大石光輝のお話(3)

 枝のアーチをくぐりぬけるとそこには円形の広場のようなものが出迎えてくれる。広場には芝生が、ベテランの庭師に手入れされたかのごとく丁寧に生えている。そして、円の形に沿って、桜の木が並んでいる。その桜の木はたっぷりと花を咲かせ、広場を彩っている。ここではなぜか、風が吹いても花弁が舞い散るということはなく、どの花びらも恋人同士のように仲良く木に結びついている。


 そしてこの広場の中心には、まわりの桜の木の二倍はあろうかというとても大きな桜がある。まわりの木と種類が違うのか、中心からは何か桜にいい成分でも分泌されているのか、理由は分からないけど、とにかく大きく堂々と桜の木が仁王立ちしている。


 そして僕はこのとても大きな桜の木と、



 ***



「おはよう、坊や」

「おはよう。……というか、いいかげん『坊や』はやめてほしいんだけど。僕今日から中三なんだ」


 いつものように桜の木と挨拶を交わす。桜の声は落ち着いた女性の声で、しかしこちらを突き放すような冷たさがあるわけではなく、春の暖かさのような安心感を与えてくれる。

 やっぱり、これくらい大きいと樹齢もかなりのものなんだろうか。そしてこの包み込んでくれそうな雰囲気は、年上の余裕というやつなんだろうか。僕が初めてこの木と出会ったときにもうすでにこの大きさだったから、年齢としては百は超えていそう。


「…………坊や、今少し失礼なことを考えているね」

「いや、君って何歳なのかなって。外見からはとても判断できないし、声も若々しいし」

「まあ、坊やよりはかなーり年上だね。だからあんたなんかまだまだ『坊や』なのさ。坊やって呼ばれたくなかったら、せめて入れ歯の一つでもいれてきな」


 僕は桜の言葉に苦笑し、その木の根元に腰を下ろす。背中をこの頼りがいのある幹にあずけ、一息つく。桜が僕の重さを感じるかは分からないけど、これだけ大きいんだ。ちっぽけな僕くらいの体重は、我慢してもらおう。


