大石光輝のお話(2)
昔から、と言えるほど年を重ねているわけではないのだが、目覚まし時計が僕を起こそうとする前に目が覚める。
まだ外は薄暗く、カーテンを勢いよく開け放っても爽やかな日光を浴びることはかなわない。どうせそうこうしている間にアラームをセットした七時になると思いながら、昨日洗ったばかりの布団から顔を出し時刻をを確認する。
午前五時半。
あと一時間半では二度寝も満足に出来はしないと考え、春特有の眠気を抱えたまま、のそっりと体を起こす。
今日も目覚まし時計に従ってやれなかった。
幼稚園の頃から使っているキャラクターもののそれには悪いと思うのだが、どうしても自分で設定した時刻まで寝ていることができない。
せっかちなのか、自分のペースで生きていきたいのか。
まあ、これはもう直そうと思って直るものではないだろうと僕も半ば諦めている。
問題はもう一つのほうだ。
最近、小学生の頃の夢を見るようになった。
小学生時代にはあまりいい思い出はなく、出来ることならもっと穏やかで心休まるような夢を見たい。なぜ中学三年の春になってと自分でも思う。
気づいていないだけで心の奥底では何かがぐるぐると渦をまいているのだろうか。そしてその渦が脳にまで到達して僕に夢をみせているのだろうか。
暗黒の小学生時代に思考が捕らわれそうになった頭を左右に振る。まだほの暗いとはいえ、春の陽気を台無しにするような気分になってはいけない。
どろどろとした気持ちと目ヤニを落とすべく、僕は洗面所に向かった。
二階にある自室からリビングに降り、電気をつける。父も母を今週は出張続きで家に帰って来ていない。だからといって部屋を散らかしているかというとそうではなく、テレビの画面に引っ付いたホコリ掃除から風呂場のカビ取りまで、一通りのこなしている。子供頃から部屋を綺麗にするのが苦ではなく―むしろ好きだった―部屋を片付けなさいの類で怒られたことがない。あの夢のようにクラスメートに掃除を押し付けられていた時も…………。
やめよう。いくら夢に見るからと言って思い出したくもないことをわざわざ思い出すこともない。
壁際に整頓されていた座布団を一枚手に取り、腰を下ろす。気分を変えるためにテレビでもつけよう。まだ朝早いこの時間はお堅い感じのニュースしかやっていないだろうが、このまま何もしなかったら頭の中がどんどん小学生にタイムスリップしていきそうだ。
テレビの横にこれまた整頓されていたリモコンでテレビの電源を入れる。プツンという音の後、数年前から毎朝見ている情報番組が映る。この番組はお堅いイメージがうすく、どの年代でも見やすいものとなっている。テレビの中のでは、ひな壇に座ったコメンテーターが何かについて語っている。画面の右端にその内容が出ており、その内容は、
『いじめ、不登校問題!!』
テレビを消した。
一体なんだというのだ今日は。夢に始まりテレビまで。僕の神経を逆なでするような、とまでは言わないが心にモヤモヤが溜まっていく。そのモヤはゆっくりと回転しながら大きくなっていき、僕の心の中の柔らかい部分に食い込んでくる。モヤのくせにずいぶんな強度だ。まったく腹立たしい。こんな些細なことで一々腹を立てている僕自身が一番腹立たしい。
体温が急激に上がっていくような感覚に襲われ、これはいけないと急いで洗面所に向かう。
リビングとつながっている洗面所には三歩で到着する。しかし今の僕にはその三歩さえうっとうしく、ドシドシと音を立てるように歩いてしまう。綺麗に磨き上げられた洗面所の蛇口をひねり、水を勢いよく出す。その水を両手に溜め、乱暴に顔を洗う。春の朝の温度の水はとても心地よく、すうーっとさっきまでの熱下がり、モヤモヤが水とともに排水口へ流れていく。
というか、僕は顔を洗うために降りてきたんじゃないのか。どれだけ余裕がなかったんだ。自分のことながら呆れてしまう。最近夢に見るくらいで、動揺しすぎだ。ここには僕に対して何かをしようとする人はいない。僕はここに閉じこもっている限り安全なんだ。
大丈夫。
出しっぱなしの水は排水口を通り、どこまでも流れていく。
***
トーストで軽く朝食をすませ、身支度を整える。
時刻は七時四十五分。もう少ししたら美緒が迎えに来てくれるはずだ。
美緒とは家が隣同士のいわゆる幼なじみというやつで、幼稚園に入る前から交流がある。僕らの母親同士も幼なじみらしく、縁とはまあ不思議なものだなあと思う。美緒は、僕が学校に行かなくなってからも仲良くしてくれている。頭が上がらないとはまさにこのことで勉強を教えてくれたり、学校のプリントを持ってきてくれたりとお世話になりっぱなしだ。一年くらい前からは髪の毛も美緒に切ってもらっている。
どこまでもダメな幼なじみで本当に恥ずかしい。
――ピンポーン
来客を告げる呼び鈴に導かれ玄関のドアを開けると、一人の女の子が中学校の制服を身にまとい、笑みを浮かべていた。
「おはよう、コウキ」
パッチリと大きな目、眉のあたりで切りそろえられた前髪、肩甲骨くらいまであるサラサラとした黒髪。少し緊張した面持ちの僕の幼なじみ、美緒。
「おはよう、ミオ。今日から三年生だね。ちょっと緊張してる? 表情がかたいよ」
「うそっ。顔に出てる? やっぱり緊張しちゃうよ、最高学年だもん。それにクラスも気になるし」
「まあ、ミオだったら誰とでもすぐ仲良くなれると思うけど」
