追記 長髪(一)
前回の話より時系列的に少し遡り、1030年の騎士道大会の前にあたります。
***
― 王国歴1030年 春
― サンレオナール王都
その朝ジェレミーは姉のミラ王妃に朝食を一緒にと誘われており、出勤前の朝早くから王妃の居室を訪れていた。レベッカが彼を出迎える。
「王妃さまは今お支度中です。侯爵さま、お煙草をお吸いになるのでしたらあちらの部屋でどうぞ。灰皿は卓上にございます」
早朝からバルコニーに出るのはまだ寒い時期だった。
「いや、いい。煙草は完全に止めた。ここの灰皿とマッチは時々来る俺のためだけに常備しているんだろ? もう吸わないから必要ない」
レベッカは驚きで目を丸くした。動揺を悟られないように口を開く。
「それはよろしゅうございました。ではご朝食の席でお待ちになられますか?」
「ああ、そうする」
レベッカはジェレミーが食卓の方へ向かうため彼女に背を向けた途端、超特急で王妃の寝室に戻った。
「王妃さま! そんなだだをこねていつまでもお布団にくるまっている場合ではございません! ルクレール家の一大事です!」
「何よ! その手には乗らないわよ。もうちょっと寝かせてぇー」
「全く、子供じみたことおっしゃらないで下さいませ! ルクレール侯爵、弟君がお見えですよ!」
「弟君にはいつものように煙草でも吸いながらちょっと待ってもらっていてよ、ね?」
「王妃さまが呼びつけておいて何ですか! それに侯爵さまはもう煙草はお吸いになりません!」
「え? 煙草を吸わない? 風邪でも引いたの、あの子?」
「完全に禁煙なさったそうですよ」
「ウソだぁー!」
「いいえ、嘘ではございません、神に誓って。先程侯爵さまのための灰皿はもう必要ないと断言されておりました」
レベッカが神に誓うと言うことがどのくらいの本気なのかをミラは知っている。
「あの子が煙草を止めた? それが本当なら天変地異だわ! 寝ている場合じゃないわね!」
ミラはガバッと跳ね起き、裸足で寝衣のまま居間へと向かう。
「王妃さま、お待ち下さい! いくらご家族とはいえ寝衣のままで……」
レベッカの声もミラには届いていない。
「ジェレミー、アンタ煙草止めたって本当?」
「お早うございます、姉上。顔も洗わず、着替えもせず開口一番がそれですか?」
「だって、一大事じゃないの!」
「まあ、煙草を止めたのは本当ですよ。私もやる気になれば出来るのです」
「そ、そうね……良かったわ。無理なく止められたの? また吸いたくなっても手を出したら駄目よ!」
「もうそんな気にはならないと思います」
「お父さまとお母さまもご存知なの、ニコチンフリージェレミーのこと?」
「あ、いいえ。先日王都に出て来られた時はまだ……今度は騎士道大会を観にいらっしゃいますから、その時にでも」
「喜ばれると思うわ。本当に良かったわ。誰が諭そうとしても禁煙しなかったアンタがねぇ……」
その後二人は朝食を一緒にとり、ジェレミーは出勤するため退室した。弟の姿が消え、扉が閉まる音を聞いた途端、一人残されたミラはニンマリと怪し気な笑みを浮かべる。
「レベッカ、次の休みはいつ?」
「王妃さまのお考え、手に取るように分かるのですが……」
「貴女も久しぶりに元同僚たちに会いたくならない? どうせ頭ガチガチのグレッグからは大した情報は引き出せないのでしょ?」
グレッグとはアナに料理を教えていたルクレール家の料理長のことである。
(私が思った通りだわ、全くもう……)
「ですが、ルクレール家の使用人はセバスチャンさまの教育が行き届いているので……無理ですわ」
「私だけこんな面白い事を知らされないなんて不公平よ! 大丈夫、セバスチャンに文を書くわ。レベッカ、彼に吐かせるわよ!」
「上手くいくでしょうか……まあとにかく、旦那さまは禁煙されただけでなくて、最近お顔つきがぐっとお優しくなられましたわ。奥さまのご懐妊を聞いた頃からでしょうか」
「そうよー! 『私はコレでタバコを止めました』のクチね、あれは」
ミラはニヤニヤしながら右手の小指を立ててみせる。
(ネタが古いし!)