 そして僕らはいつものように、今日の晩御飯の時には忘れてしまいそうな、でも明日の昼ご飯の時に思い出し笑いをしてしまうような、そんな話を始める。



 ***



「今日はトーストが上手く焼けたんだ。うちのトースターはタイマー機能がないから毎日苦労するんだよ。

「ふーん。そうなのか。坊やにとってはどれくらいの焼き加減のトーストが成功に値するんだい?」

「うーん、そうだな……。外はカリッと中はふわっと、かな」

「なんだ、案外ふつうじゃないか」

「ふつうだね」



「昨日テレビですごく面白いお笑いトリオを見たんだ。久しぶりに涙流して笑ったよ」

「ほー。で、なんていう名前なんだい? そのトリオは」

「…………あれ、なんだっけ」

「おいおい。涙と一緒にトリオの名前まで流しちまったのかい」

「うん。うまいこと言えてないね」

「………………」

「言えてないね」

「なんで二回言ったっ」



「ねえ、今日の晩御飯は何にしたらいいと思う? 今日はお母さんが出張から帰って来るから、少し凝ったものにしようと思ってるんだ」

「知らないよ。坊やのお母さんの好物を作ってやればいいじゃないか。だいたい、私は人間たちみたいに色んなものを食べないから、アドバイスなんかしてやれないよ」

「……あー、うん……。お母さんの好物が作れればいいんだけど……」

「作れないのかい? 料理は得意だと以前言っていたじゃないか」

「……うちのお母さんの好物ってかなり変わってて」

「何が好物なんだい?」

「実は、マヨ丼、なんだ……」

「あー……。まあ、凝ったものではないな」



「ねえ、君はどんな料理が好き?」

「言っただろ、当たり前だが私は料理は食べない。なんせ木だからな」

「そういうことじゃなくてさ。おいしそうだなって思う料理はない? 何かあるんだったら、僕が今度来るとき作ってきてあげるよ」

「……なんでもいいのかい?」

「もちろん。あ、でも高級食材を使うやつとかはやめてね」

「マヨ丼」

「…………え?」

「マヨ丼」

「…………」

「マヨ丼」

「いいよ、繰り返さなくてっ」



 ***



 桜の木とのたわいない話もひと段落つき、僕らの間には沈黙が横たわっている。このまま春の沈黙に身を任せて眠ってしまってもいいのだが、今日はだめだ。

 僕はこの桜の木に最近見る夢のことを相談するつもりでいるのだ。相談したからといって夢を見なくなるわけでも、夢の内容が穏やかなものに変わるわけでもない。だがしかし、誰かに話すことによって自分の気持ちはとても軽くなる。僕はそのことをこの桜の木と出会って痛感した。心の荷物を少しだけこの桜に持ってもらおうというわけだ。


「……僕ね、最近小学生の頃の夢を見るようになったんだ」


 桜に背を預けることをやめ、目を合わせるように正面を向く。


「坊やの小学生の頃というと、坊やが初めてここに来たのがちょうどそれくらいのじきだったね」

「うん。僕がここに来た理由と関係のある夢なんだ。聞いてもらってもいいかな?」

「いやだと言っても、どうせ勝手にしゃべるんだろ?」


 春特有の穏やかな風が吹き、桜の香りが鼻を抜けていく。きっちりと整備された青空がふわふわとした雲をどこまでも運んでいき、僕の意識をも連れていきそうになる。

 僕は持っていかれそうになる意識をつなぎとめるように頭を左右に振り、今朝も見たあの夢のことを、とても大きな桜の木に話し始めた。




「――で、そのつり目の提案通りに僕は一度家に帰ってからここの来たんだ」


 時間にしてみれば五分くらいだろうか。僕は夢の内容をあらかた桜に説明した。今朝見た夢なので細かい部分は忘れてしまっているが、大筋は伝わっただろう。


「ほーん。それで、どうなったんだい? ……まあ、坊やがここに誰かを連れて来たことなんてないから、想像はつくけどね」


 桜は苦々しいといった風で僕に続きを促した。結末は分かっているみたいだけど。


「…………誰も来なかったよ。いや、本当にびっくりしたよ。待っても待っても来るのは蚊だけ。夏だったからね」


 僕はこの森の入り口で、つり目とその取り巻きたちをけなげにも三時間近く待っていたのだ。そしてそれだけの時間が過ぎてやっと、自分は騙されたのだと分かった。

 セミの声が鳴いていて、蚊に食われたところがかゆかったのをよく覚えている。


「……坊やはさ、その……当時いつもそんな扱いをうけていたのだよね。坊やのことを責めるわけじゃないが、だまされているかもとは思わなかったのかい?」


 泣いている子供をあやすような母親のような調子で僕に尋ねてくる。


「全然気づけなかったなあ。だって、少し前までは普通に遊んでたんだ、休み時間とか放課後とか。それが突然仲間外れにされて……他にも色々……」

「うんうん、そうだよな。ちょっと今のは意地の悪い質問だったな。すまん、忘れてくれ」

「…………そんな時だよ。僕が君と出会ったのは」

「そういえば初めて会ったとき、坊やは泣きべそをかいていたな」


 ちょうど風が吹き、桜の花びらがゆれる。クスクスと遠慮がちに肩を震わせているように見える。


「……そこは忘れてくれていいんじゃないかな?」


 自分の恥ずかしい話から顔を背けるように腕時計を確認する。時刻は午前十一時半。ここに来たのが八時過ぎだから、約三時間いたことになる。我ながらよくそんなに話題が尽きないものだと思う。


