追記 束縛(一)

― 王国歴1030年 1月


― サンレオナール王都



 アナがジェレミーに子供が出来たと伝えたその晩のことだった。アナは寝る支度をして夫婦の寝室に居る。そこに先程まで洗面所に居たジェレミーが出てきた。


「おいアナ、ちょっとそこになおれ」


「えっ、旦那さま私お仕置きされるようなことを致しましたでしょうか?」


「いやお仕置きじゃねぇよ、指導だ」


「何でございますか?」


「お前、これから妊娠中はな、瞬間移動は絶対使うなよ。浮遊して空を飛ぶのも禁止だ。学院の実技で危険なものは参加するな、出産してから取り直せ」


「えっ?」


「それからシャルボンになるのも駄目だ、ニッキーはいい」


「ええっ?」


「ええっ、じゃねぇよ。『ハイ、旦那サマ』だろうが!」


 アナはすぐにはいと言えるはずがない。


「あの、まずどうして瞬間移動したらいけないのでしょうか? 空を飛ぶのと危険な攻撃魔法は駄目なのは分かりますけれども」


「ひょっとして赤ん坊を置いてお前だけが移動してしまう可能性があるじゃねぇか」


「いえ、そんなことはないと思います……」


 大体、抱っこやおんぶ、手を繋いだり腕を組んだりでも人と一緒に移動出来るのだ。お腹の胎児を置いていくはずがない。


「お前と赤ん坊のことが心配で言ってんだろーが!」


「あの、それは分かりますけれども。では、どうしてシャルボン禁止なのですか?」


「猫になっている時に産気づいたらどうするんだよ? 子猫が生まれちまう!」


「はい?」


「やっぱり俺は人間の子供が欲しい。そりゃあシャルボンの子猫なら可愛いだろうけど!」


 そこでアナは吹き出してしまった。


「旦那さま、でしたら臨月に入るまではシャルボンになっても大丈夫ではないですか?」


「いや、念のためだ」


「旦那さまは私の妊娠中はずっとシャルボンにお会いになりたくないのですか? シャルボンは会いたいですニャン」


「いや、そりゃあまあ俺だって……でもな、わざわざ妊娠中に猫になる必要もないだろーが! 出産したらいくらでもシャルボンになって出てこい」


 根拠もないことばかりジェレミーは信じ切っている。誰かに吹き込まれたのかどうか知らないが、とりあえずアナは素直に聞いておくことにした。


「そうでございますね、旦那さま。これも元気なお子を産むためですものね」


「分かればいいんだよ、さあ寝るぞ」




 次の日の放課後、アナは学院の図書館に居た。必要な魔術書を探すためである。図書館内で魔術書の塔と呼ばれるその場所には、一番天井の高い吹き抜けの間で天井まで届く書棚にぎっしりと本が配されている。宙にゆらゆらと浮かんでいる書物も多数あった。


 アナは瞬間移動に関する書物を探しているのだ。アナは自分の頭上、二階の屋根くらいの高さの場所にある書棚を見上げていた。


(確か移動魔法の本はあの辺りだったわ)


 いつものように魔法で浮遊して目当ての本がないか探しに行こうとしてはっと気付く。


(あっ、宙に浮かぶのもジェレミーさまに禁止されていたのだわ……どうしようかしら……ここからだと遠すぎて本の題名も見えないし……)


 ほとんど誰も居ない図書館だから、数秒間宙に浮いて本を取りに行ってもジェレミーにばれないだろうという考えに至らない、真面目なアナである。


(そうだわ!)


 アナはその書棚にある本を全てごそっと移動魔法で自分の元に取り寄せ、近くの机の上に重ねて置いた。この中からアナが必要な本が見つかれば残りの本はまた書棚に魔法で戻せばいいだけのことだ。


 そしてアナはその三十冊はあるだろう本の題名と内容を片っ端から調べていった。


(やはり何も書かれていないわ……)


 もし妊娠中の魔術使用についての記述を見つけたとしても、ジェレミーにそれを見せて彼が納得するとも限らない。


(調べるだけ無駄なのかしら……こんなこと調べるより来週提出の課題に取りかかるべきよね、私)


