『三角の距離は限りないゼロ』発売記念短編

読者(わたし)と主人公(かれ)と二人のこのごろ(読者と主人公と二人のこれから・後日譚)

「……なんでそんな、むすっとしてるんだよ」


 二年生としての、最初の登校日。

 今年一年お世話になる下駄箱に靴をしまいながら、


「むすっとは、してないよ……」


 わたしは細野くんにそう答えた。


「じゃあ、どうしたんだよ……。また今年も、クラス一緒になれたじゃねーか」

「……そう、だけど」

「須藤たちと別のクラスなのがいやなのか?」

「それも……残念、だけど」

「だったら、なんでそんな暗い顔してるんだよ……」


 ……確かに、いまのわたしは暗い顔をしているんだろう。

 無意識にため息を何度もこぼしてしまうし、口数だって、多分いつも以上に少ない。

 校内履きに履き替えて、廊下を細野くんと歩きながら。


「……心配なの」


 わたしはようやく本心を小さく口に出した。


「……心配?」

「そう。『その本』が出るのが……」


 そう言って、わたしは細野くんが持つ白いビニール袋にちらりと目をやった。

 駅の近くの本屋さん。その一階で、さっき買ってきたばかりの文庫本。

 タイトルは『十五歳――Side A』。

 わたしの姉、柊ところが、この細野くんを主人公のモデルにして書いた小説だ。

 一年前くらいから企画を温めていたその物語が――今日ついに、発売となったのだ。


「……何が心配なんだよ?」

「……だって」


 わがままだと思われるのが心配で、わたしはちょっと口をつぐんでから、


「……細野くんは、小説に書かれたトキコを見て、わたしを好きになってくれたんでしょう?」

「……お、おう」


 細野くんは、面食らったような顔をしてから恥ずかしげに視線を逸らした。


「まあ、そうだけど……」

「だとしたら……」


 そう言って、わたしはぎゅっと手を握り――、


「その小説読んで……細野くんを好きになる女の子も、いるかもしれないじゃない……」


 ――あまり考えたくない「未来予想」を、口にした。


「……は?」


 ぽかんとした顔で、細野くんは立ち止まる。


「だから、その……その小説読んで、主人公のアキラくんに共感して……恋しちゃう女の子も、いるかもしれないでしょう? それが……不安なの」


 細野くんの彼女だからこそ、よくわかる。

 不器用で、とっつきづらいところのある細野くんだけど、本当は彼は、とても優しいのだ。

 その優しさに胸がときめいてしまう女の子は、きっとたくさんいる。

 そして――わたしの前に、細野くんが現れてくれたみたいに。

 彼の前に、そんな女の子が現れることだって、あるかもしれないのだ。

 それを思うと、胸がきゅっと苦しくなる。


「……そんなわけないだろ」


 けれど、細野くんはあくまで落ち着いた顔で首を振った。


「この小説の中の俺……すげーダサいし。これ見て好きになるやつなんて、いないだろ」

「……わかんないじゃん」

「大丈夫だって、仮にいたとしてもそんなやつと偶然会うことなんてないし。そんな心配するなよ」


 そう言って、わたしをおいて歩き出そうとする彼。

 去年の色々があって、ずいぶんと明るくなったと思うけれど……。

 未だに細野くんは、少しだけ、ぶっきらぼうなのです。


「……はぁ」


 ため息を一つつき、その後を追って歩き出したところで、


「……っと、あら、おはよう」


 わたしたちは、角から出てきたとある女性と鉢合わせになった。


「ああ、ももちゃん……じゃなかった、千代田先生……」

「……おはようございます」

「うん、おはよう」


 小柄な身体をスーツに包んだかわいらしいこの人は、千代田百瀬先生。

 この学校の、わたしたちと同じ学年の、他のクラスの担任の先生だ。

 そして実はこの人、わたしの姉の友人だったりもする。

 だからわたしにとってはこの人は、先生というよりも知り合いのお姉さん、という感覚だ。


「……どうしたの?」


 わたしたちの雰囲気がおかしいのは千代田先生もすぐ気づいたようで、彼女はそう言って首をかしげた。


「もしかして、ケンカでもした?」

「い、いえ、そうじゃないんですけど……」


 言いながら、わたしは気づいてしまう。

 千代田先生の手の中にも、あの本が――『十五歳――Side A』があることに。

 見たくなかったものを目の当たりにして、思わず言葉に詰まるわたしに、


「……ああ、なるほど」


 事情を察したらしい千代田先生は、微笑みながらうなずいた。


「柊さん……心配になっちゃったのね?」

「……はい」


 素直にうなずくと、千代田先生は優しい笑みを浮かべる。

 この人は、わたしたちに去年起きたことも知っている。

 わたしの不安も、それに対して細野くんがどう反応したかも、なんとなく想像がつくんだろう。


「その気持ちは、よくわかるわ。不安よね、彼のことが好きなら、それだけ……」

「……そう、ですね」

「なら、うん……細野くん」


 言うと、千代田先生は細野くんの顔を見上げ、


「……あんまり恥ずかしがらずに、思ってることちゃんと言ってあげてね」

「……え?」

「じゃあわたし、生徒待たせてるから。またね」


 ぽかんとしている細野くんとわたしを置いて、千代田先生はさっさとその場を歩き出してしまった。

 短い間を置いてから、わたしたちも、壊れた機械時計が動き始めるように歩き出す。


「……ねえ」


 前を歩く細野くんに、わたしは思い切って声を掛けた。


「思ってることって……何?」

「……」

「千代田先生、なにか気づいてるみたいだったけど……何、なの?」


 その問いに、細野くんは深くため息をつき、


「まあ、本当に大丈夫ってことだよ。仮に、俺のこと好きになる人がいても。偶然俺が、そんなやつと出会っても……」

「……どうして?」


 尋ねると、細野くんは立ち止まり、こちらを向く。

 そして、冷静を装いつつ、その頬を真っ赤にしながら、




「……俺が好きなのは……柊だけなんだから」




 ――その言葉一つで。

 ――彼の仕草、表情、伝えてくれた気持ちだけで。


「……そっか」


 わたしの不安は、コーヒーに溶かした砂糖みたいに、きれいにどこかへ消えてしまった。


「……ありがとう」


 そう言って、わたしはもう一度彼と並んで歩き出しながら。

 この身体を満たしている幸福な気持ちを込めて、彼に小さく、肩をドンとぶつけた。

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