「どうした坊や。そんなに泣きべその話が恥ずかしかったのかい」


 文字盤を見つめたままの僕を不思議に思って、桜が声をかけてきた。


「そんなんじゃないよ。ただ、そろそろ昼ご飯の時間だなと思って。それに午後からはミオが来るんだ。待たせたら怒られちゃう」

「ミオ? ……ああ、坊やの恋人のことか。それは待たせたらいけないね。相手が誰であれ人を待たせるのはよくない」

「うん。だからそろそろ帰るよ」


 言いながら立ち上がり、お尻にくっついてしまった芝を払う。ひとつ伸びをし、体をほぐす。背骨がパキパキと音を立てた。やっぱり、長時間地べたに座るのは疲れる。


「それじゃあ、気をつけて帰るんだよ」

「うん、ありがとう。じゃあ、また明日も来るね。……それと、わざわざ言うのも面倒だから黙ってたけど、ミオとはそんな関係じゃないよ、ただの幼なじみ」

「別に毎日来なくてもいいんだよ。それこそ、幼なじみと遊んでいたらいいんじゃないか?」


 桜の言葉を背中で受け止めながら、枝のアーチに向かって歩き出す。毎日来なくてもいいとは言われたけど、きっと僕は明日もここに来るだろう。

 今の時間なら、始業式が終わった生徒と鉢合わせることなく、家までたどり着けるだろう。



 ***



「でね、今朝の話の続きなんだけど……」


 そう美緒が切り出したのは、僕が森から帰って来てからおよそ一時間後の午後一時のことだった。

 美緒は僕の対面に座り、間には麦茶が置かれた小さな丸テーブルがある。当然のことながら制服ではなく、僕はそれに妙な安心感を覚えた。


「うん。高校どうするかって話だよね」

「そう。コウキは、この辺りの学校にしようと思ってるんだよね? それはどうして?」

「どうしてって言われても……。別にここを離れる理由もないし、何より僕に一人暮らしができるなんて到底思えない」


 生まれた時からこの街で、この家で育ったのだ。出ていくなんて発想は美緒に言われるまで、まったく頭になかった。

 それに桜の木のこともある。ここを出て行ってしまったら簡単には話せなくなる。離れない理由の一番大きな理由がこれだった。


 僕の言い訳じみた理由を真剣な表情で聞いていた美緒が、言いにくそうに口を開いた。


「……もしさ、この辺りの高校に進学したとしてさ、同じことが起きたらどうするの? コウキをいじめてた人たちも同じ高校だったらどうする?」

「そんな……万が一同じになったとしても、あのときみたいにはならない――」

「――なったらどうするの?」

「…………」


 何も言えなかった。

 もし、またいじめられたとしたら。


 あのつり目たちと同じ学校、同じクラスになる確率なんて、ほぼゼロだろう。でも、絶対ないとは言い切れない。小中と同じ学校なのだから、僕とあいつらの住む場所は決して離れてはいない。したがって、高校が同じになる可能性も捨てきれない。


 そしてもしそうなって、いじめが繰り返されたら……。


 高校生にもなってそんなこと、と心の中では思っているが、今朝見たニュースのように、いじめは高校生になっても存在する。なまじ知恵がついているだけに、この年齢になってからの方がたちが悪いかもしれない。


「……怖いよね、イヤだよね。そんなことになったら」


 無言でうなずく。気づかないうちに、美緒は僕のすぐ横に移動していた。彼女からは春の匂いがして、なぜだかあの桜を思い出した。息遣いが聞き取れる距離で美緒は言葉を続ける。


「だからさ、私考えたんだ。コウキが、何の心配もしないで新しいスタートを切れる方法。…………ってかっこよく言ってみたけど、単純な事なんだけどね」


 美緒はここで言葉を区切り、僕の瞳を覗き込んだ。僕の不安や心配をすべて見透かしているような、そんなまなざしだった。


「……その方法は、僕にもできる?」


 彼女の瞳にすいこまれそうになりながら、しかし目をそらすことなく尋ねた。美緒の目には、僕が弱々しく映っていた。


「もちろんできるよ。私にだってできる」


 美緒は僕の耳元にゆっくりと桜色のくちびるを近づけ、ささやいた。




「逃げちゃおうか、二人で」







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