「貴女はそこで本の山に埋もれて何をしているのだ?」


 気付いたらそこにクロードが居た。


「あ、クロードさま。えっと、私、その移動魔法について少し調べていたのです」


「それで書棚の本を全て取り出したということか」


 クロードに一言、妊娠中の瞬間移動について聞いてもいいのだが、何となく言い出せなかった。


「後で全部順番通りに元に戻しておきます。クロードさまはこの中の書物で何か必要なものがおありですか?」


「いや、特にはない」


 学院で他の人間がいる時にはアナもクロードのことをテネーブル教授と呼んでいるのだが、二人の時は義理の従兄の彼のことはクロードさまと呼んでいる。


 クロードはそして魔術書の塔の上方へ飛んで行った。アナは続けて二、三冊の本を見、何も見つからなかったので片づけを始めることにした。自分の用事が終わったクロードは図書館を去る前にもう一度アナに声を掛ける。


「アナさん、仕事帰りのビアンカが私の教授室に来るのだが、貴女も良かったらこの後寄らないか?」


「宜しいのですか?」


「ああ、お茶でも飲んでいってくれ。私はまだ少々書類のまとめが残っているからすぐには帰宅できない。ビアンカも会いたがっている。先日貴女が倒れたと聞いて心配もしていたし」


「では、この本を片付けてから伺います」


 アナが訪ねた時には教授室でクロードはまだ仕事をしており、ビアンカは長椅子に座ってお茶を飲んでいた。


「アナさん、こんにちは。体調は良くなったようですね。こちらに座って下さい。ここ、寒くないですか? もう少しストーブに薪をくべましょう」


「いえ、十分温かいです。クロードさま、お仕事中お邪魔します。ビアンカさまもお元気ですか?」


 アナは彼女を見たビアンカの表情から既に妊娠のことを悟られていると感じた。ビアンカは今まで座っていた長椅子をアナに譲って、彼女は向かいの木製の椅子に移った。


「アナさん、お茶をいかがですか? これはカフェインは含まれていなくてミントが少し入っていてさっぱりしたハーブティーよ?」


 このビアンカの発言でアナはさらに確信した。


「ありがとうございます。いただきます。でも私自分で淹れますから」


 立ち上がってストーブの上の薬缶に手をかけようとしたアナだったが、ビアンカの方が素早く薬缶を手に取った。今の彼女の身分はアナよりも高い公爵夫人とは言え、さすが元王宮侍女である。アナは言葉に甘えることにした。使用人も居ないここ学院の教授室ではアナは勝手が分からず、結局お茶一杯淹れるにしてもビアンカの手を借りることになる。


「アナさんは座ってくつろいでいて下さい」


「ビアンカ、俺にはコーヒーのおかわりをくれないか」


「ダメです、クロードさま。今朝から何杯目ですか? お茶にして下さい」


「……分かった」


 微笑ましい夫婦のやり取りをアナはニコニコしながら見ていた。お茶を飲みながらアナはビアンカに尋ねた。その頃にはもうクロードも仕事が一区切りついたのだろう、机の上を片付け始めていた。


「ビアンカさまは……私がその、身籠ったことがお分かりになったのですね」


「ええ。実を言うと年末にお会いした時にね」


「えっ? そんなに早くにですか? ビアンカさまの白魔術は凄いですね……でも人に言えない秘密をたくさん抱えるのは気疲れも大きいでしょう? 私の妊娠のことも今まで内緒にしていて下さったのですよね……」


「そうね、でも私のこの魔力は小さい頃からもうずっとですから慣れています。とにかく、おめでとうございます」


「ありがとうございます」


「自身の精神年齢がまだ子供のようなジェレミーが父親になるなんて、何だか信じられないな」


「まあ、クロードさま、おっしゃることはそれですか、失礼でしょう……」


 ビアンカにそうたしなめられたクロードは仕事も終え、妻の隣に椅子を引いてきて座った。


「ねえ、アナさん、何か悩み事があるのですか?」


「え? それもお分かりですか? いえ、そんな悩みという程ではないのですが……」


 アナは少々躊躇ためらった。秘密ではないが、これは夫婦間の問題である。それでも思いきって聞いてみることにした。魔術についての知識なら二人共アナよりはずっとある。




束縛(二)に続く



***ひとこと***

この番外編の副題は『旦那様は心配症!』です。何の根拠もないことをアナに押し付けているジェレミーでした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る