「だといいなぁ。って他人事みたいに言ってるけど、コウキだって中三なんだからね」
朝の挨拶を交わし、学校に向かって歩き始める。今日は美緒が通う学校―僕が通っていた学校でもある―の始業式だ。
今まで何度も始業式を経験してきたとはいえやはり中学三年のものは違うのか、肩にかけたスクールバッグの持ち手をさっきからずっと握りしめている。歩くスピードもいつもより速い。
そんなに緊張するものだろうか。僕は始業式の朝はどんなだったっけ、と思い出そうとしたが、最後に経験した始業式が中一の始業式だったので詳しく思い出すことができなかった。
しかし、美緒のようなクラスの人気者タイプの人間は色々と気を遣うことがあるのかもしれない。
美緒はいつだって人の輪の中心にいて、どうして未だに僕と仲良くしてくれるのかも実のところよく分かっていない。やはり幼なじみだからだろうか。
「ねえ、コウキ」
美緒についてあれこれ考えていると、隣を歩く本人から呼びかけられた。
「なに?」
「私たちも中学三年だね」
「そうだね」
歩きながら答える。今朝からこの話題ばかりだ。
美緒は何かをためらい、そして何かを決意したような表情で、
「コウキはさ、高校どうしようと思ってる?」
「……どうしようってどういうこと? 行くかどうかってこと? それとも、どの高校にするかってこと?」
質問に質問で返してしまった。別にこの質問に答えたくないとかではなく、単純にどっちの意味か分からなかったからだ。
美緒は先ほどの真剣な表情を少しだけ緩め、微笑んだ。
「私としては、どっちも聞きたいかな。学校を休んでるけどコウキは勉強できるし、それに…………高校でも一緒がいいじゃない?」
「そうだね、一緒の学校だったらすごく楽しいだろうと思うし、高校には行くつもり。……そこはいいんだけど、どの高校に行くかはまだ全然決めてないんだ。まあ、家から歩きか自転車で通える距離のところにするつもりだけど……」
「えっ」
短く音を発し、美緒は立ち止まってしまった。つられて僕も立ち止まる。美緒の顔には驚きの表情が張り付いている。今の話のどこに驚いたのだろう。まさか僕が高校に行くというくだりだろうか。
確かに、美緒には迷惑をたくさんかけたし、高校進学のことでこれからも迷惑をかけるだろうけど、僕だってこのままじゃダメなことぐらい分かる。
具体的にどこがダメなのか答えられるわけじゃないけど、変えていかなければとは思っている。
「……ミオ?」
僕が恐る恐る声をかけるとそこにはもう驚きの表情はなく、あごに手をやりブツブツと何かを呟きながら何かを考え込んでいる。
そして返事はない。
「ミオー」
「……コウキは一回決めたら昔から……いや…………でも、説得次第で……」
僕はため息にもならないような息を吐き、少し待つことにする。この状態の美緒は何を言っても返事をしてくれない。昔から考え出すととことん考えてしまうらしく、小さい頃からこの癖はなおっていない。
「よしっ、コウキ。この話は学校から帰ったらね。いい?」
「うん」
たっぷり三十秒ほど考え何やら美緒の中で結論が出たらしく、この話題は文字通り持ち帰りとなった。
「じゃあ、そろそろ行こうか。初日からミオが遅刻してもいけないし」
僕らはそれぞれの目的地に向かって、止めていた足をゆっくりと前に動かし始めた。
「ミオ、僕はここで」
学校まであと曲がり角一つというところまで来て、今度は僕が足を止めた。そもそも僕は学校に向かって歩いていたのではなく、学校を通りすぎて少し行ったところにある『森』に向かっていたのだ。
『森』までは美緒と一緒に曲がり角を曲がって学校の前を通りすぎた方が近道なのだが、不登校になってからどうも学校を見る気になれず、わざわざ遠回りをしている。
「うん。それじゃあ、学校終わってご飯食べたら、コウキの家行くね」
「今日は学校午前中に終わるんだから、友だちと遊んで来たらいいのに……」
「いいのっ。じゃあまたあとで」
一方的に僕の午後からの予定を決め、美緒は学校へ向けて歩き出した。その姿を少しだけ眺め、僕も森へと向かった。
春の日差しは温かくも元気に降り注いでおり、理由はないけれど、美緒のこれからの学校生活は楽しいものになるだろうと感じた。
***
美緒と別れてから五分程したところで森の入り口が見えてきた。入り口と言ってもしっかりと整備されているわけではなく、僕が毎回そこから入っているというだけのことだ。
森に入りさらに歩を進めると、僕の腰くらいの枝がアーチを形作っている場所が目に入る。人が手を加えたのか、長い年月をかけて自然とそうなったのか。たぶん後者だろうな、と思う。根拠はないけれど。
そのアーチの先は真っ暗で一見行き止まりにも見える。しかし、実際は行き止まりなどではなく、ある場所に続いている。
僕は四つん這いになりながらアーチをくぐる。そういえば小学校の卒業式でもアーチをくぐった記憶がある。それはこんな整った天然モノではなく、低学年の子が精一杯背伸びしながらつくってくれたひどく歪んだ人口モノだったけど。この時は四つん這いにこそならなかったけど、かなりかがんだっけ。
手とひざを土まみれにして進んでいく。すると、少し先に光が見えてきた。もうすぐ出口だ。
僕はスピードを上げ、アーチの終わりへと急いだ。
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