつのことだったのか……思い出せない。
エリザが徹底的にサリサを避けたのは、そのせいもあった。
マール・ヴェールの祠で言葉を交わし、心を開いた後も、エリザはサリサの誘いを断り続けていた。
エリザがサリサとの夜を迎える前後は、まるで闇の糸に巻きつけられてしまったような、そんな呪縛を感じてしまう。
それでなくても、ただサリサのことを思っただけで指先が冷たくなる。呼吸が苦しくなる。最高神官と言葉を交わそうものなら、心臓を止められかねない。
サラの目が、常に……いや、時にエリザは自分で自分自身を見ているような感覚にもなった。
どこかに潜む罪悪感。その正体をエリザは知りたくなかった。
檻のような中に閉じ込められ、胸をかきむしりながら、もがきながら、叫びながら、巫女姫である自分を見つめ、そして死に魅入られていく。
そんな気分にさせるサラの呪詛が怖い。
呪われていること事態が後ろめたい。
フィニエルや他の仕え人に、エリザは『祈り所の闇を思い出して怖い』と説明していた。
弱虫のせいか、ミキアのようにサラの邪気と向かい合い、戦う気持ちは、エリザには起きなかった。
とにかく避ける……。
これしかなかった。
日々、怯えて過ごすエリザの行動範囲は、かつての霊山の生活よりも狭くなっていた。
その生活から解き放たれ、サラの目からも逃れられるようになったのは、身ごもってからである。
最高神官と頻繁に会うようになったのも、山小屋に引っ越してからのこと。小屋は霊山の母屋から驚くほど離れた場所に建てられた。
本来、身ごもった巫女姫は『離れ』に越して、霊山の日常からはすっかり離れることになるが、ここまで離れて住む巫女も珍しかった。
食料運びや医師の回診は大変であったが、エリザには天国であった。
時々感じるサラの呪詛も、昼の行で祈る最高神官が近くにいるせいか、おなかの子供が守ってくれているのか、柔らいでほとんど届かない。
すべてのしがらみがら解放された。
それなのに、エリザは大失敗してしまった。
『祈りの儀式』を巡る争いで、サラと真正面から対立し、彼女の気持ちを大いに逆撫でしてしまったのだ。
本来はエリザが執り行うところを、エリザの体調不良を考えて最高神官がサラにお願いしたことである。しかも、彼女はそのためだけに山下りの日程を三ケ月も遅らせたのだ。
――それを、自分が執り行うと駄々をこねてしまったのだから……。
どう考えてみても、エリザのほうに非があることは明白である。エリザは気になって仕方がなかった。
夏の終わりに山を下るはずだったサラは、エリザの代理を務めるために残り、祈りの儀式の後、晩秋に山下りすることになっていた。
それまでには……。
「サラ様に、儀式のお礼とお詫びがしたいわ」
エリザは、心からそう思っていた。
だが、その言葉を聞いていたリュシュは顔をしかめた。
「それは……やめたほうがいいと思います。ますますサラ様は怒るでしょうよ」
祈りの儀式の数日前から、エリザは体調を崩した。
体を起こすことが出来ず、食欲もなかった。発熱したり、寒気がしたりの繰り返しで、時々意識が朦朧とする有様だった。
ぎりぎりまで巫女としてがんばるつもりだったのが、響いたのかも知れない。
医師からは絶対安静を言いつかり、リュシュが側に付き添った。
――もうそろそろ、安定してきてもいいはずなのに。
吐き気や頭痛が続く。
「あまり思い込まないでください。精神的なことが大きく影響しますから……」
そういって医者は何種類かの薬を調合してくれたが、エリザはほとんど飲めないでいる。がんばって飲んでも戻してしまうのだ。
「本当ならば……体のことを思えば八角の部屋に入っていただいたほうがいいのですが……」
医師はそういい残して帰っていった。
――エリザ様の精神状態を考えれば、そうとも言い切れませんね。
という言葉が暗に含まれていた。
ベッドに横たわりながら、エリザは子供のことばかり心配していた。
――この子が死んじゃったらどうしよう?
そんなこと……絶対に嫌! お願い! 助けて!
涙が出てきてしまった。
――この子がいなくなったら……すべては闇に捕らわれてしまうわ。
私はすべてを失ってしまうわ。
祈りの儀式の日。もう、巫女姫は山下りした。
今日は最高神官も山を下る。
それなのに至らぬ巫女のエリザは、行進することもなく、最高神官の手をとることもなく、ベッドの中で安静を強いられているのだ。
ただ、一つの希望すら失われてしまう恐怖に打ち震えて。
――子供が失われてしまったら……。
見つめる天井が涙で潤んで揺れて見える。
木々を組み合わせて作られた天井。格子模様に歪んで見えて、エリザは目を見開いた。
格子を握る痩せこけた手。
その隙間から見える美しい銀の影の一対。
鮮明に目に焼きついた影を、エリザは見つめている。
二人の姿はどこか恍惚としていて、そのまま融けて結びつき、ひとつになってしまう。
満月の力が二人の上に降り注ぐ。まるで祝福するように。
光は鉄格子に阻まれてエリザのもとへは届かない。ただ、骨張った指を格子に絡ませ、ひたすら叫ぶだけなのだ。
光に祝福された二人は、まさに幸せの絶頂。そして、手を取る。
その……手を、取ってしまったら……。
――嫌! その人の手を取らないで!
