蜜
遮光カーテンが少しだけ開いていて、隙間から朝陽が射し込んでいる。室内を朝の色に満たしている。
ゆっくりとまぶたを開ける。少しだけ気だるいのは、多分ほんの少しだけ寝不足のせい。
ぼんやりとした視界に、柔らかそうな髪の毛が見えた。茶色いくせ毛が顎や首筋に当たってくすぐったい。雨の日はさらにくるくるとしているけれど、今日はふわふわした程度だからきっと天気がいいんだろう。多分。
夕べ、同じベッドに潜り込んで、まどろみの中、彼の「香弥子さんが好きだよ」が始まった。いつもの調子と違ったのは、肌で感じたくらいで明確なものはない。
私の目尻を優しく指の腹で撫でながら、あまりに愛おしそうに告げるもので、布団に潜り込むのを耐えられなかった。
深く息を吸う。からだの中に、彼の香りを満たした。自分のものとは違う、生きた人間の香り。同じものを食べて、同じシャンプーを使うのに、不思議なものだ。
「香弥子さんのしわ、好きだよ。
今まで香弥子さんが見てきたこと感じてきたこと、たくさん刻んできたってことでしょ」
「だから、香弥子さんのしわ、おれ全部好きなの」
「それからね、指先も好き。細くてしなやかで、たおやか? だっけ?」
「まっすぐで、黒い髪の毛も好き。あ、髪の毛を結い上げて見えた項も好きだよ。白くて細くて折れちゃいそう」
「それからねー、……あれ? 寝ちゃった? そっか、香弥子さん最近忙しそうだったもんね。おやすみなさい、香弥子さん」
そのあとしばらく優しく優しく髪をとかすように撫でられていたのをまどろみながら覚えている。
そんなに大事にしないでよ。壊れたりしない。あんたより、何年長く生きてると思ってるの?
朝目が覚めると腕の中になぜか頭を抱えていることが多い。掻き抱くようにして、彼の頭を抱いて起きる。
背中にしがみつくように回された手は、逃がすまいとしているんだろうか。
今日が休みだから、このままもう少しまどろんでおこうと思う。今日だけ。お休みだから、今日だけよ。
「私はあなたの声が好きよ。私なんかを愛おしそうに呼ぶあんたの声が一等好き」
「私を撫でる大きな手のひらが好き。いつもあたたかい、溶かす手。優しい指。不器用だけど、愛おしいの」
「あんたが名前を呼んでくれるから私はーー」
「香弥子さん、やめて……?」
やっと、顔を上げたのね。耳が赤くなってきて、指先に力が入っていたのは途中から気がついていた。だけどこれは夕べの仕返し。だったら甘んじて受け取りなさいよ。
目元から耳の先まで真っ赤にした彼が、腕の中からこちらをにらんでいる。力が抜けているのか、ちっとも怖くはない。
たっぷり2秒ぎゅっと両目を瞑り、痛いほどに抱き締められた。
「なに……?!」
「……!!」
「え?」
「香弥子さんが悪いんだ……、寝起きでそんなん聞かされたらおれ、ダメだって、おかしくなっちゃうって……!」
声が震えている。肩口に目元を押し付けて必死に耐えているのがわかる。でもそれは逆効果では? 視覚を塞いだら、ほかの感覚が鋭敏になるんじゃない?
「いいわよ、おかしくなっちゃっても。何よ今さら」
「香弥子さん……っ!」
逃げようとする腰を掴んで力任せに引き寄せる。だめよ。逃がさないわ。
「なぁに。逃がしてあげるわけないじゃない。知ってたでしょ? もともと私たち、おかしいんだってこと」
彼の頭を両手で挟み込んで、目を合わせる。視線すら、逃がさない。震える瞳に、意地悪そうな顔で笑う自分が映る。
片頬だけをひきつらせて、笑う私の顔。いやしくて意地悪で性悪そうな、女の顔。
それを映す彼の瞳孔は開いている。ばかね。そんなに広げてしまえば、焼き付いてしまうのに。
「だめだよ、香弥子さん。おれたちはおかしいんだろうけど、それよりも前に言うことがあるでしょう?」
彼は逃げずに柔らかく微笑んで、
「おはよう、香弥子さん」
と言った。拍子抜けした私を笑うように、彼はひとつキスをして、もう一度抱き締めた。今度は優しく包むように、ふわりと。
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