「セバスチャンさまがそう簡単にお話しして下さるでしょうか?」
「スーパー執事のヤツには下手な小細工しても無駄だからね、正攻法で話してくれなかったら、第二の手を考えてあるわよ、フフフ」
「お楽しそうで何よりです、王妃さま……」
「ところであの子、何か髪の毛伸びていなかった? いつもは超短髪なのに、耳にかけられるくらいになっているわ」
「そうおっしゃられてみると……そうですね」
ジェレミーは子供の頃、長髪だった時にミラとフロレンスに髪を結われたり飾られたりと好きなように遊ばれていた。それにうんざりした彼はバッサリと切ってしまい、以来ずっと短髪だったのだ。
「セバスチャンから有力情報が得られても、第二の手も実行に移すわよ! ウフフ。ゲイブも呼んだら絶対来るわね!」
ミラは親しい人間だけの時は国王を愛称のゲイブで呼んでいるのだ。
(完全に面白がっているし!)
そしてレベッカはミラの命により、次の休みの日にルクレール家を訪ねた。勤めていた時の癖で勝手口に回ろうとした彼女だったが、今日は王妃の使いなので正面玄関から入ることにした。顔なじみの門番はすぐに通してくれ、レベッカは玄関の呼び鈴を押した。予想通り執事のセバスチャンがすぐに出てくる。
「おや、レベッカ。久しぶりですね」
セバスチャンが眉をしかめる前にレベッカは述べた。
「今日は王妃さまのお使いとして参りましたので。正面玄関からセバスチャンさまのお手を煩わせて申し訳ありません」
「お入りなさい」
レベッカはセバスチャンに使用人の控室に通された。
「お忙しいところお邪魔して申し訳ありません。セバスチャンさまに王妃さまからの文を預かっています」
少し緊張するレベッカの前で、ミラの文に一通り目を通したセバスチャンはふむふむと頷いている。セバスチャンには昔からミラもジェレミーでさえも頭が上がらないのである。ミラが面白がってジェレミーの禁煙について知りたがっても一笑に付されるだけだとレベッカは考えていた。
「王妃様のお気持ちも良く分かります」
(でもやっぱり主家の噂をするのは宜しくないですよね……無駄足だったわ……)
「そうですよね……」
「しかし、この件に関しては、王妃様も陛下以外には漏らさないと約束されているのでお話しましょう」
「ほぇ? はい?」
レベッカは思わず間抜けな声を出していた。
「周囲がからかうと旦那様もつむじを曲げてしまうということも王妃様は良く分かっておいでですしね」
「は、はい……それはもちろん……」
「あまりに面白いのでお話しします」
(アンタも面白がってんのかーい!)
そしてセバスチャンはジェレミーが禁煙を始めるきっかけとなったデュモン医師の夫婦別室案、本当にそれを実践し自室に戻ったアナ、焦ってアナの弟テオに泣きついたジェレミーのことなどを包み隠さず話したのであった。
もちろん彼はジェレミーがアナ達に課した御褒美のことは知らない。それを抜きにしてもこの話は十分面白いと言える。
「セバスチャンさま、ありがとうございます」
「私も少々口を滑らせてしまいました。最近の旦那様と奥様の仲睦まじさはとても微笑ましくて……私も執事として大層嬉しく、やっと肩の荷が下りたと申しますか……」
セバスチャンは何と涙ぐんでいるのでレベッカは焦った。
「セバスチャンさま……私も本当に良かったと思っているのです。アナさまのような素敵な奥さまがルクレール家にいらっしゃって、王妃さまが面白がるほどご夫婦円満で……」
「ええ。旦那様はお変わりになりました、ご結婚されてから。これで私はいつでも引退できるというものです」
「まあ、そうでしょうか? セバスチャンさまはそれこそ足腰が立たなくなるまでずっと働き続けるだろうと使用人全員が思っておりますよ」
レベッカはその後、元同僚達に一通り挨拶をし、ルクレール家を後にしたのだった。
(明日王妃さまに報告するのが楽しみだわ)
長髪(二)に続く
***ひとこと***
王妃さま、ジェレミーが禁煙に至った経緯に興味津々です。そりゃあ、セバスチャンまで面白がるくらいですから……
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