正しい三角の始め方(三角の距離は限りないゼロ・前日譚)
「――待たせてごめんなさい」
始業式の日の朝、校舎にある静かな応接室で。
そう言って、千代田先生が目の前のソファに腰掛ける。
今年から、わたしの担任になる千代田百瀬先生。
肩には鞄、その手には文庫本を持っていて――今ちょうど、出勤してきたところなのかもしれない。
「いえ、そんなに待っていないので、大丈夫です」
「ありがとう」
そう言って、先生はふうと息を吐き腰を落ち着けてから、
「今は……秋玻ちゃんが出ているのかしら?」
「ええ、もうすぐ春珂になりますけど」
「そう……。どうかしら、ついに今日から、宮前高校での生活が始まるけれど……不安なこと、心配なことはない?」
優しい笑みを浮かべて、そう言う千代田先生。
これまで、転校の手続きやわたしの「病状」を説明するために、この人とは何度も話してきたけれど、本当に生徒思いな先生だな、と思う。
他の学校の先生や施設のスタッフ、色んな大人にこれまで接してきたけれど、ここまで自然にわたしと付き合ってくれるのは、この人が初めてだった。
だからこそ、
「……不安じゃないことの方が少ない、というのが本音です」
わたしは、素直にそう答えた。
「……そうよね」
千代田先生は苦笑しながらつぶやいた。
――二重人格で、一定の時間で人格が入れ替わる。
――それを隠しながら、普通の学校生活を送る。
これからわたしを待っているのは、そんな難易度の高い毎日だ。
うまく過ごせるのかは、正直なところわからなかった。
……いや、もっと素直に言えば。きっと、うまくいかないだろうと思っていた。
わたしはまだしも……春珂に。おっちょこちょいで抜けたところがあるあの子に、隠し事ができるとは思えない。
隠せたところで、数日がきっと関の山だ――。
「……手伝えること、協力できることがあったら言ってね」
千代田先生が、母親にも似た笑みでわたしを見る。
「病院の先生とも毎日連絡を取り合う予定だから。なにかあったら、ひとまずわたしに言ってくれていいのよ? 部活に入ってみたいとか、委員会に興味があるとか、そういうのでもいいから」
「わたしはあまり、特に頼みたいことはないです」
そう言うと、千代田先生はちょっと困ったような顔をする。
わたしのこういう直截な物言いは、時々周りの人をぎょっとさせるらしい。
すこしだけ、それが申し訳なくて、
「……ああ、でも」
わたしはそう付け加える、
「春珂は『友達出来るといいな……』って言っていました」
「そう、友達……」
「ええ、のんきですよね」
わたしの言葉には返事をせず、千代田先生は考えるような表情になった。
そのまま、彼女は視線をテーブルから上げ、窓の外に向ける。
南校舎の二階にあるここからは、教室棟である北校舎がよく見えた。
一年の教室に二年、三年の教室。
今日からわたしが通うことになる教室も、ここから見えるのかも知れない。
――普通の学校に通うのは、いつ以来だろう。
そんなことを考えていると、
「……!」
ふいに、教室棟を見ていた千代田先生が何かに気づいたような顔になる、
そして、彼女はこちらを向き、
「……ごめんなさい、面談はここまでにしましょう」
そう言って、テーブルの上の荷物をまとめはじめる。
「ちょっと仕事があるから、先に教室に行っててもらえる?」
「……ええ、いいですけど」
「急にバタバタごめんなさいね。じゃあ、行きましょうか」
そう言う千代田先生に急かされるようにして、わたしは応接室を出た。
教わった教室の場所に向かって、北校舎の廊下を歩く。
木製の床に塗られたワックスの匂い。
開いた窓から吹き込む流水みたいな春風が、頬に心地いい。
そして、これから毎日通う教室。二年四組の前についたわたしは、
「……!」
思わず足を止め、息を呑んだ。
――誰かいる。
うつむいている、男子生徒の後ろ姿。
ドアののぞき窓の向こう。窓際の席に。
どうやら……本を読んでいるらしい。彼はじっと机の上に視線を落とし、時折右手でページをめくっていた。
そして――わたしは気づく。
もしかしたら、千代田先生……これが狙いだったのかも。
友達を作りたがっている春珂のために、この男子とわたしがばったり会うようしむけたのかも……。
「……はぁ」
小さくため息をついた。
千代田先生、いい先生なのだけど、ときどきこうしていたずら好きなところがあって困ってしまう。
今表に出ているのは、春珂じゃなくてわたしなのに。わたしは別に、友達を作りたい訳でもないのに……。
少し迷ったけれど、他に行く当てもない。
恐る恐るドアを開け、教室に入るけれど……ずいぶん集中しているらしい。
男子はわたしに気づく様子もなく、一心不乱に文庫本を読みつづけていた。
けれど――ちらりと見えた表紙。
そのデザインに見覚えがある気がした。
もしかして……あれは。あの表紙は……。
足音を殺しながら、ゆっくりと彼に近づく。
そして、失礼を承知でページを覗き込むと――間違いない。
『スティル・ライフ』だ。
中学生の頃、施設の人に勧められて、それ以来ずっとお気に入りの小説だ――。
「……それ、池澤夏樹?」
気づけば、そう尋ねていた。
こんなところでお気に入りの小説にばったり出会ったことに、無意識のうちに興奮していたのかも知れない。
「わたしも好きよ、『スティル・ライフ』」
弾かれたように――男子が顔を上げる。
――見開かれた目はきれいな二重。
鼻筋はすっと通って、頬は女の子のように真っ白。
さらさらの髪の毛は差し込む朝日にきらめいて、思わず目を細めてしまう。
そして、なぜだかわたしは――彼のその表情に、小さな衝撃のようなものを覚えていた。
わたしの中で、なにかスイッチが入ったような。わたしの根源になにかが触れたような、微かな感触。
しかし、次の瞬間彼は――、
「いやー、あはは! びっくりしたよ、いるの気づかなかった!」
ふいにその顔に笑みを貼り付け、トーンを上げてそんなことを言い始めた。
「ていうか、いつの間に来たの? もしかして結構前から見てた? だったら声かけてくれりゃいいのに!」
「……来たのはついさっき。本、どうして隠すの?」
「ああ、見ちゃった? 何だろ、なんか、友達から借りたから適当に読んでたんだけど、ちょっとよくわかんなかったしなんか恥ずかしくてさー」
「……どうして恥ずかしいの?」
「いやだって、普通みんなこういうの読まないでしょー! しかも、教室で一人でこそこそしてたし……」
――ウソだ。
はっきりと、そう思った。
この男子はなぜか、自分が好きな小説を隠そうとしている。
だからわたしは、
「普通読まないかは、わからないけど」
そう前置きすると、記憶を手繰りながら――『スティル・ライフ』の冒頭を暗唱する。
『――大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。たとえば、星を見るとかして』
――目を開くと、目の前の彼は息を呑んでいた。
その表情に――確信する。
やっぱり、この人は、この小説が大好きなのだ。
この小説に、心酔しているんだ。
それも――わたしと同じような理由で。
――友達になれるかもしれない。
反射的に、そう思った。
この人と、仲良くなれるかも知れない。
友達になれるかもしれない。
そして、もしかしたら、それ以上に――大切な仲になれるかも知れない。
――あふれ出す、わたしらしくもない予感に笑いそうになってしまう。
それをごまかしたくて、彼には気づかれたくなくて。
だからわたしは冷静を取り繕って、こう尋ねた――。
「……良い小説じゃない?」
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