他の人に微笑まないで!
私の手だけを取って! お願い!
――嫌っ、嫌あああぁー!
「エリザ!」
泣きながら叫んで目が覚めた。
具合の悪さから、うとうとしてしまったのだろう。悪夢にうなされていた。
「どうしたのですか? 気分が悪いのですか?」
エリザは涙を浮かべたまま、呆然と目の前で自分の手を取っている人の顔を見た。
見事な細工のサークレット。時々いたずらに顔を隠す銀の髪は、綺麗にそこに収まっていて、最高神官の美貌を余すところなく表に出している。ただし、その顔はやや悲痛に歪んでいた。
ふと、視線を手元に移す。繋がれている手を見つめる。
銀糸の重厚な刺繍を施した絹の衣装。祈りの儀式そのままの、最高神官の手だった。かつて、エリザが『神々しくて手を取れない』と思ったままのサリサ。だが、その手はエリザの手を握り締めている。
やや心配そうな瞳は、真直ぐにエリザを――いや、通り越してエリザの心さえ覗こうとしている。
まったく無防備になったエリザの心は、心話に長けた最高神官にはすぐに汲み取られてしまうだろう。
慌てて手をふりほどく。
「い、嫌! 放して!」
――私……いったい何を考えていたの?
自分でも整理のつかない心の内を見られたくなくて、エリザは慌てた。
何か、ものすごく汚い感情に支配されて、ドロドロになっていたような気がする。
それを尊敬する最高神官に見られてはいけない。
いや、そんな感情は元々持ってはいけないものなのだ。
封印すべき、よからぬこと。見てはいけない。感じてはいけない。
それは……毒だ。
呪詛という名の毒だ。
巫女姫として恥ずかしい――邪な――妄想。
忘れなきゃいけないこと。忘れたはずのこと。
興奮して振り払われた手。最高神官はそれを再び取ることはなかった。
そのかわり、エリザの涙を指でふき取った。
エリザの苦しみが体調からではなく、夢見から来たものだと察したらしい。表情が和らいだ。
「大丈夫。悪夢は去りましたから……。落ち着いて……」
神々しいまでの微笑み。どうやら、最高神官にはエリザの抱いた邪な感覚は伝わらなかったらしい。
エリザはほっとした。
「ご……ごめんなさい。ものすごく怖い夢を見て……興奮しちゃって……」
ほっとしたら涙が再び出てきてしまった。
優しい微笑みを見ていたら、温かな指の感覚を感じていたら、どのようなつらいことでも乗り切れそうな気がするから。
――この人に頼り切りたい。
「頼ってくれてもいいのです」
まるで、心を読んだかのように最高神官は言った。
ふわりと、心の中で何かが軽くなってゆく。
エリザは、自分の頬にかかる手に手を重ねた。視線が絡みあった。
一瞬……。
「サリサ様、もうお時間がありません」
仕え人の声が響いた。
ふと、視線が途切れた。だが、再びサリサはエリザと目をあわせ、苦笑した。
「実は、祈りの儀式のために今から山下りするのです。明日まで戻らないので、挨拶に来たのですが……名残り惜しすぎますね」
そういうと、サリサはエリザの額に口づけし、さっと身を翻した。
銀の粒子が煌く。
大満月は、最高神官の力を強める。
エリザは、祈りの儀式の荘厳な衣装が翻るさまを、銀の長い髪からほとばしる力を、ただ呆然と見送った。
部屋に一人。
かすかに残る銀の粒子の余韻を感じて……。
……月の光の下、手は繋がれるのだろう。
彼が取るのは、エリザという情けない女の手なんかではない。
ともに力を発する巫女姫の手だ。
胸が詰まって涙が出てくる。
確かに、手は繋がれたこともある。でも、それは巫女姫の手であって、エリザのものではない。
――最高神官を頼っていい。
当然のことだろう。
ムテのすべての人が、最高神官を頼って生きているのだから。
彼の祈りを糧として、日々を過ごしているのだから。
そしてエリザも――最高神官の存在に希望を抱いていた、ただの一人の少女に過ぎない。
当然のことなのに。
何も泣く必要はないのに。
恩恵は充分に受けているのだから。
エリザは少女の日々を思い出し、もう二度と邪な妄想に支配されぬよう、必死に祈った。
しかし、涙は止まらなかった。
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